ベートーベン 肖像画 楽譜。 作曲家(ベートヴェンやショパンなど)の写真や絵を著作権フリ...

性格・容姿/ベートーヴェンの音楽〜Beethoven人生の歴史

ベートーベン 肖像画 楽譜

ベートーヴェンとはどんな人物か 名前 ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 誕生日 1770年12月16日頃(不明) 生地 神聖ローマ帝国(現在のドイツ)ボン 没日 1827年3月26日 没地 オーストリア帝国 ウィーン 配偶者 無し 埋葬場所 ウィーン中央墓地 ベートーヴェンの生涯をハイライト ベートーヴェンの生涯 ベートーヴェンはどのような生涯を送ったのでしょうか。 はじめに簡単にご説明したいと思います。 彼の祖父はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手で、父も宮廷音楽家(テノール歌手)でした。 ベートーヴェンも幼少時は美しい声のボーイソプラノだったため、カストラート(去勢した男性歌手)になっていたかも知れないとも言われています。 やがて祖父が亡くなった頃から、音楽的な英才教育を受け始めるようになります。 1787年、ベートーヴェンが17歳の頃に母親が亡くなると、歌手であった父親はアルコール依存に陥って失職し、ベートーヴェンが仕事を掛け持ちして家計を支えるようになります。 やがてベートーヴェンはハイドンなどに音楽の才能を認められてウィーンに移住し、20代になるとピアニストとして頭角を表していきます。 しかし20代後半から難聴を患い、音楽家でありながら聴力を失うという絶望感から死を選ぶほどまで苦悩しました。 それでも音楽への情熱で絶望を乗り越え、作曲家として大成していきます。 40代になると全聾になったともいわれ、心身ともに疲弊した日々を送ったといわれています。 その苦悩の中から交響曲第9番などの名作を生み出し、1827年に58歳で人生の幕を閉じました。 死因は肝硬変だったようで、アルコール依存症だった父と同じく,自身もアルコールによって寿命を縮めました。 ベートーヴェンの葬儀には2万人もの葬列者がいたといわれています。 「ハイリゲンシュタットの遺書」で絶望を乗り越え、音楽家として覚醒 ハイリゲンシュタットの遺書 ベートーヴェンは32歳の頃、難聴を苦にして自殺を決意し、夏の避暑地として過ごしていたハイリゲンシュタット 現在はウィーンの一部 で遺書を書きました。 その内容やエピソードが有名ですので、一部ご紹介します。 手紙の内容は日ごと悪化していく難聴への絶望感からはじまります。 当時すでに若手の演奏家・作曲家してとして有名になりつつあったベートーヴェンは、「私は人より優れた耳を持っていると人から思われているのに、『すみませんが、耳が聞こえづらいので大きい声で言ってください』などとは恥ずかしくて言えなかった」という生々しい感情を吐露しています。 更に自ら社交場から遠ざかる孤独感や、素行の悪い弟たちに対する複雑な愛情が綴られますが、筆を進めるうちに一転して「それでも私を死から引き止めているのは芸術である」と音楽に対する情熱を自覚し、彼は死を選択することはなく遺書の内容は強い決意へと変わっていきます。 ベートーヴェンは「もし後世に自分が不幸だ、と思う者がいて、過去に耳の不自由な音楽家が仕事を完遂したと知ったら生きる勇気を与えることができるのではないか」という内容を綴っており、自らの音楽活動に使命感を感じたのでしょう。 その証拠に、遺書を書いた後のベートーヴェンの作品は交響曲第三番「エロイカ(英雄)」、第五番「運命」、第六番「田園」など、私たちもよく知る名作ぞろいです。 このベートーヴェン中期の充実した創作時期は、後に20世紀の作家・ロマン・ロランによって「傑作の森」と名づけられました。 ベートーヴェンの功績 功績1:音楽の啓蒙主義 ダイナミックで感情的な楽曲 優れた作曲家が数多くいる中で、どうしてベートーヴェンはここまで広く知られているのでしょうか。 いくつか理由がありますので、一緒に考えていきましょう。 ベートーヴェンはモーツァルトやハイドンと並んで盛期古典派(ウィーン古典派)の代表的な作曲家とされていますが、モーツァルト、ハイドンたちと比べてベートーヴェンには決定的な違いがあります。 それは、貴族社会と完全に決別した作風であるという点です。 モーツァルトの後期の作品なども自由でユーモアのある作品が多くみられます。 しかし、それはあくまでも宮廷や貴族たちのルール、または好みを逸脱しない域で表現されていました。 対してベートーヴェンは「拳を振り上げる不作法」と後に例えられるほど、ダイナミックで強弱の対比などが激しい表現などを追求していきました。 そのストレートで感情的な表現は、時代を超えて私たちの心にも響きやすいのかも知れません。 功績2:新時代の音楽活動 フランス革命の最中に活動していた このベートーヴェンの作風には、その当時の世の中の変化、特にフランス革命などの市民革命や産業革命が関係しています。 フランス革命が始まったのは1789年で、モーツァルトの死去がその2年後の1791年、ベートーヴェンが音楽活動をはじめたのがルイ16世処刑後の1795年前後です。 この2人の作曲家の年齢差は僅か14歳ですが、その間には社会の変化による大きな違いがあるのです。 今まで作曲家たちに仕事を与えていた貴族たちの権力や求心力が無くなっていき、彼らに受け入れられる音楽を作る必要がなくなっていきます。 革命後の社会は作曲家自身が作りたい音楽を追求できる時代でもあり、また、大衆にも受け入れられる音楽が求められていく時代の始まりでもありました。 またこの時代は、産業革命によってピアノを始め様々な楽器も進化を遂げ、表現の幅が広がっていきました。 そのためベートーヴェンが追求したようなダイナミックな表現も可能になります。 同時に印刷技術の発達による楽譜の普及率向上・作曲家のフリーランス化などの変化もあって、音楽史的にも大きな分岐点が複数ありました。 功績3:音楽のあらゆる可能性に挑戦 「第九」は12月の定番曲になっている ベートーヴェンの作品にはキャッチーなフレーズが多くみられます。 例えば、交響曲第5番「運命」の主題のメロディは、初めて聞いた人でもすぐに口ずさむことができるでしょう。 更に、「第九」とよばれる交響曲第九番の終楽章「歓喜の歌」では交響曲に合唱を取り入れ、大勢で「エイエイオー」とばかりに唱和する熱狂を生み出しました。 ベートーヴェンの楽曲が演奏される機会が多い理由として、このようなわかりやすさがあるということも関係しているでしょう。 交響曲第5番「運命」のモティーフや交響曲第九番 終楽章「歓喜の歌」は現在でもテレビCMなどでアレンジされ、使用されているかと思います。 しかし、ベートーヴェン作品の特徴はそれだけではありません。 彼は聴衆たちとの熱狂をあえて切り離した秘教的な作品なども意識的に作曲していました。 特に晩年はJ. Sの作品に感化されてポリフォニーを取り入れ、思想的に深化した作品も数多く作曲されています。 また、交響曲第5番のように一見単純に思えるようなフレーズの曲でも、曲の構成は細かく計算しつくされている点など、ベートーヴェンの曲はわかりやすさと精巧さが絶妙なバランスで成り立っています。 わかりやすさと精緻さ、熱狂と静謐、など、楽曲のあらゆる可能性を追及した点でも、後世に様々な影響を与えたと言えるでしょう。 ベートーヴェンにまつわる都市伝説・武勇伝 都市伝説・武勇伝1「ベートーヴェン研究を複雑にした自称秘書・シンドラーの存在」 アントン・シンドラー 伝記に書かれるベートーヴェン像というのは、「少し風変りで気難しいアーティスト」・「苦悩の中で傑作を生みだした英雄的な人物」というイメージが多いのではないでしょうか。 しかしそれらのイメージは現在見直されつつあります。 ベートーヴェンの知人のアントン・シンドラーという男性は「無給の秘書」を自称し、耳が聞こえづらいベートーヴェンとの筆談メモを多数残していました。 しかし、この記述のほとんどが嘘・創作であることがわかっています。 一説には、シンドラーは「自分が理想とするベートーヴェン像」を作りあげて後世に残すためであれば、資料の改竄や破棄までも辞さない程であった、ともいわれています。 (ちなみに彼は「無給の秘書」を自称していましたが、実際は有給だったようです。 ) ドラマティックなベートーヴェンの人生や逸話のほとんどが創作かもしれないというのは少し残念ですが、このような身近な人間に「この人を伝説にしたい」と思わせるほどの魅力がベートーヴェンにあったことは真実なのでしょう。 シンドラーは、現代でいうとプロデューサーのような存在だったのかもしれません。 都市伝説・武勇伝2「あの肖像画の意外なエピソード?」 ベートーヴェンの肖像画 ベートーヴェンは生涯に多くの肖像画を書かれた人物でもありますが、一番有名なのは乱れた髪で厳しい目つきをした、この肖像画だろうと思われます。 ( 肖像画を描きに画家が来訪する日の朝、ベートーヴェンは自身の大好物である「マカロニチーズ」を家政婦に作ってもらうよう頼みましたが、その料理の出来がひどく不味かったためにその日のベートーヴェンは終止不機嫌であり、あのような怖い表情で描かれた、という説があります。 しかしこの逸話は、前述したように虚偽の記録の多いシンドラーの記述のものですので、本当かどうかはわからないと言われています。 ベートーヴェンの略歴年表 ベートーヴェンの具体年表 1770年 — 0歳「ベートーヴェン誕生・家族事情について」 ベートーヴェンの誕生 ベートーヴェンの家族について ベートーヴェンの父親は息子に音楽の厳しい教育を施し、かつ暴力的で一時期ベートーヴェンが音楽に対して嫌悪感を持つほど厳しい人物だったようです。 対して母親は心優しい人でしたが、ベートーヴェンが16歳の頃、彼が演奏家や作曲家として世に出る前に亡くなってしまいました。 ベートーヴェンは次男として生まれ、生まれてすぐ亡くなったカール・マリアという兄がいました。 他兄弟は三男・カルル(資料によりガスパール)と四男・ヨハンと二人の弟がいます。 1787年 — 17歳「10代から一家の大黒柱になる」 悲しい出来事が続いた 母の死と父の失職 ベートーヴェンが16歳の頃に母親が病死すると、父親はアルコール依存症へと陥り、完全に仕事を失ってしまいます。 その後は病気の父と2人の弟を養うためにベートーヴェンは仕事を掛け持ちして家計を支えるようになります。 しかし父親も数年後にはアルコールの過剰摂取が原因で亡くなりました。 皮肉にも晩年のベートーヴェンは溺愛した甥の自殺未遂でアルコール依存症気味となり、この父親と似たような死を迎えることになります。 1792年 — 22歳「ハイドンに弟子入り」 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン ピアニストとしてキャリアをスタート ハイドンに才能を認められて弟子入りしたベートーヴェンは、当初ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として音楽家のキャリアをスタートさせました。 当時はまだ他の人の作った曲を演奏する現代のピアニストのような職業はなく、自身で作った曲を自作自演するスタイルが主流でした。 ベートーヴェンも若い頃は演奏家兼作曲家でしたが、次第に作曲中心へと打ち込むようになりました。 同年代の意外な音楽家たち シューベルトやウェーバー、ロッシーニなどの前期ロマン派の作曲家たちはベートーヴェンと活動時期が同じであり、年齢も同世代と言って良いでしょう。 ベートーヴェンのことを調べてみると、「古典派音楽の集大成であり、後のロマン派に大きな影響を与えた」と書かれていることが多いですが、実際はベートーヴェンが音楽家としてキャリアをスタートさせた頃には既にロマン派音楽の作曲家は存在していました。 ベートーヴェンが彼らの着想などに与えた影響は大きいですが、ベートーヴェン本人は形式のないロマン派音楽の思想とは一線置いていたようです。 1802年 — 32歳「『ハイリゲンシュタットの遺書』ベートーヴェンを苦しませた難聴の原因とは?」 ワインが原因という説がある 興味深い新たな説も? 彼を苦しませた難聴の原因とは一体何だったのでしょうか。 一説には当時のワインに入っていたとされる鉛による中毒という説や、耳硬化症だったという説がありますが、今のところどの説においても完全に特定できる証拠はありません。 最近では、「実はベートーヴェンは耳が聞こえていたのではないか」という説もあり、その真偽はともかく、興味深く面白い内容です。 聴力を失った作曲家は他にもフォーレやボイスなどがいますが、彼らの作曲活動が病後後伸び悩んだのに対し、ベートーヴェンは難聴を抱えながらも代表作を生みだしている点などが指摘されています。 1808年 — 38歳「「運命」の初演は散々だった?」 アン・デア・ウィーン劇場 ドタキャンやリハーサル不足で大惨事に? 今やもっとも有名な交響曲の一つとされるベートーヴェンの交響曲第5番ですが、初演のコンサートは失敗に終わったといわれています。 この曲は1808年12月22日・アン・デア・ウィーン劇場にて演奏されました。 その日は他にも沢山の曲が演奏されましたが、プログラムが長すぎて観客は12月の極寒のウィーンで凍えながら鑑賞に堪えなければいけませんでした。 また新曲のアリアを歌う予定だった歌手はコンサート当日に降板し、代役の歌手は緊張のあまり歌えなくなり公開中止、初演だった「合唱幻想曲ハ短調」は演奏がひどすぎて途中で止まるなど、散々な様子だったようです。 交響曲第5番「運命」の評判はというと、いきなり「ダダダダーン」と荒々しく音を叩きつけるような激しい表現に当時の人々は困惑したようですが、その斬新な魅力・評判は瞬く間に広がり、あらゆる箇所で演奏されるようになっていきます。 1824年 — 55歳「交響曲第9番初演」 フリードリヒ・フォン・シラー ハイテクな交響曲だった? ベートーヴェンは詩人・シラーの「歓喜に寄す」の詩に感銘を受け、この詩を基にした交響曲の構想が1792年頃よりあったと言われています。 この曲はソリスト4名と合唱、つまり歌が挿入された交響曲で、この時代にはとても珍しく奇抜なアイディアでした。 またオーケストラも当時としては大編成といえるものであり、最先端の交響曲でした。 後世への影響については、最早言うまでもないでしょう。 1826年 — 57歳「甥の自殺未遂で体調が悪化」 甥が拳銃自殺未遂 甥への行き過ぎた愛情が死の遠因? ベートーヴェンの弟たちは、兄が書いた楽譜を売ってお金にするなど素行の悪い弟だったようですが、ベートーヴェンは弟二人に愛情を持っていたことが「ハイリゲンシュタットの遺書」でわかっています。 特に彼が溺愛していたといわれている三男のカルルは41歳で亡くなってしまいますが、カルルは遺言で息子・カルル(同名)の後見人を妻ではなく兄のベートーヴェンに指名します。 ベートーヴェンはこの最愛の弟の忘れ形見を自分の息子のように育てますが、甥・カルルが愛しいあまりに偏愛を注ぎ過ぎたようで、カルルはそれを不自由に思い、精神的に不安定な若者へと成長してしまいます。 そして甥・カルルは20歳の頃に拳銃で自殺未遂をし、それを機にベートーヴェンの体調は一気に悪化したといわれています。 ベートーヴェンの関連作品 ベートーヴェンに関連するおすすめ書籍・本・漫画 ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく.

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ベートーヴェンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

ベートーベン 肖像画 楽譜

ベートーヴェンの肖像画が怖い顔なのは朝飯が不味かったから ベートーヴェンは歴史に名を遺した偉大な音楽家です。 特に後年は聴覚障害を患ったにもかかわらず交響曲第9番やミサ・ソレムニスなどの大作を書き上げており、その才覚には驚かされるばかりです。 そんなベートーヴェン、音楽室に肖像画が飾られていますが睨みつけるような顔をしています。 その顔はとても怖く「深夜に見ると目が動く」なんて怪談話の題材にされることもしょっちゅうです。 この肖像画は50歳の時のものですが、40歳の頃には全聾となって他人とのコミュニケーションが上手く取れずに気難しくなったとは聞きます。 だからこのような鋭い視線を送ったのでしょうか? いいえ違います、こんなに不機嫌そうなのは朝飯が不味かったからなのです。 目次 [閉じる]• ベートーヴェンの肖像画が不機嫌なのは朝飯が不味かったから ベートーヴェンは高名な音楽家でウィーンの誰もが彼の音楽を愛していましたが、同時に気難しく変わり者の癇癪持ちとしても有名でした。 周囲に対して物を投げたり当たり散らしたりするのが日常茶飯事であり、ベートーヴェンと付き合えるのは忍耐強い人間だけでした。 部屋を片付けられない、代表作であるミサ・ソレムニスの楽譜が鍋敷きになっていた、近所の人に笑われたから引っ越す(生涯で70回以上の引っ越し)、服に無頓着で浮浪者と間違われて捕まったなど、まあこの類のエピソードに事欠かない人と成りでした。 「彼の音楽は凄いけど、彼の人柄はちょっと…」といった感じです。 そんなベートーヴェンが50歳の頃のある日、肖像画を描いてもらう約束がありました。 その朝食にベートーヴェンの大好物である「マカロニチーズ」が出てきましたが、この出来が酷いものでした。 作った家政婦に当り散らしても機嫌は直らず、肖像画を描きに来た画家・フェルナンド・ヴァルトミューラーにも当たり散らします。 当然、肖像画を書いてもらっている間もずっと不機嫌でした。 そんな理由で50歳のベートーヴェンの肖像画はとても不機嫌なのです。 ベートーヴェンの肖像画は何枚もあるのに、最も目つきの悪いものが最も有名になるとは世の中分からないものです。 ちなみにこの話はベートーヴェンの弟子であるのシントラーの記録によるものです。 こんなベートーヴェンの弟子を続けることが出来た人物ですから、もしかしたら彼なりのフォローが入っているかもしれませんね。 いや、フォローするにしても「マカロニチーズが不味かった」は無いかな… ちなみにシントラーの書いたベートーヴェンの伝記は「自分の都合の良いように改ざんしている」とあまり評判は良くありません。 ベートーヴェンの波乱に満ちた人生 ベートーヴェンは芸術家肌の変人みたいなことを書きましたが、この性格は生来のものではないかもしれません。 家庭内のゴタゴタと鉛中毒でこのような人格になってしまった可能性があるのです。 ベートーヴェンは幼少の頃から音楽家として順調にキャリアを積み、20代の終わり頃までは順風満帆な音楽家生活を送っていました。 しかしその一方で家庭の事情はあまり恵まれたものではありませんでした。 ベートーヴェンの一族は音楽家の家系であり、父もまた歌手として宮廷に勤めていました。 しかし音楽家としては大成できず、酒が好きだったのかはたまた酒に逃げたのか、酷い飲んだくれでした。 そんな父はベートーヴェンに音楽の教育を施し、モーツァルトのような天才子供音楽家として売り出して収入の足しにしようとしました。 その教育は厳しく苛烈で、あまりの厳しさにベートーヴェンは音楽に対してやりきれない思いを抱くことになります。 幸いベートーヴェンは音楽家としての才能には恵まれており、13歳の頃にはお金を稼げるようになりました。 しかし16歳の時に母が死に、父はアルコール依存症になって失職するなど家庭の事情はますます混迷していきます。 ベートーヴェンは父に代わって一家の大黒柱となって2人の弟の面倒を見なければなりませんでしたが、弟達もあまり良い人物とは言えなかったようです。 順調なように見える音楽家としても行き詰まりもあり、一度は遺書を書いたことすらありました。 また30歳頃から患った耳の病は、彼の音楽家生活への多大なストレスとなったことは疑いようがありません。 耳が聞こえなくなってからはピアノに齧りついて振動で確認しながら作曲を行うなど執念でハンデを乗り越えますが、並々ならぬ努力の賜物でしょう。 更にベートーヴェンは鉛中毒に悩まされていました。 当時は鉛中毒に関する認識が恐らくなかったので原因不明だったのでしょうが、近年のベートーヴェンの毛髪鑑定では通常の100倍もの鉛が検出されています。 鉛は率直に言って毒であり、様々な健康被害をもたらします。 ベートーヴェンは聴覚障害、精神疾患、腹痛や下痢、内蔵がボロボロだったなど様々な症状が出ていましたが、これらは全て鉛中毒で説明できます。 鉛を摂取した経緯は当時の甘味料に使われていた「酢酸鉛」のせいだとか、医療行為による影響だとか言われますが確かなことは分かりません。 しかし鉛は確実にベートーヴェンを蝕んでいたことでしょう。 もしかしたらこれらの事情が彼を気難しい性格にしてしまったのかもしれませんね。 偉大な音楽家ベートーヴェンは生前から偉大な音楽家として支持され歴史に名を残しましたが、その人生は波乱の連続であり、幸せな生涯とは言えないかもしれません。

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ベートーヴェンの作風に迫る!

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ベートーヴェンの肖像画が怖い顔なのは朝飯が不味かったから ベートーヴェンは歴史に名を遺した偉大な音楽家です。 特に後年は聴覚障害を患ったにもかかわらず交響曲第9番やミサ・ソレムニスなどの大作を書き上げており、その才覚には驚かされるばかりです。 そんなベートーヴェン、音楽室に肖像画が飾られていますが睨みつけるような顔をしています。 その顔はとても怖く「深夜に見ると目が動く」なんて怪談話の題材にされることもしょっちゅうです。 この肖像画は50歳の時のものですが、40歳の頃には全聾となって他人とのコミュニケーションが上手く取れずに気難しくなったとは聞きます。 だからこのような鋭い視線を送ったのでしょうか? いいえ違います、こんなに不機嫌そうなのは朝飯が不味かったからなのです。 目次 [閉じる]• ベートーヴェンの肖像画が不機嫌なのは朝飯が不味かったから ベートーヴェンは高名な音楽家でウィーンの誰もが彼の音楽を愛していましたが、同時に気難しく変わり者の癇癪持ちとしても有名でした。 周囲に対して物を投げたり当たり散らしたりするのが日常茶飯事であり、ベートーヴェンと付き合えるのは忍耐強い人間だけでした。 部屋を片付けられない、代表作であるミサ・ソレムニスの楽譜が鍋敷きになっていた、近所の人に笑われたから引っ越す(生涯で70回以上の引っ越し)、服に無頓着で浮浪者と間違われて捕まったなど、まあこの類のエピソードに事欠かない人と成りでした。 「彼の音楽は凄いけど、彼の人柄はちょっと…」といった感じです。 そんなベートーヴェンが50歳の頃のある日、肖像画を描いてもらう約束がありました。 その朝食にベートーヴェンの大好物である「マカロニチーズ」が出てきましたが、この出来が酷いものでした。 作った家政婦に当り散らしても機嫌は直らず、肖像画を描きに来た画家・フェルナンド・ヴァルトミューラーにも当たり散らします。 当然、肖像画を書いてもらっている間もずっと不機嫌でした。 そんな理由で50歳のベートーヴェンの肖像画はとても不機嫌なのです。 ベートーヴェンの肖像画は何枚もあるのに、最も目つきの悪いものが最も有名になるとは世の中分からないものです。 ちなみにこの話はベートーヴェンの弟子であるのシントラーの記録によるものです。 こんなベートーヴェンの弟子を続けることが出来た人物ですから、もしかしたら彼なりのフォローが入っているかもしれませんね。 いや、フォローするにしても「マカロニチーズが不味かった」は無いかな… ちなみにシントラーの書いたベートーヴェンの伝記は「自分の都合の良いように改ざんしている」とあまり評判は良くありません。 ベートーヴェンの波乱に満ちた人生 ベートーヴェンは芸術家肌の変人みたいなことを書きましたが、この性格は生来のものではないかもしれません。 家庭内のゴタゴタと鉛中毒でこのような人格になってしまった可能性があるのです。 ベートーヴェンは幼少の頃から音楽家として順調にキャリアを積み、20代の終わり頃までは順風満帆な音楽家生活を送っていました。 しかしその一方で家庭の事情はあまり恵まれたものではありませんでした。 ベートーヴェンの一族は音楽家の家系であり、父もまた歌手として宮廷に勤めていました。 しかし音楽家としては大成できず、酒が好きだったのかはたまた酒に逃げたのか、酷い飲んだくれでした。 そんな父はベートーヴェンに音楽の教育を施し、モーツァルトのような天才子供音楽家として売り出して収入の足しにしようとしました。 その教育は厳しく苛烈で、あまりの厳しさにベートーヴェンは音楽に対してやりきれない思いを抱くことになります。 幸いベートーヴェンは音楽家としての才能には恵まれており、13歳の頃にはお金を稼げるようになりました。 しかし16歳の時に母が死に、父はアルコール依存症になって失職するなど家庭の事情はますます混迷していきます。 ベートーヴェンは父に代わって一家の大黒柱となって2人の弟の面倒を見なければなりませんでしたが、弟達もあまり良い人物とは言えなかったようです。 順調なように見える音楽家としても行き詰まりもあり、一度は遺書を書いたことすらありました。 また30歳頃から患った耳の病は、彼の音楽家生活への多大なストレスとなったことは疑いようがありません。 耳が聞こえなくなってからはピアノに齧りついて振動で確認しながら作曲を行うなど執念でハンデを乗り越えますが、並々ならぬ努力の賜物でしょう。 更にベートーヴェンは鉛中毒に悩まされていました。 当時は鉛中毒に関する認識が恐らくなかったので原因不明だったのでしょうが、近年のベートーヴェンの毛髪鑑定では通常の100倍もの鉛が検出されています。 鉛は率直に言って毒であり、様々な健康被害をもたらします。 ベートーヴェンは聴覚障害、精神疾患、腹痛や下痢、内蔵がボロボロだったなど様々な症状が出ていましたが、これらは全て鉛中毒で説明できます。 鉛を摂取した経緯は当時の甘味料に使われていた「酢酸鉛」のせいだとか、医療行為による影響だとか言われますが確かなことは分かりません。 しかし鉛は確実にベートーヴェンを蝕んでいたことでしょう。 もしかしたらこれらの事情が彼を気難しい性格にしてしまったのかもしれませんね。 偉大な音楽家ベートーヴェンは生前から偉大な音楽家として支持され歴史に名を残しましたが、その人生は波乱の連続であり、幸せな生涯とは言えないかもしれません。

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