織田 信長 アヴェンジャー。 織田信長の妻と子供ら総勢29名プロフィールまとめ

織田信長・全合戦一覧表

織田 信長 アヴェンジャー

生駒吉乃(いこま きつの、1528?-66年) 信長の側室。 織田家の家臣・生駒家宗(いこま いえむね)の長女。 土田弥平次に嫁いでいたが、その夫は 弘治2(1556)年に討ち死に。 その後実家に戻っていたところ、20歳の信長に目をかけられて妊娠。 やがて嫡男の信忠と次男の信雄、続いて徳姫を産む。 永禄8(1567)年に生駒家から信長の居城・小牧山城に移転するも、出産後の肥立ちが悪かったことで翌年に死去。 享年39とされる。 慈徳院(じとくいん、?-?年) 信長の側室。 信忠の乳母を務めたのが縁で側室となった。 坂氏(さかし、?-?年) 信長の側室。 三男織田信孝の母で名は不明。 永禄元(1558)年に信孝を生んでいる。 この女性の出自は伊勢の豪族の娘ということだけわかっているが、これは息子の信孝がのちに伊勢の神戸氏の養子に入ったことと関係しているとみられる。 信長の死後、信孝が柴田勝家と結び、秀吉に岐阜城へ攻め込まれた際に降伏して秀吉の人質となった。 その後、 天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いの際に再び信孝が挙兵したため、孫娘と共に処刑された。 養観院(ようかんいん、?-?年) 信長の側室。 四男羽柴秀勝の母。 お鍋の方(おなべのかた、?-1612年) 信長の側室で、七男信高、八男信吉、水野忠胤に嫁いだ於振の母。 近江の土豪・高畑源十郎の娘。 信長と出会う以前に六角家臣の小倉実房に嫁いでおり、二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)を儲けている。 その小倉実房は信長に内応したために六角氏に滅ぼされる。 未亡人となったお鍋はやがて信長の下を訪れ、側室となって信高、信吉、於振を産んだ。 信長死後は秀吉の庇護下に置かれ、晩年は秀吉の正室・ねねの側近筆頭として仕えたという。 土方氏(ひじかたし、?-?年) 信長の側室。 信長との間に九男・信貞をもうけた。 土方雄久の娘と伝わる。 信忠(のぶただ、1557-82年) 信長の長男。 母は側室の生駒吉乃。 幼名は顔が奇妙だったことから "奇妙丸" と名づけられたという。 永禄10(1567)年に武田信玄の五女・松姫との婚約が成立。 元亀3(1572)年に初陣、続く翌年には元服し、以後は信長の後継者としての道を歩んでいく。 天正2(1574)年の長島一向一揆殲滅戦の頃には織田家中での初の大軍団として信忠軍団が形成されて甲斐武田氏の押さえを担うと、翌年には信長から家督を譲渡されている。 天正10(1582)年3月に武田を滅ぼした甲州征伐では織田軍の総大将を務めたものの、わずか数カ月後の本能寺の変で父同様に自害の運命をたどった。 信雄(のぶかつ、1558-1630年) 信長の二男。 母は側室の生駒吉乃で幼名は茶筅丸(ちゃせんまる)。 信長の伊勢攻略の際、北畠具房の養子に送りだされ、 天正3(1575)年に北畠家当主となったことで、事実上北畠家は織田家に乗っ取られている。 その後は畿内を中心に各地を転戦。 天正7(1579)年には信長に無断で伊賀に出陣して惨敗したことで厳しく叱責されている。 信長の死後は、織田家の覇権を握った秀吉に対抗するため、 天正12(1584)年に家康を頼って小牧・長久手の戦いを引き起こすも結局は降伏し、やむなく秀吉に臣従。 豊臣政権下では秀吉の転封命令に難色を示したことで一旦は追放されてその後は出家。 やがて秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として、再び秀吉の側近となっている。 天下分け目の決戦である関ヶ原の戦いではどちらにも加担しなかったが、長男の秀雄が西軍に属したために所領を失う。 その後俗世を離れて暮らし、徳川vs豊臣の戦いである大坂の陣にも関与せず、晩年はのんびりと過ごした。 羽柴秀勝(ひでかつ、1569-86年) 信長の四男、母は側室の養観院。 秀吉が子の羽柴石松丸秀勝を亡くしたため、羽柴秀吉の養嗣子となる。 信長死後は秀吉に与し、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦い(1584年)に従軍したが、その後まもなくして病没した。 勝長(かつなが、? -1582年) 信長の五男、母は不明。 実名は織田源三郎信房。 幼少のころ、美濃 岩村城の遠山氏の養子とされている。 元亀3(1572)年には岩村城が武田方に奪われたことで甲府の武田信玄の下に送られ、そこで7年ほどの時を過ごす。 天正8(1580)年には織田家に返還されている。 天正10(1582)年の武田攻めに出陣して手柄をあげるが、まもなくして勃発した本能寺の変では信忠の側にいて、明智軍と奮戦して討ち死にした。 信秀(のぶひで、1571?-1597年以降) 信長の六男、母は不明。 祖父と同じ名前である信秀は、父信長の死後に秀吉に仕えて羽柴姓・豊臣姓を賜った。 天正15(1587)年への従軍や文禄の役での肥前名護屋城への駐屯などの記録が残る。 時期は定かではないが、関ヶ原合戦の前後には病死した。 信高(のぶたか、1576-1603年) 信長の七男、母は側室のお鍋の方。 信長死後、氏家行広に養育を受ける。 関ヶ原の戦いでは東軍と西軍のどちらに属したかは史料が一定せず、定かではない。 信吉(のぶよし、1573-1615年) 信長の八男、母は側室のお鍋の方。 関ヶ原の戦いでは三成率いる西軍につき、戦後に改易となった。 信貞(のぶさだ、1574-1624年) 信長の九男、母は側室の土方氏。 豊臣政権下で秀吉の馬廻となり、関ヶ原の戦いでは三成方に与して戦後は改易となった。 その後は家康から赦免されて、大坂の陣(1614-15年)では徳川方として従軍している。 信好(のぶよし、1573-1615年) 信長の十男、母は不明。 秀吉に仕え、茶人となった。 長次(ながつぐ、?-1600年) 信長の十一男、母は不明。 豊臣秀吉の馬廻衆となった。 のちに関ヶ原の戦いの本戦で戦死した。 徳姫【松平信康室】(とくひめ、1559-1636年) 信長の長女、母は側室の生駒吉乃。 松平信康室。 相応院【蒲生氏郷室】(そうおういん、1561-1641年) 信長の二女、母は側室の養観院。 蒲生氏郷の正室。 永姫【前田利長室】(えいひめ、1574-1623年) 信長の三女、母は不明。 前田利長室。 報恩院【丹羽長重室】(ほうおんいん、1574-1653年) 信長の四女、母は不明。 丹羽長重室。 秀子【筒井定次室】(ひでこ、?-?年) 信長の六女、母は不明。 筒井定次の正室。 実父は明智光秀という説もある。 於振【水野忠胤室】(おふり、?-1643年) 信長の七女、母は側室のお鍋の方。 水野忠胤正室、のちに佐治一成継室。 源光院【万里小路充房継室】(げんこういん、?-1600年) 信長の八女、母は不明。 万里小路充房の継室。 三の丸殿【豊臣秀吉側室】(さんのまるどの、?-1603年) 信長の九女、母は側室の慈徳院。 豊臣秀吉の側室、秀吉死後は公家の二条昭実の継室となった。 鶴姫【中川秀政室】(つるひめ、?-?年) 信長の十女、母は不明。 中川秀政の正室。 月明院【徳大寺実久室】(げつみょういん、?-1608年) 信長の十一女、母は不明。 公家の徳大寺実久の正室。 慈眼院(じげんいん、? -1641年) 信長の十二女、母は不明。 織田・北条両家での縁組で北条氏直の婚約者になったとされる。 しかし、本能寺で信長が横死したため、縁組は消滅したとみられている。 簡単にお伝えしてまいりましたが、ここで少し要点をまとめます。 まずは信長の男児についてですが、六男以下の事績はハッキリしておらず、一部の史料の情報から以下のような疑問点が浮かび上がっているようです。 七男の信高は八男以下ではないか• 十男の信好は八男ではないか• 一部の系図類に登場する「信正」という人物は実在したのか 次に女児について。 信長女児の多くは誕生年が不明のため、年齢順に並べるのは難しいようです。 また、実在が確かなのは慈眼院を除く10人としています。 こうしてみると実に多くの子がいた信長ですが、その意外な女性観がわかる記事もご用意してますので、もしよかったらご一読ください。

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織田信長の子供は何人いたの?息子の幼名と娘について!

織田 信長 アヴェンジャー

復刻水着剣豪イベント FGOの「魔王信長 魔王ノッブ 」の評価や再臨素材、スキル、宝具を紹介。 魔王信長の最終再臨や絆礼装、おすすめの概念礼装とパーティも掲載しているので、ぜひ参考にしてください。 対ルーラーで運用するならスキルを上げていなくても通用するので、余裕がないうちはスキル強化を後回しにしても良い。 1 2 3 EX 8 5 6 5 11 14 3 3 2 3 4 2 B Q 9 12 総評:カード性能はほぼバーサーカー カード構成的にも言えることだが、一枚きりのアーツはそれなりの性能であることなどからもカードの使用感はバーサーカーに近い。 ただ、アヴェンジャー特有の毎ターン自動NP獲得があるため、実運用上のNP効率はもう少しマシ。 バスターカードが優秀 3枚所持している バスターカードが6HITと非常に優秀。 スター獲得バフを受ければある程度スターを稼げるので、味方にスター発生バフ持ちがいるなら積極的にバスターを使っていきたい。 これまでの信長と同様に神性持ちに強いサーヴァントと言えるだろう。 魔王信長の最大の魅力とも呼べるスキルなので、できる限り宝具は最終ターンに合わせられるように運用したい。 NPチャージスキルとしては供給量が少なめだが、未凸カレスコと組み合わせて即宝具が使えるのは優秀。 またCTも5と短いので、早めに使用しておけば再使用も狙いやすい。 スキルレベル最大で10個獲得となるが、クリティカルを狙うには物足りないので、他のサーヴァントのスター獲得スキルと合わせてクリティカルを狙いたい。 無敵効果も付属しているので、強化解除宝具を確実に防ぐことができる他、ブレイクギミックなどにも対応できる。 強化解除耐性が確定になるのはスキルレベル10からなので自身のスキルレベルには気を使おう。 自身の宝具による特攻が刺さる神性特性持ちは大半が天属性なので、役割に噛み合う強化と言えるだろう。 また、最大の強みといっても過言でない、BブレイブチェインのEX攻撃にも乗る特攻状態付与というのも優秀。 欠点を補える強化ではないが、素殴り、宝具どちらにも恩恵がある嬉しい強化と言えるだろう。 それらかつ、神性という 魔王信長にとって都合の良い相手はあまり登場しない。 神性、天属性の相手なら有利クラスにも負けない高火力を発揮できるため、相手の特性、属性を確認して 活躍できるクエストかを見極めてパーティに採用したい。 過去、現在、未来におけるあらゆる信長の可能性の集合体ともいえる霊基を持つ。 ある特殊な空間でのみ顕現可能とされていた極めて特異な英霊であるが、どういうわけかいまここに現界を果たしている。 imgur. jpg 魔王PU終了で魔王引けなかった負け 犬雑魚の完全敗北決定😁 魔王持ってる俺様大勝利🤣 魔王の黒タイツで私の股間も大勝利😍😍ドピュピュッ!! 「ああ~~~?」 いきなり彼女の黒タイツ美脚に跳ね除けられ、バランスを崩した私は全裸のまま床にゴロンと転がってしまった。 顔面騎乗の体勢で私の顔の上に座りながら魔王様は軽やかに黒タイツ美脚を振り上げる。 振り下された魔王様の美脚が、無防備なマラをぴしゃりと打ち捉えた。 美しき魔王様から賜った極上の制裁に、私はガクガクと腰砕けになってしまう。 「我は全てお見通しよ。 貴様は女に敗北すると勃 起してしまう惨めな負け 犬だと。 見下されると勃 起。 叱られるとまた勃 起。 それだけで腰砕けになっていた背筋がピンと伸び、自然と言葉が口から溢れ出してきた。 「ひぃ~んっ!魔王様のおっしゃる通りです~~・・・」 「ふふっ・・・よかろう。 少しは自分の立場がわかってきたようじゃな」 「んんっ、ふぁいっ・・・ちゅうっ、れろれろっ・・・」 唾液に濡れた舌を伸ばし、丁寧な動きで魔王様の肛門を舐める。 豊満な尻肉から漏れてくるピチャピチャという音は、そんな飼い主に媚びるマゾ犬に相応しい甘えきった音色だった。 「あぁん、魔王様、魔王さまぁ~ん・・・んちゅう~っ・・・ひぁんっ」 「ふっ・・・肛門を舐められている我は微細も感じていないというのに、舐めているマゾ犬はもう絶頂寸前か」 黒タイツに包まれた美しき魔王様の足は、震えるマラを鷲掴みにした。 「っひあ~~~~~~~~~~~~~~~んっ!!」 「全く・・・ポコチンというのは救いようのない存在よな」 黒タイツのさらさらした感触が敏感なマラを余さず包み込んでくる。 全身が灼けつくような快感に翻弄されながら、私は必死で肛門を舐めしゃぶった。 「ふふっ、好きなだけ舐めるがよい。 貴様に出来ることなどその程度。 そら、情けないマゾちん ぽこは足でいじり回してやろう」 「あひぃ~~~~~~んっ!」 すらりと伸びた美しい黒タイツ美脚が、マラを悠然と弄ぶ。 「血管の浮いた竿をなぞって、亀 頭を指先でつまみ上げてたるんだ皮をクイクイと引っ張ってやると、一段と情けない姿になるのう」 「ひぃ~~ん、魔王さまぁ~~~」 「ふふ、なんとみっともない。 これだからマゾ犬は始末におえん。 貶されれば貶されるほど興奮してしまうのだからな」 魔王様の嘲笑が、そのまま快感となってマラを侵食してゆく。 「そら、もっと股を開いて金 玉揺らせいマゾ犬。 つま先もピーンと伸ばして、恥ずかしい姿を存分に見せるがいい」 「やあぁ~~~~~んっ、魔王様の足ぃ、魔王様の黒タイツのおみ足ぃぃぃ~~~~んっ」 魔王様の黒タイツ美脚が、マラを、金 玉を容赦なく責め立ててゆく。 同情はせぬ。 そら、ちん ぽこつねってやるから気を確かに持てい」 「あひぃ~んっ!あひ、あし、足ぃぃ、黒タイツうぅうぅぅぅう~~~~~んっ」 「おやおや、さらに壊れてマゾ本能が駄々洩れか」 「魔王様のおみあひぃ、おしりぃ、黒タイツぅっ・・・チン ポだめぇ、イっちゃう、イかされちゃうぅ~~~んっ・・・!!」 「そう、イかされちゃうのじゃ。 貴様のチン ポは我の足でみじめにマゾ射 精してしまうのじゃ。 嬉しかろう?」 「あひぃ~~ん、うれひいっ、魔王様の黒タイツおみ足でマゾ射 精うれしいですぅぅうぅ~~~っ!!」 「ふふっ・・・正直者で結構。 ではそろそろじゃ。 一番欲しがってるものをくれてやろう。 ドビュルウゥゥゥッ!! 黒タイツ美脚にマラの根元から亀 頭までグチュグチュと激しく扱かれ、大量の精 液が一直線に天まで噴き上がった。

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織田信長家臣団まとめ。組織図・変遷・各方面軍団の顔ぶれなど。

織田 信長 アヴェンジャー

生駒吉乃(いこま きつの、1528?-66年) 信長の側室。 織田家の家臣・生駒家宗(いこま いえむね)の長女。 土田弥平次に嫁いでいたが、その夫は 弘治2(1556)年に討ち死に。 その後実家に戻っていたところ、20歳の信長に目をかけられて妊娠。 やがて嫡男の信忠と次男の信雄、続いて徳姫を産む。 永禄8(1567)年に生駒家から信長の居城・小牧山城に移転するも、出産後の肥立ちが悪かったことで翌年に死去。 享年39とされる。 慈徳院(じとくいん、?-?年) 信長の側室。 信忠の乳母を務めたのが縁で側室となった。 坂氏(さかし、?-?年) 信長の側室。 三男織田信孝の母で名は不明。 永禄元(1558)年に信孝を生んでいる。 この女性の出自は伊勢の豪族の娘ということだけわかっているが、これは息子の信孝がのちに伊勢の神戸氏の養子に入ったことと関係しているとみられる。 信長の死後、信孝が柴田勝家と結び、秀吉に岐阜城へ攻め込まれた際に降伏して秀吉の人質となった。 その後、 天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いの際に再び信孝が挙兵したため、孫娘と共に処刑された。 養観院(ようかんいん、?-?年) 信長の側室。 四男羽柴秀勝の母。 お鍋の方(おなべのかた、?-1612年) 信長の側室で、七男信高、八男信吉、水野忠胤に嫁いだ於振の母。 近江の土豪・高畑源十郎の娘。 信長と出会う以前に六角家臣の小倉実房に嫁いでおり、二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)を儲けている。 その小倉実房は信長に内応したために六角氏に滅ぼされる。 未亡人となったお鍋はやがて信長の下を訪れ、側室となって信高、信吉、於振を産んだ。 信長死後は秀吉の庇護下に置かれ、晩年は秀吉の正室・ねねの側近筆頭として仕えたという。 土方氏(ひじかたし、?-?年) 信長の側室。 信長との間に九男・信貞をもうけた。 土方雄久の娘と伝わる。 信忠(のぶただ、1557-82年) 信長の長男。 母は側室の生駒吉乃。 幼名は顔が奇妙だったことから "奇妙丸" と名づけられたという。 永禄10(1567)年に武田信玄の五女・松姫との婚約が成立。 元亀3(1572)年に初陣、続く翌年には元服し、以後は信長の後継者としての道を歩んでいく。 天正2(1574)年の長島一向一揆殲滅戦の頃には織田家中での初の大軍団として信忠軍団が形成されて甲斐武田氏の押さえを担うと、翌年には信長から家督を譲渡されている。 天正10(1582)年3月に武田を滅ぼした甲州征伐では織田軍の総大将を務めたものの、わずか数カ月後の本能寺の変で父同様に自害の運命をたどった。 信雄(のぶかつ、1558-1630年) 信長の二男。 母は側室の生駒吉乃で幼名は茶筅丸(ちゃせんまる)。 信長の伊勢攻略の際、北畠具房の養子に送りだされ、 天正3(1575)年に北畠家当主となったことで、事実上北畠家は織田家に乗っ取られている。 その後は畿内を中心に各地を転戦。 天正7(1579)年には信長に無断で伊賀に出陣して惨敗したことで厳しく叱責されている。 信長の死後は、織田家の覇権を握った秀吉に対抗するため、 天正12(1584)年に家康を頼って小牧・長久手の戦いを引き起こすも結局は降伏し、やむなく秀吉に臣従。 豊臣政権下では秀吉の転封命令に難色を示したことで一旦は追放されてその後は出家。 やがて秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として、再び秀吉の側近となっている。 天下分け目の決戦である関ヶ原の戦いではどちらにも加担しなかったが、長男の秀雄が西軍に属したために所領を失う。 その後俗世を離れて暮らし、徳川vs豊臣の戦いである大坂の陣にも関与せず、晩年はのんびりと過ごした。 羽柴秀勝(ひでかつ、1569-86年) 信長の四男、母は側室の養観院。 秀吉が子の羽柴石松丸秀勝を亡くしたため、羽柴秀吉の養嗣子となる。 信長死後は秀吉に与し、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦い(1584年)に従軍したが、その後まもなくして病没した。 勝長(かつなが、? -1582年) 信長の五男、母は不明。 実名は織田源三郎信房。 幼少のころ、美濃 岩村城の遠山氏の養子とされている。 元亀3(1572)年には岩村城が武田方に奪われたことで甲府の武田信玄の下に送られ、そこで7年ほどの時を過ごす。 天正8(1580)年には織田家に返還されている。 天正10(1582)年の武田攻めに出陣して手柄をあげるが、まもなくして勃発した本能寺の変では信忠の側にいて、明智軍と奮戦して討ち死にした。 信秀(のぶひで、1571?-1597年以降) 信長の六男、母は不明。 祖父と同じ名前である信秀は、父信長の死後に秀吉に仕えて羽柴姓・豊臣姓を賜った。 天正15(1587)年への従軍や文禄の役での肥前名護屋城への駐屯などの記録が残る。 時期は定かではないが、関ヶ原合戦の前後には病死した。 信高(のぶたか、1576-1603年) 信長の七男、母は側室のお鍋の方。 信長死後、氏家行広に養育を受ける。 関ヶ原の戦いでは東軍と西軍のどちらに属したかは史料が一定せず、定かではない。 信吉(のぶよし、1573-1615年) 信長の八男、母は側室のお鍋の方。 関ヶ原の戦いでは三成率いる西軍につき、戦後に改易となった。 信貞(のぶさだ、1574-1624年) 信長の九男、母は側室の土方氏。 豊臣政権下で秀吉の馬廻となり、関ヶ原の戦いでは三成方に与して戦後は改易となった。 その後は家康から赦免されて、大坂の陣(1614-15年)では徳川方として従軍している。 信好(のぶよし、1573-1615年) 信長の十男、母は不明。 秀吉に仕え、茶人となった。 長次(ながつぐ、?-1600年) 信長の十一男、母は不明。 豊臣秀吉の馬廻衆となった。 のちに関ヶ原の戦いの本戦で戦死した。 徳姫【松平信康室】(とくひめ、1559-1636年) 信長の長女、母は側室の生駒吉乃。 松平信康室。 相応院【蒲生氏郷室】(そうおういん、1561-1641年) 信長の二女、母は側室の養観院。 蒲生氏郷の正室。 永姫【前田利長室】(えいひめ、1574-1623年) 信長の三女、母は不明。 前田利長室。 報恩院【丹羽長重室】(ほうおんいん、1574-1653年) 信長の四女、母は不明。 丹羽長重室。 秀子【筒井定次室】(ひでこ、?-?年) 信長の六女、母は不明。 筒井定次の正室。 実父は明智光秀という説もある。 於振【水野忠胤室】(おふり、?-1643年) 信長の七女、母は側室のお鍋の方。 水野忠胤正室、のちに佐治一成継室。 源光院【万里小路充房継室】(げんこういん、?-1600年) 信長の八女、母は不明。 万里小路充房の継室。 三の丸殿【豊臣秀吉側室】(さんのまるどの、?-1603年) 信長の九女、母は側室の慈徳院。 豊臣秀吉の側室、秀吉死後は公家の二条昭実の継室となった。 鶴姫【中川秀政室】(つるひめ、?-?年) 信長の十女、母は不明。 中川秀政の正室。 月明院【徳大寺実久室】(げつみょういん、?-1608年) 信長の十一女、母は不明。 公家の徳大寺実久の正室。 慈眼院(じげんいん、? -1641年) 信長の十二女、母は不明。 織田・北条両家での縁組で北条氏直の婚約者になったとされる。 しかし、本能寺で信長が横死したため、縁組は消滅したとみられている。 簡単にお伝えしてまいりましたが、ここで少し要点をまとめます。 まずは信長の男児についてですが、六男以下の事績はハッキリしておらず、一部の史料の情報から以下のような疑問点が浮かび上がっているようです。 七男の信高は八男以下ではないか• 十男の信好は八男ではないか• 一部の系図類に登場する「信正」という人物は実在したのか 次に女児について。 信長女児の多くは誕生年が不明のため、年齢順に並べるのは難しいようです。 また、実在が確かなのは慈眼院を除く10人としています。 こうしてみると実に多くの子がいた信長ですが、その意外な女性観がわかる記事もご用意してますので、もしよかったらご一読ください。

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