尼子千。 堀ちえみの旦那 尼子勝紀の年収・職業は?食道がん発覚に夫がかけた言葉が

堀ちえみ旦那尼子勝紀年収や職業が医者の名前は!子供何人で京都大学?

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タレント、堀ちえみさんが 舌がんであることを公式ブログで公表したという とても心配なニュースが報道されています。 堀ちえみ口腔がん公表 — ORICON NEWS(オリコンニュース) oricon 堀ちえみさんといえば・・ 初期のリウマチと神経障害性疼痛を患い、投薬治療中であることを公表。 昨年、TBS系「爆報! THE フライデー」 で国指定の難病「特発性大腿(たい)骨頭壊死(えし)症」であることを明かすなど 近年は病魔と闘い続けていました。 そして私生活の堀ちえみさんというと 「子だくさん」なイメージがありますよね。 堀ちえみさんは3回結婚をしていて 5人のお子さんを出産し 現在の夫の連れ子である2人のお子さんと会わせて 「7人の子供の母」でもあります。 堀ちえみさんが最初の出産をされたのが1990年なので ご長男(第一子)はすでに28歳か29歳になられていますね。 堀ちえみさんのお子さんたちの現在の年齢は? 「京都大学」に通っているお子さんとは何番目のお子さん? 連れ子である2人のお子さんの父親はどんな方なのでしょうか? 目次• 堀ちえみの子供5人の現在の年齢は? 堀ちえみさんの現在の子供はなんと 7人です! どうもこんばんは。 堀子です。 今日の堀のお時間です。 今日の堀 今日は堀界を代表する『堀 ちえみ』さんでございます。 堀ちえみさんは現在ちちんぷいぷいなどでみられますね。 歌手であり、女優であります。 松竹芸能所属であり、連れ子の2人を含め7人のお子さまがいらっしゃいます。 堀ちえみさんにはお子さんが5人いらっしゃり 夫の連れ子2人を合わせて7人の子育てに奮闘されています。 ブログでも度々家族の仲むつまじい姿を披露してきた堀ちえみさん。 (一部では京都大学医学部に転部?という情報も・・) 息子さんが「東大医学部」に進学した綾小路きみまろさんと対談していたようです。 堀ちえみ家の兄弟 23歳、21歳(京大)、20歳(立命館大法学部)、高2、中2、中1、小5 5男2女。 — あみーご長嶋 amigonag 堀ちえみさんのお子さんたちが優秀で 特に次男が京都大学に進学したのは 堀ちえみさんの元夫で長男次男三男の父親が「外科医」であったことも理由のひとつではないかといわれています。 堀ちえみさんの長男、次男、三男は現在社会人ということで 堀ちえみさんのブログに良く登場しています。 堀ちえみさんは2回目の結婚で 四男楓季(ふうき)さんと次女の彩月(さつき)さん(堀ちえみさんの再婚前は長女)をご出産されています。 堀ちえみさんの連れ子2人と父親は誰? 堀ちえみさんは2011年12月11日、 一般男性と3度目の結婚をし東京・明治神宮にて挙式。 相手の連れ子が2人 (再婚した男性の当時12歳の長女と10歳の長男ですが 堀さんから見て当時12歳の次女と10歳の五男) がいたため7人のお子さんの母となりました。 堀ちえみさんの現在の夫、尼子勝紀さんの職業は パチンコメーカーSANKYOの執行役員ではないかといわれています。 堀ちえみさんの現在の夫、尼子勝紀さんの連れ子は2人います。 堀ちえみさんの現在の旦那さんの連れ子の長女は、2018年度現在で大学4年生。 2019年4月から新社会人になる娘さんで 真由さんといいます。 堀ちえみさんの現在の旦那さんの連れ子の長男は お名前は尋紀(ひろき)さんといいます。 高校3年生の時には堀ちえみさんが尋紀(ひろき)さん の三舎面談に行っていたそうです。 料理が得意な五男の尋紀(ひろき)さんは ときどき実家に帰ってきて堀ちえみさんに料理を振る舞ってくれるそうです。 学校は京都大学? 連れ子2人の父親の職業は? まとめ タレント、堀ちえみさんが 舌がんであることを公式ブログで公表したという とても心配なニュースが報道されています。 堀ちえみさんには7人のお子さんがいて そのうち2人が現在の夫の連れ子です。 長男、次男、三男はすでに成人されていて社会人。 堀ちえみさんの次男は京都大学を卒業なさっています。 また、夫の連れ子である真由さん、尋紀さんも堀ちえみさんのブログに登場するなど 連れ子との関係も良好のようです・・.

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堀ちえみの子供の人数は7人!結婚と離婚と妊娠は?学校と受験は?息子が京大?放任主義考察

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詳細は「」を参照 (慶長5年)以降、堀尾氏が城主となるも(慶長16年)にがへ移ると月山富田城も廃城となった。 それまでは、山陰の首城たる地位を失わなかった。 (昭和9年)、国のに指定された。 日本五大山城の一つとされることもある。 歴史・沿革 [ ] 平安時代 [ ]• ・頃、「が富田荘に来た時、八幡社を移して、築城した」との伝承あり。 鎌倉時代 [ ] (3年)のの功により、が・2国のとなり 、彼国に下向し、承久の乱宮方の歿官領である月山富田城に入る。 南北朝時代 [ ]• (南朝:興国2年、北朝:暦応4年) のが幕府の追討を受ける。 (南朝:興国4年、北朝:康永2年) (、道誉)がとなり、をとする。 、と戦って破れ、当城は領となる。 (南朝:正平19年、北朝:貞治3年) 、となる。 代々歴任。 (南朝:元中8年、北朝:明徳2年) 、で敗れ、再びがとなる。 室町時代 [ ]• (明徳3年) は、甥のをとする。 代々歴任。 (文明16年) 所領横領により追放され、がとなる。 (文明18年) 、不意をついて当城を奪回。 (その後、尼子経久は月山富田城を拠点に勢力を拡大し、出雲の実質的守護権力となる。 城域を拡大・整備する)• (天文6年) 、孫(晴久)に家督を譲る。 (天文10年) 没す。 (天文12年) ・連合軍に攻められるが、らの奮戦により撃退。 (天文21年) 、及び朝廷より山陰山陽八ヶ国守護、従五位下修理大夫に任命される。 (天文23年) 、を粛清する。 (永禄3年) 急死し、が家督を継ぐ。 (永禄8年) の包囲を受け、籠城。 (永禄9年) 兵糧が尽き、開城。 捕らえられ、へ送致される。 城代として家臣、、が居城。 安土桃山時代 [ ]• (永禄10年) 城代としてが居城。 (永禄12年) 旧臣ら尼子再興軍を催して当城を攻めるも、落ちず。 (元亀元年) 毛利勢本隊の来援により、尼子再興軍は敗退する。 (この間は、下記「歴代城主」参照) 江戸時代以降 [ ] 整備中の月山本丸部分(2016)• (慶長16年) がに移り廃城となる。 (平成18年)4月6日、(65番)に選定された。 近現代 [ ]• 平成に入り、樹木の伐採、石垣の修理など史跡公園としての整備が進められる。 (平成26年)12月、発掘調査と現地説明会が行われた。 歴代城主 [ ]• :・の。 (承久3年)-。 :出雲・隠岐の守護。 (南朝:興国4年、北朝:康永2年)-。 (南朝:正平19年、北朝:貞治3年)-。 :山名満幸の目代。 :出雲国守護。 (明徳3年)-。 :京極高詮の。 (応永2年)-。 :出雲国守護代。 (応仁元年)頃-。 :出雲国守護代であったが、(文明16年)追放される。 (文明18年)富田城を占拠。 -(天文6年)家督を譲る。 ():出雲国守護代。 (文明16年)-(文明18年)戦死。 :(天文6年)-(永禄3年)尼子氏最盛期を創出するもその最中に急死。 :(永禄3年)-(永禄9年)元就率いる軍に攻められ、落城。 :毛利氏の城代。 :毛利氏の城代。 :毛利氏の城代。 (永禄10年)-(永禄12年)。 :城督。 (永禄12年)-(天正13年)病没。 :城督。 (天正13年)-(天正19年)• :諸国を総管。 :から東出雲、隠岐、西12万石を与えられる。 (天正19年)-(慶長5年)岩国。 :出雲・隠岐23万5千石領主となりを築く。 (慶長5年)-(慶長16年)病没。 :(慶長16年)廃城とし、松江城に移る。 構造 [ ] 富田月山城絵図 富田城は靴のような形の月山(吐月峰、標高191. 5m)山上に本丸をおく典型的な山城である。 南東以外の三方は急峻な斜面であり、北側を正面とし、山麓部から山頂部へ郭を連ねる。 進入路は、北麓の 菅谷口(すがたにぐち)からの 大手道(おおてみち)、富田橋を渡った正面の 御子守口(おこもりぐち)からの 搦手道(からめてみち)、南麓の 塩谷口(しおだにぐち)からの 裏手道(うらてみち)の3か所がある。 すべての進入路は山腹の 山中御殿に通じ、急峻な一本道「七曲り」で、詰の城である 山頂部と結ぶ。 現存する古絵図では石垣やのなどが描かれているが、これらの古絵図が描かれたのはである(後述の城安寺が所蔵している堀江友声作の「月山古城絵図」など)、発掘されているが作られたのは後の堀尾氏による改築と推定される。 尼子氏・毛利氏が城主であった時代の姿は、定かではないが、尼子氏の館(平素の住居)は里屋敷とよばれ菅谷口にありまわりに侍屋敷を設けたとされる。 山頂部の郭 [ ] 月山最高所(吐月峰)に位置し、別称は"甲の丸"とも言われる。 二の丸とは深さ7~8mの堀切で仕切られる。 ここに所在する勝日高守神社は城の守護神社で、築城以前から所在したと伝えられる。 二の丸 三の丸に続き、遠くに、さらに日本海を望むことができる。 双児跡が残る。 また、発掘調査の結果、建物跡や柱穴の跡、の瓶等も発見され、破城の際に崩された石垣も発見されている。 三の丸 袖ヶ平の石垣を隔てた一段上に位置する。 また、発掘調査の結果、破城の際に崩された石垣が発見されている。 袖ヶ平(そでがなり) 「七曲り」を登りきったところにあり、西方を監視する櫓があったと伝わる。 石垣が残る。 鉢屋ヶ成(はちやがなり) 山頂部、本丸の北東側に位置し、の富田城奪回に協力した鉢屋氏ゆかりの地とも伝わる。 七曲り 山中御殿平から山頂部へ続く道。 かなり急峻で、現在は石畳で舗装されている。 途中に堀尾河内守・掃部父子を供養する親子観音、山吹がある。 山麓部の郭と門 [ ] 山中御殿跡と月山 山中御殿平(さんちゅうごてんなり) 御殿が所在したところで、麓の里御殿に対して山中御殿と呼ばれたものと考えられている。 上下2段に分かれており、南側上段に城主の館、北側下段に付属の館があったと伝わる。 発掘調査によって建物の基礎とみられる石列が確認されたが、時代は特定されていない。 大手門跡(おおてもんあと) 大手道、搦手道、裏手道が合流する山中御殿平の入口に位置する。 高さ5m、幅15mの大手門は、押し寄せる敵を押し返したと伝わるが、崩落して現存しない。 この大石垣の下には径2m、深さ3mの軍用大井戸があり、現在でも水が湧いている。 花ノ壇(宗松寺平(そうじょうじなり)) 大手道と搦手道の間、山中御殿平の正面、一段下に位置する。 かつて、多くの花が植えられていたことからこの名がついたといわれる。 発掘調査をもとに主屋と侍所が復元されている。 奥書院平(おくしょいんなり) 大手道と搦手道の間、太鼓壇と山中御殿平の間に位置する。 奥書院があったと伝えられ、現在は戦没者慰霊碑が建っている。 太鼓壇(たいこだん) 千畳平に続く南側の郭で、時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝わる。 現在、山中幸盛の銅像との碑が建っている。 千畳平(せんじょうなり) 太鼓壇に続く北側の郭で、御子守口の正面に位置し、城兵集合の場として使われたといわれる。 北端には尼子神社と櫓跡があり、周囲に石垣が残る。 馬場跡(ばばあと) 太鼓壇・千畳平の北側に位置する。 能楽平(のうがくなり) 御子守口からの搦手道と塩谷口からの裏手道の間に位置する。 西端に幸盛がある。 御茶庫台(おちゃこだい) 巌倉寺の奥、西側最下段に位置し、に面する。 の墓と伝わる巨大なと、堀尾吉晴の妻の建てた山中幸盛の慰霊碑がある。 台東成(だいとうなり) 裏手道の正面に位置する。 石垣が残る。 搦手門(からめてもん) 南側の塩谷口から山中御殿平に続く門で、御殿平の南側に位置する。 石垣が残り、が塩冶掃部介を襲撃した際には、ここから侵入したと伝えられる。 菅谷虎門(すがたにとらもん) 北側の菅谷口から山中御殿平に続く門で、石垣が残る。 その他の施設 [ ] 城安寺(じょうあんじ) 菅谷口にあるの。 雲竜寺と号し、聖観音をまつる。 寺伝によると年間、源翁和尚の開山という。 と共に一時、松江に移ったが、のち広瀬に戻り、さらにの予定地とになったため、現在地に移された。 この付近に里御殿があったという。 寺にある木造立像(像高97. 6)は(明治35年)、木造立像(像高95. 7cm)は、(明治36年)にに指定されている。 2体ともので、の作、本尊の脇侍である。 境内には9代の墓、また寺宝にの御抱絵師であったの描いた富田城絵図やのが伝わる。 - ()• ただし、の「富田城跡」は標高197mで登録されている。 萩原さちこ 著者 2017年3月16日 日本語. 7つの魅力でとことん楽しむ! 日本100名城めぐりの旅 電子書籍. 学研プラス.. 一説に、「元年()、・両国のとなり、 月山富田城に入る」とする本もあるが、実際にはの功により、・の2国を賜ったため、この年代に関しては疑わしい。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - 月山富田城跡近くの。 富田城の名を冠するほか、安来市立歴史資料館も併設されている。 外部リンク [ ]• - 安来市観光協会• - 国指定文化財等データベース• - 島根県遺跡データベース.

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「山陰の麒麟」悲劇のヒーロー~山中鹿介 │ Guidoor Media

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麒麟とは 麒麟 麒麟とは伝説上の生物で中国の書物『礼記』(らいき)によれば、王が善政を布いたときに現れる神聖な生物とされており、ひいては優れた才能を示す人物のことを「麒麟」と称するようになったようです。 (子供の場合は麒麟児) NHK大河ドラマ 『麒麟がくる』の主役 明智光秀(あけちみつひで)と鹿介は後に協力して戦うことになります。 キリン(Photo by Kelly Arnold on Unsplash) ちなみに首が長いことでお馴染みの「キリン」はアフリカに生息する動物というのはご存知かと思います。 この「キリン」を初めて献上された中国明の永楽(えいらく)帝がこの生物をいたく気に入り、実在の麒麟と呼んだことが名前の由来だそうです。 尼子家家臣、山中鹿介 山中家は山陰地方の戦国大名 尼子(あまご)氏の一門で家老を務める家柄でした。 その家の次男に生まれた鹿介は父を幼少期に失ったものの、8歳のときには戦場に出て、13歳のときには敵を討ち取ったといわれています。 そして16歳のときには、近隣にその名が知れ渡っている豪傑を一騎討ちの末討ち取り、 尼子家にこの人ありと知られるようになります。 その後鹿介は病弱であった兄に替わって山中家の家督を継ぎました。 尼子氏とは 尼子経久 尼子氏は元々守護代として出雲(いずも)を治めていましたが、 経久(つねひさ)の代に実力で大名の座を勝ち取り、一時は中国地方の大半を制圧するほどの勢いを誇りました。 しかし経久が没すると新興勢力である 毛利元就の侵略を許すようになります。 尼子義久の父尼子晴久 元就は謀略を巧みに用いながら尼子氏の勢力を削り、鹿介の主君である 義久(よしひさ)の代には防戦一方な状況に陥っていました。 守護代とは 主君である守護(大名)に替わって現地を治める役職。 この当時守護大名自身は幕府の官職に就いていたり、複数国の守護に任命されていたりしていたため京都にとどまり、現地に赴任しない場合が多々ありました。 このためそのような国では現地で実権を掌握した切れ者の守護代が力を持つようになり、そのまま自立して戦国大名化していった家がいくつかあります。 尼子家以外にも 尾張の織田家や越前の朝倉氏などが守護代から戦国大名に成長を遂げています。 尼子家滅亡~山中鹿介、主従の別れ 元就は尼子氏の本拠地である出雲に侵攻を開始し、鹿介もその防戦に追われます。 この一連の攻防戦でも鹿介は毛利方の勇将品川将員(まさかず)と一騎討ちで戦い、討ち取ります。 この一騎討ちは豊臣秀吉の立志伝として有名な 『太閤記』(たいこうき)にも取り上げられています。 後に鹿介は秀吉と接点を持つことになりますが、この時点では無縁です。 『太閤記』も鹿介の人気の高さにあやかったのでしょうか。 月山富田城址(出典:写真AC あけびさん) しかし数で勝る毛利軍が尼子氏の本拠地である 月山富田(がっさんとだ)城を厳重に包囲すると、耐えかねた義久は毛利軍に降伏し、 山陰の大名尼子氏は滅亡します。 義久は毛利軍の手によって幽閉されます。 鹿介はこれに随従を願い出るも許されず、出雲大社で別れを果たしたといわれています。 第一次尼子家再興運動~放浪から出雲奪還 放浪の日々 有馬温泉(出典:写真AC putimelatiさん) 主家が滅亡すると鹿介は浪人になります。 おそらく毛利家から仕官の誘いはあったと思われますが、鹿介は主家を滅ぼした相手に仕えることをよしとしなかったのでしょう。 浪人となって有馬温泉で戦での傷を癒すために湯治をしたり、諸国を巡り上杉氏、武田氏、北条氏などの軍法を学んだりしたといわれています。 出雲奪還へ 尼子勝久 そして放浪を終えた鹿介は京都に一旦落ち着き、他の旧尼子家臣を集めます。 そして尼子氏の一族で、京都で僧侶となっていた者を還俗させ 勝久(かつひさ)と名乗らせ、主君と仰ぎます。 そして毛利氏が北九州に遠征のため山陰地方が手薄となると見る鹿介率いる尼子軍は兵を挙げ、たちまち3千もの兵が集まったといわれています。 松江城(出典:写真AC ころすけ28さん) そして末次(すえつぐ。 のち同地に松江城が築かれます)城を拠点に据え、 出雲東部を手中に収めると尼子氏の元本拠地月山富田城の攻略を目指します。 再び毛利軍と対決する山中鹿介 小早川隆景像(広島県三原市 三原城公園) 北九州で膠着状態に陥っていた毛利軍は急ぎ軍を本国に撤退させると、大軍を出雲に向けます。 この頃鹿介率いる尼子再興軍は6千あまりの兵を擁するようになっていました。 しかし月山富田城の攻略に苦戦し、結局攻め落とすことができぬまま毛利軍と対決することになってしまいました。 そして両軍は布部山(ふべやま)で激突します。 尼子軍潰滅 吉川元春 尼子軍は兵の数においては劣るものの旺盛な士気と地の利を生かし戦況を有利に進めます。 しかし毛利軍の勇将 吉川元春(きっかわもとはる)が山頂を制圧してそこから強襲すると、尼子軍は総崩れとなり退却を余儀なくされました。 尼子軍の多くの将兵が討たれる中、鹿介は殿を務め無事に退却しました。 その後一度は勢力の盛り返しに成功したものの、結局数で勝る毛利軍の前に尼子軍は潰滅し、勝久は隠岐島に脱出、鹿介は毛利軍に捕らえられてしまいます。 隠岐諸島(出典:写真AC mac1917さん) 鹿介はひとまず幽閉され処分が検討されます。 毛利家の山陰方面の統治を任されていた吉川元春は鹿介を処刑しようとしていたのではないでしょうか。 元春は尼子氏との一連の戦いで鹿介の恐ろしさを思い知らされています。 しかし毛利家の有力家臣たちが鹿介の助命を嘆願したため元春はこれを許します。 しかし 鹿介の意志はあくまで仇敵たる毛利氏を倒し、尼子家を復興することです。 鹿介は幽閉先を脱出し、どこぞかへと身を隠してしまいました。 山中鹿介、魂の叫び 鹿介は初陣のとき以来、三日月を信仰していました。 (出典:写真AC はむぱんさん) この頃であったかどうかはわかりませんが、鹿介は次のような言葉を語り、尼子家の再興を願ったといわれています。 願わくは我に七難八苦を与えたまえ 主家再興のためなら自分はいかなる困難や苦労にも打ち勝ってみせるという鹿介の凄まじい決意が見えてくるようです。 まあフィクションの匂いもしますが、その後の鹿介の生き様を見るとあながち嘘でもないかと思えてきます。 第二次尼子家再興の戦い~因幡での激闘 山名氏との連携 山名豊国 幽閉先を脱出した鹿介は主君尼子勝久のいる隠岐に向かい、旧尼子家臣の者たちと但馬(たじま、現兵庫県北部)で合流します。 そしてこの地で毛利氏に因幡(いなば、現鳥取県東部)を追われた 山名豊国(やまなとよくに)と出会います。 中国地方の令制国(境界線は現行の都道府県のものです) そして共通の敵を持つ両者は手を携え、毛利氏に立ち向かうことになります。 といってもその前面で戦ったのはもちろん鹿介と尼子氏の軍です。 鳥取城占領 鳥取城跡(鳥取県鳥取市久松公園 出典:写真AC fuku41さん) 尼子軍はわずかな兵で立ち上がると因幡を支配していた毛利方の武田氏を追い詰めます。 そしてわずか1千の兵で5千の兵が籠る武田軍の 鳥取城を下しました。 この城に山名豊国を入れ、因幡の各地を転戦しこの地を尼子氏再興の拠点とすることに成功します。 山名豊国の裏切り 出典:シルエットAC しかしこれから間もなくして 鳥取城の山名豊国が毛利方に寝返ってしまいます。 毛利方は豊国の猜疑心を言葉巧みに煽ったのでしょう。 ここまで鹿介らの見事な軍事的手腕を見せつけられて、豊国は尼子軍に実権を奪われる不安を感じたのではないでしょうか。 結局鹿介たちは豊国に利用されるだけの結果になってしまったのです。 また但馬の山名本家が毛利氏と和議を結び、その他の反毛利勢力が滅んでいく中、尼子軍は孤立を深めます。 三度毛利軍と対決する山中鹿介 若桜鬼ヶ城跡(写真提供:鳥取県撮れたて写真館) そしてついに毛利本軍が因幡に侵攻してきます。 尼子軍は若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう、現鳥取県八頭郡若桜町)に籠り懸命の抗戦を繰り広げます。 しかし 援軍の当てがない籠城に未来はありません。 毛利軍が持久戦に持ち込む姿勢を見せると尼子家主従は密かに城を脱出し因幡を去ります。 またしても尼子家再興の夢は叶えられませんでした。 山名氏と山名豊国 上御霊神社にある応仁の乱勃発地の石碑(京都市上京区 出典:写真ACkimtoruさん) 山名氏は室町時代初期には日本の11カ国の守護に任じられ「天下六分の一殿」と呼ばれ、その後一度勢力は衰退したものの、応仁の乱で西軍の総大将となった 山名宗全(そうぜん)を出すなど、室町時代を代表する名家の一つです。 しかしこの家も応仁の乱を経て衰退し、辛うじて因幡と但馬をその領国としていました。 この後大名としての山名氏は没落し、豊国は江戸時代になって同じ新田氏の血を引くということで徳川家康から厚遇されます。 新田義貞像(東京都府中市、京王線分倍河原駅前) しかしこの豊国、家康から国を失くした粗忽者とたしなめられ、家康の使者として黒田官兵衛のもとに行ったら官兵衛に臆病者と恫喝され顔面蒼白で帰っていったなど、 あまり武人らしい逸話は残されていません。 第三次尼子家再興の戦い~織田信長の配下として 山中鹿介、織田信長と面会する 織田信長 こうして二度目の御家再興も失敗に終わったものの、 そこで鹿介は諦めるような男ではありません。 とはいえ毛利氏の勢力は巨大になっており、単独で事に当たるのはもはや不可能な状態でした。 そこで鹿介は当時日の出の勢いで近畿地方を制圧しつつあった 織田信長に接近します。 そして面会を果たすと信長は鹿介を「良き男」と絶賛し、「四十里鹿毛」という駿馬を鹿介に与えたといわれています。 山中鹿介、明智光秀の与力に加わる 明智光秀 鹿介率いる尼子軍は丹波攻略中の 明智光秀の下で働くことになります。 この当時光秀は織田軍の出世頭というべき存在でしたが、丹波の攻略には手間取っていました。 波多野秀治 というのも光秀は土地の事情に暗く、また赤井直正(あかいなおまさ)、波多野秀治・秀尚(はたのひではる・ひでなお)など武勇に優れた武将が懸命に戦っていたからです。 尼子軍は光秀の陣営に加わると大いに活躍し、光秀の丹波攻略もあと一息のところまでいきます。 すると今度は羽柴秀吉の下で対毛利戦の前線に赴くよう信長は指示します。 美濃の麒麟と山陰の麒麟 この頃の逸話を一つ。 光秀の家臣野々口丹波という男は鹿介と親しくしていました。 ある日その野々口が鹿介を自分の家に招待しました。 鹿介はこれを快諾しましたが、その後で光秀が日頃の活躍を労おうと鹿介に「風呂を炊いたので我が家に(入りに)来ないか」と誘いました。 出典:写真AC ニシさん この当時、目上の者が風呂を沸かして目下の者を自宅に招くというのは最高のもてなしの一つでした。 一方野々口の家は貧しく、せいぜいちょっとした酒肴でもてなすのが精一杯です。 しかし鹿介は「申し訳ございません。 野々口殿と先約がありますのでいけません。 」とあっさり断りました。 光秀は鹿介の律儀な性格をよく知っていましたので、豪華な酒肴を野々口の家に届け、「これで鹿介をもてなしてやるように。 」と伝えたそうです。 山中鹿介、上月城に入る 羽柴(豊臣)秀吉 羽柴(豊臣)秀吉は信長から中国方面(つまり毛利氏)攻略の司令官として播磨(はりま、現兵庫県南部)の攻略を終えようとしていました。 そして播磨と美作(みまさか、現岡山県北東部)、備前(びぜん、現岡山県南東部)の国境近くにある 上月(こうづき)城を攻め落とすと、その城に尼子軍を入れます。 対毛利氏の最前線拠点であり、鹿介以下尼子軍の武勇を買っての配置であったと考えられます。 四度毛利軍と対決する山中鹿介 ここで羽柴軍に異変が起こります。 三木城の 別所長治(べっしょながはる)ら播磨の国人たちが毛利方に寝返ります。 これにより姫路を拠点としていた秀吉の背後が脅かされることになってしまいます。 別所長治 秀吉は状況を打開しようと三木城を攻めますが、この城は播磨でも有数の堅い城であり攻めあぐねます。 (結局秀吉が三木城を降すのには、2年の月日がかかることになります) それと時を同じくして小早川隆景・吉川元春が率いる3万以上の毛利本軍が播磨に攻め込み、上月城を取り囲みます。 孤立無援の上月城 毛利輝元 毛利本軍が襲来したことを知ると、秀吉は1万の軍を率いて上月城救援に向かいます。 しかしこの当時三木城を始め、多くの城が反織田に傾いていたため十分な兵を割くことができません。 そのうえ信長からは三木城の攻略を最優先にせよとの指令が届き、 秀吉は上月城から撤退してしまいます。 秀吉は上月城に籠る尼子軍に早く城を脱出するように手紙で説得しましたが、鹿介らはこれを無視して徹底抗戦の道を選びました。 なぜ尼子主従は脱出しなかったのか? 出典:いらすとや なぜ鹿介たちは上月城から脱出しなかったのでしょうか。 もちろん毛利軍の包囲が厳重で脱出ができなかっただけなのかもしれません。 これは全くの推測ですが、誰かに利用される生活に疲れ果ててしまったのではないでしょうか。 山名豊国に裏切られ、織田信長に見捨てられ、半ば自暴自棄になっていたのではないでしょうか。 出典:イラストAC mono777さん 鹿介のように艱難辛苦に耐えられる人間はともかく、他の人間は武士として美しい散り際を考えたはずです。 鹿介はあくまでも生きる道を主張したことでしょう。 しかし尼子の一門衆らがそれを許さなかったため、主家に従わざるを得なかったのだとと思います。 山中鹿介、散る 出典:写真AC きなこもちさん そしてわずか3千ほどの尼子軍は10倍の敵に懸命に抗います。 しかし70日にも及ぶ抵抗も食料が尽きたことによりピリオドが打たれます。 尼子側は兵の命を助けることを条件に降伏・開城し、尼子勝久以下の尼子氏一門は全員自害します。 そして再び囚われの身となった鹿介も毛利氏の本陣に運送中に暗殺されてしまいます。 これは毛利家の事実上の最高執政官である 小早川隆景の命令であったといわれています。 出典:写真AC KOU2301さん 鹿介が生け捕りにされたということは、脱出の可能性を考えてのことでしょう。 隆景は 鹿介の執念、強さ、そして毛利には決して降らないという堅い意志を知り抜いています。 ですから鹿介を生かしておくことは毛利家のためにならないと判断しての処置だと思われます。 隆景は冷酷どころか、むしろ情の深い武将です。 きっと 「惜しい男よ」と思いながら刺客を送ったのではないでしょうか。 ちなみに本家である義久の子孫は毛利氏の配下として幕末まで家を続けていくことになります。 また鹿介と共に尼子軍で戦った尼子氏の一族にあたる 亀井玆矩(かめいこれのり)は上月城に籠城せず秀吉の側にいたため命を長らえました。 そして秀吉時代になって因幡国3万8千石の大名に封じられ、江戸時代初期に石見国津和野に国替えになったものの幕末まで家を続けています。 鴻池新六(山中幸元) また鹿介の長男 幸元(ゆきもと)は他家に預けられていたため命を長らえ、後に日本で初めての清酒造りに成功して財を成します。 そして名を鴻池新六(こうのいけしんろく)と改め大阪を代表する豪商 鴻池家の祖になりました。 「悲劇のヒーロー」山中鹿介 山中鹿介(ウォルターズ美術館所蔵) 鹿介のどんなに苦しくても辛くても常に前向きに戦って果てる「悲劇のヒーロー」はいつの時代でも人々の涙を誘うものです。 こうして「悲劇のヒーロー」山中鹿介は講談、小説などの格好の素材として取り上げられ、その間に様々な脚色がされていったものと考えられます。 また戦前の教科書にも取り上げられていたそうです。 鹿介の墓所・供養塔・首塚などが8か所もあります。 (参照:wikipedia) それらの多くは鹿介の死後かなり経ってから建立されたものですが、それだけ鹿介の生き様は人々の心を打ったのでしょう。 「忠義」という言葉は現代では死語に等しい言葉です。 しかし 鹿介の力強い生涯は現代でも人々の心に響くのではないでしょうか。 関連する記事• 2019. 29 松永久秀(まつながひさひで)という武将をご存知でしょうか?官職名から松永弾正(だんじょう)としても知られるこの武将は、戦国時代、いや日本史上の悪人とい[…]• 2020. 17 池田輝政(いけだてるまさ)という武将をご存知でしょうか? 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