この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へばを読んだ人物。 「望月の歌」に関する私見|オルタナティブ|note

死の恐怖は富では解決しない!日本人の死生観を時代別に比較

この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へばを読んだ人物

Contents• 藤原家の5男からの大出世 藤原道長=摂関政治で全盛期! というイメージが強いですが、初めからすべてが順調だったわけではありません。 道長は藤原家の5男として生まれました。 これが何を意味するか分かりますか? 当時は、長男から順に家をつぐ権利が与えられました。 つまり、5男である道長にとっては 5番目…ほとんど出世の道ないじゃん! 生れた瞬間から、結構はハードモードだったわけです。 しかし、そんな道長にもチャンスが巡ってくるのです。 なんと、藤原家の家督をついでいた 長男が病気によって亡くなってしまいます。 更には、次に家督をついだ者も病死。 あれよ、あれよと 道長に順番が回ってきたのです。 ここでチャンスを生かし、 きっちりと能力を発揮した道長は ここから出世街道を突き進むことになります。 娘を嫁がせ、外戚となる。 望月の歌を披露 外戚(がいせき)という言葉をご存じでしょうか? これは、 母方の親族のことを表します。 当時は、子どもを母方の親族で育てることが多く その分だけ、母方の親族には力があったのです。 そこでは、道長は自分の娘たちを 次々に天皇の后として送り込んだのです。 すると、天皇と娘との間に子どもが生まれ 道長自身は天皇の外戚として力を増していったのです。 なんと、道長は4人の娘を天皇の后にしているんだよ。 こうして、道長の権力はゆるぎないものになっていました。 ここであの有名な歌の登場です。 3人目の娘が天皇に嫁ぎにいったときに読まれたものです。 スポンサーリンク 摂関政治 藤原道長といえば、 摂関政治ということで ここはテストで点を取るためには必ず覚えておかなければなりません。 摂関政治とは 、摂政と関白が政治の実権を握っている状態のことをいいます。 天皇が幼いとき、代わりとなって政務を行うことを摂政。 天皇が成人したあとも、天皇をサポートすることを関白といいます。 この政治体制は100年ほど前、858年に藤原良房が摂政を始めたことでスタートしています。 なので、藤原道長が摂関政治を始めたというわけではありません。 外戚などで力をつけていった藤原道長、 そして、息子の頼道の時代に権力を高めていって 摂関政治の全盛期を迎えたというわけです。 しかし、藤原道長は摂政を1年ほど行い 関白にはなることはありませんでした。 自身の権力地盤を固め、もう大丈夫だ!と感じてからは 息子の頼道に政治を任せたのでした。 なので、藤原道長=摂関政治というイメージですが 実際には、道長自身はそんなに長く摂関政治に携わっていたわけではないのですね。 望月は欠け、晩年は浄土信仰にすがる まぁ、道長は人生を謳歌したことでしょう。 望月のかけたることもなしと思へば こんな調子こいた歌を披露しちゃうくらいだからね。 しかし、そんな道長にも上手くいかない出来事が起こります。 それは病気です。 道長は晩年、病気に侵され 満足に生活が送れなくなってしまいます。 贅沢三昧をしすぎた影響で、体はボロボロになっていたのではないかと言われています。 病気に侵されてからの日々は 辛く、苦しかったでしょう。 そこで、道長は浄土教をあつく信仰するようになります。 これは 「阿弥陀如来を信仰すると極楽浄土にいける」というものです。 道長は京都に法成寺を建て、そこで阿弥陀仏に囲まれながら余生を過ごしたといいます。 まとめ! 以上、藤原道長のやったこと、出来事についてのまとめでした。 大事なキーワードをまとめておきましょう。 社会の勉強が苦手だ! とにかく覚えられない。 参考書を読んでいても頭に入ってこないんだよ! こんな悩みを抱えている方も多いのではないでしょうか。 それは理解しているんだけど… 山の名前、国の名前、偉人の名前… 参考書を眺めていても、想像力が働かなくて ただの文字としてしか頭に入ってきません。 これでは、ただの暗記であって 知識にはなっていないのです。 にもかかわらず、ほとんどの社会の参考書は 大事なポイントが文字でまとめてあるばかり。 社会が苦手な人にとっては、マジ苦痛ですよねw と、まぁ 参考書を眺めてばかりで 一向に理解が深まらなかった私は 社会の学習を半ば諦めていました。 しかし ちょっと学習する方向性を変えてみました。 すると! 楽しいくらいに理解が深まるようになってきました。 参考書では学ぶことができなかった 深い部分までの理解、そして知識のつながりが 頭の中にすっと入ってくるようになったのです。 理解が深まってくると、学ぶ意欲も高まり どんどんと積極的に社会を学ぶようになりました。 こうなってくると、参考書に書いてあった 今まではただの文字としてしか認識できなかった情報も サクサクと理解できるようになってきました。 こちらのスタディサプリという学習コンテンツを利用して 社会の授業を聴くことにしました。 > プロの社会講師が授業をしているので 話が面白い!! 雑学的な感じで、いろんな知識を話してくれるので どんどんと興味がわいてきて 知識欲が深まってきます。

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藤原道長の「この世をば」わが世とぞ思ふ 望月の かけたること...

この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へばを読んだ人物

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば この世は自分のためにあるようなものだ、足りないものはなんにもないぞ、というような意味で、まぁかなり調子に乗っています(笑)でも調子の乗ってもいいほど権力を持っていたことも事実です。 天皇と姻戚関係を結び、政治の実権を握った藤原氏は栄華を極めていました。 このお父さんと共に政治に関わり、活躍していたのが藤原頼通さんになります。 関白という政治的に重要なポジションに、なんとこの方50年も務めた凄い人なんですね。 父の道真さんと共に藤原氏の全盛期を支えた功労者だと言えるでしょう。 平等院鳳凰堂が建立された時代 鳳凰堂/より引用 平等院鳳凰堂がある宇治は平安時代、貴族の別荘地として賑わっていた場所であり、もともと平等院もお寺ではなく別荘だったのです。 何人か持ち主が変わり、父である藤原道長が手に入れ「宇治殿」としました。 元の持ち主に源氏物語のモデルになったと言われる源融(みなもとのとおる)がいます。 道真が亡くなってから頼通がお寺にしたのが平等院の始まりです。 1052年にお寺にして、翌年1053年に阿弥陀如来像を置く阿弥陀堂(現在の鳳凰堂)を建てました。 お父さんが別荘として使っていた建物を息子がお寺にしたというわけですね。 当時は末法思想(まっぽうしそう)という、お釈迦さまがいなくなってから2000年経過すると仏教の教えが廃れてしまい、世の中が乱れるという思想があり、とくに1052年が末法元年とされていたので人々の不安感はかなりのものだったでしょう。 治安の悪さや天災がさらにこの思想を広めていきました。 そして人々は極楽浄土を願うようになり、極楽へ導いてくれる阿弥陀如来を本尊とするお寺が盛んに建てられたのです。 そんな頃に頼通は鳳凰堂を建てました。 ただ、現在では特定の宗派に属さないお寺となっています。 鳳凰堂と呼ばれ始めたのは江戸時代からで、建物の形が伝説の鳥である「鳳凰」が羽を広げた姿に似ているということから、鳳凰堂と呼ばれるようになりました。 こちらの動画ではライトアップされた平等院鳳凰堂が撮影されています。 時間は短いですが、圧倒的な外観を拝めることが出来るのでぜひ見てみてください。 藤原頼通という人 藤原道長の長男として生まれ、26歳で最年少摂政を務め、長いあいだ政治に関わってきましたが、お父さんのように天皇と姻戚関係を上手く結ぶことができませんでした。 藤川氏は天皇に娘を嫁がせることで、生まれた子が天皇になれば親戚として政治の実権を握れる摂関政治(せっかんせいじ)を行ってきましたが、藤原頼通は嫁がせた娘に男の子が誕生しなかったことで、晩年は段々と権力がなくなってしまったのです。 しかし末法思想という悲観的な思想が流行した時代ですが、頼通さんは83歳まで生きています。 かなり長生きですよね。 しかもお姉さんである藤原彰子さんも87歳、弟である藤原教通さんも79歳まで生きているので、長生きの遺伝子でも持っていたのでしょうか。 ちなみにお姉さんの藤原彰子は天皇に嫁ぎ、周りには源氏物語の作者として有名な紫式部がいました。 まとめ 平等院鳳凰堂を作った人は藤原頼通さんという方で、お父さんと共に藤原氏の繁栄を支えた人物です。 10円玉に描かれる平等院鳳凰堂を建てたと同時に、優れた政治家でもあった頼通さんはとても長生きして生涯を全うされました。 今でも83歳って長生きの部類に入りますが、それを平安の時代に兄弟揃って長命ってすごいですね。 しかもただ長く生きただけではなく、現代にまで残る文化財を残した功績は素晴らしいと言えるでしょう。 平等院鳳凰堂は京都府宇治市にありますので、機会があれば行ってみて、藤原頼通が一体どんな風に過ごしていたのだろうかと思いを馳せてみるのもいいかもしれませんね。

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藤原道長にまつわる逸話7選!平安時代の最高権力者の素顔に迫る本も紹介!

この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へばを読んだ人物

藤原道長 出典:Wikipedia この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば どうして道長はこの歌を詠んだのか、そしてどうしてこの歌が残ったのかについて見てみます。 歌の意味 「この世は自分(道長)のためにあるようなものだ。 望月(満月)のように足りないものはなにもない」 現代語訳するとそういう意味です。 自信満々で、満足しきっている様子がありありの歌ですね。 人が「この世の中は自分のためにある」と公言できる状態というのはそうそうあるものではありません。 栄耀栄華を極めた藤原氏のトップですから気持ちは分かりますが、それを口に出してしまうところに奢りが感じられるのです。 だれが伝えた? 藤原道長について伝える書物や記録は複数あります。 しかし、道長の栄華を描いたという『大鏡』や『栄花物語』などいずれの書物にも「この世をば」の歌は取り上げられていません。 道長本人が記した『御堂関白記』にさえも歌は書かれていません。 この歌は右大臣になった 藤原実資 ふじわらのさねすけの日記 『 小右記 おうき』(しょうゆうき)にだけ登場し、注目された歌です。 歌われた場所と状況 この歌が詠まれたのは1018年。 場所は道長の邸宅です。 実はその年の3月に道長の三女の 威子 いしが、11歳になった後一条天皇の中宮(天皇の后)となったのです。 そのお祝いをするため多くの貴族たちが集まり、宴会が催されました。 宴もたけなわとなったところで道長は即興で藤原実資に向かって「この世をば」を詠んだのです。 まあ、いわば気分よく酔っぱらった勢いで、ついつい本音が歌に出てしまったという感じでしょうか。 通常、礼儀としては実資が歌を返さなければなりません。 しかし彼は丁重にそれを断り、代わりにその場の一同で一緒にこの「名歌」を声を揃えて詠ずることにしようと提案。 そしてその場の客人一同が声に出して繰り返したのです。 藤原道長の傲慢の理由と冷ややかなライバル なぜ道長は実資に向かってその歌を詠んだのでしょうか? 実資はなぜ道長のその歌に返歌せず、日記に書いたのでしょう? 道長が歌をうたった背景とは 道長が傲慢になるほど喜んだのには理由がありました。 道長は三女の威子の前に、 彰子 しょうしを一条天皇の后に、そして 妍子 けんしを三条天皇の后にさせました。 実に一家で三人の娘を天皇の后にすることに成功したわけです。 それはつまり貴族の中の藤原氏、そして藤原氏の中でも道長の家系が天皇家と混じり合って深く繋がり、権力がますます強大になったことを示していました。 だからこそ道長はもう「欠けたものは何もない」と言ったのです。 冷ややかな批評家・ライバル藤原実資 その歌を聞かされて日記に記したのは前述の藤原実資。 権力に媚びない良識人として知られた人物です。 学問に秀でており、 有職故実 ゆうそくこじつ(朝廷の礼式・法令などの古来のきまり)に非常に詳しく、朝廷にはなくてはならない人物でした。 しかも実資は藤原北家嫡流で莫大な資産を持った小野宮流を継承した公卿。 本来は分派である九条流の道長の家系より格上だったのです。 つまり彼は道長のライバル。 しかし、格下だった道長の栄達に嫉妬するような人物でもなく、ただ相手が誰でも理不尽なことは許せないタイプの人だったようです。 実際、彼は道長の政治力については認めていました。 また道長も朝廷が彼なしには回らないことを悟っており、一目おいていた、という友好的ながら緊張感のある関係です。 多くの人々が道長にこびへつらう中、良識に乗っ取って正面切って異を唱えることのできたのは、この藤原実資だけ。 奢った行いをする道長に対して批判や抗議することが何度もありました。 あの宴席で、(おそらく)酔った勢いのため自慢たらたらな歌をうっかり作ってしまった道長。 そんな歌に返歌をしなかったところに実資の心中が窺えるというものです。 おわりに この時以外にも藤原実資は何度か道長に批判的な行動をしたり、書いたりしています。 道長も選んだ相手が悪かったようですね。 こうして道長の歌は実資の日記「小右記」に書き残され、1000年後の彼のイメージを形作ってしまったんですから。 関連記事 >>>> その他の人物はこちら 平安時代に活躍した歴史上の人物 関連記事 >>>> 時代別 歴史上の人物 関連記事 >>>>.

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