鎌倉 幕府 滅亡。 悪党とは?わかりやすく紹介【鎌倉幕府の滅亡を悪党から考えてみる】

鎌倉幕府滅亡の原因・理由をカンタン解説!滅ぼした人物は新田義貞

鎌倉 幕府 滅亡

で、挙兵の報を知り急ぎ軍勢を召集し北条高時の弟・泰家に一万騎をつけ新田軍を迎え撃ったが、 新田軍はこれを破りさらに南下 撃破し、幕府軍は多摩川の分倍河原(ぶばいかわら)に後退した は、急ぎ軍勢を召集し、の弟・泰家を大将として、一万騎の幕府軍が応援に派遣した。 一方新田軍は、途中で呼応した武士を集め、1万数千騎となっていた。 新田軍と幕府軍は分倍河原で初めて大軍同士が激突した。 多摩川を背にして後がない幕府軍は、決死の勢いで戦い、新田軍は入間川まで後退した。 しかし 新田軍に味方する武士が増え、翌16日、新田軍は幕府軍を圧倒し、再び南下した分倍河原で激しい戦闘となり双方で数千人の死傷者が出たほどであった。 さらに関戸河原にまで南進した。 ついに幕府軍は敗れ北条泰家はわずか500騎で、辛くも鎌倉へ逃げ帰った。 鎌倉は南が海で、東西は山に囲まれたであり、鎌倉へ入るには、、、、、、の7ヵ所だけであった。 従ってこの7ケ所を守れば鉄壁の要塞となった。 双方ともこの切通しの攻防が中心となった。 特に化粧坂、極楽寺坂は激戦地となった。 鎌倉攻防の戦いは5月18日から開始され、22日にから鎌倉へ突入し、鎌倉は火の海となり、で北条一族自害し、150年続いた鎌倉幕府は滅亡した * 下記の地図上の丸NO部分のクリックで詳細をご覧いただけます.

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鎌倉幕府の滅亡

鎌倉 幕府 滅亡

1192年に源頼朝によって作られた鎌倉幕府は、その後北条氏の執権政治によって約200年以上も幕府体制が続きました。 ですが1333年に後醍醐天皇の倒幕軍によって、 たった一年のうちに滅亡してしまいます。 鎌倉幕府は京都の雅な貴族文化から離れて、当時は田舎だった関東に関東武士達が作り上げた独立自治国家でした。 それまで主流だった華美ながらも静かな京文化とは異なり、荒々しく粗野な独自の鎌倉文化を花開かせていきます。 文化面でも鎌倉幕府による武士の政権の誕生は、運慶や快慶等、新しい美術を日本に誕生させるきっかけにもなりました。 そうして独自の鎌倉文化も栄えて、鎌倉の街の周辺には多数の寺院が作られたりしていた鎌倉幕府が、 どうしていきなり滅亡してしまったのでしょうか? その理由は、 御家人達への冷遇、 経済政策の失敗、 疑心暗鬼が大きな要因となっています。 ここでは鎌倉幕府が滅亡してしまった理由や、滅亡までの流れを解説していきましょう! 目次• 関東武士は戦好きで争いが絶えなかった 承久の乱により京都の公家から政治の実権を完全に関東の鎌倉幕府が奪い取り、北条氏による執権政治が確率していきます。 鎌倉幕府が出来た当初は、 鎌倉幕府を作り上げた御家人達みんなで政治を行っていました。 ですが源氏将軍の時代が終わると同時に、次第に鎌倉幕府は 北条氏による一族独裁の執権政治へと移っていきます。 北条氏の独裁体制が出来上がった一つの理由としては、当時争いを好まない京都の公家の文化に比べ、 関東の武士達のとても好戦的な性質があげられます。 公家の政治では合議制で話し合い、互いに意見の相違があっても、武力を使った喧嘩には簡単にはなりませんでした。 平家一族が京都に築いた最初の武家政治体制では、場所が京都だった事もあり、非交戦的な公家文化が色濃く反映されていました。 ですが一方の関東の武士達は武士という職業上、当初公家に使えて争いを武力で片付ける実働部隊を生業にしていた事もあり、 自分達の中で争いが起こった場合には仲裁する者がいなくて簡単に武力による争いが起こってしまいました。 鎌倉幕府が出来た最初の頃は、まだ御家人同士の互いの力関係も拮抗していました。 その為、頼朝の妻が北条政子と言うだけで絶大な発言力を持っていた北条氏も、武力の面ではまだまだ弱く、 他の御家人達からはいつかは狙われ滅ぼされるかもしれない対象だったのです。 鎌倉幕府や武士が、武力で相手を滅ぼす理由 鎌倉幕府を収める上で、最初の頃は源頼朝や大江広元等の有力な武将の発言力が絶大だった為、安易に御家人も逆らいませんでした。 でもやがて頼朝や昔からの家臣達が居なくなると、次第に政治の方針の違い等で意見の相違が出て来る様になります。 今の様に議会制民主主義等無い時代だったので、 自分の言う事をきかない相手を武力で潰しにかかるのは、当時の関東武士達の考えとしては比較的当たり前の事でした。 ましてや家柄と武力こそが全てだった時代に、北条家よりも武力で勝っている御家人達は、執権である北条一族に対して不満が溜まっていきました。 こうして鎌倉幕府の実権をめぐり 執権の北条氏を倒そうとする戦いや、北条氏による軍政全般を担当していた和田氏等の他の 有力な御家人達を倒す戦いが繰り広げられていきます。 ライバルを倒して政治と軍事の実権を握ると、鎌倉幕府の北条一族による執権政治が本格的に始まりました。 それでも関東以外の武士達にとっては鎌倉の政治がどうであろうと、 自分の領地と褒美さえ出れば特に誰が収めていようが関係なかったのです。 つまり武士にとっては誰が自分の主であろうと、自分の所領を安堵してくれる人がいれば、政局で誰が滅んでも 自分の領地が守られるのであれば誰も構わない というのが、武士達の本音でした。 こうした事から、北条氏による政治も鎌倉幕府の中期頃までは上手く行っていました。 何故なら北条氏が独裁政治を進めて、ライバルをどんどん滅ぼしていった事により、ライバルの御家人は自分の領地を持っていましたから。 北条氏はその領地を手に入れると同時に、戦で手柄を立てた者達等への褒美に奪った領土を与える事が出来たからです。 滅ぼした相手の領土を与える事で、御家人の社会保障が補われていた中で、鎌倉時代の中期に大きな転機が訪れます。 それが モンゴル帝国の襲来、所謂元寇の乱です。 ですがこの戦いの一番の問題点は、 戦いが終わっても得るものが全く無い戦いだった事にあります。 命をかけて戦った戦に勝った場合は、武士には必ず褒美をあげなければいけませんでした。 そうしなければ、臣下の武士達は主についていかないからです。 今までの戦では敵を滅ぼし、 相手の領土や財産を奪い取る事で、功労のあった者達への褒美にする事が出来ました。 でも元寇の乱では、戦いに勝っても得るものが全く無い戦いだったため、関東武士と九州の武士達への褒美が無く、鎌倉幕府はその対応に四苦八苦する事になります。 崩れゆく鎌倉幕府の社会保障 実際にこの戦いに大勝利しても、鎌倉幕府には大勢の武士達に褒美を与える、 財力も領土もありませんでした。 また御家人の中でも比較的貧しい経済状態の人々は、戦費を賄うために土地を質にして手放したり、商人から多額の借金をして武具を整えて戦にのぞんでいました。 また鎌倉幕府の時代には、土地の相続が分割相続制になっており、長男を優遇して残りは一族の男女共平等に分配されていました。 鎌倉幕府が百年以上経った後に、先祖から受け継いだ土地は加増される事も無く何代にも渡って兄妹に相続分配されて行った為、元寇の乱の時代には多くの零細中小御家人が日々の生活にも困る様な状態でした。 鎌倉幕府はこうした中小零細御家人達を救う為に、 一つの秘策を打ち出す事になりました。 それは御家人の借金や担保に取られて奪われた土地を帳消しにするという、いわゆる 徳政令です。 永仁の徳政令 これ以前にも鎌倉幕府は徳政令を発布していましたが、この1297年(永仁5年)の北条貞時が発令した 永仁の徳政令が一番有名です。 徳政令によっていままで担保にとっていた土地を、無条件で返さなければいけなくなりました。 当然金を貸していた商人達は取り立てが出来なくなり、貨幣経済への混乱を生んでしまう事になりました。 民衆の心が次第に鎌倉幕府から離れていった 鎌倉幕府が滅んだ理由の一つに、民衆の気持ちが鎌倉幕府と北条一族による独裁執権政治から離れていった事が大きく影響しています。 それは鎌倉幕府が、 中小御家人と民衆を救済しなかった事が大きいと思われます。 モンゴルの脅威が現れてから鎌倉幕府の時代も中期以降になると、次第に世の中が乱れてきます。 次第に民衆の心が、様々な新興宗教へと救いを求めていくようにもなりました。 元々今よりもスピリチュアリズムが真面目に扱われた時代に、神社仏閣での加持祈祷は本気で行われていました。 実際に元寇の乱では日本中の主な神社仏閣に、蒙古撃退の加持祈祷が幕府の命令で出され、見事撃退に成功すると、加持祈祷を行った神社仏閣が鎌倉幕府に恩賞を求めて来ました。 そんなスピリチュアリズムを真っ向から否定し、現実主義で理論的に 鎌倉幕府を批判した日蓮は江ノ島の龍ノ口にて処刑されてしまいます。 この鎌倉幕府の行った事が逆に後に日蓮宗を勢いづかせる事になっていきました。 民衆の鎌倉幕府に対する不満は、徐々に高まって行きました。 それと同時に一部の破産した零細御家人達と共に、 悪党と言われる独立犯罪集団も結成されていきました。 こうした悪党集団は後世鎌倉幕府倒幕の原動力になっていきます。 そしてやがて 幕府を倒す倒幕の軍勢によって、滅亡する事になるのです。 鎌倉幕府が滅んだ主な3つの理由 鎌倉幕府が滅亡してしまった主な理由は、これまで語ってきた流れを元に、次の3つがあげられます。 御家人達への冷遇、 経済政策の失敗、そして 疑心暗鬼です。 御家人達への冷遇 北条執権制度によって鎌倉幕府の権力者になれる者は、執権には北条氏の得宗家、そしてその周囲には北条の他の一門。 又は譜代の御家人達のみで構成され、普通の武士や中小の御家人達は、 全く鎌倉幕府の政治には関与すら出来ませんでした。 加えて 権力の一極集中によって身内を優遇するあまり、鎌倉の外で起こっている事の把握が出来なくなっていきました。 それにより鎌倉幕府というより、北条一族への怒りが、徐々に蓄積されていく事になっていきました。 やがて、かつては自分達の土地を守って認めてくれる存在だった鎌倉幕府から、もっと他の誰かに代わってくれた方が良いのではないかと、一所懸命に生きる武士達は思うようになっていくのでした。 経済政策の失敗 武士達の経済は基本的に貨幣では無く、土地と米で動いていました。 武士は土地を持ち、その土地から米を得ます。 その米を売って生活費に当てるので、遺産相続の毎に兄弟人数分に分割され、代毎に土地がすり減る仕組みでは、新たに土地を得ない事には元々成り立たない仕組みでした。 そこに蒙古襲来という大戦が起こり、中小御家人達の生活は、 戦費を生み出す事で事実上壊滅してしまいます。 そして 、徳政令が発布される事で貨幣経済のバランスもおかしくなり、今度は商人達も資金取りが立ち行かなくなり、両方の面で 鎌倉幕府の経済は破綻してしまいました。 疑心暗鬼 合議制で話し合う議会制の様な仕組みが無く、まだ意見の相違は刃を交えて決着をつける様な時代に、 相手を従わせるものは武力と権力がメインでした。 敵を滅ぼした北条一族も、途中からは一族同士で戦い合い、執権政治をめぐる権力闘争が激化していきます。 そして、すでに京都では倒幕の運動が現実化していた中にあっても、鎌倉幕府が滅亡する数年前まで続いていました。 最後は一味散々!東勝寺の悲劇 北条一族が腹を切った東勝寺跡。 腹切りやぐらとも呼ばれています。 最後の最後まで鎌倉幕府の北条執権政治は、誰も信用する事が出来ないまま滅亡していきました。 新田義貞が倒幕の軍勢で攻め寄せて来た、年表の語呂合わせでも有名な1333年。 北条一族は最後迄付き従った約800人と共に、 北条一族ゆかりのある東勝寺にて全員自害して果ててしまいます。 鎌倉幕府は北条一族による内部抗争の歴史でもありましたが、 皮肉な事に最後の滅亡の時だけは、北条一族が一同に集まって最後の時を迎える事になるのでした。 鎌倉幕府が滅亡した理由 まとめ 今回は鎌倉幕府が滅亡した原因と、その理由を解説致しました。 御家人達が朝廷からの独立を夢見て作られた鎌倉幕府は、結局最後には夢を作りあげた同じ御家人の手によって、滅亡させられてしまいました。 北条一族が自害した、東勝寺跡や腹切りやぐらは今でも鎌倉に残っています。 鎌倉各所に今も残る史跡を訪ね歩く事で、当時御家人達が夢みた姿を、こんどはあなた自身の目でもう一度発見し、ふれてみては如何でしょうか。

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鎌倉幕府の滅亡

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北条氏得宗の専制政治 山川出版社の高校教科書『詳説日本史』で鎌倉幕府が倒れた原因としてあげられているのは、次の三点です。 1)蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。 2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。 3)畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。 このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます御家人の不満をつのらせた この中でもっとも重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況でしょう。 最後の執権となる北条高時の時代、得宗の家人の第一人者である「内管領」長崎高資が権勢を振るいます。 これが御家人の反発を生み、倒幕運動が起こったということになります。 鎌倉幕府が倒れた背景には、ここであげたような歴史状況があったことは確かです。 しかし、実際に倒幕の核となる存在が現れないと、なかなか倒幕などできることではありません。 そこで登場したのが、後醍醐天皇です。 後醍醐天皇の権力掌握の野望 当時、天皇家では、後嵯峨天皇の子の代に、またしても皇位継承の争いが起こっていました。 詳しい説明は省きますが、後嵯峨の死後、後深草上皇の皇統と、亀山天皇の皇統が並立し、幕府の調停でそれぞれの皇統が交代で皇位に就く両統迭立という方式がとられていました。 後深草の皇統は、院御所の持明院殿に住んだので持明院統と呼ばれ、亀山の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだので大覚寺統と呼ばれます。 両統迭立は、スムーズに実現していたわけではなく、両統が幕府に積極的に働きかけ、できるだけ自分に都合のよい結果を得ようとしていました。 亀山の後、同じ大覚寺統の後宇多が天皇になり、その後、伏見、後伏見という持明院統の天皇が続きます。 後伏見の後は、大覚寺統の後二条が天皇となり、次は持明院統の花園が天皇となります。 そして、その次の天皇が大覚寺統の後醍醐です。 しかし、大覚寺統では後二条が直系と見なされており、後醍醐は中継ぎの天皇にすぎません。 そのため、皇太子には後二条の皇子である邦良親王が立てられ、後醍醐は、退位した後は後宇多から譲られた所領をすべて邦良に譲り、後醍醐の子どもたちも邦良に仕えることにされていました。 大覚寺統で皇統が続くわけですから、当然、持明院統は抵抗しました。 しかし、邦良の後は持明院統の後伏見の皇子、量仁親王が立つということで、妥協したのです。 ところが、後宇多法皇が没すると、風向きが変わってきます。 祖父後宇多の後ろ盾を失った邦良側は、後醍醐に早く譲位してもらって皇位を確保したいと考え、持明院統も、邦良が即位すれば量仁が皇太子になるので後醍醐の譲位を望みます。 後醍醐は、大覚寺統からも持明院統からも攻撃される立場になりました。 もし後醍醐が直系の天皇であれば、譲位して院政を敷くこともできます。 しかし、後醍醐にその選択肢はなく、自らの皇統を続けていこうとすれば、あくまで皇位にとどまるしかありません。 その最大の障壁が、両統迭立を支持する幕府だったのです。 そこで、後醍醐は、腹心の公家、日野資朝・俊基らに各地の武士を勧誘させます。 しかし、これは京都の幕府の出先機関である六波羅探題に察知され、資朝らはとらえられます。 これが正中の変です。 正中3年(1326)、邦良が没すると、後醍醐は皇子の世良親王を皇太子にしようとしますが、持明院統の巻き返しによって量仁が皇太子になります。 後醍醐は、皇子の尊雲法親王(後の護良親王)を天台座主(天台宗の総本山・比叡山延暦寺の住職)とし、僧兵勢力を頼ろうとします。 こうした動きに危機感を持った大覚寺統側の腹心、吉田定房は、後醍醐の動きを幕府に密告します。 これは理解できるところです。 後醍醐が無謀な挙兵をすれば、大覚寺統そのものが倒れてしまうことにもなりかねないからです。 定房は、それに恐怖感を持ったのでしょう。 元徳3年(1331)4月、日野俊基らは再び六波羅探題に捕らえられ、鎌倉に護送されます。 後醍醐は、笠置山(京都府笠置町)で挙兵しますが、幕府軍に包囲されて捕らえられます。 後醍醐は皇位を廃され、隠岐に流されることになりました。 後伏見上皇の院政が始まり、量仁親王が皇位について光厳天皇になります。 こうして見ると、後醍醐は、自らの皇統を伝えようとするあまりに、それまでの朝廷や幕府の合意をことごとく打ち破ろうとしています。 そしてそれが受け入れられないと見るや、挙兵して実力でそれを実現しようとします。 しかし、当時、朝廷にはなんら軍事力はなく、軍事はすべて幕府に委ねていました。 そうした状況で挙兵するというのは、どう考えても常識外れでした。

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