石油 危機 と は。 原田武夫氏の予測 中東戦争による石油危機は日本デフォルトを誘発!?

【石油危機の語呂合わせ】年号(1973年)の覚え方を紹介!【おすすめ5選】

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これにより、安価な石油で工業化を進めてきた先進国は、経済が低成長に陥る。 以後、逆オイルショックを経て、原油価格の決定権は市場に移っていく。 戦況が明らかになった翌17日、緊急会議を開いた アラブ石油輸出国機構 OAPEC は、イスラエルを支援するアメリカとオランダへの原油輸出停止と、非友好国に対する輸出制限を発表した。 この石油戦略の発動を受け、非友好国に指定された日本では 狂乱物価と呼ばれるパニックが起き、アメリカは国連安保理で停戦決議を急いだ。 西側諸国は経済に大打撃 これに前後して、 石油輸出国機構 OPEC も原油も原油価格の引き上げを決定し、74年1月までに原油価格は4倍になった。 これまで安価な石油で工業化を進めてきた西側先進諸国の経済は大打撃を受け、各国は戦後初のマイナス成長を記録した。 西欧諸国や日本の高度経済成長は終焉を迎える事となった。 石油価格の決定権を巡るメジャーと産油国の争い この 石油危機 オイルショック は、石油の価格決定権が、「 セブンシスターズ」と呼ばれる欧米の 国際石油資本 メジャー からOPECの手に移った事を示している。 そのOPECが結成されたのは1960年の事である。 それ以前は、メジャーが原油の公示価格なるものを設定して原油収入を産油国と折半していた。 50年代末には大油田の発見などで需要が緩み、原油の実勢価格が公示価格を下回るようになる。 この実勢価格の下落分は全てメジャーが被る事になる為、メジャーは59年と60年の2度にわたって公示価格を引き下げた。 資源ナショナリズムが高揚していた産油国は、このメジャーの価格支配に対抗すべく、OPECを結成したのだ。 石油市場を取り巻く需給の変化 ただし、当時の石油市場は供給過剰状態であり、たとえOPECが原油価格を引き上げてもOPEC以外からの供給で需要が賄えた為、あまり成果を上げられなかった。 しかし、70年代に入ると状況は一変する。 西欧や日本が高度経済成長を遂げると共に石油需要は急増し、需給が逼迫しつつあった。 逆オイルショック こうして石油価格の決定権を握ったOPECは、加盟各国に生産枠を割り当て、最大の生産能力を持つ サウジアラビアが「スイング・プロデューサー」という需給調整役を務める事で、価格を維持した。 ところが、OPEC加盟国には生産枠を守らずに密かに増産する国も多く、サウジアラビアだけが減収を余儀なくされた。 これに耐えられなくなったサウジアラビアが86年委調整役を放棄した事で、原油価格は急落。 この 逆オイルショック以後、 原油価格の決定権は市場に移っていった。 石油年表 西暦 出来事 1955年 ソ連が原油輸出開始 1960年 石油輸出国機構 OPEC 創設 北海油田発見 1968年 アラブ石油輸出国機構 OAPEC 創設 1973年 第一次石油危機 第四次中東戦争に際し、OAPECがイスラエル寄りの国に対する原油輸出禁止措置を発動。 同時にOPECが原油公示価格を大幅に引き上げた事で、主な原油消費国である西側先進国の経済は打撃を受けた。 1979年 第二次石油危機 1978年に起きたイランでの石油労働者のストライキ、さらには翌年のイラン革命後に起きたイラン・イラク戦争の影響で、原油のスポット価格 長期契約を除いた現物市場での価格 が急上昇した。 1983年 ニューヨークやロンドンで原油先物の取引が開始 1985年 逆オイルショック 需給の調整役としてOPECの定めた公式販売価格を固守していたサウジアラビアが、減産による原油収入激減に耐えられなくなり、原油の増産と、市場に連動した価格での販売を宣言。 原油価格が急落した。 1987年 OPECが固定価格制の復帰と生産上限枠の設置を開始 1991年 湾岸戦争勃発.

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コロナとサウジの増産が早めた石油危機|日経エネルギーNext

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<概要> 1973年10月、第四次中東戦争が始まった。 これをきっかけにアラブ産油諸国(OAPEC)は原油の生産制限などを実施した。 さらに(OPEC)は、原油価格の大幅な引き上げを行った。 次いで78年秋、イランに政変が起こった。 このイラン情勢に伴う石油需要の逼迫に伴って、原油価格は急騰した。 この二回のは日本の経済、社会を直撃した。 そのため、脱石油、省エネルギー政策に力が入れられるようになった。 <更新年月> 2005年04月 (本データは原則として更新対象外とします。 ) <本文> 原油輸入価格の推移をに示す。 (a) 第一次石油危機 1973年10月6日に、アラブ諸国とイスラエルの間で第四次中東戦争が始まった。 これにより(OAPEC:Organization of Arab Petroleum Exporting Countries)は、原油の生産制限などを実施した。 さらに石油輸出国機構(OPEC:Organization of Petroleum Exporting Countries)は、原油価格の大幅な引き上げを行った。 この結果、1当たり2ドル台だった公示価格が、1974年1月から一気に11ドル台にまで達した。 これが第一次石油危機である。 この石油危機で、日本は大きな打撃を受けた。 高度経済成長を続けていた日本の産業界は、エネルギー源の大半が石油で支えられていただけに深刻な事態となった。 第一次石油危機の前まで(経済成長率GDPを1%押し上げるのに必要なエネルギーの増加率)が1. 1〜1. 2であり、石油弾性値(経済成長率を1%上げるために要する石油の増加率)で見れば1. 6〜2. 5であったことからも、石油への依存度がいかに高かったかわかる。 そこに石油危機が起こったのである。 もはや、「安い石油をふんだんに使って」経済を成長させることはできなくなった。 (b) 第二次石油危機 1978年秋、イランの政変をきっかけに、石油需要が逼迫した。 OPECは1979年の原油価格を四半期ごとに引き上げる方式を決めた。 同時にOPEC加盟国は、自国の状況に応じてマーケットプレミアムを加えることができるようにした。 その後、加盟国は一方的にプレミアムを付加したため、無秩序状態になって原油価格は暴騰した。 1979年6月には販売価格が18ドルに、同年の11月には24ドル、1980年1月に26ドル、4月に28ドル、そして8月にはついに30ドルの大台を超えた。 これが第二次石油危機である。 (c) 1980年代以降の石油情勢 石油ショックの1973年以降、それまで世界の原油増産の原動力であった中東地域の生産量が世界の生産の伸びに比して、1979年まではほぼ横ばいで推移してきたが、1980年以来減少に転じており、1985年平均で963. 6万バーレル/日まで落ち込んだ(なかでもOPECの原油生産は著しく減少し、世界に占めるOPECのシェアは1985年には30%になった)。 このことは、景気の停滞に伴い石油需要がこれまでのように急速に伸びなかったこともあるが、北海、アラスカ、メキシコ等の非OPEC地域からの供給増、また、石油代替エネルギー開発・導入、省エネルギーの推進等を反映したものと考えられる。 しかしその後、1980年代後半になると、石油の低価格等を受けて需要が増勢に転じ、非OPEC、非中東地域の供給が横ばいであったことから、中東地域の世界原油生産に占めるシェアは増加し、1992年には40%を超えており、1998年には41. 9%まで達している。 また、2003年の最新データではOPECは39. 7%、非OPECが46. 4%でOECDが27. 0%のシェアとなっている。 世界の原油生産実績の推移をに、日本が輸入する原油の供給国別原油輸入量の推移を、に示す。 (d) 社会的影響 第一次石油危機は、消費者を不安に陥れた。 根拠のない噂がパニックを引き起こすことになった。 その典型的な例が、トイレットペーパーや砂糖、洗剤などの買いだめである。 このパニックは、浮足立った消費者だけの責任とはいえない面もあった。 メーカーや商社の操作によるところも大きな要因だったのである。 便乗値上げである。 これに対して消費者からの批判が起こり、大衆薬や食品の値上げ撤回などの動きもあった。 一方、石油危機をきっかけとして、エネルギーを節約しようとする気運が生まれた。 町のネオンが消され、テレビの放送時間も短縮された。 また、燃費のよい車や電気をあまり使わない製品に人気が高まったこともあって、産業界も国民の要求に合わせた商品づくりに努力するようになり、省エネルギー技術が急速に進んだ。 (e) 石油危機対策 これより先、1971年2月にペルシャ湾岸産油6カ国と国際石油会社との間で、テヘラン協定が締結され、先進石油消費国における石油の安定供給に対する不安感は高まっていた。 第一次石油危機後、1974年に、OECDの下に設置されたIEA(International Energy Agency:)は、加盟各国が石油融資スキームの前提条件として90日備蓄増強計画を1980年度までに達成することを義務づけた。 日本国政府は、1975年度を初年度として毎年度5日ごとの積み増しを行い、1979年度末に90日備蓄を達成することを目標に、90日備蓄計画を策定した(参照)。 この様な動きとは別に、政府や産業界は、石油危機をきっかけに体質の改善に努めた。 一つは省エネルギーであり、一つは脱石油である。 これらの政策はかなりの効果をもたらした。 省エネルギー技術は予想以上に進歩し、「省エネは、ここ15年ほどの間で最大の新エネルギー源だった」とさえいわれた。 たとえば、エネルギー多消費産業の典型であった鉄鋼業では、エネルギーロスを改善するための各種の技術が登場した。 また輸送面でも高効率エンジンの開発がなされた。 石油からの脱却の点では、鉄鋼などのエネルギー大口需要の部門で石炭が見直され、電力では原子力のウエイトが高まっている。 これらの結果、日本の原油輸入量は減少か横ばいの状態が続いてきた。 エネルギー弾性値も石油弾性値も大きく低下した。 ただし、1980年代後半ごろから再びエネルギー需要の増加が見られるようになっている。 内需拡大による好景気によるものだが、一方で省エネルギーへの関心が薄れていることも無視できない要素である。 さらに、アジア諸国の経済成長や東欧諸国での民主化によって、近い将来に再び石油需給が逼迫してくるとする見方が現実味を帯びてきている。 (f) 産業構造の転換 日本の高度経済成長は、重厚長大産業を中心にしてなし遂げられたといってよい。 つまり、大量のエネルギー消費で支えられた成長だった。 石油危機は、このような体質の日本に最も深刻な影響をもたらした。 政府は11業種に対する電力、石油10%削減措置、石油二法の成立による一般企業への電力、石油20%削減などの対策を実施した。 このような政府主導型の対策とは別に、エネルギー高騰・逼迫状態は、企業の体質改善を促し、同時にエネルギー大量消費型の産業から省エネルギー型産業への構造転換を促した。 その結果、マイクロエレクトロニクスなど、軽薄短小型産業の比重が高まった。 (g) 石油危機の教訓とエネルギー供給構造 過去二度にわたる石油危機は、わが国経済の石油に対する脆弱性を浮き彫りにした。 このため、エネルギー安全保障の確立を基本政策として、日本経済に必要な石油供給の量的確保を図ることに重点を移した。 内容としては第一に危機管理体制の確立、第二に産油国との協力関係や供給源の分散化の促進による石油供給の確保、第三に省エネルギー推進、石油代替エネルギーの導入である。 この結果、特に産業部門を中心として産業構造の転換、およびエネルギー利用の効率化が進展したことから、は1979年度から1986年度までの間は、低水準の伸び率(年率0. 4%)で推移してきた。 その後、1987年度から1991年度までの間は、内需主導型の好調な景気、低水準で推移するエネルギー価格等を背景に年率4%の高水準の伸び率で推移した(、)。 産業部門での省エネルギー化の進展とともに、一般社会の日常生活では使用する電気機器全体の省エネルギー対策が進展し、社会的に定着しつつある。 一方、エネルギー供給面では、第一次石油危機以降、石油依存度の低下と、天然ガスおよび原子力の比率が向上したことが特徴としてあげられる(、)。 <図/表> ・図表を一括してダウンロードする場合は をクリックして下さい。

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石油危機に関するトピックス:朝日新聞デジタル

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1973年と 1979年に 諸国が価格を大幅に引き上げたことにより,世界全体がきたした大きなをさす。 oil shockともいう。 石油依存度の高い日本は特に大きな打撃を受け,「」と呼ばれる物価の大幅なを招いてに陥り,国際収支も赤字となった。 国民生活の面でも物不足,買い占め騒ぎが起こった。 1978年12月のを機に再び石油価格が約 2倍に上昇したのが第2次石油危機である。 前回の経験もあり,第1次ほどの大混乱にはならなかったが,やはり世界経済は停滞することとなった。 第4次中東戦争が始まると,OAPECとOPECは石油の減産・禁輸や原油価格の4倍引上げを行った。 このため世界各国に石油不足やインフレのなどの深刻な影響を与え,日本をはじめ各国が経済的大打撃を受けた(第1次石油危機)。 このなかで一部企業がの買い占めや商品の売り惜しみ,を行ったため,国民の間にパニックを引き起こし,などの買いだめ騒ぎが起こり,国民は「狂乱物価」に苦しんだ。 また1979年にはイラン革命を契機に石油価格が引上げられ,第2次石油危機と呼ばれた。 石油危機は低価格の原油供給という戦後経済の基礎を崩壊させ,高度経済成長にを打った。 【大石 嘉一郎】 【高度経済成長期】 による景気で戦前水準を回復した日本経済は,1955年から73年の石油危機の勃発まで,20年近くにわたってめざましい高度経済成長を実現した。 この間1957年,62年,65年,71年と数年おきに経験した景気後退期にも成長率はプラスを維持し,年平均の実質GNP成長率は約10%と,世界史的にも未曾有の高成長をなしとげたのである。 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について.

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