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湖畔の城は、日にまし重きをなした。 長浜 ( ながはま )の町には、灯のかずが夜ごとのように 増 ( ふ )えてゆく。 風土はよし、天産にはめぐまれている。 しかも、城主に人を得て、 安業楽土 ( あんぎょうらくど )の国とは、おれたちのことなれと、 謳歌 ( おうか )せぬ領民はなかった。 ここで一応。 秀吉 ( ひでよし )の家族やら家中の人たちを見覚えておくのも無益でなかろう。 なぜなら、彼の幸福は今の家庭にあるし、彼が一国の 主 ( あるじ )として持った家中の備えもここに整ったかの観があるからである。 まず、家庭には。 母があり、妻がある。 そして近頃、子もあった。 於次丸 ( おつぎまる )どのという。 けれど、 寧子 ( ねね )が生んだのでも、彼が他の女性にもうけた子でもない。 ふたりの仲に子がないのはさびしかろ。 そう主君の信長がよくいうことばから、信長の第四子をもらって、養子としたのである。 秀吉の弟、あの中村の 茅屋 ( あばらや )で、よくピイピイ泣いていた弟の 小竹 ( こちく )は、いまはすでに、立派な武将となって、 羽柴 ( はしば )小一郎 秀長 ( ひでなが )と名のり、そのかたわらに業を 援 ( たす )けていた。 また、妻の弟の木下 吉定 ( よしさだ )も。 それにつながる親族たちも。 重臣には、 蜂須賀彦右衛門 ( はちすかひこえもん )、 生駒甚助 ( いこまじんすけ )、加藤作内、増田仁右衛門、すこし若い家士のうちには、彦右衛門の子、父の名をついだ小六 家政 ( いえまさ )、 大谷平馬吉継 ( おおたにへいまよしつぐ )、 一柳市助 ( ひとつやなぎいちすけ )、 木下勘解由 ( きのしたかげゆ )、 小西弥九郎 ( こにしやくろう )、 山内猪右衛門一豊 ( やまのうちいえもんかずとよ )など、 多士済々 ( たしせいせい )といえる。 いやもっと、元気いっぱいで、いつも 騒々 ( そうぞう )しく賑やかなのは、小姓組であった。 ここには。 福島 市松 ( いちまつ )がいる。 加藤 虎之助 ( とらのすけ )がいる。 仙石権兵衛 ( せんごくごんべえ )がいる。 芋 ( いも )の子やら雀の子やら分らないのがまだ沢山いる。 よく喧嘩があった。 たれも止めないのでいい気になってやる。 大きな福島市松などが、よく鼻血を出して、鼻の穴に紙で 栓 ( せん )を かってあるいているのが見かけられたりする。 どうした? とも誰も 訊 ( き )かない。 かれらはよい侍になるのが目的なので、侍のみがいるこの城中に起居していることは、すでに 学寮 ( がくりょう )にいる学生も同じだった。 いいこと悪いことみんな 真似 ( まね )する。 取捨分別 ( しゅしゃふんべつ )はおのずから知るに任せてある。 中でこの頃、急に大人しくなったのは虎之助である。 同輩の 茄子 ( なす )や芋が何をして遊んでいようと、 「われ関せず」 というような顔して、 午 ( ひる )まで 側仕 ( そばづか )えをすますと、書物をかかえて、さっさと城下へ出て行ってしまう。 「あいつすこし生意気になったぞ。 この頃、書物などかかえこんで」 とかく、いじめられるが、この頃は、前のようにかんかんに怒って来ない。 にやにやして、いつもすうと行ってしまう。 市松も、彼と性が合わないので、 「大人ぶっていやがる」 と、甚だ 怪 ( け )しからんように、年下の小姓仲間をよく 煽動 ( せんどう )した。 虎之助は、ことし十五、去年から城下の軍学者 塚原小才治 ( つかはらこさいじ )のやしきへ授業にかよっているのである。 小才治は同姓塚原 土佐守 ( とさのかみ )という剣人の 甥 ( おい )とかいうことだった。 いずれにせよ、その頃にはまだ道場という設けはなく、ひとりの師から軍学の講義もうけるし、槍術や剣道やまた武士の礼法戦陣の心得など、すべてを教えられるのだった。 きょうも。 虎之助はそこから帰って来た。 もう 黄昏 ( たそがれ )に近く、西日の影が、町の豆腐屋や織物屋の軒に赤々とさしこんでいる。 「何かしら?」 と、虎之助は足をとめた。 すると、そこの軒ばに たかっていた群衆が、わッと家のまえを開いた。 逃げそこねて、ころぶ子がある。 老婆がつき倒される。 泣き声で人のうしろへかくれこむ女がある。 な、なにを、寄りたかって、げらげら笑うか」 酒屋だ。 奥から、よろよろと 藪 ( やぶ )から大虎の現われるように、酒徳利を片手に、出て来たのは、酔っぱらいである。 頭のよこに、 盃形 ( さかずきなり )の 禿 ( はげ )がある。 よくよく酒の好きな しるしと、一度見たものは忘れまい。 長浜城の 足軽頭 ( あしがるがしら )、 木村大膳 ( きむらだいぜん )の手についている足軽で、どういうところから来た名まえか、 市脚 ( いちあし )の 久兵衛 ( きゅうべえ )と名のる男だった。 けれど、町のものは、そんな面倒な呼びかたはしなかった。 禿久 ( はげきゅう )といっても、とら久といっても、あああの足軽かと誰も知っている。 その有名なのは、禿のためではなく、飲むと暴れるからだった。 ところが、 (おれが出世しないのは、この癖があるからよ。 これさえやらなければ、五百石や七百石の士分にはなっているのだ) と、彼自身、よく豪語するとおり、実際、その腕力にいたっては、 へたな侍たちの及ぶところでなかった。 戦場での功名手柄も、かぞえきれないほどあると、彼が威張るのも、嘘ではないのである。 その証拠には、何をやっても、組頭の木村 大膳 ( だいぜん )は、知らん顔して、彼を重用しているのでもわかる。 また、町の奉行でも、 「また、 禿久 ( はげきゅう )か」 訴えを聞くだけで、 一 ( いっ )こう 懲 ( こ )らしてはくれない。 彼の武勲を知っているし、また組頭の木村大膳を 憚 ( はばか )っている加減もある。 だから、この虎は、いい気になって、ややもすると、 横鬢 ( よこびん )の盃形の禿について、肩をいからすのである。 「これやあ、こう見えても、生れつきのものじゃあねえぞ。 そもそもは 洲股 ( すのまた )の戦いで、斎藤方の 湧井将監 ( わくいしょうげん )てえ八十騎持ちの侍に出会い、あの河原でだ、そいつの槍を、ふん 奪 ( だ )くろうとしたら、突いて来やがった。 交 ( か )わしたはずみに、肉をチョッピリ 削 ( そ )がれたのが、いまもって、この美男子の玉に 瑕 ( きず )となっている。 何を笑う。 やい、おれの禿を笑ったな。 戦 ( いくさ )の味も知らねえくせに、この おびんずるめ」 いまもこの調子で、ここの酒屋の奥で昼酒をのんでいるうちに暴れ出し、酒屋の雇人をなぐりつけたあげく、あやまりに出た老婆をうしろ手にしばりつけ、裏口から逃げ出そうとした亭主をつかまえて、 威嚇 ( いかく )しては酒をつがせ、酒をあおっては、自慢ばなしを独り言に談じていたものである。 それを門口にむらがって見物していた近所隣の者が、何かのはずみに、げらげら笑ったので、笑えばすぐひがむこの虎は、 猛吼 ( もうく )して立ち上がり、いきなり群衆を割って、往来へあらわれて来たものらしい。 もちろん、彼の足どりはもういいかげん怪しいので、女子供もよく逃げて、ひとりも爪にかからなかった。 けれど、そこに、ぽつねんと、さっきから逃げもせずに立っていた少年がある。 虎之助だった。 禿久 ( はげきゅう )は、ぬうっと、顔を寄せて行った。 逃げるかと思いのほか、一歩もうごかないので、 癪 ( しゃく )にさわったにちがいない。 「チビ。 汝 ( わ )れや何だ」 虎之助は、ぷんぷんと襲う、酒のにおいに顔をしかめながら答えた。 「御城内の 於虎 ( おとら )だよ」 「なに、虎だと」 彼は鼻を鳴らして、あいての小さい体を見おろした。 身なりのわりに眼は大きい。 その眼を、なお大きくみはったまま、虎之助は、禿久を 睨 ( ね )め 返 ( かえ )していた。 「わ、は、は、は。 こいつは奇遇だ」 突然、禿久は身を 反 ( そ )らして、 仰山 ( ぎょうさん )に笑い出した。 そして虎之助の顔を、壺を持つように両手で持った。 「おまえも於虎か、おれも大 とらだ。 兄弟分になろう」 「いやだ」 「そういうない」 「きたない」 押しつけて来る 顎 ( あご )を、突き 退 ( の )けた。 怒りっぽい禿久が妙に怒りもせず、こんどは虎之助の手くびを握って、 「一杯交わそう。 兄弟分のさかずきだ」 もとの酒屋の軒へ引っ張り込もうとする。 虎之助はうごくまいとする。 彼の腕の根が抜けるか、禿久の腰がくだけるか、果てしなく引っ張り合っていた。 体重はないし、あいては有名な 強力 ( ごうりき )足軽、ずるずるッと酒屋の軒下まで持ってゆかれた。 あたりに見ていた近所 界隈 ( かいわい )の老若男女は、 「あれッ、あれッ、かわいそうによ」 「お小姓さん。 逃げなされ」 「たまるものか、その とらに取っ 捕 ( つか )まっては」 騒いではいるが、相手は恐いし、救う 術 ( すべ )もなかった。 だが、虎之助は、顔いろもかえていなかった。 片手に抱えていた書物を、酒屋の内へ 抛 ( ほう )りこむと、 「やめないか」 と、口を への字にむすんで、相手に念を押した。 「来いッたら来いッ!」 禿久が、 遮 ( しゃ )二 無 ( む )二、腕を引っぱると、虎之助は身をねじって、空いている左の手で、 脇差 ( わきざし )を抜いた。 「わッ、ちッ、ちくしょうッ」 刃ものを見ると、彼の 熟柿 ( じゅくし )のような顔も、一瞬に、さっと青ざめた。 その筈である、どうやって斬ったものか、禿久の片腕が、ごろんと、下に落ちていた。 もちろん鮮血はほとばしっていた。 酒気のあったせいか、それは 夥 ( おびただ )しい血だった。 虎之助の胸から 袴 ( はかま )へもかかって、見ていた者の眼をおおわしめた。 「や、やりゃあがったな」 禿久は猛然、むしゃ振りついてきた。 脇差はすッ飛んだ。 巨 ( おお )きな体躯と、小さい体が、たちまち上になり下になりして、土と血に まぶされた。 いかに猛勇な禿久も、腕の一本を 失 ( な )くしては、もう日頃の威力もなかった。 それに出血はひどく、見るまに貧血して、ぐったりと、虎之助の下に組みしかれていた。 「 羽柴家 ( はしばけ )の恥さらしめ。 弱いもの 虐 ( いじ )めの極道め」 虎之助はそう云いながら、相手の眼や鼻が くしゃくしゃになるほど 拳 ( こぶし )でぶん撲っていた。 「…………」 遠く逃げ 退 ( の )いて見ていた人々は声を出すのも忘れていた。 あとの 祟 ( たた )りを恐れてではない。 あまりに予想が 外 ( はず )れたからである。 虎之助は、脇差や書物を拾って、もとのように書物をかかえると、遠く見ている人々へ。 「もう大丈夫だよ。 たれか酒屋の年よりの縄を解いておやり。 それから、この足軽は、 奉行所 ( ぶぎょうしょ )へ渡すといいよ。 それが一ばんいいよ」 云いすてると、彼は見向きもせず立ち去った。 長浜城の 狭間 ( はざま )にはもう 燈灯 ( ともしび )がついて、夜となった町の辻には、いつまでもがやがや人が 躁 ( さわ )いでいた。 真っ暗な石井戸のそばで、たれか水でも浴びているような音がする。 主命で探しに来た市松は、闇をすかして、 「 於虎 ( おとら )かあ」 と、よんでみた。 「おうい」 と、のろまな返辞がする。 市松は怪しみながら側へ寄って、 「何をしているんだ、この夜中に」 と、裸の虎之助を見まもった。 「洗濯だよ、洗濯だ」 ざぶざぶ小袖と 袴 ( はかま )を洗っている。 市松が、 泥溝 ( どぶ )にでも転げ落ちたのかときくと、うむと、 頷 ( うなず )いて洗っている。 違うともいわないのである。 「殿さまがお呼びだ、すぐ来い。 さむらいのくせにして、 泥溝 ( どぶ )になぞ落ちるやつがあるか。 何のために毎日、兵法を習いに通っておるんだ」 叱言 ( こごと )を云いながら、市松は先に行ってしまった。 あかあかと燭の見える本丸の一間のほうへ。 小姓部屋へもどって、虎之助は着ものを着かえ、やがて秀吉のまえに行って、何用ですかと伺った。 席には酒が出ていた。 足軽頭の木村 大膳 ( だいぜん )は、そのかたわらに 苦 ( にが )りきっていた。 虎之助はちらとその人を見て、また主人の 唇 ( くち )もとへ眼をかえした。 「於虎、そちは今日、えらい事をやりおったそうではないか。 大膳がきつう立腹いたし、これへ来て、わしへ訴えおる。 道理でもある。 どうするか」 「どうもいたしません」 「どうもせぬと」 「はい。 相手の者が悪いんですから」 「足軽組の久兵衛とかいう者の片腕を斬ったというではないか、その方が」 「いたしました」 「家中の喧嘩は 両成敗 ( りょうせいばい )の 掟 ( おきて )、その方の身をわたせと、ここへ参って、大膳がわしを困らせおる。 渡されてもよいか」 「よろしゅうございます」 「左様なことを申さずと、そちはまだ少年、大膳へここで手をついて 謝 ( あやま )ったがよかろう。 わしの見ておる前で」 「いやです」 「なぜ」 と、秀吉の眼が、燭にキラとした。 「わたくしに落度はありません。 また、わたくしは殿さまの側小姓で、殿さまが、御家臣から迫られて、お 裁 ( さば )きに困るようなことは 仕 ( つかまつ )りません」 「ははは。 云いおるわよ。 よしよし、然らばわしは 関 ( かま )わん。 大膳、何といたすか」 木村大膳は、さっきからじっと虎之助の横顔を見ていたが、 「やはり、於虎の身は、てまえに下しおかれとう存じます」 と、いった。 秀吉はちょっといやな顔をして見せたが、大膳の次のことばで、また明るく 冴 ( さ )え直った。 大膳はこういうのである。 「配下の久兵衛が、とかくよろしくないことは、存じております。 けれど町なかの往来で、一小姓に、あのような目に 遭 ( あ )わされたとなると、組頭として、黙視いたしかねましたので、最前のようなお訴えをいたしましたが、いま、於虎の 面 ( つら )だましいを見て、にわかに考え方がちがって来ました」 「どう違ってまいったのか」 「ねがわくば、於虎をてまえの家の養子に乞いうけたいものでござる。 さもなければ、てまえの組の 士 ( さむらい )にいたしたいものですが」 「よかろう。 於虎さえ、異存なければ。 大膳の子にならんか」 「養子などに参る気はございません。 真 ( ま )っ 平 ( ぴら )です」 「養子とて、軽んずるな。 この秀吉も、養子じゃが」 「でも、いやです」 「あははは。 あの通りだ。 大膳なんといたすか」 「いたしかたありません。 あきらめましょう。 しかし 清々 ( すがすが )しゅうござる。 よいお小姓、よいお小姓」 大膳はしきりに彼を眺めたり 賞 ( ほ )めたりしながら、秀吉の杯をいただいていた。 いい機嫌に酔っていた。 木村大膳が 吹聴 ( ふいちょう )したものとみえる。 虎之助の沈着と 胆気 ( たんき )は城内でも評判になった。 いや城下の街ではそれ以上のうわさだという。 「於虎、そちも 故郷 ( くに )の母へ、便りなど書いてよろこばしてやれ。 この後は、百七十石に 加増 ( かぞう )してくれるぞ」 秀吉からも、そういわれた。 かれの得意は思うべしであった。 いよいよ勉強し奉公に励んでいた。 けれど納まらないのは、同じ年頃の生意気ざかりが同室している小姓部屋の 誰彼 ( だれかれ )である。 ここでは、福島市松が年上で、また一番の古顔として、その下に 平野権平 ( ひらのごんぺい )だの、 片桐助作 ( かたぎりすけさく )だの、加藤孫六、 脇坂甚内 ( わきざかじんない )、 糟屋 ( かすや )助右衛門などという大供小供が、非番でさえあれば、ひとつ池の 蛙 ( かわず )みたいにがやがや 躁 ( さわ )いでいた。 「於虎、於虎」 「なんだ、市松」 「こっちを向いて返辞をしろ。 書 ( ほん )ばかり読んでいないで」 「読んでいてもいいだろう」 「ここは寺子屋ではない」 「うるさいな。 何の用さ」 「みんなも聞いていてくれ。 おい、助作、孫六、甚内、聞いていろよ」 「聞いているよ。 於虎に何をいうのか」 「この頃、生意気ぶっておるから、云い聞かせておくのだ。 こら於虎、貴さま少し成人したと思って、悪くなったぞ」 「どうして」 「御加増になったと思って、急に威張っておるじゃないか」 「たれが威張ってなどいるもんか」 「いや、大きな 面 ( つら )をしている。 怪 ( け )しからん」 「そう見えるのだろ」 「みんなもいっている。 わしだけの言葉じゃない。 御加増になっても、貴さまはまだおれの下役だぞ。 …… 洲股城 ( すのまたじょう )におった頃、貴さまは 青洟 ( あおばな )を垂らして、母親の手にひかれて来たろう。 あの頃のこと忘れるなよ」 「たれだって、小さい時は、 洟 ( はな )を垂らすさ。 それがどうしたい」 「みろ、その口ぶりからして、生意気になったことを! われわれだって、いまにみろ、きっと、大きなてがらをあらわして、貴さまなぞ、見返してみせるから」 「おう、結構だ。 どんな功名かしらぬが、立ててみせてもらいたい」 「立てずにおくか。 おびんずるめ」 「なにを」 「なにが何だ」 両方一しょに立ちかけた。 ほかの小姓はあわてて止める。 福島市松が 逸 ( はや )まって、片桐助作のあたまを 撲 ( なぐ )ってしまう。 仲裁人 ( ちゅうさいにん )を撲るやつがあるかと助作が撲りかえす。 あっちで取っ組む、こっちで 掴 ( つか )みあう。 小姓頭の 堀尾茂助 ( ほりおもすけ )が、舌うちしながら駈けて来た。 茂助の 一喝 ( いっかつ )にようやく鎮まったものの、ついこの頃、 貼 ( は )り 代 ( か )えたばかりの 襖 ( ふすま )が破れ放題に破れているし、そこらの調度や机や書物なども乱脈に取りちらかって、目もあてられない有様である。 「殿さまのお眼にふれたら何とするか。 はやく片づけろ。 そして襖のあなを貼っておけ」 茂助は叱って、それぞれに勤めをいいつけた。 獅子 ( しし )の児や 豹 ( ひょう )の子をひとつ 檻 ( おり )に入れておくと、彼らに退屈させておくことが、何よりも危険を生じやすかった。 その獅子の児や豹の子が、絶大な楽しみとしていることは、城外へ出て青空を見ることだった。 その点、秀吉からゆるされて毎日 塚原小才治 ( つかはらこさいじ )の道場に通っている虎之助が、たれからも 嫉視 ( しっし )の 的 ( まと )とされていたのは無理もない。 「於市、あしたは殿さまのお供だぞ。 助作、権平のふたりもお供に加われ。 朝はお早いかも知れぬから、そのつもりで 不覚 ( ふかく )すな」 前の晩、組頭の堀尾茂助からそう云い渡されていた三名は、どこへお供するのか、秀吉の出先はわからなかったが、ともかく 欣 ( うれ )しさに眠れないほどだった。 さむらい十騎ばかり、小姓四人、あとは 御小人 ( おこびと )の 口取中間 ( くちとりちゅうげん )など、同勢はそれだけだった。 夜明けとともに城を出て、 伊吹山 ( いぶきやま )のほうへ駈けて行った。 狩猟 ( かり )にということであったが、鷹も犬も連れていない。 どこまでお 出 ( い )でですか」 伊吹の 麓 ( ふもと )まで来ると、さむらいの一人が訊いた。 秀吉はつねに先駆しながら、 「どこまでという定めはない。 日暮まで駈けあるいて帰るまでじゃ」 「鹿、兎でも追い出しましょうか」 「よせよせ。 大いに意味がある」 「はて。 何ぞほかに、思し召がおありですか」 「ある」 「お聞かせ下さい」 小姓組の堀尾茂助、福島市松など、秀吉に せがんで云った。 秀吉は馬を立てて、眉に迫る 伊吹山 ( いぶきやま )を仰ぐ。 さむらい達もみな 手綱 ( たづな )をやすめ、各 、汗ばんだ顔を 山巒 ( さんらん )に吹かせていた。 知っておるじゃろう」 「存じております」 「では、 劉備玄徳 ( りゅうびげんとく )の名は」 「 後漢 ( ごかん )の英雄でしょう」 「そうだ。 孔明 ( こうめい )を迎えて 蜀 ( しょく )を 征 ( せい )し、三国の一方を占めて帝座にのぼった人物。 この人がまだ志も得ず、孔明にも会わず、同族の 劉表 ( りゅうひょう )に身を寄せて、いわば高等食客をしていた壮年時代に、こんなはなしがある」 「はあ。 どんなはなしです」 「一日、劉表と同席して、酒をのんでいたが、ふと 厠 ( かわや )に立ってもどって来た玄徳の顔を見ると、涙のあとが見える。 日月 ( じつげつ )の過ぎるは早く、人生には限りがある。 ……玄徳はその時の何不自由ない境遇を怖れたのですね」 「わしもだ。 無事は恐い。 いまの秀吉はあやうい幸福にくるまれておるからな。 きょうは、そう気づいて、 腿 ( もも )の肉を 削 ( けず )りに出たのだ。 うんと汗をかこうと思う」 「では、殿には、ひそかに玄徳の志をお抱きですな」 「ばかを申せ。 わしに 望蜀 ( ぼうしょく )の意はあるとしても、あんな山地の一方に屈して、 曹操 ( そうそう )、 孫堅 ( そんけん )ごとき者と争い、 互角 ( ごかく )に一生を終るなど、手本とはいたしたくない。 彼は、日没する国の英雄、わしは日 出 ( い )ずる国の民、秀吉の望みはちとちがう」 「働き 栄 ( ば )えがありますな。 われわれもこの先は」 「もとよりだ。 腿に肉を蓄えるなよ」 「だいじょうぶです」 茂助がいうと、片桐助作、平野権平なども、 「痩せています。 この通りに」 と、鞍のうえの 腿 ( もも )を叩いた。 「もっと痩せろ。 そち達、少年の肉は、刀のごとく 鍛 ( う )って 鍛 ( う )って細身にするほど斬れ味はよくなるものだぞ。 さ、つづいて来い」 平野へ下るのかと思うと、 七尾 ( ななお )村から伊吹へ向って、山道を登りはじめた。 腹も 空 ( す )いた、 喉 ( のど )も 渇 ( かわ )きぬいて来た。 二刻 ( ふたとき )あまりも山野を駈けたあとである。 「どこかないか。 湯漬 ( ゆづけ )なと 所望 ( しょもう )するところは」 午下 ( ひるさ )がりの陽をあたまから浴びながら、秀吉以下の者たちは、伊吹の 裾 ( すそ )を馬けむりあげて降りて来た。 「ありました、ありました」 先に、 麓 ( ふもと )の小部落へ駈け入っていた福島市松が、すこし駒を返して来て、曲り道で手を振っていた。 秀吉以下、近づくと、 「この先によい寺があります。 三珠院 ( さんじゅいん )という 真言寺 ( しんごんでら )が」 と、すぐ先に立ってゆく。 一叢 ( ひとむら )の 幽翠 ( ゆうすい )につつまれて 閑寂 ( かんじゃく )な 庫裡 ( くり )や本堂が見える。 秀吉は山門に駒をすて、近侍たちとともにぞろぞろと入って行った。 声をかけても、誰も出て来ないのである。 秀吉はかまわず本堂へあがって、本堂のまん中にひとり坐っていた。 にわかに庫裡のほうで、人の気はいがしはじめた。 寺僧の耳に通じたとみえる。 それとまた、城主の休息という思いがけない不意打ちに、寺僧たちは 狼狽 ( ろうばい )もしたにちがいない。 「騒がすな、気の毒だ。 ただ早う茶をひとつくれい。 喉が 渇 ( かわ )いた」 秀吉の声が本堂ですると、 側 ( わき )の一室に見える 衝立 ( ついたて )のかげで、 「はいッ、ただ今」 と、はっきり返辞がきこえた。 衝立のほうを振向いて、秀吉はひょいと小首をかしげた。 すずやかな声であったが、女とも思われない。 寂 ( じゃく )とした 伽藍 ( がらん )のせいか、よく澄み 徹 ( とお )って、しかも 可憐 ( かれん )なうちに力がある。 「…………」 黙然と、礼儀をし、 小袱紗 ( こふくさ )に茶碗をのせて、秀吉の前にすすめる。 待ちかねて秀吉の手は、すぐ両手にそれを持って、がぶがぶと一息に飲んだ。 大茶碗に七、八分のただの ぬる湯であった。 「 稚子 ( ちご )。 もう一服」 「はい」 少年は立ってゆく。 寺の稚子と、彼は見た。 すぐ二服めを運んで来た。 白湯 ( さゆ )は前よりもすこし 熱 ( あつ )加減で、量も半分ほどしかない。 秀吉は、ふた口に飲みながら、眼を少年の顔に向けていた。 「稚子」 「はい」 「名は何というか」 「 佐吉 ( さきち )と申します」 「佐吉か。 こんどは、容易に運んで来なかった。 程経て、菓子を持って来た。 それからまた少し間をおいて、前の茶碗よりずっと小ぶりな 白天目 ( しろてんもく )に緑いろの 抹茶 ( まっちゃ )をたたえ、足の運びもゆるく、貴人にたいする作法どおり、物静かに秀吉のまえに置いた。 「これで 渇 ( かつ )も 医 ( い )えた。 うまかったぞ」 「ありがとう存じます」 「……む、むう」 秀吉は何か、こううめいた。 少年の 容貌 ( かおだち )は稀に見るほどよく整っていた。 知性の美といおうか、長浜の小姓部屋にいる於市、於虎、於助、於 権 ( ごん )などという者どもとは、その 言語挙動 ( げんごきょどう )にしても、著しくちがっているところがある。 「 幾歳 ( いくつ )になる? そちは」 「十三歳でございます」 「 苗字 ( みょうじ )はないのか」 「家代々、石田を姓としております」 「石田佐吉というか」 「そうです」 「この近郷には、石田姓が多いようだな」 「けれど、わたくしの家は、石田の中の石田です。 たくさんある石田とはいささか違います」 何を答えるのも 明晰 ( めいせき )で、妙に怖れたり はにかむふうなど少しもなかった。 「石田の中でもすこし違う石田とは……どういうわけだな」 秀吉は、微笑をふくむ。 佐吉はそれに答えて、 「この近郷で、いちばん 旧 ( ふる )い家がらですから」 と、いって、また、 「 粟津 ( あわづ )の 戦 ( いくさ )で、むかし、 木曾義仲 ( きそよしなか )を射とめた 石田判官為久 ( いしだのほうがんためひさ )という人は、わが家の御先祖だと、父から聞いておりました」 「ほう、その頃から、 江州 ( ごうしゅう )の武家であったか」 「はい。 建武 ( けんむ )の頃には石田源左衛門という方が、 菩提寺 ( ぼだいじ )の過去帳にものっております。 それからずっと後は、この辺の御領主だった 京極家 ( きょうごくけ )に仕えましたが、いつの頃からか浪人して、 梓 ( あずさ )の 関 ( せき )の近所に住み、郷士になってしまいました」 「あの関の 址 ( あと )の附近に、石田屋敷という名がいまもあるが、そちの先祖の地か」 「はい。 仰せのとおりです」 「両親は?」 「ございません」 「そちは僧になるつもりで、寺入りしておるのか」 「いいえ」 首を振った。 ニコとしたまま黙っている。 その 笑靨 ( えくぼ )までが、知性の光に見える。 秀吉は、ふいに、 「 住持 ( じゅうじ )はおるか」 と、訊ね、佐吉が、おりますと答えると、これへ呼べといった。 佐吉は、はいと、素直に返辞して立ちかけたが、 「ただいま御家来衆から、お 湯漬 ( ゆづけ )をさしあげいとのおことばで、住職も 厨 ( くりや )にはいって立ち働いておりまする。 ほかならぬ御城主への御膳、人手にまかせられぬと、先ほども仰っしゃって、取り急いでおるところでございますが……お召しはおいそぎでございましょうか」 「ああそうか。 ならば後でもよろしい」 「いずれ、お膳ができ次第、ごあいさつに参られましょう」 佐吉は 天目 ( てんもく )を下げて行った。 秀吉はすっかり気に入ってしまった。 脆弱 ( ぜいじゃく )な文化や、 爛熟 ( らんじゅく )しすぎた知性には、 逞 ( たくま )しい野性を配することが、本来の生命力を復活するひとつの方法だし、また、余りに粗野で豪放にすぎる野性にたいしては、これに知徳の光をそそぐことによって、初めて完全に近いひとつの人格なり新しい文化なりを構成することができるのではあるまいか。 日頃もであったが、いま佐吉を見て、秀吉はしきりと、そんなふうに、長浜の小姓部屋にある人材を考えていた。 どうして、彼がそんなふうに、常に小姓部屋などを気にしているかといえば、彼は、老臣や重職の者よりも、そこにいる年少の 輩 ( やから )を一ばん重要に 観 ( み )ていたからである。 十三、四になっても、まだ時々、 洟汁 ( はなじる )を垂らしていたり、甚だしきは寝小便をしたり、取っ組んだり、泣き 喚 ( わめ )いたり、始末におえない存在ではあったが、秀吉のこころでは、小姓部屋こそ、人材の 苗床 ( なえどこ )、わが家の宝でもあると、そこから伸び育つ者を楽しみに注視しているのであった。 「……十三か。 十三にしては、ちと出来すぎてはいるが?」 しきりと、そんなことを、彼は 呟 ( つぶや )いたりしていた。 そこへまもなく住職があいさつに見えた。 三珠院の住職は、佐吉の身の上について、秀吉からいろいろ問われたのに対してこう答えた。 「養育はしておりますが、長く寺におくつもりではございませぬ。 当人の意志も 沙門 ( しゃもん )になく、両親も 歿 ( ぼっ )しておりますから、家名を 興 ( おこ )させねばならぬ身でございまする。 あれの母方と拙僧とは、遠縁にあたりますところから、何ぶんよい成人を遂げるようにと、ひそかに祈っておりますが、どうもすこし内気なほうで、女かなどとよう訊かれることなどございますから、武士の中に立つと、一家を持つようになれるかどうか、案じられております」 秀吉は、おかしそうに、 「内気じゃと、あれがか。 ……あはははは。 とんでもないことだ。 まあよい、そういう者であれば、わしにくれぬか」 「え。 ……くれいと仰せあそばすのは」 「取り立ててくれよう。 長浜の小姓部屋へもらってゆきたい。 当人にたずねてみい。 秀吉に随身するや否やと」 「ありがとう存じまする。 否やのあろうはずはございませぬが、とにかく、思し召のほどを申し聞かせ、後刻、御返辞に伺わせまする」 「どれ、そのまに、湯漬の馳走にあずかろうか」 「御案内を」 と、寺僧たちは、彼を客院に案内した。 そしてほかの家臣たちをもそこに迎え、うやうやしく給仕した。 食事の終った頃、住職はあらためて、 稚子 ( ちご )の佐吉を 伴 ( つ )れて来た。 「どうだ、返辞は」 秀吉から云った。 住職は佐吉を顧みて、 「このとおり大喜びでございまする。 佐吉、ようく、おねがいをなさい」 「…………」 佐吉は秀吉を見て、 にことしながら、両手をつかえた。 何もいわなかったが、秀吉は満足な眼をもってそれに答えた。 「城中へ参ったら、あれらの者と仲よくせねばならぬぞ。 おとなしいと思うて、あまり 虐 ( いじ )めるな」 「はい」 「茂助。 面倒を見てやれよ」 「かしこまりました」 堀尾茂助は、佐吉に向って、ていねいにいった。 「小姓 頭 ( がしら )の堀尾でござる。 これからは、何分とも」 すると佐吉も、いんぎんに向き直って、挨拶を返した。 「この近郷の郷士、 石田源左衛門 ( いしだげんざえもん )が子、佐吉と申す不つつか者でございます。 よろしくお引きまわしのほどを」 これが十三の少年とは思えなかった。 その成人ぶった 容子 ( ようす )を見て、於市や於権は、寺を立つとき、そっと 囁 ( ささや )きあっていた。 「オイ、こんどの稚子は、於虎なんかより、よっぽど、生意気そうだぞ」 「さむらい 雛 ( びな )みたいに、いやに澄ましていやがる」 「雛ならいいが、 らっきょうみたいなやつだ」 「いまに皮を 剥 ( む )いてやろうよ」 しかし秀吉が馬をよせて鞍上にまたがると、みなぴたりと黙っていた。 伊吹のうえに 夕月 ( ゆうづき )を見ながら、秀吉は長浜城へ帰った。 もちろん佐吉もその日から彼のうしろに従っていた。 秀吉が目をつけたところは、彼の 機転 ( きてん )を見て、その才能に期したのであるが、やがて 卵殻 ( らんかく )を割った 雛鳳 ( すうほう )は、見事、それを裏切らなかった。 一年のうちに幾つという 城国 ( じょうこく )がぞくぞく滅亡し去った。 新人が立ち、旧人は 趁 ( お )われ、 旧 ( ふる )い機構は、局部的に 壊 ( こわ )されてゆく。 そしてまた局部的に、新しい城国が建ち、文化が 創 ( はじ )められて来た。 そして容易に安定の見えない 風雲裡 ( ふううんり )の歳月は、決して人に 腿 ( もも )の肉の肥えるほどな暇は与えなかった。 長浜 ( ながはま )の城へ、令が下った。 出陣の目的は。 反信長勢力の 壊滅 ( かいめつ )にある。 越前はつい先年、そこの朝倉一族をほろぼして、とうに彼の 統業圏内 ( とうぎょうけんない )におかれていたはずであるが、一年ともたなかった。 その主力は、ここでも、明らかに、一向門徒の武器と財力と信仰に結束した旧朝倉の残党、その他の混成軍だった。 軍、外交、経済、あらゆる 懸引 ( かけひき )は国々の方針によって、何とも簡単でない。 晩秋、 越山 ( えつざん )はもう白かった。 そこを越えて、越前へはいった信長軍の主力は、 丹羽 ( にわ )五郎左衛門 長秀 ( ながひで )と、 羽柴筑前守秀吉 ( はしばちくぜんのかみひでよし )。 一揆はたちまち征服された。 翌年、両将は雪にとざされぬうちに、 凱旋 ( がいせん )した。 春は、天正二年となっていた。 けれど、一月もすぎると、またふたたび越前の領内には、騒然たる空気があがっていた。 「始末のわるい! ……」 と、さすがの信長も舌打ちした。 けれどまた、それに 癇 ( かん )を立てて、一方的に 焦躁 ( しょうそう )することを、彼はひそかに 戒 ( いまし )めていた。 この期間を、信長が、もっとも急務としていたのは、かえって、内政の充実と、軍備の再編成。 そして自己の勢力圏内にある民心に、将来の 泰平 ( たいへい )と、統業の実を示すにあった。 その一つとして。 彼は、七ヵ国にわたる大道路の改修や 架橋 ( かきょう )に着手していた。 美濃、尾張、三河、伊勢、伊賀、 近江 ( おうみ )、 山城 ( やましろ )をつらぬく国道である。 往来の幅を、三間半と定め、道の両わきに樹木を植えさせた。 そして無用な関所は 撤廃 ( てっぱい )した。 通商も、一般の旅行も、極めて軽快になった。 この道を歩み、並木の育ちをながめる者は、もう信長を天下の 司権者 ( しけんしゃ )と認めていた。 認めないでも 讃 ( たた )えぬはなかった。 いかに精兵強馬の 金剛軍 ( こんごうぐん )をもって、焦土の占領地を満たしても、一般領民は、それをもってすぐ永久の支配者とは想像しなかった。 かれらは治乱興亡のあわただしきを見、また精兵弓馬や 城塁 ( じょうるい )の一朝のまに 儚 ( はかな )い消滅を告げて来たのを、土とともにながめて来た古い習性をもっている。 矢さけびや鉄砲の音にも、黙々と耕している彼らとて、やはり 唖 ( おし )でもなく盲でもなかった。 正直な声を出せば、この世を、個々の生命を、やはり謳歌したい人間だった。 夏になると、信長はまた令を発して、兵馬を 長嶋 ( ながしま )へうごかした。 長嶋征伐は、こんどで四度目である。 しかもその前の三度が三度とも、不利な 戦 ( いくさ )に終っている。 その第一回には、弟の織田彦七を死なせ、翌 元亀 ( げんき )二年のときは宿将 勝家 ( かついえ )が負傷し、 氏家卜全 ( うじいえぼくぜん )が戦死し、去年の出征には、部将の林新二郎以下たくさんな戦死があるなど、苦杯を喫しつづけて来た敵である。 この始末の悪い敵にたいして、信長はこういっていた。 「さきに 叡山 ( えいざん )を焼き払って、自分の態度は、厳然と示してある。 よって、しばらく彼らの反省と 悔悟 ( かいご )をわしは待っていたのだ。 果たして。 六万の大兵に配するに、織田家の 驍将 ( ぎょうしょう )はほとんど 轡 ( くつわ )をならべたといっていい。 柴田、丹羽、佐久間、池田、前田、稲葉、林、滝川、佐々などの諸将が参加し、羽柴秀吉もまた一部隊をひきいて出陣していた。 籠城していた男女千余人をみなごろしにして、これを焼き払ったのを手初めに、次々の小城や 砦 ( とりで )を粉砕し、翌月の中旬には、中江、長嶋の二城をとりかこんで、これを 陥 ( おと )すと、火を放って、 阿鼻叫喚 ( あびきょうかん )する城内二万余の宗徒を、一人のこらず焼き殺してしまった。 そうなるまでも、宗徒の男女は一人として降伏しようとはしなかったのである。 或る宗徒の一団七、八百人の隊は、残暑の 陽 ( ひ )が かんかん 焦 ( い )りつける炎天へ、半裸体のまま 刀槍 ( とうそう )を手に 揮 ( ふる )って、城中から突き出し、 「な、む、あ、み、だ、ぶつ」 「な、む、あ、み、だ」 「な、ま、い、だ」 「なまいだ、なまいだ」 と、一せいに念仏をとなえながら斬り死にしたというような猛烈な抵抗をしたのだった。 ために織田軍の損害も少なくなかった。 信長の一族中だけでも、 従兄 ( いとこ ) 信成 ( のぶなり )、伊賀守 仙千代 ( せんちよ )、又八郎信時など、いずれも戦死し、織田 大隅守 ( おおすみのかみ )、 同苗 ( どうみょう )半左衛門なども 深傷 ( ふかで )を負ってしりぞいたが、後まもなく死んだ。 そのほか、将士の戦死八百七十余人、負傷者は、炎日の 陰 ( かげ )へ運びきれないほどだった。 犠牲は大きかった。 物慾の 飽満 ( ほうまん )だけなら、すでに今の信長は、七ヵ国の領主として、十分に事足りていよう。 名誉や空名を欲するなら、かれは京都へむかって或る運動もできる立場と位置にある。 領界の不安を除くだけの意味なら、もっと保守的にも、もっと 妥協 ( だきょう )的にも、他に方法はいくらもある。 かれが真に望んでいるものを実現するには、どうしても、犠牲の大はしのばねばならなかったのである。 英雄の 苦衷 ( くちゅう )は実にここにある。 では、彼の欲していたものは何かといえば、破壊でなく、建設にある。 彼の理想している組織と文化を築くことにあった。 信長と会ったこともなく、信長の生活も 為人 ( ひととなり )も知らないくせに、近頃よく信長のうわさを 交 ( か )わす堂上の 公卿 ( くげ )たちのうちには、 「信長。 あれはやはり 田舎者 ( いなかもの )じゃ。 料理の味も知らぬ」 とか、 「 壊 ( こわ )し大工も同じことで、壊すことには、 驀 ( まっ )しぐらじゃが、建てることはようせぬ男よ」 などと、一ぱし名評を下したつもりでいるような口吻を、今もって、陰ではいっている者も多かったが、事実は、徐々にそうでない信長を洛中にも見せて来た。 長嶋を平定して、まず東海道から伊勢にわたる多年の 大患 ( たいかん )をとりのぞくと、翌天正三年の二月二十七日には、上洛の途にのぼっていた。 彼が七ヵ国にわたって改修を命じておいた国道も、はや完成して一路京都につづいていた。 両側に植えさせた並木も、みなよく育っていた。 あれにはなりたくないものよ」 信長はよくそんなことを左右に語って、自分の 戒 ( いまし )めともし、また部将をも暗に 訓戒 ( くんかい )していた。 木曾 義仲 ( よしなか )のことをいったのであろう。 義仲の弱点は武人のたれにも一応はある弱点である。 いや人間のたれもが得意となれば 陥 ( お )ち入りやすい 穽 ( あな )である。 信長自身のうちにも、そろそろその危険が反省されていたにちがいない。 花の三月。 入洛 ( じゅらく )すると即日、彼は 参内 ( さんだい )していた。 天機奉伺 ( てんきほうし )の 伝奏 ( てんそう )を仰いで、その日はもどり、あらためて堂上の 月卿雲客 ( げっけいうんかく )を招待して、春の大宴を張った。 またその 公卿 ( くげ )たちへは、彼は多くの金品を贈った。 兵馬倥偬 ( へいばこうそう )の世にかえりみられず、この名誉ある権門たちが、ひどく物に貧しく、その貧しさに いじけて、すこしも、君側の 朝臣 ( あそん )であり 輔弼 ( ほひつ )の 直臣 ( じきしん )であるという、高い 気凛 ( きりん )も誇りも失っているのを、あわれに感じたからである。 金品ばかりでなく、彼はこのなかに、自己の 気魄 ( きはく )を輸血する気をもっていた。 さきに彼は、朝廷の恩命があっても 拝辞 ( はいじ )したが、こんどはすすんで 参議 ( さんぎ )に任官し、従三位に 叙 ( じょ )せられた。 また、 内奏 ( ないそう )をとげて、南都の東大寺に秘蔵伝来されている 蘭奢待 ( らんじゃたい )の 名香 ( めいこう )を 截 ( き )るおゆるしをうけた。 この 香木 ( こうぼく )は 聖武 ( しょうむ )天皇の御代、中国から渡来したもので、 正倉院 ( しょうそういん )に 封 ( ふう )じられて、 勅許 ( ちょっきょ )がなければ、観ることすらゆるされないものだった。 蘭奢待 ( らんじゃたい )。 この文字のなかに、東、大、寺の三字がかくしてある。 主上からこれをいただいた者は、足利 義政 ( よしまさ )以後、信長だけであった。 辰 ( たつ )の 刻 ( こく )、お蔵びらき。 名香は、六尺の 長持 ( ながもち )に秘せられてある。 一寸八分の香木のために、この盛儀が 執 ( と )り行われたばかりか、ために奈良の町といい近郷の 伽藍 ( がらん )や名所といい、諸国から集まって来た人出で、春の空も 埃 ( ほこり )に黄 ばむばかりであった。 「どうも、仰山だな、信長のやることは少し……」 若い奈良法師たちのうわさを聞くと、そういう者もあるし、またこういう者もあった。 「政治だよ。 信長は、あれでなかなか政治家なんだよ」 信長はたしかに武人にして政治家でもあった。 世間の 具眼者 ( ぐがんしゃ )が、彼をそう 観 ( み )たのは、 中 ( あた )っている。 けれど、その時代の「政治」というものは、現代でいうところの「政治」とは相違があった。 「政治」ということばそのものが、もっと高潔であり明朗であったのである。 今日のごとく 穢 ( よご )されていなかった。 人間の天職のうちでいちばん遠大な理想と、広い仁愛を奉行し得る職として、諸人は常にその職能に 景仰 ( けいこう )と信望をかけていた。 もちろん長い歴史のうちには、その政治をにぎっても、民衆の信頼を裏切った 司権者 ( しけんしゃ )はいくらもあり、すでに前 室町 ( むろまち )政治のごときもそれだったが、さりとて民衆は、政治そのものを 卑 ( いや )しめたり疑ったりはしなかった。 奉行する「人」の 如何 ( いかん )にあることを知っていた。 「政治」というその 気高 ( けだか )いことばまでが、あたら 卑 ( いや )しい私慾の徒の表看板かのように地に 堕 ( だ )してしまったのは、明治末期から大正、昭和初期にかけてのことで、本来の「政治」とは、飽くまで、人間の職能として、最高の善事を奉行するものでなければならない。 その職府にある大臣や高官を、あたかも無能な愚人のように 揶揄 ( やゆ )したりするとき、それは小市民の 諷言 ( ふうげん )や皮肉味をお茶 うけのように軽くよろこばせたりするか知らぬが、その時代下の民衆はかならず不幸であり不安であるにきまっている。 故に、大臣高官は、 威重 ( いおも )く、入るにも出るにも、常に 燦燗 ( さんらん )とあって欲しい。 民衆はそのほうが頼もしくまた安泰を感じるのである。 如才 ( じょさい )ない政治家だの民衆の 鼻息 ( びそく )ばかり 窺 ( うかが )っている大臣などは、いつの世でも民衆は見ていたくない。 民衆の本能は、高い 廟堂 ( びょうどう )にたいして、やはり 土下坐 ( どげざ )し、礼拝し、 歓呼 ( かんこ )して仰ぎたいものである。 形では上下の区別があっても、そのときその治下の民衆は大きな安心と国家の 泰平 ( たいへい )を感じるからである。 信長はそういう庶民性をよく見ていた。 蘭奢待 ( らんじゃたい )を賜わるべく、勅許を仰いだのも、一個の身に、名香の 薫 ( かお )りを持ちたいだけの小慾ではなかった。 むしろ自己の光栄と存在を、全土の民衆のうえに 薫々 ( くんくん )と行き渡らせたいための盛事だったというほうが適切であった。 また、こういう行事から、彼はたちまち、 公卿京紳 ( くげけいしん )の文化人と接触し、深交をむすんで行った。 愛馬趣味もあった。 一面に文化人と 融和 ( ゆうわ )を計りながら、信長はまた決して、民衆を置き去りにはしなかった。 自分の愛馬六十頭を出して、 加茂 ( かも )の馬場で大競馬を催し、それには莫大な費用と善美をつくして、市民の観覧をゆるし、数日にわたって、一般の老幼男女を楽しませた。 けれど彼は、何をして遊んでもそれに 溺 ( おぼ )れない自己をいつも持っていた。 相国寺 ( そうこくじ )へ三条、 烏丸 ( からすまる )、 飛鳥井 ( あすかい )の諸卿を招いて、 蹴鞠 ( けまり )を催したときである。 今川義元の一子 氏真 ( うじざね )は、蹴鞠の名手といわれていたが、その日も、晴れがましく 装束 ( しょうぞく )して、庭上で得意の 鞠 ( まり )を蹴って見せた。 「あざやか。 氏真どのは」 公卿 ( くげ )たちはみな 褒 ( ほ )め 称 ( たた )えたが、信長はあとで、侍臣にこういったということである。 「あわれ、今川氏真をして、鞠を蹴る 伎 ( わざ )の十分の一でも、文武に心を入れていたら、 可惜 ( あたら )、 洛陽 ( らくよう )に 余伎 ( よぎ )の人となって、諸人の見世物には 曝 ( さら )されまいものを……。 祖父以来の 駿 ( すん )、 遠 ( えん )、 三 ( さん )の三ヵ国を他人に取られて、ただ一個の鞠をいだき、得意がっておるあの 容子 ( ようす )は……さてさて、見るもなかなか 不愍 ( ふびん )であった」 徳川家康は、ことし三十四歳、その後は、 浜松 ( はままつ )の城にいた。 子の三郎 信康 ( のぶやす )も、はや十七となった。 信康のほうは、岡崎に在城している。 むかしからのことだが、相かわらずここの士風は土くさい。 京風の 華奢 ( きゃしゃ )軽薄な文化は とんと入って来ない。 いや入れないのであろう。 君臣の生活も、一般の風も、時代や流行の影響なく、依然として三河色だ。 地味で質実でひとえに節約を旨としている。 たとえば婦人の服色でも、眼を刺すような色柄は見られぬし、髪ひとつ 結 ( ゆ )う 紐 ( ひも )にしても、 費 ( つか )い捨てにしていないのがわかる。 男の服装はなおさらで、茶、 暗藍色 ( あんらんしょく )、せいぜいが 小紋 ( こもん )か 霰 ( あられ )ぐらい。 律義者 ( りちぎもの )の子だくさん、という 諺 ( ことわざ )のように、この国の特徴は、どこの軒からも 嬰 ( あか )ン 坊 ( ぼう )の声がよくすることである。 その頃、浜松、岡崎を通る旅人がきっということは、 「どこの辻も、 がきだらけじゃないか。 こんなに国中で子どもばかり生むから、ここの貧乏はいつまでも直りはしない」 と、いう評だった。 天正三年。 三方 ( みかた )ヶ 原 ( はら )以後、わずかまる三年とも経たないうちに、その興隆ぶりを、同盟国の織田や、敵国の武田とくらべてみても、 (なるほど、これじゃあ……) と、無理もないことを誰もうなずこう。 まず織田家の 勃興 ( ぼっこう )ぶりを数字のうえで見ると、ここ足かけ三年間に、足利 義昭 ( よしあき )を追い、浅井、朝倉を滅ぼして、急激にその領地を拡大している。 武田家は、三年前の三方ヶ原以後、およそ十一万石の地を 伐 ( き )り取り、全土で百三十三万石の富強を擁している。 それにひきかえ徳川家は、ここ三年ほどのあいだに、八万石の減地を示していた。 「忘るるな、この 稗 ( ひえ ) 粟 ( あわ )の軽い飯茶碗は、殿さまがそち達を好んで 飢 ( ひも )じゅうさせよとて、下されているものではない。 年ごとに武田勢に御領地を 伐 ( き )り 奪 ( と )られてしまうためじゃ。 お国を強うするには、造作もない。 こういう中で、岡崎城の家中近藤平六は、 新規 ( しんき )御加増となった。 もとより戦功があったからこそであるが、平六は心のうちで、 「なにやら申し訳ない」ような気がしてならなかった。 君恩のかたじけなさ、いうまでもないが、それだけ君家の 禄 ( ろく )を喰い 減 ( へ )らす気がした。 そうかといって、戦陣の恩賞を辞退するのも主家に対してよろしくない。 「近藤。 貴公はまだ、 大賀 ( おおが )どのの所へ行っておらぬそうではないか」 「は。 つい…… 取 ( と )り 紛 ( まぎ )れて」 「早く参って、新規御加増の 采地 ( さいち )は、どこの村か、どこを境とするか、よく 地方 ( じかた )のお指図を 承 ( うけたまわ )って、戴いたものは戴いたようにしておかねばいかんじゃないか」 「はあ、今日は、帰りに立ち寄って、よく大賀どのから伺いまする」 番頭 ( ばんがしら )から 叱言 ( こごと )をいわれて、近藤平六は大いに恐縮した。 その夕方彼は退出のもどりに、徳川家切っての 出頭人 ( しゅっとうにん )、 大賀弥四郎 ( おおがやしろう )のやしきを訪ねた。 おそらく浜松にも岡崎にも、大賀弥四郎ほどな屋敷を構えていたものはなかったろう。 彼は、三河 遠江 ( とおとうみ )三十余郷の代官だった。 また、地方 吟味 ( ぎんみ )、 税取立 ( ぜいとりたて )、岡崎浜松の勘定方や軍需品の買入役など、およそ経済方面の要務は、ほとんど兼ねているといっていい。 だから彼の門には、客が市をなした。 外部はそうでもないが、一歩邸内にはいると、ここばかりは岡崎ではないようだった。 建築庭園にも、召使の男女の 装束 ( しょうぞく )にも、都の 華美 ( かび )がそのままある。 客があれば、かならず贈り品が一緒に入り、奥に通れば、かならず 美酒佳肴 ( びしゅかこう )が主客のあいだに出る。 「……どうも好かん」 主 ( あるじ )の大賀弥四郎が出てくるあいだ、近藤平六は、借物のように、 豪奢 ( ごうしゃ )な書院にぽつねんと待たされていたが、自分の加増という用向きで来ているくせに、心は甚だ楽しまない。 「やあ、失礼失礼」 出て来た。 弥四郎である。 四十二、三の 巨男 ( おおおとこ )で、 盤広 ( ばんびろ )な顔に黒 あばたがいっぱいだ。 しかし、非常な才人であることは、その応対ですぐわかる。 ひと 事 ( ごと )のような気はせん。 妻ともはなしていたことだが、近藤どのも、お子は多いし、一族では本家分。 あははは、まあ、よかったよかった」 まったく、わが事のように、 欣 ( よろこ )んでくれるのである。 三河者の 朴訥 ( ぼくとつ )を、そのまま自分としている平六には、そのよろこびが、嘘かほんとかなどと疑ってみることもできなかった。 「いえ、赤面です。 さしたる戦功もないのに、御加増とは、まったく思いもよらぬ恩命で、なにやら却って、肩身がせまい気がいたしまする」 「なに、肩身がせまいと。 御加増をうけて、肩身がせまいといったのは、古今、近藤平六をもって、 嚆矢 ( こうし )とするじゃろう。 いや、 其許 ( そこもと )は実に、正直者じゃからのう。 そこがまた、勇者たる質のある 所以 ( ゆえん )かもしらぬて」 「なんですか、 番頭 ( ばんがしら )のおことばには、新規に戴いた采地の 地境 ( じざかい )とか、おさしずを承れと、申されて参りましたが」 「ありがたいお沙汰をうけながら、いつまでも、どうして来ないかと、わしも思っていたところじゃ。 いま御采地の 地方絵図 ( じかたえず )をお示しする。 まあ、きょうはゆっくりして行くがよい」 いつの間にか、もう平六の前にも 主 ( あるじ )の前にも、美々しい膳部や酒器が並んでいた。 それを運んで来たり、酒間をとりなす召使の女にしても、岡崎や浜松の女の 肌目 ( きめ )ではなかった。 わざわざ京都から 抱 ( かか )え入れたものらしい。 酒はきらいでないし、自分たちが日頃、惜しみ惜しみ飲んでいる粗製とはまるでちがう。 人間、誰しもこういう 一夕 ( いっせき )の悪かろう筈はない。 平六はすっかりいい気もちになった。 「もう……もう充分でござる。 お 暇 ( いとま )いたします」 「采地の事情も地境も、よく分ったろうな」 「わかりおります。 いろいろどうもお世話で」 「むむ。 ……ところで、近藤」 「はあ」 「自分の口から申しては恩着せがましいが、こんどの恩典も、実はこの弥四郎が、それとなく君前へおとりなししたればこそ、お沙汰が下ったのだぞ。 ……それだけは、記憶してくれい。 この大賀を疎略には思うまいが」 「…………」 平六は、 うんも すんも答えなかった。 興ざめた顔して、弥四郎の あばたを見まもっていた。 「お暇いたす。 御免」 近藤平六は、急に腰をあげた。 弥四郎はおどろいて、 「や。 もはや帰るとは」 「は。 帰ります」 「何か気にさわったのか。 貴公が、めでたい御加増となったのは、この大賀弥四郎の推挙によると、正直にいったのが……気にさわったのか」 「いや、そんなわけでもござらぬが、どうも不快で」 「そういえば、急に顔いろもよくないが」 「悪酔いしたかもしれません」 「酒は強いお身なのに」 「体の ぐあいでしょう」 匆々 ( そうそう )に、席を立って、平六は門を辞してしまった。 その日、別室のほうに、もうひとり客が来て飲んでいた。 これも大賀と同様に、岡崎の家中で羽ぶりのよい山田八蔵という御蔵方随一の出頭人だった。 よほど親しい間とみえ、八蔵はずかずかとそれへやって来て、 主 ( あるじ )弥四郎へむかい、 「ちと、 逸 ( はや )まった口外をなすったな。 あいつ、何か感づいて帰ったのではあるまいか」 と、いった。 弥四郎にも、同じ不安があったらしく、 「日ごろ、お人好しの平六といわれている人間、いと無造作に、こっちの恩を感じるかと思いのほか、急に いやな顔をして帰った。 ……どうやら俺のことばの裏を、変に 覚 ( さと )ったらしい気ぶりもある」 「では、生かしておけまい」 「そこまでの大事はまだ洩らしていないが……」 「 蟻 ( あり )の穴からという 喩 ( たとえ )もある。 拙者が追いかけて」 と、山田八蔵は、すぐ庭門のほうから出て、平六のあとを追った。 近藤平六は、送りに出て来た大賀の召使たちにも、ひと口のことばも交わさず、表門のくぐりから外へ出て来た。 そして宏壮な門を出て、黙ってふり向いていたが、 「……べッ」 と、 唾 ( つば )するように、何かつぶやいていた。 裏門から廻った山田八蔵は、その影をはやくも見つけて、 「どこで斬ろうか?」 と、土塀に身を 貼 ( は )りつけながら徐々に近づいて来た。 すると近藤平六は、表門から塀づたいに十歩も行くと、すぐ 塀際 ( へいぎわ )の 溝 ( みぞ )へ向って、屈みこんでいた。 どこの屋敷でも、すこし大きな構えとなると、かならず塀のまわりに 溝渠 ( みぞ )があり水がながれている。 そして、涙をこすりながら、 「ああ、 清々 ( せいせい )した」 と、つぶやいて、とことこ行ってしまった。 山田八蔵はその 容子 ( ようす )を見て、急に気が変った。 やはり彼がふいに辞去したのは、体の加減で、ほんとに悪酔いしたものにちがいない。 そのほかに深い意味があるように考えたのは、こっちの考え落ちだったと、思い直したのである。 とかく、大事のまえには 事勿 ( ことなか )れだ。 飲み直そう」 と、手をたたいて、京美人の 侍女 ( こしもと )たちを呼びあつめた。 ここばかりは、百難 克服 ( こくふく )、 挙藩 ( きょはん )一 致 ( ち )の窮乏岡崎の城下ながら、岡崎の外のようだった。 豊かなる「物」と 貪慾 ( どんよく )な精神とが、門を閉じて私慾の小国を作っていた。 近藤平六は、 物頭 ( ものがしら )の 大岡忠右衛門 ( おおおかちゅうえもん )の私宅を訪ねた。 「せっかくでござるが、新規の御加増は、そのまま殿へ返納いたしたく存じますから、御面倒ですが、その手続をお取りねがいたいので」 「何、御加増をお返しする? ……大賀殿のところへ伺ったか」 「行きました。 その結果」 「何としたわけだ」 「嫌になりましたから」 「ばかなことをいっては困る。 然るに、大賀がいうには、このたびの御加増も、ひとえに、自分が蔭にまわって、殿へ御推挙をしたためであるなぞと」 「そんなことを申されたか」 「大賀から恩をきるなど、耐えられません」 「大賀どのは一体がああいうお人なのだ。 この先とも、あのお方の憎しみをうけては、御奉公もし 難 ( にく )うなる。 まあ、まあ」 「いやでござる」 「強情だな、貴様も」 「お 頭 ( かしら )こそ、 諄 ( くど )いでしょう」 「何といおうが、御加増返納などという手続は取りようがない。 ところが数日の後、近藤平六はのこのこ浜松へ行って、家康へ目通りを乞い、ありのままを君前で 披瀝 ( ひれき )した。 「平六 微賤 ( びせん )ではございますが、大賀ごときに 追従 ( ついしょう )して、禄地を増し賜わらんなどという 穢 ( きたな )い心は持ちません。 左様な禄なら一粒なりとも、受けては武士の汚名と存じおります。 「…………」 家康も困った顔していた。 何しろ藩の財務にかけては、 懸 ( か )け 替 ( が )えのない才腕をもつ大賀であった。 「平六。 ……平六」 「はッ」 「いささかの加増は、家康が 心遣 ( こころや )りじゃ。 弥四郎の取り なしによるものでないことは、分っておろうが」 「でも、大賀の申すように世間に聞えましては」 「まあ、聞けい。 ……そちも忘れてはいまい。 わしが岡崎に在城の頃、或る年、田を見廻りに行くと、泥田の中に、百姓どもと打ち 交 ( ま )じり、大小を 畦 ( あぜ )において、そちも、そちの妻子も、稲を植えていたことがあろう。 ……あの時、わしは何というたか。 あの折の約束を、いささか今日、果したまでであるぞ。 ぐずぐず申さず受けておけい」 「はッ」 と、いったきり、平六はもう返すことばもなく感涙にむせんでいた。 そのことばを、家康も忘れず、平六も思い出して泣いたのであった。 武田 勝頼 ( かつより )は三十の春を迎えていた。 亡父 ( ちち )の信玄よりは遥かに 上背丈 ( うわぜい )もあり、骨ぐみも 逞 ( たくま )しかった。 美丈夫と呼ばれるにふさわしい風貌の持主であった。 と、故信玄の遺命はよく守られて来た。 けれど、年々その忌日には、 恵林寺 ( えりんじ )をはじめ諸山の 法燈 ( ほうとう )は秘林の奥にゆらいで、万部経を 誦 ( よ )みあげていた。 勝頼も、その日は、兵馬の事を廃して、 毘沙門堂 ( びしゃもんどう )のうちに 慎 ( つつし )み、眼に新緑を見ず、耳に 老鶯 ( ろうおう )を聞かないこと三日にわたっていた。 扉 ( と )をひらいて、 躑躅 ( つつじ )ヶ 崎 ( さき )の 館 ( たち )から、香煙を払った日である。 返書は、それがしより 認 ( したた )めてつかわしますゆえ」 と、一通の書面をわたした。 あたりには誰もいなかった。 大炊介の 容子 ( ようす )では、特にそういう折を見はからっていたようでもある。 「……お。 岡崎から?」 勝頼は、手にとると、すぐ封をやぶった。 あらかじめ、彼の胸にも受信の用意があるものにちがいない。 読み下してゆくうちに、その顔にもただならぬ色が動いた。 凛々 ( りんりん )と、夏近い若葉青葉に、 逞 ( たくま )しい声して 鶯 ( うぐいす )が啼きぬいている。 勝頼は、その若いひとみを、きっと窓外の天へ向けていたが、 「心得た。 その方より答えてやれ」 と、いった。 跡部 大炊介 ( おおいのすけ )は、はッと、彼の 面 ( おもて )を見あげ直して、 「そのように申し 遣 ( や )って、よろしゅうございますか」 と、念を押した。 勝頼はもう決然と、 「よしッ。 天の与えたもう機を逸してはなるまい。 お気づかいなものではございません」 「 遺漏 ( いろう )はあるまいが、 ぬかるなと、書中、申し添えてやれよ」 「承知いたしました」 大炊介は、 文殻 ( ふみがら )を返していただくと、ふかくそれを 懐中 ( ふところ )に秘して、また 倉皇 ( そうこう )と 退 ( さが )って行った。 私邸へではない。 館 ( たち )の内の一棟のほうへ。 そこは、他国の使臣や、諸方に放ってある 諜者 ( ちょうじゃ )などが、よく迎えられるところで、本丸やこの 曲輪 ( くるわ )とも絶縁された一 秘閣 ( ひかく )であった。 大炊介がそこへ入って、 幾刻 ( いくとき )ともたたないうちに、表の政務所のほうでは、にわかに 繁忙 ( はんぼう )なうごきが現われていた。 軍触 ( いくさぶ )れが発しられたのである。 夜になると、その混雑はなお増していた。 夜どおし、人影がうごき、城門の出入りはやまなかった。 夜が白みかけると、城外の馬揃いの広場には、すでに、約一万四、五千の兵馬と 旌旗 ( せいき )が、朝霧の底に、 粛 ( しゅく )として濡れていた。 まだぞくぞくと集まってくる将士があるらしい。 出陣を触れる貝が、日の出までに、幾たびか、甲府の町々を呼びさましていた。 ゆうべ手枕で 一睡 ( いっすい )したのみであった勝頼は、もう全身を 鎧 ( よろ )って、すこしも眠たげなものを顔に留めていなかった。 人いちばいな健康と、大きな将来への夢は、彼の肉体に、今朝の新緑のような若い露をたたえていた。 父の信玄が 亡 ( な )い後も、この三年間、彼は一日だに、 安閑 ( あんかん )としてはいなかった。 甲山 峡水 ( きょうすい )の守りは固いけれど、 遺封 ( いほう )をついで、それに甘んじているべくは、余りに彼の胆略と武勇は、父以上に備わりすぎている。 勝頼は、名門の出に多い、いわゆる不肖の子ではなかった。 むしろ、自負と、責任感と、天質の勇武があり過ぎたといっていい。 いかに秘しても、信玄の 喪 ( も )は諸国に洩れた。 機逸すべからずである。 小田原の北条も態度がちがって来た。 なおさらのこと、織田、徳川など、隙さえあれば、領界から 侵犯 ( しんぱん )して来る。 偉大な父をもった子は楽ではない。 しかもなお、彼は父の名を 辱 ( はずかし )めていなかった。 どこの 戦 ( いくさ )でも、五分に戦うか、かならず利を得て帰った。 やがて、何かの大機会に、 晴信入道信玄 ( はるのぶにゅうどうしんげん )ここにありと、 忽然 ( こつぜん )、世にあらわれてくるのではないか) と、いうような 疑心暗鬼 ( ぎしんあんき )のうわさが、諸国にみだれ飛んでいるくらいだった。 以て、彼がここ三年の、信玄亡きあとの努力と経営は 窺 ( うかが )われる。 「御出陣の前に、 美濃守 ( みののかみ )どのと、 昌景 ( まさかげ )どのが、しばしの間、お目通りを仰ぎたいと、申し出られておりますが」 はや立とうとしていた折である。 穴山梅雪 ( あなやまばいせつ )から勝頼へこういう取次があった。 馬場美濃守も 山県 ( やまがた )昌景も、ふたりとも父以来の功臣である。 勝頼は、ふとこう 訊 ( たず )ね返した。 「両名とも、出陣の身支度は、ととのえておるか」 「 鎧 ( よろ )うておられます」 梅雪の答えに、そうかと 頷 ( うなず )いて、やや安心したらしく、 「通せ」 と、ゆるした。 まもなく、馬場、山県の両将は打ち揃って勝頼のまえに出た。 果たせるかな、勝頼の予感はやはり 中 ( あた )っていた。 「昨夜、おそくの御陣触れ、とるものも取りあえず、かくは馬揃いまで馳せ参じましたなれど、つねにも似ず、御軍議もなく、いかなる御勝算あっての御出馬か。 この二将は、さすがに信玄仕込みの老練なので、勝頼の胆略にも武勇にも、大して心服していなかった。 日頃から勝頼もそれを感じている。 だが、ふたりの持説とする、 (ここ数年は守るに 如 ( し )かず) と、いうような保守主義は、彼の性情としても、若さからも、承認できないことだった。 「いや決して、無謀な出陣はせぬ。 くわしくは大炊がふくんでおる。 計 ( はかり )は密なるをもってよしとする。 そこへ迫るまでは、味方にも告げぬつもり。 悪 ( あ )しく思うなよ」 勝頼はそういって、巧みに、両将の 諫言 ( かんげん )を避けた。 馬場、山県の両将は、あきらかに、不快な顔いろを見せた。 といわれたことが、心外らしかった。 信玄以来の宿将たる自分たちにも計らず、これほどな大事を、跡部大炊などの輩と、軽々に決めて、兵馬をうごかされるなどとは……と、ふたりは同じ心を眼に見合って、しばらく 呆然 ( ぼうぜん )としていた。 やがて、美濃守が、 面 ( おもて )を 冒 ( おか )して、もういちど勝頼へいった。 そして、なお、 「お身たちの、案じてくれるは 欣 ( うれ )しいが、勝頼とて、今日の大事はぞんじておる。 御旗楯無! そのことばを聞くと、両将とも手をつかえて、心にそれを拝した。 この二品は、武田家に伝わる軍神の神体であった。 御旗というのは、八幡太郎義家の軍旗、また楯無というのは、家祖 新羅三郎義光 ( しんらさぶろうよしみつ )の 鎧 ( よろい )なのである。 どんなことでも、この 宝器 ( ほうき )のまえに 神盟 ( しんめい )したことは、 違 ( たが )えないということが、代々武田家の鉄則であった。 勝頼が、その 神誓 ( しんせい )の下に、起ったと云いきっては、もう二臣の諫言も、それを 強 ( し )いる余地はない。 君家の安危は、思い 断 ( た )つにも断たれなかった。 で、大炊の陣場を訪ねて、 「仔細は貴公から聞けとのお 館 ( やかた )の仰せであったが、いったい、いかなる秘策があって、かくは急に、御出兵と相成ったのか」 と、問い 糺 ( ただ )すと、跡部大炊介は、人を払って、得々とその内容を打ち明けた。 彼がいうところの機密な計とは、次のようなことであった。 家康の子、徳川信康がいま守っている岡崎の 財吏 ( ざいり )に、大賀弥四郎なる者がいる。 その大賀は、以前から自分を通して、武田家に内通し、お館におかれても、ふかくゆるしておられる。 おととい 躑躅 ( つつじ )ヶ 崎 ( さき )に来た使いは、その大賀弥四郎から密書をたずさえて来たもので、「機はいまや熟した」と報じている。 何となれば。 この二月以来、信長は 入洛 ( じゅらく )していて、 岐阜 ( ぎふ )は留守だし、加うるにその以前、信長が長嶋門徒の 剿滅 ( そうめつ )にかかったとき、家康から援軍を送らなかったので、二国同盟の信義も、このところ少しおもしろくない感情に 疎隔 ( そかく )されている。 いま甲軍の疾風のごとく、三河に出て、 作手 ( つくで )あたりまで攻めて来るなら、大賀は岡崎にあって、内部を 攪乱 ( こうらん )し、城門をひらいて甲州勢を迎え入れよう。 家康はきっと、伊勢か美濃路へでも逃げ 退 ( の )くことになろう。 「どうです、これこそ、天来の福音ではござるまいか」 大炊 ( おおい )はすべてが、自分の 画策 ( かくさく )であるかのように誇って話した。 ふたりは、もう何もいうことを欲しなかった。 跡部大炊とわかれて、自分たちの隊へもどって帰る途中、暗然と、顔を見あわせて、 「……美濃どの。 おたがいに、生きて亡国の山河は見たくないものだな」 と、 沁々 ( しみじみ )、山県三郎兵衛がささやくと、馬場美濃守もうなずいて、 「お身にしても、また、それがしにしても、早や人間の 定命 ( じょうみょう )には達しておる。 このうえは、よき死に場所を得て、先君のおあとを慕い、われわれが、 輔佐 ( ほさ )の任に足らなかった罪を、お詫び申すより道はない」 と、沈痛な眉をして云った。 馬場、山県といえば、信玄の 麾下 ( きか )に、その人ありと、多年、四隣にその名の聞えていた勇将である。 ふたりの髪には、はや白いものが 増 ( ふ )えていた。 信玄が死んでから後、急にそれは目立っていた。 甲山の緑は若く、 笛吹川 ( ふえふきがわ )の水はことしも強烈な夏を前に、 淙々 ( そうそう )と永遠の生命を歌っていたが、別るる山河に、 (再び 汝 ( なんじ )と 相見 ( あいまみ )えることを得るかどうか) と、無量な思いを抱いて立った将士がどれほどあったろうか。 信玄亡きのちの甲軍は、やはり 昔日 ( せきじつ )の甲軍ではなかったのである。 どこかに一抹の悲調と無常があった。 旗ふく風にも、足なみの音にもあった。 たとえば落日の赤さも、 朝陽 ( あさひ )の赤さも似ているようにである。 部隊部隊の旗じるし 馬簾 ( ばれん )などを見ても、また勝頼の前後をかためてゆく旗本たちの 分厚 ( ぶあつ )な鉄騎隊を見ても、甲軍衰えたりとは、どこからも見えなかった。 彼の豊かな頬には、かぶとの 眉廂 ( まびさし )にちりばめてある 黄金 ( こがね )が映じて、いかにもこの壮年の大将の前途を華やかに想わせたものだった。 彼は気負うほどな実績を、信玄の死後にも挙げていた。 徳川家の領域へ出て、そちこちの小城を攻め取ったり、 明智城 ( あけちじょう )を奇襲して、信長の鼻を明かしたり、また、不利と見れば、疾風のごとく、 還 ( かえ )り去るのも見事だった。 わけてこんどの出陣には充分の画策がある。 遠江 ( とおとうみ )から 平山越 ( ひらやまご )えにかかり、やがて目標の地、三河へ攻め入ろうと、その夜、河原をまえに野営していた時である。 対岸から泳いで来る敵方の侍があった。 見張の兵が、すぐ生け捕ってみると、これは小谷甚左衛門、倉地平左衛門というふたりで、徳川の士だが、徳川家の兵に追われて逃げて来たものと分った。 二人は、勝頼の面前へ、すぐ自分らを連れて行って欲しいと希望した。 何やら重大なことを急に告げたいというのである。 「なに? 小谷甚左と、倉地のふたりが、逃げて来たと……?」 勝頼は、待つ間も もどかしそうであった。 彼には何か思いあたりがあるらしく、 胸躁 ( むなさわ )ぐ心の影は、 眉 ( まゆ )にもすぐあらわれていた。 家康はゆうべよく眠らなかったらしい。 何か、非常な心痛をいだいているかのように見える。 今朝の顔は 腫 ( は )れぼったい。 新緑の生々たる朝だ。 かつて三方ヶ原の戦いのときでも、この浜松城の門を開け放しにして、敵の包囲軍を前に、 大鼾 ( おおいびき )で眠ってしまったほどな人だ。 きのう、岡崎の家中近藤平六が、目通りをねがい出て、 御加増返上、 という前例のない事件を持ち出し、平六一流の武士的良心から、極めて率直に、大賀弥四郎の 卑 ( いや )しいことばやその無礼を訴えて帰ったそのあとからのことである。 家康になだめられて、平六は感泣しながら、返上の願いは撤回して 退 ( さが )ったが、家康の胸には、深い憂いが残っていた。 と、不審を感じ出したのである。 主君たるものが、自身の重用している臣下にたいして、疑いを抱くほど、不幸の大なるものはなかろう。 心痛の深いものはあるまい。 外部の百難も、四隣の強敵も、それは恐るるに当らない。 むしろ敵なき国は亡ぶ、という真理をうしろに、よろこんで逆境また逆境を克服してゆく快味もある。 けれど、君臣のあいだの 疑心暗鬼 ( ぎしんあんき )は、ふところの敵である。 ひいては藩全体の病患ともいえる。 これを 治 ( じ )すには名医のごとき老練と政治的な果断が 要 ( い )る。 心身の疲労はここに原因があった。 「さむらい部屋に、又四郎はおるか。 見てまいれ」 小姓のひとりがすぐ、はいと答えて立って行った。 やがて、彼のいる書院の外に、肩肉の固そうな、色の浅ぐろい、三十がらみのさむらいが手をつかえた。 石川 大隅 ( おおすみ )の 甥 ( おい )で、典型的な三河武士である。 「お召しでございますか」 「オオ。 何やらちと退屈をおぼえた、そちを相手に、 象戯 ( しょうぎ )でもさそうかと思うて。 盤 ( ばん )をこれへもて」 妙なことがあるものと、又四郎は変に思ったが、主命なので、象戯盤を持って来た。 「久しく手にせぬから、そちには 敵 ( かな )うまいな。 ……そちは陣中でもよくやりおるそうだから」 駒をならべ始めた。 そして家康はまたうしろを見て、 「小姓たちもみなも、次へ 退 ( さが )って休息しておるがいい。 下手象戯 ( へたしょうぎ )をのぞかれると、よけい気が惑うていかぬもの」 と、笑って云った。 (おまえは陣中でもよく象戯をさしているそうだから、さだめし強いだろう) さむらいが主君からこんな 賞 ( ほ )め 方 ( かた )をされるのは名誉でないはずだが、石川又四郎にとっては、尠なくも不名誉ではなかった。 それには、こんな理由があるからである。 或る年の合戦に、家康は、敵の小城を取り詰めて、自身たびたび攻め口を巡視していた。 するといつも、城壁の上から、家康のほうへお尻を向けて、叩いて見せる敵兵がある。 「憎いやつだ」 家康は舌打ちして通ったが、翌日通ると、また塀の上にその尻が見える。 頻りと叩いている様子である。 「たれぞ、あの 醜 ( みぐる )しいものを、射落せ」 供の中にいた石川又四郎が、はッと答えながら、斜めに弓を持って、駈け出して行った。 そして、城壁の下へ、近々と寄って、矢ごろを 測 ( はか )り、丁ッと射ると、矢を立てた尻は、見事、下へ転げ落ちた。 ところが、とたんに城中からも、 ひょうッと、一本の矢が飛んで来て、又四郎の 喉 ( のど )に突き立った。 当然、彼は仰向けに倒れた。 味方は、声をあげて、 快哉 ( かいさい )をさけんでいたが、その 体 ( てい )に驚いて、たちまち彼のそばに駈け寄り、家康のそばまで、抱えて来た。 「…… 不愍 ( ふびん )な」 と、家康は、自分の手で、矢を抜いてやった。 そして、 「小屋へ 退 ( さ )げて、よく養生させてつかわせ」 と、命じた。 その晩、家康は陣所のうちで、 干飯粥 ( ほしいがゆ )を喰べていたが、ふと、 箸 ( はし )の間に、 「もう息をひき取ったであろうな」 と、左右へ訊ねた。 では息のあるうち、ひと目、見舞うてやろう」 と、箸をおくとすぐ、夜中なのに、傷病兵のいる小屋へ出向いて行った。 前触れも何もないので、軽い負傷者は、笑いばなしなどしていたし、重傷者は横たわって 呻 ( うめ )いていた。 家康が入ってゆくと、そこの一隅に、 蝋燭 ( ろうそく )を一本立てて、 象戯 ( しょうぎ )をさしている男がある。 見ると、そのひとりが又四郎だった。 「喉の 矢瘡 ( やきず )はどうした?」 と、呆れながらたずねると、 「好きな象戯をさしていると、痛みも忘れております。 明日は、御陣所へ 罷 ( まか )り出て、役目に就けるかと存じます」 と、 坐住居 ( いずまい )を直して答えた。 「ばかを申せ、もっと寝ていなければいけない」 叱って帰って来たが、家康は内心、 欣 ( うれ )しかったらしい。 あくる日、彼が首の根に布を巻いて、具足を着込み、まるで俵みたいな恰好して出て来たのを見ると、にやりと笑った。 家康が満足なときに洩らす微笑であったという。 彼の象戯には、こういう履歴があるので、 (あれは、喉に穴があいても、役目を怠らない男だ。 いわんや、象戯の好きぐらいに、心を 囚 ( とら )われる気づかいはない) と、主君から保証されたかたちになっていたのである。 今、その象戯盤を間において、又四郎は主君のお相手を命じられたが、駒をならべ合ったのみで、家康はいつまでも駒をうごかそうともしなかった。 「……いざ。 どうぞ」 当然、自分のほうが強い。 又四郎は、こう先手を 促 ( うなが )した。 「…………」 家康は眼をこらして、彼の顔をただ見ている。 主従ふたりが、どんな象戯をさしていたか、小姓も侍臣もいなかったので、知るものはない。 初めは、静かだった。 家康と又四郎とで、何か、密談でもしているふうであった。 そのうち、象戯の駒音が、すこし聞えた。 と思うと、まもなく、 「無礼であろう」 「無礼ではありません」 「いまの手は待て」 「待てません」 「主にたいして、そちは」 「たとえ、盤上の遊戯でも、勝敗のこと、主従の別はないはずでござる」 「強情なやつ。 待たぬか」 「 御卑怯 ( ごひきょう )でござる」 「こやつ、卑怯といったな、主にたいして」 大声で争いが始まったと思ううちに、家康の声で、おのれッと、起ち上がった様子。 つづいて、盤の駒が、一面に飛んだような物音と共に、大廊下のほうへ、だだだだと、逃げてゆく跫音がした。 「捕えろ、又四郎めをッ」 追いかけながら、家康はあたりへ怒号した。 手に脇差を抜いている。 「殿ッ、殿。 いかがなされましたか」 駈けつけて来る家臣たちへ、家康は口を極めて怒りをもらした。 象戯 ( しょうぎ )をさしているうちに、いつか主従の見さかいも忘れ、余りに暴言を吐くので、 懲 ( こ )らしめてくれようとしたところ、さらに 悪罵 ( あくば )を放って、逃げて行ったというのである。 「近ごろ、わしの 恩寵 ( おんちょう )に 狎 ( な )れすぎて、図に乗っていた又四郎のやつ。 是が非でも引っ捕えて、 窮命 ( きゅうめい )申しつけねばならん。 すぐ 縛 ( から )めて来い」 いつにない激色である。 大勢して 捜 ( さが )して見たが、もう城中にはいなかった。 夜になって、彼の住居を、追手の者がとり巻いたが、ここにもいない。 「夕方、岡崎の方へ、馬をとばして逃げて行った」 と、いう者がある。 それに石川又四郎の早足というものは、浜松第一の聞えがあった。 これも家康に 従 ( つ )いて戦場へ急いだ時のことである。 日頃、うわさを聞いていたので家康が、 「わしの馬に追いつけるか」 と、 戯 ( たわむ )れに 訊 ( たず )ねたところ、又四郎は、 「いとやすいこと」 と、答えたので、ひとつ困らしてやろうと、家康は、乗馬に 鞭 ( むち )を入れて駈けた。 ところが、一時は先へ駈け抜けても、やがて閉口するであろうと考えられていた予想を裏切って、その晩、宿泊する部落まで行くと、又四郎は先に着いて平然と待っていたので、 「 稀代 ( きたい )な足だ」 と、人々から驚かれたことがある。 その又四郎が必死で逃げたら、どう追っても捕まるまいと、追手の者は、先にあきらめていたのである。 だが、岡崎にも、すぐ 通牒 ( つうちょう )がまわったので、彼の所在は、きびしく 詮議 ( せんぎ )されていた。 すると、それから三日目か四日目ごろの夕方。 大賀弥四郎と並んで、岡崎の 御蔵方 ( おくらかた )支配をしている山田八蔵のやしきへ、そこの裏門をどうのり越えて入って来たか、ぶらりと裏庭にすがたを現わした男がある。 邸内の小侍を通じて、 「ぜひ、お目にかかりたい。 ……折入って、極く内密に」 と、主人八蔵に面会を求めた。 それが石川又四郎であった。 やがて一室に通された。 それも客書院でなく、奥まった密室である。 「どう召されたのだ。 ……いったい、そのお姿は?」と。 知らないはずはない。 浜松でも岡崎でも、隠れないうわさにのぼっている又四郎の境遇である。 「折入って、貴殿の義心に、おすがりに来ました。 彼の父 大隅 ( おおすみ )と八蔵とは、かつて同じ役目にいたこともあり、幼少から八蔵の顔はよく見知っていたのである。 「なに。 武士の情けに訴えてと。 どうしたのだ? ……」 「実は、かようでござります。 浜松の大殿と、 象戯 ( しょうぎ )のうえで、つい雑言を吐き、無礼者めがと、あわやお手討になろうとしましたが……戦場でなら知らぬこと、武士が象戯のうえの言葉ぐらいで死んでは無念。 いかに主君であろうと、多少の功名もあるさむらいを、余りなお仕打と」 「待て待て。 ……では、浜松を 逐電 ( ちくてん )いたして、 御詮議中 ( ごせんぎちゅう )とかいうのは、貴公のことだったか」 「はッ、拙者でございます」 「何たることだ!」 慨然 ( がいぜん )と、山田八蔵は声を 昂 ( たか )めた。 ……よろしい、 匿 ( かくま )って進ぜる。 案じぬがよい」 「か……かたじけのう存じまする」 「いったい、浜松の殿は、御名君の質ではあるが、どこか 冷 ( ひや )やかだ。 ときには 冷厳酷薄 ( れいげんこくはく )、お家のためには、何ものをも犠牲にして顧みぬところがある。 打てばひびくというふうに、又四郎も図にのって、その血気と 鬱憤 ( うっぷん )を、不平らしいことばの 裡 ( うち )にちらちら洩らした。 「まあ、湯にでも入って」 八蔵はやさしく情けをかけた。 情熱に感じやすい若者へは、甘やかし過ぎるほどよく 宥 ( いた )わった。 四、五日、彼はここに匿われていた。 そのうち噂もうすらいだ。 国外へ脱出してしまったものだろうという見解が、一般に又四郎の行方に下されて来たらしい。 「石川。 ……貴公のことばをお伝えしたところ、大賀殿にも、非常なおよろこびだ。 ぜひ会おうと仰せられる。 こよい、そっと 伴 ( つ )れて来いとのことだが……同道してくれるか。 もちろんそれがしが 伴 ( つ )いてゆく」 潜伏 ( せんぷく )している彼の部屋へ、 主 ( あるじ )の八蔵が来ての話しである。 又四郎は、眼に歓びを見せて、 「ぜひ、御同道を」 と、両手をつかえた。 懐中 ( ふところ )へ入って来た 窮鳥 ( きゅうちょう )にたいして、山田八蔵が何を語らったか。 彼と大賀弥四郎との関係を考えあわせれば、あえて 詮索 ( せんさく )するまでにも及ばない。 ふたりは夜に入ると、おたがいに、黒い 頭巾 ( ずきん )を 眉深 ( まぶか )にして、裏門からそっと出て行った。 大賀弥四郎のやしきは 彼方 ( かなた )に見えて来た。 そこを指さして、山田八蔵が何か彼の耳へ 囁 ( ささや )きかけると、 「 謀叛人 ( むほんにん )ッ。 汝らの 企 ( たくら )みはもう明白だ。 「 上意 ( じょうい )!」 又四郎に組みつかれていた。 だッと、大地に投げ伏せる。 そして馬乗りだ。 逆らうので、又四郎は二つ三つ彼の顔の真ん中へ 鉄拳 ( てっけん )を喰らわせておいてから、 「騒がない方が身のためだろう」 と、穏やかに 諭 ( さと )した。 八蔵はあらん限りの抵抗を試みたが、その無意味を覚ると、 脆 ( もろ )くもさけんだ。 「く、くるしい。 手を、手をゆるめてくれ」 「云い分があるのか」 「まったく貴様は上意をうけて来たのか。 すべては殿のおいいつけである。 詐 ( いつわ )ってお城から逃げ出したのも、汝ら一味の企みを探らんためにその方のやしきへ逃げ込んだのも……」 「む、む。 ……では、あざむかれたのか」 「歯ぎしりしたところで、もう及ぶまい。 潔 ( いさぎよ )く君前で自白したら、せめて打首ぐらいはおゆるしになろう」 かねて岡崎の奉行とも 聯絡 ( れんらく )はあったらしい。 又四郎は彼を 引 ( ひ )っ 縛 ( くく )ると、その体を小脇にかかえて 疾風 ( しっぷう )のように駈け出した。 そして奉行所に 抛 ( ほう )りこみ、またたく間に、人数をととのえて、大賀弥四郎の 邸宅 ( ていたく )を包囲した。 奉行の大岡孫右衛門や、その子伝蔵や、また今村彦兵衛などは、又四郎の友人として、討手の中に参加していた。 来たものは、殺陣だった。 上意! 君命! と叫びかかる意外な人数であった。 さきに又四郎の手で縛られた山田は、すぐ浜松へ廻送され、一切を自白したかどで、一命はゆるされたが、髪を切って、 懺悔 ( ざんげ )の一文をあとに残し、どこへ去ったか行方知れずになってしまった。 で、 首魁 ( しゅかい )の大賀弥四郎の陰謀は、吟味までもなく、明白であった。 「厳刑に処せ」 と、家康の怒りは、いつになく 峻烈 ( しゅんれつ )をきわめた。 打首 ( うちくび )、 磔 ( はりつけ )、二日にわたって、 夥 ( おびただ )しい血が、大賀一個の叛心のために、士気粛正の犠牲にされた。 ついきのうまで、ひとつ領土に語らい合っていた人も、相見て 笑 ( え )みを見交わしていた者も、いまは刑場の 他人 ( ひと )として見送られた。 傷 ( いた )ましい極みである。 しかも国境の近くには、武田勢の進出というただならぬ 緊迫 ( きんぱく )の中だけに、領民の憎しみも強かったが、悲しみも深かった。 あわれなのは、大賀の妻であった。 取調べの 口書 ( くちがき )によると、彼は捕われる幾日かまえに酒の上であろうが、妻に向って、 (これしきな生活は、まだおれを満足さすものではない。 いまにそなたも、 御台様 ( みだいさま )と諸人から仰がれるようにしてやるぞ) と、 謀叛 ( むほん )の旨をほのめかした。 妻は驚き、かつ嘆いて、 (冗談もほどにして下さい。 わたくしは、現在の 贅沢 ( ぜいたく )ぐらしさえ、幸福だとは思っていません。 今でもなつかしく思うのは、あなたがまだ 中間 ( ちゅうげん )勤めをしていた頃の貧しい暮しです。 あの時分のあなたは、妻にも真実があり、人様にも真実につきあい、夫婦ともに行く末をたのしんで、明け暮れよく働きました。 ……それがお 上 ( かみ )のお目にとまって、今日、 御譜代衆 ( ごふだいしゅう )でさえ、 真似 ( まね )のできないほどな御出世をなさりながら、何が不満で、そんな 企 ( たくら )みをなさいますか) と、問いつめ、泣いて意見したが、大賀は せせら笑って、耳にも入れなかったらしい。 彼女がそのとき 良人 ( おっと )に予言した天罰の日は、 覿面 ( てきめん )に今日、弥四郎を迎えに来た。 それは一頭の赤い馬であった。 すると外の辻に、もう民衆が騒いで待っていた。 ひとりは 幟 ( のぼり )を持っている。 また同じ文字のある小旗を弥四郎の 襟 ( えり )くびにも 挿 ( さ )した。 幟 ( のぼり )と馬が先に歩き出すと、その後から大勢の者が、 螺 ( かい )をふいたり、 鉦 ( かね )を叩いたり、笛太鼓も入れて、 囃 ( はや )し立てて行くのだった。 その雑然たる音階は、 罵 ( ののし )るごとく、 嘲 ( あざけ )るごとく、 蔑 ( さげす )むごとく、笑うごとく、一種不思議な交響を町中にひろげて行った。 「けだものが行く。 けだものが送られて行く」 「けだもの 囃子 ( ばやし )。 けだもの囃子」 石を投げるもの、 唾 ( つば )するもの、子どもまでが 真似 ( まね )て、 「ひとでなしッ!」 と、さけぶ。 役人も止めないのである。 もっとも止めたら、民衆はもっと 激昂 ( げっこう )して抗争を捲き起すかもしれない。 さいごには、弥四郎の首に板をはめて、両足の 筋 ( すじ )を 断 ( き )り、城下の辻に生きながら首だけ出して埋められた。 側には、 竹鋸 ( たけのこぎり )がおいてあるので、往来の旅人まで憎んでその首の根を 挽 ( ひ )いたという。 いかに不義を憎むにしても、ちと 惨刑 ( ざんけい )のようだが、大賀弥四郎もさいごまで太々しいところを見せている。 彼のため、ことごとく斬刑に処された念志ヶ原の刑場を通ったとき、彼は馬の三頭からあたりを見まわして、 「みな先に行ったか。 おれは 殿軍 ( しんがり )とみえる。 先とはめでたいものよ」 と、 呟 ( つぶや )いていたという。 けだもの囃子がすむと、庶民はもう忘れたような顔していたが、家康は胸のうちで自分の不明を責めていたにちがいない。 世は戦国と誰もいう時勢である。 だからたまたま、調法な男を見出すと、つい 寵用 ( ちょうよう )する。 奢 ( おご )りも見のがしておく。 財務の 名匠 ( めいしょう )たることは、戦陣の名将たる以上、人間として 難 ( むずか )しいものとみえる。 武田勝頼の大軍は、すでに三河に入っていた。 そしてなおも大行軍の途中にあったのである。 「 征 ( ゆ )かんか? 還 ( かえ )らんか?」 勝頼の迷いは深刻だった。 落胆のほども思うべしである。 実に、こんどの出動は、ただただ大賀弥四郎の内応一つにあった。 作戦、目標、すべて岡崎の内部から、 攪乱 ( こうらん )と呼応のあることを、かたく期して来たのである。 のみならず、甲軍の方策は、早くも徳川方に読み抜かれてしまったわけである。 「ここまで来ながら、むなしく還るのも 潔 ( いさぎよ )くない。 ……というて、 うかと前進もならず」 彼の 剛毅 ( ごうき )な気性は、ひたすらそこに悩んだ。 また、 甲州発向 ( こうしゅうはっこう )の際、しきりと 軽挙 ( けいきょ )を 諫 ( いさ )めた馬場や 山県 ( やまがた )の両将にたいしても、意地がはたらいた。 「兵、三千は 長篠 ( ながしの )へ向え。 小山田 昌行 ( まさゆき )と、 高坂昌澄 ( こうさかまさずみ )の二将は、別れて 長篠 ( ながしの )へすすんだ。 そして、 篠場野 ( しのばの )あたりに、陣していた。 何ら、 成算 ( せいさん )のない勝頼は、 二連木 ( にれんぎ )や 牛窪 ( うしくぼ )などの部落を放火して、いたずらに 示威 ( じい )して廻っただけであった。 吉田城へはかからなかったのである。 なぜならば、この時すでに、家康と信康の父子は、内乱者の清掃を一気にかたづけて、疾風のごとく、 薑 ( はじかみ )ヶ 原 ( はら )まで、兵馬をすすめて来たからだった。 勝頼の大軍が、進退に迷って、単なる面目のためにうごいて来たのとちがって、徳川勢は、内部の 叛逆 ( はんぎゃく )どもを血祭りとして、 「亡国か。 興国か」 の大きな衝動をそのまま抱いてここに駈けつけて来たのであるから、兵数は 劣弱 ( れつじゃく )でも、意気ごみは、彼とはまるで違っていた。 薑 ( はじかみ )ヶ原では、 先鋒隊 ( せんぽうたい )と先鋒隊とのあいだに、二、三度、小 ぜり合いがあっただけである。 長篠へ」 と 長駆 ( ちょうく )、急転回して、一たん徳川勢にうしろを見せ、他に期するものあるが如く、遠く去ってしまったのである。 長篠! ここは 宿怨 ( しゅくえん )の戦場だ。 それはまた、不落の 堅城 ( けんじょう )といわれている。 もと、永正年間には、今川家が抑えていた所である。 地形、交通、あらゆる角度から見て、ここは軍事上、重要な地点だった。 ここを持つ持たないは、単に一城の価値だけではなかった。 だから、 戦 ( いくさ )のない日でも、長篠の城には、あらゆる策謀の手、裏切り、流血など 反覆 ( はんぷく )常なきものが繰返されて来たのである。 いま思いあわせると、さきに小山田、高坂の一部隊をさし向けたのみで、主力は吉田を衝くと見せ、急にまたここへ 迂回 ( うかい )して来たのは勝頼の巧みな 偽動進軍 ( ぎどうしんぐん )だったかも知れない。 窮 ( きゅう )したりとはいえ、二日も三日も無策にうごいて、むなしく兵馬を疲らすような凡将の彼ではなかった。 東北の 搦手 ( からめて )は、すべて山といってもいい。 大通寺山、 医王寺 ( いおうじ )山など。 濠 ( ほり )は自然にながれている大野川、滝川の二流を、幅ひろく 繞 ( めぐ )らし、その幅は、三十間から五十間もあった。 崖の高さも、低いところで九十尺。 高いところは百五十尺もある絶壁だった。 水深は五、六尺にすぎないが、激流だった。 もっとも、場所によって、怖ろしく深いところもある。 しぶきをあげ、渦巻いている 奔湍 ( ほんたん )もある。 平常、この水流の地理は、おそろしく秘密が厳守されている。 水深を考えたり、写筆を 携 ( たずさ )えたりなどして 佇 ( たたず )めば、何者であろうと、お 濠番 ( ほりばん )は、望楼のうえから一発の 下 ( もと )に射殺してかまわないことになっている。 この 天嶮 ( てんけん )の濠をなしている河流をへだてて、西南の一部は、平野であった。 有海 ( あるみ )ヶ 原 ( はら )、 篠場 ( しのば )の 原 ( はら )などと呼ばれている。 その野末を、 船着山 ( ふなつきやま )の連山がかこみ、 鳶 ( とび )ヶ 巣山 ( すやま )も、そのうちの一峰であった。 「何と、物々しい……」 城将の 奥平 ( おくだいら )貞昌は、その夕方、望楼に立って、余りに入念な敵の配置に、身の毛をよだてた。 物見の者の 通牒 ( つうちょう )を綜合してみると、 搦手 ( からめて )方面の大通寺山には、武田信豊、馬場信房、小山田 昌行 ( まさゆき )などの二千人。 西北には、一条信龍や 真田 ( さなだ )兄弟の隊や、また土屋昌次らの二千五百が陣している。 滝川の左岸には、小幡隊、内藤隊。 南方の 篠場 ( しのば )の原の平地には、武田 信廉 ( のぶかど )、穴山梅雪、 原昌胤 ( はらまさたね )、菅沼 定直 ( さだなお )などの三千五百余。 また、遊軍とみえ、有海ヶ原いちめんに、山県隊、高坂隊の旗じるしが、夜目にも 翩々 ( へんぺん )とうごいて見えた。 さらに。 攻城はその夜から始まって、十一日のたそがれまで、八方から攻めたて、城中の者は防戦に息つく間もなかった。 篠場の平地にいる甲州勢は、 筏 ( いかだ )を組んで滝川の激流にうかべ、城の 野牛門 ( やぎゅうもん )を目がけて、幾たびも近づいて来た。 鉄砲、大石、木材などが、無数の筏を沈没させた。 が、彼らは 怯 ( ひる )まない。 筏は、あとからあとからつながって来る。 城兵は、油をそそぎ、 炬火 ( たいまつ )を投げた。 河も燃え、筏も燃え、人間も燃えた。 「あまりに短兵急。 眇 ( びょう )たる小城一つに、犠牲のみ大きすぎる」 山県三郎兵衛は、勝頼の指揮にたいして、時折、心痛した。 老将の眼から見ると、 総帥 ( そうすい )たる人のそういう心理は案じられるものだった。 西北の一条隊や土屋隊の如きは、地下道を 鑿 ( ほ )りはじめたのである。 地下道は本丸の西の 廓内 ( かくない )へ 鑿 ( ほ )り抜けて出る計画の下に、夜も日もついで、 坑口 ( こうこう )から土をあげた。 蟻 ( あり )の穴のように、無数に盛りあげられた土山を見て、城将もさてはと気づき、城中からも坑道を 鑿 ( ほ )り出した。 そして、火薬を仕掛け、敵の坑道を、爆砕してしまった。 甲軍の死者は、このときだけでも七百余人といわれている。 地下道戦に失敗した寄手は、こんどは空中作戦の 挙 ( きょ )に出た。 大手門のまえに、幾ヵ所も、 井楼 ( せいろう )を構築し始めたのである。 井楼の様式もいろいろあるが、ふつうは巨材を 井桁 ( いげた )に組み上げ、それを何十尺の高さにまで築いてゆく。 これは都市城壁をもつ中国では古くから行われている戦法で、車をつけた移動 井楼 ( せいろう )などもあった。 日本では、城の位置が、各地とも、山岳の山城本位から低地の平城主義に移って来た傾向とともに用いられ出したものである。 守将の奥平貞昌はまだ二十四歳の若さで、城兵五百余人の生命と、この一城の運命を 担 ( にな )ったが、彼は沈着に、寄手のあらゆる奇手に対して、よく機を見、よく 酬 ( むく )い、よく変じ、よく処した。 四ヵ所の井楼が完成した十三日の未明である。 武田勢は、夜明けもまたず、それへ 攀 ( よ )じ登って、銃口を並べ、また 焔 ( ほのお )の枯れ柴や 油布 ( あぶらぬの )へ 分銅 ( ふんどう )をつけて、火の鳥のように、大手門の内へ投げこんだ。 そこここへ落ちてくる焔に、城兵たちの消防に努める影が赤く映る。 井楼のうえの空中戦は、一斉に火ぶたを切って、それを狙い撃ちした。 ここまでは圧倒的に、甲州軍の成功が予測されていた。 ところが、夜来、城頭に立ったきりで、眠りもせず見まもっていた青年守将が、ひとたび、 「撃てーッっ」 と、令をさけぶと、たちまち天地を 震撼 ( しんかん )して、かつて甲州の将士の耳には、聞いたこともない 轟音 ( ごうおん )が、城の数ヵ所から火を吐いた。 小銃の力を、何十倍にもしたような、巨銃であった。 井楼は粉砕された。 次々と、地鳴りして崩れ、そのうえにいた銃手や指揮者は、あらかた戦死したり重傷を負った。 徳川家の経済貧困はいうまでもなく、上下質素が平常であったが、新鋭な武器の購入には、どんな犠牲も払っていた。 富力のある武田家が、文化の移入に不利な地勢にあるにひきかえて、三河、 遠江 ( とおとうみ )は中央に近く、海運の便もあったので、富める甲州軍の持たないものをも、貧しい徳川勢はすでに備えていたのである。 とにかく甲州方は、よほど巨銃の威力に驚いたとみえ、 「無理押しすな」 と、それ以来、攻撃手加減が変って来たのは事実であった。 「 躁 ( さわ )ぐに及ばぬ」 貞昌 ( さだまさ )は、兵の 妄動 ( もうどう )を 戒 ( いまし )めた。 夜が明けてみると、寄手の兵が、大岩巨岩を、搦手の谷へ、ただ転げ落していただけのものだった。 「もしあわてて、城の一角でも崩れたかと度を失って 躁 ( さわ )いだら、敵に虚を衝かれたろう」 貞昌は笑って云った。 それは、怒るよりも、 哭 ( な )くよりも、深刻なものだった。 巨銃は長く使用にたえない。 小銃の 弾 ( たま )もない。 弓や矢では防ぎに足りない。 「城中 兵糧 ( ひょうろう )は、もういくらもないぞ。 いたずらに、力攻めして兵を損傷するには当らん」 十三日の総攻撃以後、寄手は求めて血みどろになることを 熄 ( や )めてしまった。 城を 繞 ( めぐ )る滝川と大野川一帯の河中に、 杭 ( くい )を打ちこみ、大綱を張りまわし、岸にはすべて 柵 ( さく )を 結 ( ゆ )って、孤城 長篠 ( ながしの )を、文字どおり、蟻の這い出るすきもないほど、完封してしまった。 「……なに、もう兵糧は、四、五日分しかない? それ以上、持ち 耐 ( こた )える糧食は、何物もないのか。 何物も」 奥平三九郎貞昌は、今日、あらためてまた、その窮迫を訴えに出た 粮米方 ( ろうまいがた )の武士を前にして、幾度も念を押した。 だが貞昌は、その言葉を、そのままに受けきれなかった。 城中五百の生命を、もう四、五日限りと断じてしまうと同じだからである。 「実地に見せい。 城中、 隈 ( くま )なく歩いたところで、方六町しかない小城である。 結果は、三九郎貞昌に、より以上、絶対的な覚悟を与えただけである。 節食はもちろん、喰えるものは喰い尽し、穀倉の中の土まで 篩 ( ふるい )にかけてつないで来た奉行の苦心を聞くと、彼は、何もいえなくなった。 黙々、帰って来ると、大勢の将士がいる 武者溜 ( むしゃだま )りの真ん中にどっかり坐ってしまった。 人々は、貞昌の顔色に、すべてを読みぬいていた。 「 勝吉 ( かつよし )! ……勝吉はおろうが」 ふいに 面 ( おもて )をあげて、 洞窟 ( ほらあな )のような 大床 ( おおゆか )の人影をみまわした。 明 ( あか )り 採 ( と )りの 狭間 ( はざま )に近く 凭 ( よ )って、黙然と膝をかかえていた 従兄弟 ( いとこ )の奥平勝吉が、 「これにおりますッ」 明晰 ( めいせき )に答えて、前へ進み、じっと、 眸 ( め )をあげたまま両手をつかえた。 三九郎貞昌は、彼を見ていた眼をふと一同に移して、 「ほかの者も聞け。 いまもつぶさに調べたが、城中の 糧 ( かて )は、 剰 ( あま )すところ、あと四、五日分しかない。 死馬を喰い、草を喰うとも、幾日をつなぎ得よう。 ……そこでだ」 と、ふたたび勝吉へ、その眼を転じて、 「いま岡崎にお 在 ( わ )す殿の許へ、わしの書状をもって、 後詰 ( うしろまき )の催促にまいってくれい。 大任じゃぞ、勝吉。 よいか、そちに命じる貞昌の心を 酌 ( く )めよ」 「……あ。 お待ちください」 「何か」 「お断りします。 ……城外の河には 逆茂木 ( さかもぎ )をうちこみ、縄を張りめぐらし、鈴を 結 ( ゆわ )いつけ、岸には高く 柵 ( さく )を結いまわしてある寄手の警備に恐れて、 所詮 ( しょせん )、そちには突破できぬというのか」 「何をもって……」 勝吉は、苦笑して答えた。 「城中にいるも死、城外へ出るも死、ふた途はありますまい。 私がお断りするわけは、自分、若年でこそありますが、守将たるあなたの一族です。 ここは飽くまでそれがしの死所でござる。 故に、城外へ出ることはできません」 すると、薄暗い隅のほうで、おうッ…… 嗚咽 ( おえつ )に似たような声をあげた者がある。 貞昌の家来、 鳥居強右衛門 ( とりいすねえもん )とよぶ軽輩であった。 みな、彼を振向いた。 そして、 強右衛門 ( すねえもん )か、と軽く知ると、眼の中へも入れない顔をした。 陪臣 ( ばいしん )の端くれで、五、六十石にすぎない軽輩と、身分を 蔑 ( さげす )んだわけではない。 全城一心のいまだ。 生死を共に期しているいまだ。 そんな けじめは誰にもない。 律義者 ( りちぎもの )の子沢山というが、この男も、まだ三十六というのに、子どもは四人もかかえている。 微禄 ( びろく )なので、平常の貧乏は、岡崎にいても、城下で指折りのほうである。 内職もやる、百姓仕事もする、それでもなお喰えないとみえ、非番の日は、 腫物 ( できもの )だらけな子どもを負い、 洟垂 ( はなた )らしの手をひいて、諸家の弓直しや具足の手入れなどさせて貰って 糊 ( のり )をしていた。 もっとも、彼の妻が生来弱いので、子を生むとか、病床にいるとか、とかく事欠きがちなので、久しぶり戦場から帰っても、強右衛門は、 暢々 ( のびのび )するひまもなかったのである。 また、こういう妻には、こういう良人が、よく配偶されているように、強右衛門は、世俗でいう「気ばたらき」の至ってない、 鈍々 ( どんどん )として、ただ真正直が取柄だといわれるような性格だった。 ……というて、むなしく援軍の来るのを待つもどうか。 わずか四、五日しかない 兵糧 ( ひょうろう )を喰って」 三九郎貞昌は、再度、 呻 ( うめ )くようにいって、左右の者の顔を、一つ一つながめた。 たれか、勝吉に代るべき、よい使いはないものかと物色しているような眼で。 「…………」 果てしない沈黙がつづく。 そのあいだを、 搦手 ( からめて )かどこかで小銃の音が聞える。 小競 ( こぜ )り合いと見て、それには誰も動じなかったが、当面の問題には、まったく 困憊 ( こんぱい )のいろを 漲 ( みなぎ )らしていた。 強右衛門は、武者溜りの隅のほうから、のそのそと、這いすすんでいた。 守将、副将のそばへ寄るほど、上席の者が座を占めているので、身を 容 ( い )れる余地はなかった。 「御評議中でございまするが……強右衛門から、おねがいのこと、申しあげてよろしゅうございましょうか」 人々のあいだから、低く両手をつかえて、彼の丸い背がおそるおそる云った。 守将の貞昌が、じっと、それへ 眸 ( ひとみ )をそそいだ。 「なんじゃ、 強右衛門 ( すねえもん )」 「ただ今、勝吉様へ仰せられていたお使いの役目は、御一族でなければいけませんでしょうか」 「左様なことはない」 「てまえでは、勤まりませぬか。 そのお役目、強右衛門めに、おいいつけ下さいませんでしょうか」 「なに。 出来るものなら」 「……?」 貞昌もすぐ答えかねた。 彼の鈍重を危ぶみもしたが、日頃、広言一つ吐かない男が、ふいに云い出したことなので、やや 愕 ( おどろ )いたふうでもある。 ず、ず、と強右衛門は 巨 ( おお )きな体を無意識に押しすすめて来た。 そして懸命に、 「おねがい致しまする。 てまえに出来ることならば、おつかわし下さいませ」 と、 額 ( ひたい )を 床 ( ゆか )にすりつけた。 人々はただ彼を見まもっていた。 みな貞昌と同じ感を抱いていたにちがいない。 なぜなら彼のすがたにも声のうちにも怖ろしい真実の光が見えていたからである。 その時、ひとりの城兵が、あわただしく駈けて来た。 手に密封された一通の書面を持ち、 「今しがた、 弾正曲輪 ( だんじょうぐるわ )の 外土居 ( そとどい )を見廻っていると、土民のすがたに 窶 ( やつ )した男が、河向うから声をかけ、 矢文 ( やぶみ )としてこれを射込んで来ました。 ……どうやらお味方の密使らしく思われました」 と、いうのであった。 さては! と人々は希望の眼をかがやかした。 三九郎貞昌は、すぐ 被 ( ひら )いて、一読していたが、しきりとその手紙を鼻にあてて 嗅 ( か )いでいた。 文面には、籠城の見舞や、信長自身の動静が、細々書いてある。 主要は、何分にもいま、信長の立場は、多端なので、徳川殿からしきりに御催促はあるが、急に、派兵もでき難い。 貞昌は、苦笑した。 やがてその内容を、一同へ読み聞かせてから、 「甲州の智者にも抜け目があるの。 これは偽手紙とはっきりと云い 断 ( き )れる。 なぜならば、信長はつねに京都へ出入りし、 公卿 ( くげ )たちと文事のやりとりもあろうに、筆墨に心を用いぬ筈はない。 この 墨 ( すみ )のにおいを 嗅 ( か )いでみるに、 京墨 ( きょうずみ )のあの芳香はどこにもせぬ。 貞昌はさっきからじっと自分の前に平伏している 強右衛門 ( すねえもん )に向って、初めて力づよく、こういった。 「強右衛門。 その一心ならば、きっと寄手の重囲を脱けて、使いの役を、果し得よう。 ……行くか。 参ってくれるか」 「おゆるし下されば、ありがたいしあわせでござりまする」 強右衛門は飽くまで大言を吐かないのである。 見ている者でも不安なほど、平身低頭したままであった。 「たのむぞ」 貞昌は、その一言を、 満腔 ( まんこう )からいった。 城兵五百の生命と、徳川家の浮沈のためだ。 主君とはいえ、彼のほうからこそ、手をついて頼みたいところだった。 「行け。 よいか」 「はい」 「そちが、身支度をととのえるあいだに、岡崎の兄 貞能 ( さだよし )へ宛ててつぶさに書面を 認 ( したた )めておく。 なお城中の切迫している実情は、直接御主君家康様へ、口上をもって申しあげるように」 「かしこまりました。 三九郎貞昌より、岡崎の殿へ申しあげ、われらすべてここに討死いたすとも、きっとそちの子はお取り立てを願うておくぞ。 その儀は、くれぐれ心にかけぬがよい」 すると強右衛門は、頭を横に振って、いかにも 屈託 ( くったく )なく答えた。 「 憚 ( はばか )りながら、殿こそ、そんな御心配は、御無用にぞんじまする。 強右衛門はいま、妻子のために働くのではございません。 城中五百余の方々のお身代りに立つ覚悟……。 それゆえにこそ強く大きく振舞えますものを、 御斟酌 ( ごしんしゃく )では、却って、強右衛門 奴 ( め )が、臆病に相成って困りまする」 その晩、強右衛門は部屋へさがって、ただひとり、針を持って、 縫物 ( ぬいもの )をしていた。 針と糸も、戦陣では、さむらいの 嗜 ( たしな )みのひとつだった。 彼は、かねて敵方の死骸から 剥 ( は )いでおいた人夫の短い衣服を膝にひろげている。 その 襟 ( えり )を解いて、中へ、城主貞昌の密書を縫いこんでいるのであった。 同役の者とみえ、時々、 板扉 ( いたど )を細目にあけて、 「強右衛門。 ……まだいるか。 まだ出かけないか」 彼の大任を案じて、 他人事 ( ひとごと )ならず、心配してくれているらしい。

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妖僧記・絵本の春・貴婦人[翻訳版] 泉鏡花 現代語訳集 短編2 (銀雪書房)

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湖畔の城は、日にまし重きをなした。 長浜 ( ながはま )の町には、灯のかずが夜ごとのように 増 ( ふ )えてゆく。 風土はよし、天産にはめぐまれている。 しかも、城主に人を得て、 安業楽土 ( あんぎょうらくど )の国とは、おれたちのことなれと、 謳歌 ( おうか )せぬ領民はなかった。 ここで一応。 秀吉 ( ひでよし )の家族やら家中の人たちを見覚えておくのも無益でなかろう。 なぜなら、彼の幸福は今の家庭にあるし、彼が一国の 主 ( あるじ )として持った家中の備えもここに整ったかの観があるからである。 まず、家庭には。 母があり、妻がある。 そして近頃、子もあった。 於次丸 ( おつぎまる )どのという。 けれど、 寧子 ( ねね )が生んだのでも、彼が他の女性にもうけた子でもない。 ふたりの仲に子がないのはさびしかろ。 そう主君の信長がよくいうことばから、信長の第四子をもらって、養子としたのである。 秀吉の弟、あの中村の 茅屋 ( あばらや )で、よくピイピイ泣いていた弟の 小竹 ( こちく )は、いまはすでに、立派な武将となって、 羽柴 ( はしば )小一郎 秀長 ( ひでなが )と名のり、そのかたわらに業を 援 ( たす )けていた。 また、妻の弟の木下 吉定 ( よしさだ )も。 それにつながる親族たちも。 重臣には、 蜂須賀彦右衛門 ( はちすかひこえもん )、 生駒甚助 ( いこまじんすけ )、加藤作内、増田仁右衛門、すこし若い家士のうちには、彦右衛門の子、父の名をついだ小六 家政 ( いえまさ )、 大谷平馬吉継 ( おおたにへいまよしつぐ )、 一柳市助 ( ひとつやなぎいちすけ )、 木下勘解由 ( きのしたかげゆ )、 小西弥九郎 ( こにしやくろう )、 山内猪右衛門一豊 ( やまのうちいえもんかずとよ )など、 多士済々 ( たしせいせい )といえる。 いやもっと、元気いっぱいで、いつも 騒々 ( そうぞう )しく賑やかなのは、小姓組であった。 ここには。 福島 市松 ( いちまつ )がいる。 加藤 虎之助 ( とらのすけ )がいる。 仙石権兵衛 ( せんごくごんべえ )がいる。 芋 ( いも )の子やら雀の子やら分らないのがまだ沢山いる。 よく喧嘩があった。 たれも止めないのでいい気になってやる。 大きな福島市松などが、よく鼻血を出して、鼻の穴に紙で 栓 ( せん )を かってあるいているのが見かけられたりする。 どうした? とも誰も 訊 ( き )かない。 かれらはよい侍になるのが目的なので、侍のみがいるこの城中に起居していることは、すでに 学寮 ( がくりょう )にいる学生も同じだった。 いいこと悪いことみんな 真似 ( まね )する。 取捨分別 ( しゅしゃふんべつ )はおのずから知るに任せてある。 中でこの頃、急に大人しくなったのは虎之助である。 同輩の 茄子 ( なす )や芋が何をして遊んでいようと、 「われ関せず」 というような顔して、 午 ( ひる )まで 側仕 ( そばづか )えをすますと、書物をかかえて、さっさと城下へ出て行ってしまう。 「あいつすこし生意気になったぞ。 この頃、書物などかかえこんで」 とかく、いじめられるが、この頃は、前のようにかんかんに怒って来ない。 にやにやして、いつもすうと行ってしまう。 市松も、彼と性が合わないので、 「大人ぶっていやがる」 と、甚だ 怪 ( け )しからんように、年下の小姓仲間をよく 煽動 ( せんどう )した。 虎之助は、ことし十五、去年から城下の軍学者 塚原小才治 ( つかはらこさいじ )のやしきへ授業にかよっているのである。 小才治は同姓塚原 土佐守 ( とさのかみ )という剣人の 甥 ( おい )とかいうことだった。 いずれにせよ、その頃にはまだ道場という設けはなく、ひとりの師から軍学の講義もうけるし、槍術や剣道やまた武士の礼法戦陣の心得など、すべてを教えられるのだった。 きょうも。 虎之助はそこから帰って来た。 もう 黄昏 ( たそがれ )に近く、西日の影が、町の豆腐屋や織物屋の軒に赤々とさしこんでいる。 「何かしら?」 と、虎之助は足をとめた。 すると、そこの軒ばに たかっていた群衆が、わッと家のまえを開いた。 逃げそこねて、ころぶ子がある。 老婆がつき倒される。 泣き声で人のうしろへかくれこむ女がある。 な、なにを、寄りたかって、げらげら笑うか」 酒屋だ。 奥から、よろよろと 藪 ( やぶ )から大虎の現われるように、酒徳利を片手に、出て来たのは、酔っぱらいである。 頭のよこに、 盃形 ( さかずきなり )の 禿 ( はげ )がある。 よくよく酒の好きな しるしと、一度見たものは忘れまい。 長浜城の 足軽頭 ( あしがるがしら )、 木村大膳 ( きむらだいぜん )の手についている足軽で、どういうところから来た名まえか、 市脚 ( いちあし )の 久兵衛 ( きゅうべえ )と名のる男だった。 けれど、町のものは、そんな面倒な呼びかたはしなかった。 禿久 ( はげきゅう )といっても、とら久といっても、あああの足軽かと誰も知っている。 その有名なのは、禿のためではなく、飲むと暴れるからだった。 ところが、 (おれが出世しないのは、この癖があるからよ。 これさえやらなければ、五百石や七百石の士分にはなっているのだ) と、彼自身、よく豪語するとおり、実際、その腕力にいたっては、 へたな侍たちの及ぶところでなかった。 戦場での功名手柄も、かぞえきれないほどあると、彼が威張るのも、嘘ではないのである。 その証拠には、何をやっても、組頭の木村 大膳 ( だいぜん )は、知らん顔して、彼を重用しているのでもわかる。 また、町の奉行でも、 「また、 禿久 ( はげきゅう )か」 訴えを聞くだけで、 一 ( いっ )こう 懲 ( こ )らしてはくれない。 彼の武勲を知っているし、また組頭の木村大膳を 憚 ( はばか )っている加減もある。 だから、この虎は、いい気になって、ややもすると、 横鬢 ( よこびん )の盃形の禿について、肩をいからすのである。 「これやあ、こう見えても、生れつきのものじゃあねえぞ。 そもそもは 洲股 ( すのまた )の戦いで、斎藤方の 湧井将監 ( わくいしょうげん )てえ八十騎持ちの侍に出会い、あの河原でだ、そいつの槍を、ふん 奪 ( だ )くろうとしたら、突いて来やがった。 交 ( か )わしたはずみに、肉をチョッピリ 削 ( そ )がれたのが、いまもって、この美男子の玉に 瑕 ( きず )となっている。 何を笑う。 やい、おれの禿を笑ったな。 戦 ( いくさ )の味も知らねえくせに、この おびんずるめ」 いまもこの調子で、ここの酒屋の奥で昼酒をのんでいるうちに暴れ出し、酒屋の雇人をなぐりつけたあげく、あやまりに出た老婆をうしろ手にしばりつけ、裏口から逃げ出そうとした亭主をつかまえて、 威嚇 ( いかく )しては酒をつがせ、酒をあおっては、自慢ばなしを独り言に談じていたものである。 それを門口にむらがって見物していた近所隣の者が、何かのはずみに、げらげら笑ったので、笑えばすぐひがむこの虎は、 猛吼 ( もうく )して立ち上がり、いきなり群衆を割って、往来へあらわれて来たものらしい。 もちろん、彼の足どりはもういいかげん怪しいので、女子供もよく逃げて、ひとりも爪にかからなかった。 けれど、そこに、ぽつねんと、さっきから逃げもせずに立っていた少年がある。 虎之助だった。 禿久 ( はげきゅう )は、ぬうっと、顔を寄せて行った。 逃げるかと思いのほか、一歩もうごかないので、 癪 ( しゃく )にさわったにちがいない。 「チビ。 汝 ( わ )れや何だ」 虎之助は、ぷんぷんと襲う、酒のにおいに顔をしかめながら答えた。 「御城内の 於虎 ( おとら )だよ」 「なに、虎だと」 彼は鼻を鳴らして、あいての小さい体を見おろした。 身なりのわりに眼は大きい。 その眼を、なお大きくみはったまま、虎之助は、禿久を 睨 ( ね )め 返 ( かえ )していた。 「わ、は、は、は。 こいつは奇遇だ」 突然、禿久は身を 反 ( そ )らして、 仰山 ( ぎょうさん )に笑い出した。 そして虎之助の顔を、壺を持つように両手で持った。 「おまえも於虎か、おれも大 とらだ。 兄弟分になろう」 「いやだ」 「そういうない」 「きたない」 押しつけて来る 顎 ( あご )を、突き 退 ( の )けた。 怒りっぽい禿久が妙に怒りもせず、こんどは虎之助の手くびを握って、 「一杯交わそう。 兄弟分のさかずきだ」 もとの酒屋の軒へ引っ張り込もうとする。 虎之助はうごくまいとする。 彼の腕の根が抜けるか、禿久の腰がくだけるか、果てしなく引っ張り合っていた。 体重はないし、あいては有名な 強力 ( ごうりき )足軽、ずるずるッと酒屋の軒下まで持ってゆかれた。 あたりに見ていた近所 界隈 ( かいわい )の老若男女は、 「あれッ、あれッ、かわいそうによ」 「お小姓さん。 逃げなされ」 「たまるものか、その とらに取っ 捕 ( つか )まっては」 騒いではいるが、相手は恐いし、救う 術 ( すべ )もなかった。 だが、虎之助は、顔いろもかえていなかった。 片手に抱えていた書物を、酒屋の内へ 抛 ( ほう )りこむと、 「やめないか」 と、口を への字にむすんで、相手に念を押した。 「来いッたら来いッ!」 禿久が、 遮 ( しゃ )二 無 ( む )二、腕を引っぱると、虎之助は身をねじって、空いている左の手で、 脇差 ( わきざし )を抜いた。 「わッ、ちッ、ちくしょうッ」 刃ものを見ると、彼の 熟柿 ( じゅくし )のような顔も、一瞬に、さっと青ざめた。 その筈である、どうやって斬ったものか、禿久の片腕が、ごろんと、下に落ちていた。 もちろん鮮血はほとばしっていた。 酒気のあったせいか、それは 夥 ( おびただ )しい血だった。 虎之助の胸から 袴 ( はかま )へもかかって、見ていた者の眼をおおわしめた。 「や、やりゃあがったな」 禿久は猛然、むしゃ振りついてきた。 脇差はすッ飛んだ。 巨 ( おお )きな体躯と、小さい体が、たちまち上になり下になりして、土と血に まぶされた。 いかに猛勇な禿久も、腕の一本を 失 ( な )くしては、もう日頃の威力もなかった。 それに出血はひどく、見るまに貧血して、ぐったりと、虎之助の下に組みしかれていた。 「 羽柴家 ( はしばけ )の恥さらしめ。 弱いもの 虐 ( いじ )めの極道め」 虎之助はそう云いながら、相手の眼や鼻が くしゃくしゃになるほど 拳 ( こぶし )でぶん撲っていた。 「…………」 遠く逃げ 退 ( の )いて見ていた人々は声を出すのも忘れていた。 あとの 祟 ( たた )りを恐れてではない。 あまりに予想が 外 ( はず )れたからである。 虎之助は、脇差や書物を拾って、もとのように書物をかかえると、遠く見ている人々へ。 「もう大丈夫だよ。 たれか酒屋の年よりの縄を解いておやり。 それから、この足軽は、 奉行所 ( ぶぎょうしょ )へ渡すといいよ。 それが一ばんいいよ」 云いすてると、彼は見向きもせず立ち去った。 長浜城の 狭間 ( はざま )にはもう 燈灯 ( ともしび )がついて、夜となった町の辻には、いつまでもがやがや人が 躁 ( さわ )いでいた。 真っ暗な石井戸のそばで、たれか水でも浴びているような音がする。 主命で探しに来た市松は、闇をすかして、 「 於虎 ( おとら )かあ」 と、よんでみた。 「おうい」 と、のろまな返辞がする。 市松は怪しみながら側へ寄って、 「何をしているんだ、この夜中に」 と、裸の虎之助を見まもった。 「洗濯だよ、洗濯だ」 ざぶざぶ小袖と 袴 ( はかま )を洗っている。 市松が、 泥溝 ( どぶ )にでも転げ落ちたのかときくと、うむと、 頷 ( うなず )いて洗っている。 違うともいわないのである。 「殿さまがお呼びだ、すぐ来い。 さむらいのくせにして、 泥溝 ( どぶ )になぞ落ちるやつがあるか。 何のために毎日、兵法を習いに通っておるんだ」 叱言 ( こごと )を云いながら、市松は先に行ってしまった。 あかあかと燭の見える本丸の一間のほうへ。 小姓部屋へもどって、虎之助は着ものを着かえ、やがて秀吉のまえに行って、何用ですかと伺った。 席には酒が出ていた。 足軽頭の木村 大膳 ( だいぜん )は、そのかたわらに 苦 ( にが )りきっていた。 虎之助はちらとその人を見て、また主人の 唇 ( くち )もとへ眼をかえした。 「於虎、そちは今日、えらい事をやりおったそうではないか。 大膳がきつう立腹いたし、これへ来て、わしへ訴えおる。 道理でもある。 どうするか」 「どうもいたしません」 「どうもせぬと」 「はい。 相手の者が悪いんですから」 「足軽組の久兵衛とかいう者の片腕を斬ったというではないか、その方が」 「いたしました」 「家中の喧嘩は 両成敗 ( りょうせいばい )の 掟 ( おきて )、その方の身をわたせと、ここへ参って、大膳がわしを困らせおる。 渡されてもよいか」 「よろしゅうございます」 「左様なことを申さずと、そちはまだ少年、大膳へここで手をついて 謝 ( あやま )ったがよかろう。 わしの見ておる前で」 「いやです」 「なぜ」 と、秀吉の眼が、燭にキラとした。 「わたくしに落度はありません。 また、わたくしは殿さまの側小姓で、殿さまが、御家臣から迫られて、お 裁 ( さば )きに困るようなことは 仕 ( つかまつ )りません」 「ははは。 云いおるわよ。 よしよし、然らばわしは 関 ( かま )わん。 大膳、何といたすか」 木村大膳は、さっきからじっと虎之助の横顔を見ていたが、 「やはり、於虎の身は、てまえに下しおかれとう存じます」 と、いった。 秀吉はちょっといやな顔をして見せたが、大膳の次のことばで、また明るく 冴 ( さ )え直った。 大膳はこういうのである。 「配下の久兵衛が、とかくよろしくないことは、存じております。 けれど町なかの往来で、一小姓に、あのような目に 遭 ( あ )わされたとなると、組頭として、黙視いたしかねましたので、最前のようなお訴えをいたしましたが、いま、於虎の 面 ( つら )だましいを見て、にわかに考え方がちがって来ました」 「どう違ってまいったのか」 「ねがわくば、於虎をてまえの家の養子に乞いうけたいものでござる。 さもなければ、てまえの組の 士 ( さむらい )にいたしたいものですが」 「よかろう。 於虎さえ、異存なければ。 大膳の子にならんか」 「養子などに参る気はございません。 真 ( ま )っ 平 ( ぴら )です」 「養子とて、軽んずるな。 この秀吉も、養子じゃが」 「でも、いやです」 「あははは。 あの通りだ。 大膳なんといたすか」 「いたしかたありません。 あきらめましょう。 しかし 清々 ( すがすが )しゅうござる。 よいお小姓、よいお小姓」 大膳はしきりに彼を眺めたり 賞 ( ほ )めたりしながら、秀吉の杯をいただいていた。 いい機嫌に酔っていた。 木村大膳が 吹聴 ( ふいちょう )したものとみえる。 虎之助の沈着と 胆気 ( たんき )は城内でも評判になった。 いや城下の街ではそれ以上のうわさだという。 「於虎、そちも 故郷 ( くに )の母へ、便りなど書いてよろこばしてやれ。 この後は、百七十石に 加増 ( かぞう )してくれるぞ」 秀吉からも、そういわれた。 かれの得意は思うべしであった。 いよいよ勉強し奉公に励んでいた。 けれど納まらないのは、同じ年頃の生意気ざかりが同室している小姓部屋の 誰彼 ( だれかれ )である。 ここでは、福島市松が年上で、また一番の古顔として、その下に 平野権平 ( ひらのごんぺい )だの、 片桐助作 ( かたぎりすけさく )だの、加藤孫六、 脇坂甚内 ( わきざかじんない )、 糟屋 ( かすや )助右衛門などという大供小供が、非番でさえあれば、ひとつ池の 蛙 ( かわず )みたいにがやがや 躁 ( さわ )いでいた。 「於虎、於虎」 「なんだ、市松」 「こっちを向いて返辞をしろ。 書 ( ほん )ばかり読んでいないで」 「読んでいてもいいだろう」 「ここは寺子屋ではない」 「うるさいな。 何の用さ」 「みんなも聞いていてくれ。 おい、助作、孫六、甚内、聞いていろよ」 「聞いているよ。 於虎に何をいうのか」 「この頃、生意気ぶっておるから、云い聞かせておくのだ。 こら於虎、貴さま少し成人したと思って、悪くなったぞ」 「どうして」 「御加増になったと思って、急に威張っておるじゃないか」 「たれが威張ってなどいるもんか」 「いや、大きな 面 ( つら )をしている。 怪 ( け )しからん」 「そう見えるのだろ」 「みんなもいっている。 わしだけの言葉じゃない。 御加増になっても、貴さまはまだおれの下役だぞ。 …… 洲股城 ( すのまたじょう )におった頃、貴さまは 青洟 ( あおばな )を垂らして、母親の手にひかれて来たろう。 あの頃のこと忘れるなよ」 「たれだって、小さい時は、 洟 ( はな )を垂らすさ。 それがどうしたい」 「みろ、その口ぶりからして、生意気になったことを! われわれだって、いまにみろ、きっと、大きなてがらをあらわして、貴さまなぞ、見返してみせるから」 「おう、結構だ。 どんな功名かしらぬが、立ててみせてもらいたい」 「立てずにおくか。 おびんずるめ」 「なにを」 「なにが何だ」 両方一しょに立ちかけた。 ほかの小姓はあわてて止める。 福島市松が 逸 ( はや )まって、片桐助作のあたまを 撲 ( なぐ )ってしまう。 仲裁人 ( ちゅうさいにん )を撲るやつがあるかと助作が撲りかえす。 あっちで取っ組む、こっちで 掴 ( つか )みあう。 小姓頭の 堀尾茂助 ( ほりおもすけ )が、舌うちしながら駈けて来た。 茂助の 一喝 ( いっかつ )にようやく鎮まったものの、ついこの頃、 貼 ( は )り 代 ( か )えたばかりの 襖 ( ふすま )が破れ放題に破れているし、そこらの調度や机や書物なども乱脈に取りちらかって、目もあてられない有様である。 「殿さまのお眼にふれたら何とするか。 はやく片づけろ。 そして襖のあなを貼っておけ」 茂助は叱って、それぞれに勤めをいいつけた。 獅子 ( しし )の児や 豹 ( ひょう )の子をひとつ 檻 ( おり )に入れておくと、彼らに退屈させておくことが、何よりも危険を生じやすかった。 その獅子の児や豹の子が、絶大な楽しみとしていることは、城外へ出て青空を見ることだった。 その点、秀吉からゆるされて毎日 塚原小才治 ( つかはらこさいじ )の道場に通っている虎之助が、たれからも 嫉視 ( しっし )の 的 ( まと )とされていたのは無理もない。 「於市、あしたは殿さまのお供だぞ。 助作、権平のふたりもお供に加われ。 朝はお早いかも知れぬから、そのつもりで 不覚 ( ふかく )すな」 前の晩、組頭の堀尾茂助からそう云い渡されていた三名は、どこへお供するのか、秀吉の出先はわからなかったが、ともかく 欣 ( うれ )しさに眠れないほどだった。 さむらい十騎ばかり、小姓四人、あとは 御小人 ( おこびと )の 口取中間 ( くちとりちゅうげん )など、同勢はそれだけだった。 夜明けとともに城を出て、 伊吹山 ( いぶきやま )のほうへ駈けて行った。 狩猟 ( かり )にということであったが、鷹も犬も連れていない。 どこまでお 出 ( い )でですか」 伊吹の 麓 ( ふもと )まで来ると、さむらいの一人が訊いた。 秀吉はつねに先駆しながら、 「どこまでという定めはない。 日暮まで駈けあるいて帰るまでじゃ」 「鹿、兎でも追い出しましょうか」 「よせよせ。 大いに意味がある」 「はて。 何ぞほかに、思し召がおありですか」 「ある」 「お聞かせ下さい」 小姓組の堀尾茂助、福島市松など、秀吉に せがんで云った。 秀吉は馬を立てて、眉に迫る 伊吹山 ( いぶきやま )を仰ぐ。 さむらい達もみな 手綱 ( たづな )をやすめ、各 、汗ばんだ顔を 山巒 ( さんらん )に吹かせていた。 知っておるじゃろう」 「存じております」 「では、 劉備玄徳 ( りゅうびげんとく )の名は」 「 後漢 ( ごかん )の英雄でしょう」 「そうだ。 孔明 ( こうめい )を迎えて 蜀 ( しょく )を 征 ( せい )し、三国の一方を占めて帝座にのぼった人物。 この人がまだ志も得ず、孔明にも会わず、同族の 劉表 ( りゅうひょう )に身を寄せて、いわば高等食客をしていた壮年時代に、こんなはなしがある」 「はあ。 どんなはなしです」 「一日、劉表と同席して、酒をのんでいたが、ふと 厠 ( かわや )に立ってもどって来た玄徳の顔を見ると、涙のあとが見える。 日月 ( じつげつ )の過ぎるは早く、人生には限りがある。 ……玄徳はその時の何不自由ない境遇を怖れたのですね」 「わしもだ。 無事は恐い。 いまの秀吉はあやうい幸福にくるまれておるからな。 きょうは、そう気づいて、 腿 ( もも )の肉を 削 ( けず )りに出たのだ。 うんと汗をかこうと思う」 「では、殿には、ひそかに玄徳の志をお抱きですな」 「ばかを申せ。 わしに 望蜀 ( ぼうしょく )の意はあるとしても、あんな山地の一方に屈して、 曹操 ( そうそう )、 孫堅 ( そんけん )ごとき者と争い、 互角 ( ごかく )に一生を終るなど、手本とはいたしたくない。 彼は、日没する国の英雄、わしは日 出 ( い )ずる国の民、秀吉の望みはちとちがう」 「働き 栄 ( ば )えがありますな。 われわれもこの先は」 「もとよりだ。 腿に肉を蓄えるなよ」 「だいじょうぶです」 茂助がいうと、片桐助作、平野権平なども、 「痩せています。 この通りに」 と、鞍のうえの 腿 ( もも )を叩いた。 「もっと痩せろ。 そち達、少年の肉は、刀のごとく 鍛 ( う )って 鍛 ( う )って細身にするほど斬れ味はよくなるものだぞ。 さ、つづいて来い」 平野へ下るのかと思うと、 七尾 ( ななお )村から伊吹へ向って、山道を登りはじめた。 腹も 空 ( す )いた、 喉 ( のど )も 渇 ( かわ )きぬいて来た。 二刻 ( ふたとき )あまりも山野を駈けたあとである。 「どこかないか。 湯漬 ( ゆづけ )なと 所望 ( しょもう )するところは」 午下 ( ひるさ )がりの陽をあたまから浴びながら、秀吉以下の者たちは、伊吹の 裾 ( すそ )を馬けむりあげて降りて来た。 「ありました、ありました」 先に、 麓 ( ふもと )の小部落へ駈け入っていた福島市松が、すこし駒を返して来て、曲り道で手を振っていた。 秀吉以下、近づくと、 「この先によい寺があります。 三珠院 ( さんじゅいん )という 真言寺 ( しんごんでら )が」 と、すぐ先に立ってゆく。 一叢 ( ひとむら )の 幽翠 ( ゆうすい )につつまれて 閑寂 ( かんじゃく )な 庫裡 ( くり )や本堂が見える。 秀吉は山門に駒をすて、近侍たちとともにぞろぞろと入って行った。 声をかけても、誰も出て来ないのである。 秀吉はかまわず本堂へあがって、本堂のまん中にひとり坐っていた。 にわかに庫裡のほうで、人の気はいがしはじめた。 寺僧の耳に通じたとみえる。 それとまた、城主の休息という思いがけない不意打ちに、寺僧たちは 狼狽 ( ろうばい )もしたにちがいない。 「騒がすな、気の毒だ。 ただ早う茶をひとつくれい。 喉が 渇 ( かわ )いた」 秀吉の声が本堂ですると、 側 ( わき )の一室に見える 衝立 ( ついたて )のかげで、 「はいッ、ただ今」 と、はっきり返辞がきこえた。 衝立のほうを振向いて、秀吉はひょいと小首をかしげた。 すずやかな声であったが、女とも思われない。 寂 ( じゃく )とした 伽藍 ( がらん )のせいか、よく澄み 徹 ( とお )って、しかも 可憐 ( かれん )なうちに力がある。 「…………」 黙然と、礼儀をし、 小袱紗 ( こふくさ )に茶碗をのせて、秀吉の前にすすめる。 待ちかねて秀吉の手は、すぐ両手にそれを持って、がぶがぶと一息に飲んだ。 大茶碗に七、八分のただの ぬる湯であった。 「 稚子 ( ちご )。 もう一服」 「はい」 少年は立ってゆく。 寺の稚子と、彼は見た。 すぐ二服めを運んで来た。 白湯 ( さゆ )は前よりもすこし 熱 ( あつ )加減で、量も半分ほどしかない。 秀吉は、ふた口に飲みながら、眼を少年の顔に向けていた。 「稚子」 「はい」 「名は何というか」 「 佐吉 ( さきち )と申します」 「佐吉か。 こんどは、容易に運んで来なかった。 程経て、菓子を持って来た。 それからまた少し間をおいて、前の茶碗よりずっと小ぶりな 白天目 ( しろてんもく )に緑いろの 抹茶 ( まっちゃ )をたたえ、足の運びもゆるく、貴人にたいする作法どおり、物静かに秀吉のまえに置いた。 「これで 渇 ( かつ )も 医 ( い )えた。 うまかったぞ」 「ありがとう存じます」 「……む、むう」 秀吉は何か、こううめいた。 少年の 容貌 ( かおだち )は稀に見るほどよく整っていた。 知性の美といおうか、長浜の小姓部屋にいる於市、於虎、於助、於 権 ( ごん )などという者どもとは、その 言語挙動 ( げんごきょどう )にしても、著しくちがっているところがある。 「 幾歳 ( いくつ )になる? そちは」 「十三歳でございます」 「 苗字 ( みょうじ )はないのか」 「家代々、石田を姓としております」 「石田佐吉というか」 「そうです」 「この近郷には、石田姓が多いようだな」 「けれど、わたくしの家は、石田の中の石田です。 たくさんある石田とはいささか違います」 何を答えるのも 明晰 ( めいせき )で、妙に怖れたり はにかむふうなど少しもなかった。 「石田の中でもすこし違う石田とは……どういうわけだな」 秀吉は、微笑をふくむ。 佐吉はそれに答えて、 「この近郷で、いちばん 旧 ( ふる )い家がらですから」 と、いって、また、 「 粟津 ( あわづ )の 戦 ( いくさ )で、むかし、 木曾義仲 ( きそよしなか )を射とめた 石田判官為久 ( いしだのほうがんためひさ )という人は、わが家の御先祖だと、父から聞いておりました」 「ほう、その頃から、 江州 ( ごうしゅう )の武家であったか」 「はい。 建武 ( けんむ )の頃には石田源左衛門という方が、 菩提寺 ( ぼだいじ )の過去帳にものっております。 それからずっと後は、この辺の御領主だった 京極家 ( きょうごくけ )に仕えましたが、いつの頃からか浪人して、 梓 ( あずさ )の 関 ( せき )の近所に住み、郷士になってしまいました」 「あの関の 址 ( あと )の附近に、石田屋敷という名がいまもあるが、そちの先祖の地か」 「はい。 仰せのとおりです」 「両親は?」 「ございません」 「そちは僧になるつもりで、寺入りしておるのか」 「いいえ」 首を振った。 ニコとしたまま黙っている。 その 笑靨 ( えくぼ )までが、知性の光に見える。 秀吉は、ふいに、 「 住持 ( じゅうじ )はおるか」 と、訊ね、佐吉が、おりますと答えると、これへ呼べといった。 佐吉は、はいと、素直に返辞して立ちかけたが、 「ただいま御家来衆から、お 湯漬 ( ゆづけ )をさしあげいとのおことばで、住職も 厨 ( くりや )にはいって立ち働いておりまする。 ほかならぬ御城主への御膳、人手にまかせられぬと、先ほども仰っしゃって、取り急いでおるところでございますが……お召しはおいそぎでございましょうか」 「ああそうか。 ならば後でもよろしい」 「いずれ、お膳ができ次第、ごあいさつに参られましょう」 佐吉は 天目 ( てんもく )を下げて行った。 秀吉はすっかり気に入ってしまった。 脆弱 ( ぜいじゃく )な文化や、 爛熟 ( らんじゅく )しすぎた知性には、 逞 ( たくま )しい野性を配することが、本来の生命力を復活するひとつの方法だし、また、余りに粗野で豪放にすぎる野性にたいしては、これに知徳の光をそそぐことによって、初めて完全に近いひとつの人格なり新しい文化なりを構成することができるのではあるまいか。 日頃もであったが、いま佐吉を見て、秀吉はしきりと、そんなふうに、長浜の小姓部屋にある人材を考えていた。 どうして、彼がそんなふうに、常に小姓部屋などを気にしているかといえば、彼は、老臣や重職の者よりも、そこにいる年少の 輩 ( やから )を一ばん重要に 観 ( み )ていたからである。 十三、四になっても、まだ時々、 洟汁 ( はなじる )を垂らしていたり、甚だしきは寝小便をしたり、取っ組んだり、泣き 喚 ( わめ )いたり、始末におえない存在ではあったが、秀吉のこころでは、小姓部屋こそ、人材の 苗床 ( なえどこ )、わが家の宝でもあると、そこから伸び育つ者を楽しみに注視しているのであった。 「……十三か。 十三にしては、ちと出来すぎてはいるが?」 しきりと、そんなことを、彼は 呟 ( つぶや )いたりしていた。 そこへまもなく住職があいさつに見えた。 三珠院の住職は、佐吉の身の上について、秀吉からいろいろ問われたのに対してこう答えた。 「養育はしておりますが、長く寺におくつもりではございませぬ。 当人の意志も 沙門 ( しゃもん )になく、両親も 歿 ( ぼっ )しておりますから、家名を 興 ( おこ )させねばならぬ身でございまする。 あれの母方と拙僧とは、遠縁にあたりますところから、何ぶんよい成人を遂げるようにと、ひそかに祈っておりますが、どうもすこし内気なほうで、女かなどとよう訊かれることなどございますから、武士の中に立つと、一家を持つようになれるかどうか、案じられております」 秀吉は、おかしそうに、 「内気じゃと、あれがか。 ……あはははは。 とんでもないことだ。 まあよい、そういう者であれば、わしにくれぬか」 「え。 ……くれいと仰せあそばすのは」 「取り立ててくれよう。 長浜の小姓部屋へもらってゆきたい。 当人にたずねてみい。 秀吉に随身するや否やと」 「ありがとう存じまする。 否やのあろうはずはございませぬが、とにかく、思し召のほどを申し聞かせ、後刻、御返辞に伺わせまする」 「どれ、そのまに、湯漬の馳走にあずかろうか」 「御案内を」 と、寺僧たちは、彼を客院に案内した。 そしてほかの家臣たちをもそこに迎え、うやうやしく給仕した。 食事の終った頃、住職はあらためて、 稚子 ( ちご )の佐吉を 伴 ( つ )れて来た。 「どうだ、返辞は」 秀吉から云った。 住職は佐吉を顧みて、 「このとおり大喜びでございまする。 佐吉、ようく、おねがいをなさい」 「…………」 佐吉は秀吉を見て、 にことしながら、両手をつかえた。 何もいわなかったが、秀吉は満足な眼をもってそれに答えた。 「城中へ参ったら、あれらの者と仲よくせねばならぬぞ。 おとなしいと思うて、あまり 虐 ( いじ )めるな」 「はい」 「茂助。 面倒を見てやれよ」 「かしこまりました」 堀尾茂助は、佐吉に向って、ていねいにいった。 「小姓 頭 ( がしら )の堀尾でござる。 これからは、何分とも」 すると佐吉も、いんぎんに向き直って、挨拶を返した。 「この近郷の郷士、 石田源左衛門 ( いしだげんざえもん )が子、佐吉と申す不つつか者でございます。 よろしくお引きまわしのほどを」 これが十三の少年とは思えなかった。 その成人ぶった 容子 ( ようす )を見て、於市や於権は、寺を立つとき、そっと 囁 ( ささや )きあっていた。 「オイ、こんどの稚子は、於虎なんかより、よっぽど、生意気そうだぞ」 「さむらい 雛 ( びな )みたいに、いやに澄ましていやがる」 「雛ならいいが、 らっきょうみたいなやつだ」 「いまに皮を 剥 ( む )いてやろうよ」 しかし秀吉が馬をよせて鞍上にまたがると、みなぴたりと黙っていた。 伊吹のうえに 夕月 ( ゆうづき )を見ながら、秀吉は長浜城へ帰った。 もちろん佐吉もその日から彼のうしろに従っていた。 秀吉が目をつけたところは、彼の 機転 ( きてん )を見て、その才能に期したのであるが、やがて 卵殻 ( らんかく )を割った 雛鳳 ( すうほう )は、見事、それを裏切らなかった。 一年のうちに幾つという 城国 ( じょうこく )がぞくぞく滅亡し去った。 新人が立ち、旧人は 趁 ( お )われ、 旧 ( ふる )い機構は、局部的に 壊 ( こわ )されてゆく。 そしてまた局部的に、新しい城国が建ち、文化が 創 ( はじ )められて来た。 そして容易に安定の見えない 風雲裡 ( ふううんり )の歳月は、決して人に 腿 ( もも )の肉の肥えるほどな暇は与えなかった。 長浜 ( ながはま )の城へ、令が下った。 出陣の目的は。 反信長勢力の 壊滅 ( かいめつ )にある。 越前はつい先年、そこの朝倉一族をほろぼして、とうに彼の 統業圏内 ( とうぎょうけんない )におかれていたはずであるが、一年ともたなかった。 その主力は、ここでも、明らかに、一向門徒の武器と財力と信仰に結束した旧朝倉の残党、その他の混成軍だった。 軍、外交、経済、あらゆる 懸引 ( かけひき )は国々の方針によって、何とも簡単でない。 晩秋、 越山 ( えつざん )はもう白かった。 そこを越えて、越前へはいった信長軍の主力は、 丹羽 ( にわ )五郎左衛門 長秀 ( ながひで )と、 羽柴筑前守秀吉 ( はしばちくぜんのかみひでよし )。 一揆はたちまち征服された。 翌年、両将は雪にとざされぬうちに、 凱旋 ( がいせん )した。 春は、天正二年となっていた。 けれど、一月もすぎると、またふたたび越前の領内には、騒然たる空気があがっていた。 「始末のわるい! ……」 と、さすがの信長も舌打ちした。 けれどまた、それに 癇 ( かん )を立てて、一方的に 焦躁 ( しょうそう )することを、彼はひそかに 戒 ( いまし )めていた。 この期間を、信長が、もっとも急務としていたのは、かえって、内政の充実と、軍備の再編成。 そして自己の勢力圏内にある民心に、将来の 泰平 ( たいへい )と、統業の実を示すにあった。 その一つとして。 彼は、七ヵ国にわたる大道路の改修や 架橋 ( かきょう )に着手していた。 美濃、尾張、三河、伊勢、伊賀、 近江 ( おうみ )、 山城 ( やましろ )をつらぬく国道である。 往来の幅を、三間半と定め、道の両わきに樹木を植えさせた。 そして無用な関所は 撤廃 ( てっぱい )した。 通商も、一般の旅行も、極めて軽快になった。 この道を歩み、並木の育ちをながめる者は、もう信長を天下の 司権者 ( しけんしゃ )と認めていた。 認めないでも 讃 ( たた )えぬはなかった。 いかに精兵強馬の 金剛軍 ( こんごうぐん )をもって、焦土の占領地を満たしても、一般領民は、それをもってすぐ永久の支配者とは想像しなかった。 かれらは治乱興亡のあわただしきを見、また精兵弓馬や 城塁 ( じょうるい )の一朝のまに 儚 ( はかな )い消滅を告げて来たのを、土とともにながめて来た古い習性をもっている。 矢さけびや鉄砲の音にも、黙々と耕している彼らとて、やはり 唖 ( おし )でもなく盲でもなかった。 正直な声を出せば、この世を、個々の生命を、やはり謳歌したい人間だった。 夏になると、信長はまた令を発して、兵馬を 長嶋 ( ながしま )へうごかした。 長嶋征伐は、こんどで四度目である。 しかもその前の三度が三度とも、不利な 戦 ( いくさ )に終っている。 その第一回には、弟の織田彦七を死なせ、翌 元亀 ( げんき )二年のときは宿将 勝家 ( かついえ )が負傷し、 氏家卜全 ( うじいえぼくぜん )が戦死し、去年の出征には、部将の林新二郎以下たくさんな戦死があるなど、苦杯を喫しつづけて来た敵である。 この始末の悪い敵にたいして、信長はこういっていた。 「さきに 叡山 ( えいざん )を焼き払って、自分の態度は、厳然と示してある。 よって、しばらく彼らの反省と 悔悟 ( かいご )をわしは待っていたのだ。 果たして。 六万の大兵に配するに、織田家の 驍将 ( ぎょうしょう )はほとんど 轡 ( くつわ )をならべたといっていい。 柴田、丹羽、佐久間、池田、前田、稲葉、林、滝川、佐々などの諸将が参加し、羽柴秀吉もまた一部隊をひきいて出陣していた。 籠城していた男女千余人をみなごろしにして、これを焼き払ったのを手初めに、次々の小城や 砦 ( とりで )を粉砕し、翌月の中旬には、中江、長嶋の二城をとりかこんで、これを 陥 ( おと )すと、火を放って、 阿鼻叫喚 ( あびきょうかん )する城内二万余の宗徒を、一人のこらず焼き殺してしまった。 そうなるまでも、宗徒の男女は一人として降伏しようとはしなかったのである。 或る宗徒の一団七、八百人の隊は、残暑の 陽 ( ひ )が かんかん 焦 ( い )りつける炎天へ、半裸体のまま 刀槍 ( とうそう )を手に 揮 ( ふる )って、城中から突き出し、 「な、む、あ、み、だ、ぶつ」 「な、む、あ、み、だ」 「な、ま、い、だ」 「なまいだ、なまいだ」 と、一せいに念仏をとなえながら斬り死にしたというような猛烈な抵抗をしたのだった。 ために織田軍の損害も少なくなかった。 信長の一族中だけでも、 従兄 ( いとこ ) 信成 ( のぶなり )、伊賀守 仙千代 ( せんちよ )、又八郎信時など、いずれも戦死し、織田 大隅守 ( おおすみのかみ )、 同苗 ( どうみょう )半左衛門なども 深傷 ( ふかで )を負ってしりぞいたが、後まもなく死んだ。 そのほか、将士の戦死八百七十余人、負傷者は、炎日の 陰 ( かげ )へ運びきれないほどだった。 犠牲は大きかった。 物慾の 飽満 ( ほうまん )だけなら、すでに今の信長は、七ヵ国の領主として、十分に事足りていよう。 名誉や空名を欲するなら、かれは京都へむかって或る運動もできる立場と位置にある。 領界の不安を除くだけの意味なら、もっと保守的にも、もっと 妥協 ( だきょう )的にも、他に方法はいくらもある。 かれが真に望んでいるものを実現するには、どうしても、犠牲の大はしのばねばならなかったのである。 英雄の 苦衷 ( くちゅう )は実にここにある。 では、彼の欲していたものは何かといえば、破壊でなく、建設にある。 彼の理想している組織と文化を築くことにあった。 信長と会ったこともなく、信長の生活も 為人 ( ひととなり )も知らないくせに、近頃よく信長のうわさを 交 ( か )わす堂上の 公卿 ( くげ )たちのうちには、 「信長。 あれはやはり 田舎者 ( いなかもの )じゃ。 料理の味も知らぬ」 とか、 「 壊 ( こわ )し大工も同じことで、壊すことには、 驀 ( まっ )しぐらじゃが、建てることはようせぬ男よ」 などと、一ぱし名評を下したつもりでいるような口吻を、今もって、陰ではいっている者も多かったが、事実は、徐々にそうでない信長を洛中にも見せて来た。 長嶋を平定して、まず東海道から伊勢にわたる多年の 大患 ( たいかん )をとりのぞくと、翌天正三年の二月二十七日には、上洛の途にのぼっていた。 彼が七ヵ国にわたって改修を命じておいた国道も、はや完成して一路京都につづいていた。 両側に植えさせた並木も、みなよく育っていた。 あれにはなりたくないものよ」 信長はよくそんなことを左右に語って、自分の 戒 ( いまし )めともし、また部将をも暗に 訓戒 ( くんかい )していた。 木曾 義仲 ( よしなか )のことをいったのであろう。 義仲の弱点は武人のたれにも一応はある弱点である。 いや人間のたれもが得意となれば 陥 ( お )ち入りやすい 穽 ( あな )である。 信長自身のうちにも、そろそろその危険が反省されていたにちがいない。 花の三月。 入洛 ( じゅらく )すると即日、彼は 参内 ( さんだい )していた。 天機奉伺 ( てんきほうし )の 伝奏 ( てんそう )を仰いで、その日はもどり、あらためて堂上の 月卿雲客 ( げっけいうんかく )を招待して、春の大宴を張った。 またその 公卿 ( くげ )たちへは、彼は多くの金品を贈った。 兵馬倥偬 ( へいばこうそう )の世にかえりみられず、この名誉ある権門たちが、ひどく物に貧しく、その貧しさに いじけて、すこしも、君側の 朝臣 ( あそん )であり 輔弼 ( ほひつ )の 直臣 ( じきしん )であるという、高い 気凛 ( きりん )も誇りも失っているのを、あわれに感じたからである。 金品ばかりでなく、彼はこのなかに、自己の 気魄 ( きはく )を輸血する気をもっていた。 さきに彼は、朝廷の恩命があっても 拝辞 ( はいじ )したが、こんどはすすんで 参議 ( さんぎ )に任官し、従三位に 叙 ( じょ )せられた。 また、 内奏 ( ないそう )をとげて、南都の東大寺に秘蔵伝来されている 蘭奢待 ( らんじゃたい )の 名香 ( めいこう )を 截 ( き )るおゆるしをうけた。 この 香木 ( こうぼく )は 聖武 ( しょうむ )天皇の御代、中国から渡来したもので、 正倉院 ( しょうそういん )に 封 ( ふう )じられて、 勅許 ( ちょっきょ )がなければ、観ることすらゆるされないものだった。 蘭奢待 ( らんじゃたい )。 この文字のなかに、東、大、寺の三字がかくしてある。 主上からこれをいただいた者は、足利 義政 ( よしまさ )以後、信長だけであった。 辰 ( たつ )の 刻 ( こく )、お蔵びらき。 名香は、六尺の 長持 ( ながもち )に秘せられてある。 一寸八分の香木のために、この盛儀が 執 ( と )り行われたばかりか、ために奈良の町といい近郷の 伽藍 ( がらん )や名所といい、諸国から集まって来た人出で、春の空も 埃 ( ほこり )に黄 ばむばかりであった。 「どうも、仰山だな、信長のやることは少し……」 若い奈良法師たちのうわさを聞くと、そういう者もあるし、またこういう者もあった。 「政治だよ。 信長は、あれでなかなか政治家なんだよ」 信長はたしかに武人にして政治家でもあった。 世間の 具眼者 ( ぐがんしゃ )が、彼をそう 観 ( み )たのは、 中 ( あた )っている。 けれど、その時代の「政治」というものは、現代でいうところの「政治」とは相違があった。 「政治」ということばそのものが、もっと高潔であり明朗であったのである。 今日のごとく 穢 ( よご )されていなかった。 人間の天職のうちでいちばん遠大な理想と、広い仁愛を奉行し得る職として、諸人は常にその職能に 景仰 ( けいこう )と信望をかけていた。 もちろん長い歴史のうちには、その政治をにぎっても、民衆の信頼を裏切った 司権者 ( しけんしゃ )はいくらもあり、すでに前 室町 ( むろまち )政治のごときもそれだったが、さりとて民衆は、政治そのものを 卑 ( いや )しめたり疑ったりはしなかった。 奉行する「人」の 如何 ( いかん )にあることを知っていた。 「政治」というその 気高 ( けだか )いことばまでが、あたら 卑 ( いや )しい私慾の徒の表看板かのように地に 堕 ( だ )してしまったのは、明治末期から大正、昭和初期にかけてのことで、本来の「政治」とは、飽くまで、人間の職能として、最高の善事を奉行するものでなければならない。 その職府にある大臣や高官を、あたかも無能な愚人のように 揶揄 ( やゆ )したりするとき、それは小市民の 諷言 ( ふうげん )や皮肉味をお茶 うけのように軽くよろこばせたりするか知らぬが、その時代下の民衆はかならず不幸であり不安であるにきまっている。 故に、大臣高官は、 威重 ( いおも )く、入るにも出るにも、常に 燦燗 ( さんらん )とあって欲しい。 民衆はそのほうが頼もしくまた安泰を感じるのである。 如才 ( じょさい )ない政治家だの民衆の 鼻息 ( びそく )ばかり 窺 ( うかが )っている大臣などは、いつの世でも民衆は見ていたくない。 民衆の本能は、高い 廟堂 ( びょうどう )にたいして、やはり 土下坐 ( どげざ )し、礼拝し、 歓呼 ( かんこ )して仰ぎたいものである。 形では上下の区別があっても、そのときその治下の民衆は大きな安心と国家の 泰平 ( たいへい )を感じるからである。 信長はそういう庶民性をよく見ていた。 蘭奢待 ( らんじゃたい )を賜わるべく、勅許を仰いだのも、一個の身に、名香の 薫 ( かお )りを持ちたいだけの小慾ではなかった。 むしろ自己の光栄と存在を、全土の民衆のうえに 薫々 ( くんくん )と行き渡らせたいための盛事だったというほうが適切であった。 また、こういう行事から、彼はたちまち、 公卿京紳 ( くげけいしん )の文化人と接触し、深交をむすんで行った。 愛馬趣味もあった。 一面に文化人と 融和 ( ゆうわ )を計りながら、信長はまた決して、民衆を置き去りにはしなかった。 自分の愛馬六十頭を出して、 加茂 ( かも )の馬場で大競馬を催し、それには莫大な費用と善美をつくして、市民の観覧をゆるし、数日にわたって、一般の老幼男女を楽しませた。 けれど彼は、何をして遊んでもそれに 溺 ( おぼ )れない自己をいつも持っていた。 相国寺 ( そうこくじ )へ三条、 烏丸 ( からすまる )、 飛鳥井 ( あすかい )の諸卿を招いて、 蹴鞠 ( けまり )を催したときである。 今川義元の一子 氏真 ( うじざね )は、蹴鞠の名手といわれていたが、その日も、晴れがましく 装束 ( しょうぞく )して、庭上で得意の 鞠 ( まり )を蹴って見せた。 「あざやか。 氏真どのは」 公卿 ( くげ )たちはみな 褒 ( ほ )め 称 ( たた )えたが、信長はあとで、侍臣にこういったということである。 「あわれ、今川氏真をして、鞠を蹴る 伎 ( わざ )の十分の一でも、文武に心を入れていたら、 可惜 ( あたら )、 洛陽 ( らくよう )に 余伎 ( よぎ )の人となって、諸人の見世物には 曝 ( さら )されまいものを……。 祖父以来の 駿 ( すん )、 遠 ( えん )、 三 ( さん )の三ヵ国を他人に取られて、ただ一個の鞠をいだき、得意がっておるあの 容子 ( ようす )は……さてさて、見るもなかなか 不愍 ( ふびん )であった」 徳川家康は、ことし三十四歳、その後は、 浜松 ( はままつ )の城にいた。 子の三郎 信康 ( のぶやす )も、はや十七となった。 信康のほうは、岡崎に在城している。 むかしからのことだが、相かわらずここの士風は土くさい。 京風の 華奢 ( きゃしゃ )軽薄な文化は とんと入って来ない。 いや入れないのであろう。 君臣の生活も、一般の風も、時代や流行の影響なく、依然として三河色だ。 地味で質実でひとえに節約を旨としている。 たとえば婦人の服色でも、眼を刺すような色柄は見られぬし、髪ひとつ 結 ( ゆ )う 紐 ( ひも )にしても、 費 ( つか )い捨てにしていないのがわかる。 男の服装はなおさらで、茶、 暗藍色 ( あんらんしょく )、せいぜいが 小紋 ( こもん )か 霰 ( あられ )ぐらい。 律義者 ( りちぎもの )の子だくさん、という 諺 ( ことわざ )のように、この国の特徴は、どこの軒からも 嬰 ( あか )ン 坊 ( ぼう )の声がよくすることである。 その頃、浜松、岡崎を通る旅人がきっということは、 「どこの辻も、 がきだらけじゃないか。 こんなに国中で子どもばかり生むから、ここの貧乏はいつまでも直りはしない」 と、いう評だった。 天正三年。 三方 ( みかた )ヶ 原 ( はら )以後、わずかまる三年とも経たないうちに、その興隆ぶりを、同盟国の織田や、敵国の武田とくらべてみても、 (なるほど、これじゃあ……) と、無理もないことを誰もうなずこう。 まず織田家の 勃興 ( ぼっこう )ぶりを数字のうえで見ると、ここ足かけ三年間に、足利 義昭 ( よしあき )を追い、浅井、朝倉を滅ぼして、急激にその領地を拡大している。 武田家は、三年前の三方ヶ原以後、およそ十一万石の地を 伐 ( き )り取り、全土で百三十三万石の富強を擁している。 それにひきかえ徳川家は、ここ三年ほどのあいだに、八万石の減地を示していた。 「忘るるな、この 稗 ( ひえ ) 粟 ( あわ )の軽い飯茶碗は、殿さまがそち達を好んで 飢 ( ひも )じゅうさせよとて、下されているものではない。 年ごとに武田勢に御領地を 伐 ( き )り 奪 ( と )られてしまうためじゃ。 お国を強うするには、造作もない。 こういう中で、岡崎城の家中近藤平六は、 新規 ( しんき )御加増となった。 もとより戦功があったからこそであるが、平六は心のうちで、 「なにやら申し訳ない」ような気がしてならなかった。 君恩のかたじけなさ、いうまでもないが、それだけ君家の 禄 ( ろく )を喰い 減 ( へ )らす気がした。 そうかといって、戦陣の恩賞を辞退するのも主家に対してよろしくない。 「近藤。 貴公はまだ、 大賀 ( おおが )どのの所へ行っておらぬそうではないか」 「は。 つい…… 取 ( と )り 紛 ( まぎ )れて」 「早く参って、新規御加増の 采地 ( さいち )は、どこの村か、どこを境とするか、よく 地方 ( じかた )のお指図を 承 ( うけたまわ )って、戴いたものは戴いたようにしておかねばいかんじゃないか」 「はあ、今日は、帰りに立ち寄って、よく大賀どのから伺いまする」 番頭 ( ばんがしら )から 叱言 ( こごと )をいわれて、近藤平六は大いに恐縮した。 その夕方彼は退出のもどりに、徳川家切っての 出頭人 ( しゅっとうにん )、 大賀弥四郎 ( おおがやしろう )のやしきを訪ねた。 おそらく浜松にも岡崎にも、大賀弥四郎ほどな屋敷を構えていたものはなかったろう。 彼は、三河 遠江 ( とおとうみ )三十余郷の代官だった。 また、地方 吟味 ( ぎんみ )、 税取立 ( ぜいとりたて )、岡崎浜松の勘定方や軍需品の買入役など、およそ経済方面の要務は、ほとんど兼ねているといっていい。 だから彼の門には、客が市をなした。 外部はそうでもないが、一歩邸内にはいると、ここばかりは岡崎ではないようだった。 建築庭園にも、召使の男女の 装束 ( しょうぞく )にも、都の 華美 ( かび )がそのままある。 客があれば、かならず贈り品が一緒に入り、奥に通れば、かならず 美酒佳肴 ( びしゅかこう )が主客のあいだに出る。 「……どうも好かん」 主 ( あるじ )の大賀弥四郎が出てくるあいだ、近藤平六は、借物のように、 豪奢 ( ごうしゃ )な書院にぽつねんと待たされていたが、自分の加増という用向きで来ているくせに、心は甚だ楽しまない。 「やあ、失礼失礼」 出て来た。 弥四郎である。 四十二、三の 巨男 ( おおおとこ )で、 盤広 ( ばんびろ )な顔に黒 あばたがいっぱいだ。 しかし、非常な才人であることは、その応対ですぐわかる。 ひと 事 ( ごと )のような気はせん。 妻ともはなしていたことだが、近藤どのも、お子は多いし、一族では本家分。 あははは、まあ、よかったよかった」 まったく、わが事のように、 欣 ( よろこ )んでくれるのである。 三河者の 朴訥 ( ぼくとつ )を、そのまま自分としている平六には、そのよろこびが、嘘かほんとかなどと疑ってみることもできなかった。 「いえ、赤面です。 さしたる戦功もないのに、御加増とは、まったく思いもよらぬ恩命で、なにやら却って、肩身がせまい気がいたしまする」 「なに、肩身がせまいと。 御加増をうけて、肩身がせまいといったのは、古今、近藤平六をもって、 嚆矢 ( こうし )とするじゃろう。 いや、 其許 ( そこもと )は実に、正直者じゃからのう。 そこがまた、勇者たる質のある 所以 ( ゆえん )かもしらぬて」 「なんですか、 番頭 ( ばんがしら )のおことばには、新規に戴いた采地の 地境 ( じざかい )とか、おさしずを承れと、申されて参りましたが」 「ありがたいお沙汰をうけながら、いつまでも、どうして来ないかと、わしも思っていたところじゃ。 いま御采地の 地方絵図 ( じかたえず )をお示しする。 まあ、きょうはゆっくりして行くがよい」 いつの間にか、もう平六の前にも 主 ( あるじ )の前にも、美々しい膳部や酒器が並んでいた。 それを運んで来たり、酒間をとりなす召使の女にしても、岡崎や浜松の女の 肌目 ( きめ )ではなかった。 わざわざ京都から 抱 ( かか )え入れたものらしい。 酒はきらいでないし、自分たちが日頃、惜しみ惜しみ飲んでいる粗製とはまるでちがう。 人間、誰しもこういう 一夕 ( いっせき )の悪かろう筈はない。 平六はすっかりいい気もちになった。 「もう……もう充分でござる。 お 暇 ( いとま )いたします」 「采地の事情も地境も、よく分ったろうな」 「わかりおります。 いろいろどうもお世話で」 「むむ。 ……ところで、近藤」 「はあ」 「自分の口から申しては恩着せがましいが、こんどの恩典も、実はこの弥四郎が、それとなく君前へおとりなししたればこそ、お沙汰が下ったのだぞ。 ……それだけは、記憶してくれい。 この大賀を疎略には思うまいが」 「…………」 平六は、 うんも すんも答えなかった。 興ざめた顔して、弥四郎の あばたを見まもっていた。 「お暇いたす。 御免」 近藤平六は、急に腰をあげた。 弥四郎はおどろいて、 「や。 もはや帰るとは」 「は。 帰ります」 「何か気にさわったのか。 貴公が、めでたい御加増となったのは、この大賀弥四郎の推挙によると、正直にいったのが……気にさわったのか」 「いや、そんなわけでもござらぬが、どうも不快で」 「そういえば、急に顔いろもよくないが」 「悪酔いしたかもしれません」 「酒は強いお身なのに」 「体の ぐあいでしょう」 匆々 ( そうそう )に、席を立って、平六は門を辞してしまった。 その日、別室のほうに、もうひとり客が来て飲んでいた。 これも大賀と同様に、岡崎の家中で羽ぶりのよい山田八蔵という御蔵方随一の出頭人だった。 よほど親しい間とみえ、八蔵はずかずかとそれへやって来て、 主 ( あるじ )弥四郎へむかい、 「ちと、 逸 ( はや )まった口外をなすったな。 あいつ、何か感づいて帰ったのではあるまいか」 と、いった。 弥四郎にも、同じ不安があったらしく、 「日ごろ、お人好しの平六といわれている人間、いと無造作に、こっちの恩を感じるかと思いのほか、急に いやな顔をして帰った。 ……どうやら俺のことばの裏を、変に 覚 ( さと )ったらしい気ぶりもある」 「では、生かしておけまい」 「そこまでの大事はまだ洩らしていないが……」 「 蟻 ( あり )の穴からという 喩 ( たとえ )もある。 拙者が追いかけて」 と、山田八蔵は、すぐ庭門のほうから出て、平六のあとを追った。 近藤平六は、送りに出て来た大賀の召使たちにも、ひと口のことばも交わさず、表門のくぐりから外へ出て来た。 そして宏壮な門を出て、黙ってふり向いていたが、 「……べッ」 と、 唾 ( つば )するように、何かつぶやいていた。 裏門から廻った山田八蔵は、その影をはやくも見つけて、 「どこで斬ろうか?」 と、土塀に身を 貼 ( は )りつけながら徐々に近づいて来た。 すると近藤平六は、表門から塀づたいに十歩も行くと、すぐ 塀際 ( へいぎわ )の 溝 ( みぞ )へ向って、屈みこんでいた。 どこの屋敷でも、すこし大きな構えとなると、かならず塀のまわりに 溝渠 ( みぞ )があり水がながれている。 そして、涙をこすりながら、 「ああ、 清々 ( せいせい )した」 と、つぶやいて、とことこ行ってしまった。 山田八蔵はその 容子 ( ようす )を見て、急に気が変った。 やはり彼がふいに辞去したのは、体の加減で、ほんとに悪酔いしたものにちがいない。 そのほかに深い意味があるように考えたのは、こっちの考え落ちだったと、思い直したのである。 とかく、大事のまえには 事勿 ( ことなか )れだ。 飲み直そう」 と、手をたたいて、京美人の 侍女 ( こしもと )たちを呼びあつめた。 ここばかりは、百難 克服 ( こくふく )、 挙藩 ( きょはん )一 致 ( ち )の窮乏岡崎の城下ながら、岡崎の外のようだった。 豊かなる「物」と 貪慾 ( どんよく )な精神とが、門を閉じて私慾の小国を作っていた。 近藤平六は、 物頭 ( ものがしら )の 大岡忠右衛門 ( おおおかちゅうえもん )の私宅を訪ねた。 「せっかくでござるが、新規の御加増は、そのまま殿へ返納いたしたく存じますから、御面倒ですが、その手続をお取りねがいたいので」 「何、御加増をお返しする? ……大賀殿のところへ伺ったか」 「行きました。 その結果」 「何としたわけだ」 「嫌になりましたから」 「ばかなことをいっては困る。 然るに、大賀がいうには、このたびの御加増も、ひとえに、自分が蔭にまわって、殿へ御推挙をしたためであるなぞと」 「そんなことを申されたか」 「大賀から恩をきるなど、耐えられません」 「大賀どのは一体がああいうお人なのだ。 この先とも、あのお方の憎しみをうけては、御奉公もし 難 ( にく )うなる。 まあ、まあ」 「いやでござる」 「強情だな、貴様も」 「お 頭 ( かしら )こそ、 諄 ( くど )いでしょう」 「何といおうが、御加増返納などという手続は取りようがない。 ところが数日の後、近藤平六はのこのこ浜松へ行って、家康へ目通りを乞い、ありのままを君前で 披瀝 ( ひれき )した。 「平六 微賤 ( びせん )ではございますが、大賀ごときに 追従 ( ついしょう )して、禄地を増し賜わらんなどという 穢 ( きたな )い心は持ちません。 左様な禄なら一粒なりとも、受けては武士の汚名と存じおります。 「…………」 家康も困った顔していた。 何しろ藩の財務にかけては、 懸 ( か )け 替 ( が )えのない才腕をもつ大賀であった。 「平六。 ……平六」 「はッ」 「いささかの加増は、家康が 心遣 ( こころや )りじゃ。 弥四郎の取り なしによるものでないことは、分っておろうが」 「でも、大賀の申すように世間に聞えましては」 「まあ、聞けい。 ……そちも忘れてはいまい。 わしが岡崎に在城の頃、或る年、田を見廻りに行くと、泥田の中に、百姓どもと打ち 交 ( ま )じり、大小を 畦 ( あぜ )において、そちも、そちの妻子も、稲を植えていたことがあろう。 ……あの時、わしは何というたか。 あの折の約束を、いささか今日、果したまでであるぞ。 ぐずぐず申さず受けておけい」 「はッ」 と、いったきり、平六はもう返すことばもなく感涙にむせんでいた。 そのことばを、家康も忘れず、平六も思い出して泣いたのであった。 武田 勝頼 ( かつより )は三十の春を迎えていた。 亡父 ( ちち )の信玄よりは遥かに 上背丈 ( うわぜい )もあり、骨ぐみも 逞 ( たくま )しかった。 美丈夫と呼ばれるにふさわしい風貌の持主であった。 と、故信玄の遺命はよく守られて来た。 けれど、年々その忌日には、 恵林寺 ( えりんじ )をはじめ諸山の 法燈 ( ほうとう )は秘林の奥にゆらいで、万部経を 誦 ( よ )みあげていた。 勝頼も、その日は、兵馬の事を廃して、 毘沙門堂 ( びしゃもんどう )のうちに 慎 ( つつし )み、眼に新緑を見ず、耳に 老鶯 ( ろうおう )を聞かないこと三日にわたっていた。 扉 ( と )をひらいて、 躑躅 ( つつじ )ヶ 崎 ( さき )の 館 ( たち )から、香煙を払った日である。 返書は、それがしより 認 ( したた )めてつかわしますゆえ」 と、一通の書面をわたした。 あたりには誰もいなかった。 大炊介の 容子 ( ようす )では、特にそういう折を見はからっていたようでもある。 「……お。 岡崎から?」 勝頼は、手にとると、すぐ封をやぶった。 あらかじめ、彼の胸にも受信の用意があるものにちがいない。 読み下してゆくうちに、その顔にもただならぬ色が動いた。 凛々 ( りんりん )と、夏近い若葉青葉に、 逞 ( たくま )しい声して 鶯 ( うぐいす )が啼きぬいている。 勝頼は、その若いひとみを、きっと窓外の天へ向けていたが、 「心得た。 その方より答えてやれ」 と、いった。 跡部 大炊介 ( おおいのすけ )は、はッと、彼の 面 ( おもて )を見あげ直して、 「そのように申し 遣 ( や )って、よろしゅうございますか」 と、念を押した。 勝頼はもう決然と、 「よしッ。 天の与えたもう機を逸してはなるまい。 お気づかいなものではございません」 「 遺漏 ( いろう )はあるまいが、 ぬかるなと、書中、申し添えてやれよ」 「承知いたしました」 大炊介は、 文殻 ( ふみがら )を返していただくと、ふかくそれを 懐中 ( ふところ )に秘して、また 倉皇 ( そうこう )と 退 ( さが )って行った。 私邸へではない。 館 ( たち )の内の一棟のほうへ。 そこは、他国の使臣や、諸方に放ってある 諜者 ( ちょうじゃ )などが、よく迎えられるところで、本丸やこの 曲輪 ( くるわ )とも絶縁された一 秘閣 ( ひかく )であった。 大炊介がそこへ入って、 幾刻 ( いくとき )ともたたないうちに、表の政務所のほうでは、にわかに 繁忙 ( はんぼう )なうごきが現われていた。 軍触 ( いくさぶ )れが発しられたのである。 夜になると、その混雑はなお増していた。 夜どおし、人影がうごき、城門の出入りはやまなかった。 夜が白みかけると、城外の馬揃いの広場には、すでに、約一万四、五千の兵馬と 旌旗 ( せいき )が、朝霧の底に、 粛 ( しゅく )として濡れていた。 まだぞくぞくと集まってくる将士があるらしい。 出陣を触れる貝が、日の出までに、幾たびか、甲府の町々を呼びさましていた。 ゆうべ手枕で 一睡 ( いっすい )したのみであった勝頼は、もう全身を 鎧 ( よろ )って、すこしも眠たげなものを顔に留めていなかった。 人いちばいな健康と、大きな将来への夢は、彼の肉体に、今朝の新緑のような若い露をたたえていた。 父の信玄が 亡 ( な )い後も、この三年間、彼は一日だに、 安閑 ( あんかん )としてはいなかった。 甲山 峡水 ( きょうすい )の守りは固いけれど、 遺封 ( いほう )をついで、それに甘んじているべくは、余りに彼の胆略と武勇は、父以上に備わりすぎている。 勝頼は、名門の出に多い、いわゆる不肖の子ではなかった。 むしろ、自負と、責任感と、天質の勇武があり過ぎたといっていい。 いかに秘しても、信玄の 喪 ( も )は諸国に洩れた。 機逸すべからずである。 小田原の北条も態度がちがって来た。 なおさらのこと、織田、徳川など、隙さえあれば、領界から 侵犯 ( しんぱん )して来る。 偉大な父をもった子は楽ではない。 しかもなお、彼は父の名を 辱 ( はずかし )めていなかった。 どこの 戦 ( いくさ )でも、五分に戦うか、かならず利を得て帰った。 やがて、何かの大機会に、 晴信入道信玄 ( はるのぶにゅうどうしんげん )ここにありと、 忽然 ( こつぜん )、世にあらわれてくるのではないか) と、いうような 疑心暗鬼 ( ぎしんあんき )のうわさが、諸国にみだれ飛んでいるくらいだった。 以て、彼がここ三年の、信玄亡きあとの努力と経営は 窺 ( うかが )われる。 「御出陣の前に、 美濃守 ( みののかみ )どのと、 昌景 ( まさかげ )どのが、しばしの間、お目通りを仰ぎたいと、申し出られておりますが」 はや立とうとしていた折である。 穴山梅雪 ( あなやまばいせつ )から勝頼へこういう取次があった。 馬場美濃守も 山県 ( やまがた )昌景も、ふたりとも父以来の功臣である。 勝頼は、ふとこう 訊 ( たず )ね返した。 「両名とも、出陣の身支度は、ととのえておるか」 「 鎧 ( よろ )うておられます」 梅雪の答えに、そうかと 頷 ( うなず )いて、やや安心したらしく、 「通せ」 と、ゆるした。 まもなく、馬場、山県の両将は打ち揃って勝頼のまえに出た。 果たせるかな、勝頼の予感はやはり 中 ( あた )っていた。 「昨夜、おそくの御陣触れ、とるものも取りあえず、かくは馬揃いまで馳せ参じましたなれど、つねにも似ず、御軍議もなく、いかなる御勝算あっての御出馬か。 この二将は、さすがに信玄仕込みの老練なので、勝頼の胆略にも武勇にも、大して心服していなかった。 日頃から勝頼もそれを感じている。 だが、ふたりの持説とする、 (ここ数年は守るに 如 ( し )かず) と、いうような保守主義は、彼の性情としても、若さからも、承認できないことだった。 「いや決して、無謀な出陣はせぬ。 くわしくは大炊がふくんでおる。 計 ( はかり )は密なるをもってよしとする。 そこへ迫るまでは、味方にも告げぬつもり。 悪 ( あ )しく思うなよ」 勝頼はそういって、巧みに、両将の 諫言 ( かんげん )を避けた。 馬場、山県の両将は、あきらかに、不快な顔いろを見せた。 といわれたことが、心外らしかった。 信玄以来の宿将たる自分たちにも計らず、これほどな大事を、跡部大炊などの輩と、軽々に決めて、兵馬をうごかされるなどとは……と、ふたりは同じ心を眼に見合って、しばらく 呆然 ( ぼうぜん )としていた。 やがて、美濃守が、 面 ( おもて )を 冒 ( おか )して、もういちど勝頼へいった。 そして、なお、 「お身たちの、案じてくれるは 欣 ( うれ )しいが、勝頼とて、今日の大事はぞんじておる。 御旗楯無! そのことばを聞くと、両将とも手をつかえて、心にそれを拝した。 この二品は、武田家に伝わる軍神の神体であった。 御旗というのは、八幡太郎義家の軍旗、また楯無というのは、家祖 新羅三郎義光 ( しんらさぶろうよしみつ )の 鎧 ( よろい )なのである。 どんなことでも、この 宝器 ( ほうき )のまえに 神盟 ( しんめい )したことは、 違 ( たが )えないということが、代々武田家の鉄則であった。 勝頼が、その 神誓 ( しんせい )の下に、起ったと云いきっては、もう二臣の諫言も、それを 強 ( し )いる余地はない。 君家の安危は、思い 断 ( た )つにも断たれなかった。 で、大炊の陣場を訪ねて、 「仔細は貴公から聞けとのお 館 ( やかた )の仰せであったが、いったい、いかなる秘策があって、かくは急に、御出兵と相成ったのか」 と、問い 糺 ( ただ )すと、跡部大炊介は、人を払って、得々とその内容を打ち明けた。 彼がいうところの機密な計とは、次のようなことであった。 家康の子、徳川信康がいま守っている岡崎の 財吏 ( ざいり )に、大賀弥四郎なる者がいる。 その大賀は、以前から自分を通して、武田家に内通し、お館におかれても、ふかくゆるしておられる。 おととい 躑躅 ( つつじ )ヶ 崎 ( さき )に来た使いは、その大賀弥四郎から密書をたずさえて来たもので、「機はいまや熟した」と報じている。 何となれば。 この二月以来、信長は 入洛 ( じゅらく )していて、 岐阜 ( ぎふ )は留守だし、加うるにその以前、信長が長嶋門徒の 剿滅 ( そうめつ )にかかったとき、家康から援軍を送らなかったので、二国同盟の信義も、このところ少しおもしろくない感情に 疎隔 ( そかく )されている。 いま甲軍の疾風のごとく、三河に出て、 作手 ( つくで )あたりまで攻めて来るなら、大賀は岡崎にあって、内部を 攪乱 ( こうらん )し、城門をひらいて甲州勢を迎え入れよう。 家康はきっと、伊勢か美濃路へでも逃げ 退 ( の )くことになろう。 「どうです、これこそ、天来の福音ではござるまいか」 大炊 ( おおい )はすべてが、自分の 画策 ( かくさく )であるかのように誇って話した。 ふたりは、もう何もいうことを欲しなかった。 跡部大炊とわかれて、自分たちの隊へもどって帰る途中、暗然と、顔を見あわせて、 「……美濃どの。 おたがいに、生きて亡国の山河は見たくないものだな」 と、 沁々 ( しみじみ )、山県三郎兵衛がささやくと、馬場美濃守もうなずいて、 「お身にしても、また、それがしにしても、早や人間の 定命 ( じょうみょう )には達しておる。 このうえは、よき死に場所を得て、先君のおあとを慕い、われわれが、 輔佐 ( ほさ )の任に足らなかった罪を、お詫び申すより道はない」 と、沈痛な眉をして云った。 馬場、山県といえば、信玄の 麾下 ( きか )に、その人ありと、多年、四隣にその名の聞えていた勇将である。 ふたりの髪には、はや白いものが 増 ( ふ )えていた。 信玄が死んでから後、急にそれは目立っていた。 甲山の緑は若く、 笛吹川 ( ふえふきがわ )の水はことしも強烈な夏を前に、 淙々 ( そうそう )と永遠の生命を歌っていたが、別るる山河に、 (再び 汝 ( なんじ )と 相見 ( あいまみ )えることを得るかどうか) と、無量な思いを抱いて立った将士がどれほどあったろうか。 信玄亡きのちの甲軍は、やはり 昔日 ( せきじつ )の甲軍ではなかったのである。 どこかに一抹の悲調と無常があった。 旗ふく風にも、足なみの音にもあった。 たとえば落日の赤さも、 朝陽 ( あさひ )の赤さも似ているようにである。 部隊部隊の旗じるし 馬簾 ( ばれん )などを見ても、また勝頼の前後をかためてゆく旗本たちの 分厚 ( ぶあつ )な鉄騎隊を見ても、甲軍衰えたりとは、どこからも見えなかった。 彼の豊かな頬には、かぶとの 眉廂 ( まびさし )にちりばめてある 黄金 ( こがね )が映じて、いかにもこの壮年の大将の前途を華やかに想わせたものだった。 彼は気負うほどな実績を、信玄の死後にも挙げていた。 徳川家の領域へ出て、そちこちの小城を攻め取ったり、 明智城 ( あけちじょう )を奇襲して、信長の鼻を明かしたり、また、不利と見れば、疾風のごとく、 還 ( かえ )り去るのも見事だった。 わけてこんどの出陣には充分の画策がある。 遠江 ( とおとうみ )から 平山越 ( ひらやまご )えにかかり、やがて目標の地、三河へ攻め入ろうと、その夜、河原をまえに野営していた時である。 対岸から泳いで来る敵方の侍があった。 見張の兵が、すぐ生け捕ってみると、これは小谷甚左衛門、倉地平左衛門というふたりで、徳川の士だが、徳川家の兵に追われて逃げて来たものと分った。 二人は、勝頼の面前へ、すぐ自分らを連れて行って欲しいと希望した。 何やら重大なことを急に告げたいというのである。 「なに? 小谷甚左と、倉地のふたりが、逃げて来たと……?」 勝頼は、待つ間も もどかしそうであった。 彼には何か思いあたりがあるらしく、 胸躁 ( むなさわ )ぐ心の影は、 眉 ( まゆ )にもすぐあらわれていた。 家康はゆうべよく眠らなかったらしい。 何か、非常な心痛をいだいているかのように見える。 今朝の顔は 腫 ( は )れぼったい。 新緑の生々たる朝だ。 かつて三方ヶ原の戦いのときでも、この浜松城の門を開け放しにして、敵の包囲軍を前に、 大鼾 ( おおいびき )で眠ってしまったほどな人だ。 きのう、岡崎の家中近藤平六が、目通りをねがい出て、 御加増返上、 という前例のない事件を持ち出し、平六一流の武士的良心から、極めて率直に、大賀弥四郎の 卑 ( いや )しいことばやその無礼を訴えて帰ったそのあとからのことである。 家康になだめられて、平六は感泣しながら、返上の願いは撤回して 退 ( さが )ったが、家康の胸には、深い憂いが残っていた。 と、不審を感じ出したのである。 主君たるものが、自身の重用している臣下にたいして、疑いを抱くほど、不幸の大なるものはなかろう。 心痛の深いものはあるまい。 外部の百難も、四隣の強敵も、それは恐るるに当らない。 むしろ敵なき国は亡ぶ、という真理をうしろに、よろこんで逆境また逆境を克服してゆく快味もある。 けれど、君臣のあいだの 疑心暗鬼 ( ぎしんあんき )は、ふところの敵である。 ひいては藩全体の病患ともいえる。 これを 治 ( じ )すには名医のごとき老練と政治的な果断が 要 ( い )る。 心身の疲労はここに原因があった。 「さむらい部屋に、又四郎はおるか。 見てまいれ」 小姓のひとりがすぐ、はいと答えて立って行った。 やがて、彼のいる書院の外に、肩肉の固そうな、色の浅ぐろい、三十がらみのさむらいが手をつかえた。 石川 大隅 ( おおすみ )の 甥 ( おい )で、典型的な三河武士である。 「お召しでございますか」 「オオ。 何やらちと退屈をおぼえた、そちを相手に、 象戯 ( しょうぎ )でもさそうかと思うて。 盤 ( ばん )をこれへもて」 妙なことがあるものと、又四郎は変に思ったが、主命なので、象戯盤を持って来た。 「久しく手にせぬから、そちには 敵 ( かな )うまいな。 ……そちは陣中でもよくやりおるそうだから」 駒をならべ始めた。 そして家康はまたうしろを見て、 「小姓たちもみなも、次へ 退 ( さが )って休息しておるがいい。 下手象戯 ( へたしょうぎ )をのぞかれると、よけい気が惑うていかぬもの」 と、笑って云った。 (おまえは陣中でもよく象戯をさしているそうだから、さだめし強いだろう) さむらいが主君からこんな 賞 ( ほ )め 方 ( かた )をされるのは名誉でないはずだが、石川又四郎にとっては、尠なくも不名誉ではなかった。 それには、こんな理由があるからである。 或る年の合戦に、家康は、敵の小城を取り詰めて、自身たびたび攻め口を巡視していた。 するといつも、城壁の上から、家康のほうへお尻を向けて、叩いて見せる敵兵がある。 「憎いやつだ」 家康は舌打ちして通ったが、翌日通ると、また塀の上にその尻が見える。 頻りと叩いている様子である。 「たれぞ、あの 醜 ( みぐる )しいものを、射落せ」 供の中にいた石川又四郎が、はッと答えながら、斜めに弓を持って、駈け出して行った。 そして、城壁の下へ、近々と寄って、矢ごろを 測 ( はか )り、丁ッと射ると、矢を立てた尻は、見事、下へ転げ落ちた。 ところが、とたんに城中からも、 ひょうッと、一本の矢が飛んで来て、又四郎の 喉 ( のど )に突き立った。 当然、彼は仰向けに倒れた。 味方は、声をあげて、 快哉 ( かいさい )をさけんでいたが、その 体 ( てい )に驚いて、たちまち彼のそばに駈け寄り、家康のそばまで、抱えて来た。 「…… 不愍 ( ふびん )な」 と、家康は、自分の手で、矢を抜いてやった。 そして、 「小屋へ 退 ( さ )げて、よく養生させてつかわせ」 と、命じた。 その晩、家康は陣所のうちで、 干飯粥 ( ほしいがゆ )を喰べていたが、ふと、 箸 ( はし )の間に、 「もう息をひき取ったであろうな」 と、左右へ訊ねた。 では息のあるうち、ひと目、見舞うてやろう」 と、箸をおくとすぐ、夜中なのに、傷病兵のいる小屋へ出向いて行った。 前触れも何もないので、軽い負傷者は、笑いばなしなどしていたし、重傷者は横たわって 呻 ( うめ )いていた。 家康が入ってゆくと、そこの一隅に、 蝋燭 ( ろうそく )を一本立てて、 象戯 ( しょうぎ )をさしている男がある。 見ると、そのひとりが又四郎だった。 「喉の 矢瘡 ( やきず )はどうした?」 と、呆れながらたずねると、 「好きな象戯をさしていると、痛みも忘れております。 明日は、御陣所へ 罷 ( まか )り出て、役目に就けるかと存じます」 と、 坐住居 ( いずまい )を直して答えた。 「ばかを申せ、もっと寝ていなければいけない」 叱って帰って来たが、家康は内心、 欣 ( うれ )しかったらしい。 あくる日、彼が首の根に布を巻いて、具足を着込み、まるで俵みたいな恰好して出て来たのを見ると、にやりと笑った。 家康が満足なときに洩らす微笑であったという。 彼の象戯には、こういう履歴があるので、 (あれは、喉に穴があいても、役目を怠らない男だ。 いわんや、象戯の好きぐらいに、心を 囚 ( とら )われる気づかいはない) と、主君から保証されたかたちになっていたのである。 今、その象戯盤を間において、又四郎は主君のお相手を命じられたが、駒をならべ合ったのみで、家康はいつまでも駒をうごかそうともしなかった。 「……いざ。 どうぞ」 当然、自分のほうが強い。 又四郎は、こう先手を 促 ( うなが )した。 「…………」 家康は眼をこらして、彼の顔をただ見ている。 主従ふたりが、どんな象戯をさしていたか、小姓も侍臣もいなかったので、知るものはない。 初めは、静かだった。 家康と又四郎とで、何か、密談でもしているふうであった。 そのうち、象戯の駒音が、すこし聞えた。 と思うと、まもなく、 「無礼であろう」 「無礼ではありません」 「いまの手は待て」 「待てません」 「主にたいして、そちは」 「たとえ、盤上の遊戯でも、勝敗のこと、主従の別はないはずでござる」 「強情なやつ。 待たぬか」 「 御卑怯 ( ごひきょう )でござる」 「こやつ、卑怯といったな、主にたいして」 大声で争いが始まったと思ううちに、家康の声で、おのれッと、起ち上がった様子。 つづいて、盤の駒が、一面に飛んだような物音と共に、大廊下のほうへ、だだだだと、逃げてゆく跫音がした。 「捕えろ、又四郎めをッ」 追いかけながら、家康はあたりへ怒号した。 手に脇差を抜いている。 「殿ッ、殿。 いかがなされましたか」 駈けつけて来る家臣たちへ、家康は口を極めて怒りをもらした。 象戯 ( しょうぎ )をさしているうちに、いつか主従の見さかいも忘れ、余りに暴言を吐くので、 懲 ( こ )らしめてくれようとしたところ、さらに 悪罵 ( あくば )を放って、逃げて行ったというのである。 「近ごろ、わしの 恩寵 ( おんちょう )に 狎 ( な )れすぎて、図に乗っていた又四郎のやつ。 是が非でも引っ捕えて、 窮命 ( きゅうめい )申しつけねばならん。 すぐ 縛 ( から )めて来い」 いつにない激色である。 大勢して 捜 ( さが )して見たが、もう城中にはいなかった。 夜になって、彼の住居を、追手の者がとり巻いたが、ここにもいない。 「夕方、岡崎の方へ、馬をとばして逃げて行った」 と、いう者がある。 それに石川又四郎の早足というものは、浜松第一の聞えがあった。 これも家康に 従 ( つ )いて戦場へ急いだ時のことである。 日頃、うわさを聞いていたので家康が、 「わしの馬に追いつけるか」 と、 戯 ( たわむ )れに 訊 ( たず )ねたところ、又四郎は、 「いとやすいこと」 と、答えたので、ひとつ困らしてやろうと、家康は、乗馬に 鞭 ( むち )を入れて駈けた。 ところが、一時は先へ駈け抜けても、やがて閉口するであろうと考えられていた予想を裏切って、その晩、宿泊する部落まで行くと、又四郎は先に着いて平然と待っていたので、 「 稀代 ( きたい )な足だ」 と、人々から驚かれたことがある。 その又四郎が必死で逃げたら、どう追っても捕まるまいと、追手の者は、先にあきらめていたのである。 だが、岡崎にも、すぐ 通牒 ( つうちょう )がまわったので、彼の所在は、きびしく 詮議 ( せんぎ )されていた。 すると、それから三日目か四日目ごろの夕方。 大賀弥四郎と並んで、岡崎の 御蔵方 ( おくらかた )支配をしている山田八蔵のやしきへ、そこの裏門をどうのり越えて入って来たか、ぶらりと裏庭にすがたを現わした男がある。 邸内の小侍を通じて、 「ぜひ、お目にかかりたい。 ……折入って、極く内密に」 と、主人八蔵に面会を求めた。 それが石川又四郎であった。 やがて一室に通された。 それも客書院でなく、奥まった密室である。 「どう召されたのだ。 ……いったい、そのお姿は?」と。 知らないはずはない。 浜松でも岡崎でも、隠れないうわさにのぼっている又四郎の境遇である。 「折入って、貴殿の義心に、おすがりに来ました。 彼の父 大隅 ( おおすみ )と八蔵とは、かつて同じ役目にいたこともあり、幼少から八蔵の顔はよく見知っていたのである。 「なに。 武士の情けに訴えてと。 どうしたのだ? ……」 「実は、かようでござります。 浜松の大殿と、 象戯 ( しょうぎ )のうえで、つい雑言を吐き、無礼者めがと、あわやお手討になろうとしましたが……戦場でなら知らぬこと、武士が象戯のうえの言葉ぐらいで死んでは無念。 いかに主君であろうと、多少の功名もあるさむらいを、余りなお仕打と」 「待て待て。 ……では、浜松を 逐電 ( ちくてん )いたして、 御詮議中 ( ごせんぎちゅう )とかいうのは、貴公のことだったか」 「はッ、拙者でございます」 「何たることだ!」 慨然 ( がいぜん )と、山田八蔵は声を 昂 ( たか )めた。 ……よろしい、 匿 ( かくま )って進ぜる。 案じぬがよい」 「か……かたじけのう存じまする」 「いったい、浜松の殿は、御名君の質ではあるが、どこか 冷 ( ひや )やかだ。 ときには 冷厳酷薄 ( れいげんこくはく )、お家のためには、何ものをも犠牲にして顧みぬところがある。 打てばひびくというふうに、又四郎も図にのって、その血気と 鬱憤 ( うっぷん )を、不平らしいことばの 裡 ( うち )にちらちら洩らした。 「まあ、湯にでも入って」 八蔵はやさしく情けをかけた。 情熱に感じやすい若者へは、甘やかし過ぎるほどよく 宥 ( いた )わった。 四、五日、彼はここに匿われていた。 そのうち噂もうすらいだ。 国外へ脱出してしまったものだろうという見解が、一般に又四郎の行方に下されて来たらしい。 「石川。 ……貴公のことばをお伝えしたところ、大賀殿にも、非常なおよろこびだ。 ぜひ会おうと仰せられる。 こよい、そっと 伴 ( つ )れて来いとのことだが……同道してくれるか。 もちろんそれがしが 伴 ( つ )いてゆく」 潜伏 ( せんぷく )している彼の部屋へ、 主 ( あるじ )の八蔵が来ての話しである。 又四郎は、眼に歓びを見せて、 「ぜひ、御同道を」 と、両手をつかえた。 懐中 ( ふところ )へ入って来た 窮鳥 ( きゅうちょう )にたいして、山田八蔵が何を語らったか。 彼と大賀弥四郎との関係を考えあわせれば、あえて 詮索 ( せんさく )するまでにも及ばない。 ふたりは夜に入ると、おたがいに、黒い 頭巾 ( ずきん )を 眉深 ( まぶか )にして、裏門からそっと出て行った。 大賀弥四郎のやしきは 彼方 ( かなた )に見えて来た。 そこを指さして、山田八蔵が何か彼の耳へ 囁 ( ささや )きかけると、 「 謀叛人 ( むほんにん )ッ。 汝らの 企 ( たくら )みはもう明白だ。 「 上意 ( じょうい )!」 又四郎に組みつかれていた。 だッと、大地に投げ伏せる。 そして馬乗りだ。 逆らうので、又四郎は二つ三つ彼の顔の真ん中へ 鉄拳 ( てっけん )を喰らわせておいてから、 「騒がない方が身のためだろう」 と、穏やかに 諭 ( さと )した。 八蔵はあらん限りの抵抗を試みたが、その無意味を覚ると、 脆 ( もろ )くもさけんだ。 「く、くるしい。 手を、手をゆるめてくれ」 「云い分があるのか」 「まったく貴様は上意をうけて来たのか。 すべては殿のおいいつけである。 詐 ( いつわ )ってお城から逃げ出したのも、汝ら一味の企みを探らんためにその方のやしきへ逃げ込んだのも……」 「む、む。 ……では、あざむかれたのか」 「歯ぎしりしたところで、もう及ぶまい。 潔 ( いさぎよ )く君前で自白したら、せめて打首ぐらいはおゆるしになろう」 かねて岡崎の奉行とも 聯絡 ( れんらく )はあったらしい。 又四郎は彼を 引 ( ひ )っ 縛 ( くく )ると、その体を小脇にかかえて 疾風 ( しっぷう )のように駈け出した。 そして奉行所に 抛 ( ほう )りこみ、またたく間に、人数をととのえて、大賀弥四郎の 邸宅 ( ていたく )を包囲した。 奉行の大岡孫右衛門や、その子伝蔵や、また今村彦兵衛などは、又四郎の友人として、討手の中に参加していた。 来たものは、殺陣だった。 上意! 君命! と叫びかかる意外な人数であった。 さきに又四郎の手で縛られた山田は、すぐ浜松へ廻送され、一切を自白したかどで、一命はゆるされたが、髪を切って、 懺悔 ( ざんげ )の一文をあとに残し、どこへ去ったか行方知れずになってしまった。 で、 首魁 ( しゅかい )の大賀弥四郎の陰謀は、吟味までもなく、明白であった。 「厳刑に処せ」 と、家康の怒りは、いつになく 峻烈 ( しゅんれつ )をきわめた。 打首 ( うちくび )、 磔 ( はりつけ )、二日にわたって、 夥 ( おびただ )しい血が、大賀一個の叛心のために、士気粛正の犠牲にされた。 ついきのうまで、ひとつ領土に語らい合っていた人も、相見て 笑 ( え )みを見交わしていた者も、いまは刑場の 他人 ( ひと )として見送られた。 傷 ( いた )ましい極みである。 しかも国境の近くには、武田勢の進出というただならぬ 緊迫 ( きんぱく )の中だけに、領民の憎しみも強かったが、悲しみも深かった。 あわれなのは、大賀の妻であった。 取調べの 口書 ( くちがき )によると、彼は捕われる幾日かまえに酒の上であろうが、妻に向って、 (これしきな生活は、まだおれを満足さすものではない。 いまにそなたも、 御台様 ( みだいさま )と諸人から仰がれるようにしてやるぞ) と、 謀叛 ( むほん )の旨をほのめかした。 妻は驚き、かつ嘆いて、 (冗談もほどにして下さい。 わたくしは、現在の 贅沢 ( ぜいたく )ぐらしさえ、幸福だとは思っていません。 今でもなつかしく思うのは、あなたがまだ 中間 ( ちゅうげん )勤めをしていた頃の貧しい暮しです。 あの時分のあなたは、妻にも真実があり、人様にも真実につきあい、夫婦ともに行く末をたのしんで、明け暮れよく働きました。 ……それがお 上 ( かみ )のお目にとまって、今日、 御譜代衆 ( ごふだいしゅう )でさえ、 真似 ( まね )のできないほどな御出世をなさりながら、何が不満で、そんな 企 ( たくら )みをなさいますか) と、問いつめ、泣いて意見したが、大賀は せせら笑って、耳にも入れなかったらしい。 彼女がそのとき 良人 ( おっと )に予言した天罰の日は、 覿面 ( てきめん )に今日、弥四郎を迎えに来た。 それは一頭の赤い馬であった。 すると外の辻に、もう民衆が騒いで待っていた。 ひとりは 幟 ( のぼり )を持っている。 また同じ文字のある小旗を弥四郎の 襟 ( えり )くびにも 挿 ( さ )した。 幟 ( のぼり )と馬が先に歩き出すと、その後から大勢の者が、 螺 ( かい )をふいたり、 鉦 ( かね )を叩いたり、笛太鼓も入れて、 囃 ( はや )し立てて行くのだった。 その雑然たる音階は、 罵 ( ののし )るごとく、 嘲 ( あざけ )るごとく、 蔑 ( さげす )むごとく、笑うごとく、一種不思議な交響を町中にひろげて行った。 「けだものが行く。 けだものが送られて行く」 「けだもの 囃子 ( ばやし )。 けだもの囃子」 石を投げるもの、 唾 ( つば )するもの、子どもまでが 真似 ( まね )て、 「ひとでなしッ!」 と、さけぶ。 役人も止めないのである。 もっとも止めたら、民衆はもっと 激昂 ( げっこう )して抗争を捲き起すかもしれない。 さいごには、弥四郎の首に板をはめて、両足の 筋 ( すじ )を 断 ( き )り、城下の辻に生きながら首だけ出して埋められた。 側には、 竹鋸 ( たけのこぎり )がおいてあるので、往来の旅人まで憎んでその首の根を 挽 ( ひ )いたという。 いかに不義を憎むにしても、ちと 惨刑 ( ざんけい )のようだが、大賀弥四郎もさいごまで太々しいところを見せている。 彼のため、ことごとく斬刑に処された念志ヶ原の刑場を通ったとき、彼は馬の三頭からあたりを見まわして、 「みな先に行ったか。 おれは 殿軍 ( しんがり )とみえる。 先とはめでたいものよ」 と、 呟 ( つぶや )いていたという。 けだもの囃子がすむと、庶民はもう忘れたような顔していたが、家康は胸のうちで自分の不明を責めていたにちがいない。 世は戦国と誰もいう時勢である。 だからたまたま、調法な男を見出すと、つい 寵用 ( ちょうよう )する。 奢 ( おご )りも見のがしておく。 財務の 名匠 ( めいしょう )たることは、戦陣の名将たる以上、人間として 難 ( むずか )しいものとみえる。 武田勝頼の大軍は、すでに三河に入っていた。 そしてなおも大行軍の途中にあったのである。 「 征 ( ゆ )かんか? 還 ( かえ )らんか?」 勝頼の迷いは深刻だった。 落胆のほども思うべしである。 実に、こんどの出動は、ただただ大賀弥四郎の内応一つにあった。 作戦、目標、すべて岡崎の内部から、 攪乱 ( こうらん )と呼応のあることを、かたく期して来たのである。 のみならず、甲軍の方策は、早くも徳川方に読み抜かれてしまったわけである。 「ここまで来ながら、むなしく還るのも 潔 ( いさぎよ )くない。 ……というて、 うかと前進もならず」 彼の 剛毅 ( ごうき )な気性は、ひたすらそこに悩んだ。 また、 甲州発向 ( こうしゅうはっこう )の際、しきりと 軽挙 ( けいきょ )を 諫 ( いさ )めた馬場や 山県 ( やまがた )の両将にたいしても、意地がはたらいた。 「兵、三千は 長篠 ( ながしの )へ向え。 小山田 昌行 ( まさゆき )と、 高坂昌澄 ( こうさかまさずみ )の二将は、別れて 長篠 ( ながしの )へすすんだ。 そして、 篠場野 ( しのばの )あたりに、陣していた。 何ら、 成算 ( せいさん )のない勝頼は、 二連木 ( にれんぎ )や 牛窪 ( うしくぼ )などの部落を放火して、いたずらに 示威 ( じい )して廻っただけであった。 吉田城へはかからなかったのである。 なぜならば、この時すでに、家康と信康の父子は、内乱者の清掃を一気にかたづけて、疾風のごとく、 薑 ( はじかみ )ヶ 原 ( はら )まで、兵馬をすすめて来たからだった。 勝頼の大軍が、進退に迷って、単なる面目のためにうごいて来たのとちがって、徳川勢は、内部の 叛逆 ( はんぎゃく )どもを血祭りとして、 「亡国か。 興国か」 の大きな衝動をそのまま抱いてここに駈けつけて来たのであるから、兵数は 劣弱 ( れつじゃく )でも、意気ごみは、彼とはまるで違っていた。 薑 ( はじかみ )ヶ原では、 先鋒隊 ( せんぽうたい )と先鋒隊とのあいだに、二、三度、小 ぜり合いがあっただけである。 長篠へ」 と 長駆 ( ちょうく )、急転回して、一たん徳川勢にうしろを見せ、他に期するものあるが如く、遠く去ってしまったのである。 長篠! ここは 宿怨 ( しゅくえん )の戦場だ。 それはまた、不落の 堅城 ( けんじょう )といわれている。 もと、永正年間には、今川家が抑えていた所である。 地形、交通、あらゆる角度から見て、ここは軍事上、重要な地点だった。 ここを持つ持たないは、単に一城の価値だけではなかった。 だから、 戦 ( いくさ )のない日でも、長篠の城には、あらゆる策謀の手、裏切り、流血など 反覆 ( はんぷく )常なきものが繰返されて来たのである。 いま思いあわせると、さきに小山田、高坂の一部隊をさし向けたのみで、主力は吉田を衝くと見せ、急にまたここへ 迂回 ( うかい )して来たのは勝頼の巧みな 偽動進軍 ( ぎどうしんぐん )だったかも知れない。 窮 ( きゅう )したりとはいえ、二日も三日も無策にうごいて、むなしく兵馬を疲らすような凡将の彼ではなかった。 東北の 搦手 ( からめて )は、すべて山といってもいい。 大通寺山、 医王寺 ( いおうじ )山など。 濠 ( ほり )は自然にながれている大野川、滝川の二流を、幅ひろく 繞 ( めぐ )らし、その幅は、三十間から五十間もあった。 崖の高さも、低いところで九十尺。 高いところは百五十尺もある絶壁だった。 水深は五、六尺にすぎないが、激流だった。 もっとも、場所によって、怖ろしく深いところもある。 しぶきをあげ、渦巻いている 奔湍 ( ほんたん )もある。 平常、この水流の地理は、おそろしく秘密が厳守されている。 水深を考えたり、写筆を 携 ( たずさ )えたりなどして 佇 ( たたず )めば、何者であろうと、お 濠番 ( ほりばん )は、望楼のうえから一発の 下 ( もと )に射殺してかまわないことになっている。 この 天嶮 ( てんけん )の濠をなしている河流をへだてて、西南の一部は、平野であった。 有海 ( あるみ )ヶ 原 ( はら )、 篠場 ( しのば )の 原 ( はら )などと呼ばれている。 その野末を、 船着山 ( ふなつきやま )の連山がかこみ、 鳶 ( とび )ヶ 巣山 ( すやま )も、そのうちの一峰であった。 「何と、物々しい……」 城将の 奥平 ( おくだいら )貞昌は、その夕方、望楼に立って、余りに入念な敵の配置に、身の毛をよだてた。 物見の者の 通牒 ( つうちょう )を綜合してみると、 搦手 ( からめて )方面の大通寺山には、武田信豊、馬場信房、小山田 昌行 ( まさゆき )などの二千人。 西北には、一条信龍や 真田 ( さなだ )兄弟の隊や、また土屋昌次らの二千五百が陣している。 滝川の左岸には、小幡隊、内藤隊。 南方の 篠場 ( しのば )の原の平地には、武田 信廉 ( のぶかど )、穴山梅雪、 原昌胤 ( はらまさたね )、菅沼 定直 ( さだなお )などの三千五百余。 また、遊軍とみえ、有海ヶ原いちめんに、山県隊、高坂隊の旗じるしが、夜目にも 翩々 ( へんぺん )とうごいて見えた。 さらに。 攻城はその夜から始まって、十一日のたそがれまで、八方から攻めたて、城中の者は防戦に息つく間もなかった。 篠場の平地にいる甲州勢は、 筏 ( いかだ )を組んで滝川の激流にうかべ、城の 野牛門 ( やぎゅうもん )を目がけて、幾たびも近づいて来た。 鉄砲、大石、木材などが、無数の筏を沈没させた。 が、彼らは 怯 ( ひる )まない。 筏は、あとからあとからつながって来る。 城兵は、油をそそぎ、 炬火 ( たいまつ )を投げた。 河も燃え、筏も燃え、人間も燃えた。 「あまりに短兵急。 眇 ( びょう )たる小城一つに、犠牲のみ大きすぎる」 山県三郎兵衛は、勝頼の指揮にたいして、時折、心痛した。 老将の眼から見ると、 総帥 ( そうすい )たる人のそういう心理は案じられるものだった。 西北の一条隊や土屋隊の如きは、地下道を 鑿 ( ほ )りはじめたのである。 地下道は本丸の西の 廓内 ( かくない )へ 鑿 ( ほ )り抜けて出る計画の下に、夜も日もついで、 坑口 ( こうこう )から土をあげた。 蟻 ( あり )の穴のように、無数に盛りあげられた土山を見て、城将もさてはと気づき、城中からも坑道を 鑿 ( ほ )り出した。 そして、火薬を仕掛け、敵の坑道を、爆砕してしまった。 甲軍の死者は、このときだけでも七百余人といわれている。 地下道戦に失敗した寄手は、こんどは空中作戦の 挙 ( きょ )に出た。 大手門のまえに、幾ヵ所も、 井楼 ( せいろう )を構築し始めたのである。 井楼の様式もいろいろあるが、ふつうは巨材を 井桁 ( いげた )に組み上げ、それを何十尺の高さにまで築いてゆく。 これは都市城壁をもつ中国では古くから行われている戦法で、車をつけた移動 井楼 ( せいろう )などもあった。 日本では、城の位置が、各地とも、山岳の山城本位から低地の平城主義に移って来た傾向とともに用いられ出したものである。 守将の奥平貞昌はまだ二十四歳の若さで、城兵五百余人の生命と、この一城の運命を 担 ( にな )ったが、彼は沈着に、寄手のあらゆる奇手に対して、よく機を見、よく 酬 ( むく )い、よく変じ、よく処した。 四ヵ所の井楼が完成した十三日の未明である。 武田勢は、夜明けもまたず、それへ 攀 ( よ )じ登って、銃口を並べ、また 焔 ( ほのお )の枯れ柴や 油布 ( あぶらぬの )へ 分銅 ( ふんどう )をつけて、火の鳥のように、大手門の内へ投げこんだ。 そこここへ落ちてくる焔に、城兵たちの消防に努める影が赤く映る。 井楼のうえの空中戦は、一斉に火ぶたを切って、それを狙い撃ちした。 ここまでは圧倒的に、甲州軍の成功が予測されていた。 ところが、夜来、城頭に立ったきりで、眠りもせず見まもっていた青年守将が、ひとたび、 「撃てーッっ」 と、令をさけぶと、たちまち天地を 震撼 ( しんかん )して、かつて甲州の将士の耳には、聞いたこともない 轟音 ( ごうおん )が、城の数ヵ所から火を吐いた。 小銃の力を、何十倍にもしたような、巨銃であった。 井楼は粉砕された。 次々と、地鳴りして崩れ、そのうえにいた銃手や指揮者は、あらかた戦死したり重傷を負った。 徳川家の経済貧困はいうまでもなく、上下質素が平常であったが、新鋭な武器の購入には、どんな犠牲も払っていた。 富力のある武田家が、文化の移入に不利な地勢にあるにひきかえて、三河、 遠江 ( とおとうみ )は中央に近く、海運の便もあったので、富める甲州軍の持たないものをも、貧しい徳川勢はすでに備えていたのである。 とにかく甲州方は、よほど巨銃の威力に驚いたとみえ、 「無理押しすな」 と、それ以来、攻撃手加減が変って来たのは事実であった。 「 躁 ( さわ )ぐに及ばぬ」 貞昌 ( さだまさ )は、兵の 妄動 ( もうどう )を 戒 ( いまし )めた。 夜が明けてみると、寄手の兵が、大岩巨岩を、搦手の谷へ、ただ転げ落していただけのものだった。 「もしあわてて、城の一角でも崩れたかと度を失って 躁 ( さわ )いだら、敵に虚を衝かれたろう」 貞昌は笑って云った。 それは、怒るよりも、 哭 ( な )くよりも、深刻なものだった。 巨銃は長く使用にたえない。 小銃の 弾 ( たま )もない。 弓や矢では防ぎに足りない。 「城中 兵糧 ( ひょうろう )は、もういくらもないぞ。 いたずらに、力攻めして兵を損傷するには当らん」 十三日の総攻撃以後、寄手は求めて血みどろになることを 熄 ( や )めてしまった。 城を 繞 ( めぐ )る滝川と大野川一帯の河中に、 杭 ( くい )を打ちこみ、大綱を張りまわし、岸にはすべて 柵 ( さく )を 結 ( ゆ )って、孤城 長篠 ( ながしの )を、文字どおり、蟻の這い出るすきもないほど、完封してしまった。 「……なに、もう兵糧は、四、五日分しかない? それ以上、持ち 耐 ( こた )える糧食は、何物もないのか。 何物も」 奥平三九郎貞昌は、今日、あらためてまた、その窮迫を訴えに出た 粮米方 ( ろうまいがた )の武士を前にして、幾度も念を押した。 だが貞昌は、その言葉を、そのままに受けきれなかった。 城中五百の生命を、もう四、五日限りと断じてしまうと同じだからである。 「実地に見せい。 城中、 隈 ( くま )なく歩いたところで、方六町しかない小城である。 結果は、三九郎貞昌に、より以上、絶対的な覚悟を与えただけである。 節食はもちろん、喰えるものは喰い尽し、穀倉の中の土まで 篩 ( ふるい )にかけてつないで来た奉行の苦心を聞くと、彼は、何もいえなくなった。 黙々、帰って来ると、大勢の将士がいる 武者溜 ( むしゃだま )りの真ん中にどっかり坐ってしまった。 人々は、貞昌の顔色に、すべてを読みぬいていた。 「 勝吉 ( かつよし )! ……勝吉はおろうが」 ふいに 面 ( おもて )をあげて、 洞窟 ( ほらあな )のような 大床 ( おおゆか )の人影をみまわした。 明 ( あか )り 採 ( と )りの 狭間 ( はざま )に近く 凭 ( よ )って、黙然と膝をかかえていた 従兄弟 ( いとこ )の奥平勝吉が、 「これにおりますッ」 明晰 ( めいせき )に答えて、前へ進み、じっと、 眸 ( め )をあげたまま両手をつかえた。 三九郎貞昌は、彼を見ていた眼をふと一同に移して、 「ほかの者も聞け。 いまもつぶさに調べたが、城中の 糧 ( かて )は、 剰 ( あま )すところ、あと四、五日分しかない。 死馬を喰い、草を喰うとも、幾日をつなぎ得よう。 ……そこでだ」 と、ふたたび勝吉へ、その眼を転じて、 「いま岡崎にお 在 ( わ )す殿の許へ、わしの書状をもって、 後詰 ( うしろまき )の催促にまいってくれい。 大任じゃぞ、勝吉。 よいか、そちに命じる貞昌の心を 酌 ( く )めよ」 「……あ。 お待ちください」 「何か」 「お断りします。 ……城外の河には 逆茂木 ( さかもぎ )をうちこみ、縄を張りめぐらし、鈴を 結 ( ゆわ )いつけ、岸には高く 柵 ( さく )を結いまわしてある寄手の警備に恐れて、 所詮 ( しょせん )、そちには突破できぬというのか」 「何をもって……」 勝吉は、苦笑して答えた。 「城中にいるも死、城外へ出るも死、ふた途はありますまい。 私がお断りするわけは、自分、若年でこそありますが、守将たるあなたの一族です。 ここは飽くまでそれがしの死所でござる。 故に、城外へ出ることはできません」 すると、薄暗い隅のほうで、おうッ…… 嗚咽 ( おえつ )に似たような声をあげた者がある。 貞昌の家来、 鳥居強右衛門 ( とりいすねえもん )とよぶ軽輩であった。 みな、彼を振向いた。 そして、 強右衛門 ( すねえもん )か、と軽く知ると、眼の中へも入れない顔をした。 陪臣 ( ばいしん )の端くれで、五、六十石にすぎない軽輩と、身分を 蔑 ( さげす )んだわけではない。 全城一心のいまだ。 生死を共に期しているいまだ。 そんな けじめは誰にもない。 律義者 ( りちぎもの )の子沢山というが、この男も、まだ三十六というのに、子どもは四人もかかえている。 微禄 ( びろく )なので、平常の貧乏は、岡崎にいても、城下で指折りのほうである。 内職もやる、百姓仕事もする、それでもなお喰えないとみえ、非番の日は、 腫物 ( できもの )だらけな子どもを負い、 洟垂 ( はなた )らしの手をひいて、諸家の弓直しや具足の手入れなどさせて貰って 糊 ( のり )をしていた。 もっとも、彼の妻が生来弱いので、子を生むとか、病床にいるとか、とかく事欠きがちなので、久しぶり戦場から帰っても、強右衛門は、 暢々 ( のびのび )するひまもなかったのである。 また、こういう妻には、こういう良人が、よく配偶されているように、強右衛門は、世俗でいう「気ばたらき」の至ってない、 鈍々 ( どんどん )として、ただ真正直が取柄だといわれるような性格だった。 ……というて、むなしく援軍の来るのを待つもどうか。 わずか四、五日しかない 兵糧 ( ひょうろう )を喰って」 三九郎貞昌は、再度、 呻 ( うめ )くようにいって、左右の者の顔を、一つ一つながめた。 たれか、勝吉に代るべき、よい使いはないものかと物色しているような眼で。 「…………」 果てしない沈黙がつづく。 そのあいだを、 搦手 ( からめて )かどこかで小銃の音が聞える。 小競 ( こぜ )り合いと見て、それには誰も動じなかったが、当面の問題には、まったく 困憊 ( こんぱい )のいろを 漲 ( みなぎ )らしていた。 強右衛門は、武者溜りの隅のほうから、のそのそと、這いすすんでいた。 守将、副将のそばへ寄るほど、上席の者が座を占めているので、身を 容 ( い )れる余地はなかった。 「御評議中でございまするが……強右衛門から、おねがいのこと、申しあげてよろしゅうございましょうか」 人々のあいだから、低く両手をつかえて、彼の丸い背がおそるおそる云った。 守将の貞昌が、じっと、それへ 眸 ( ひとみ )をそそいだ。 「なんじゃ、 強右衛門 ( すねえもん )」 「ただ今、勝吉様へ仰せられていたお使いの役目は、御一族でなければいけませんでしょうか」 「左様なことはない」 「てまえでは、勤まりませぬか。 そのお役目、強右衛門めに、おいいつけ下さいませんでしょうか」 「なに。 出来るものなら」 「……?」 貞昌もすぐ答えかねた。 彼の鈍重を危ぶみもしたが、日頃、広言一つ吐かない男が、ふいに云い出したことなので、やや 愕 ( おどろ )いたふうでもある。 ず、ず、と強右衛門は 巨 ( おお )きな体を無意識に押しすすめて来た。 そして懸命に、 「おねがい致しまする。 てまえに出来ることならば、おつかわし下さいませ」 と、 額 ( ひたい )を 床 ( ゆか )にすりつけた。 人々はただ彼を見まもっていた。 みな貞昌と同じ感を抱いていたにちがいない。 なぜなら彼のすがたにも声のうちにも怖ろしい真実の光が見えていたからである。 その時、ひとりの城兵が、あわただしく駈けて来た。 手に密封された一通の書面を持ち、 「今しがた、 弾正曲輪 ( だんじょうぐるわ )の 外土居 ( そとどい )を見廻っていると、土民のすがたに 窶 ( やつ )した男が、河向うから声をかけ、 矢文 ( やぶみ )としてこれを射込んで来ました。 ……どうやらお味方の密使らしく思われました」 と、いうのであった。 さては! と人々は希望の眼をかがやかした。 三九郎貞昌は、すぐ 被 ( ひら )いて、一読していたが、しきりとその手紙を鼻にあてて 嗅 ( か )いでいた。 文面には、籠城の見舞や、信長自身の動静が、細々書いてある。 主要は、何分にもいま、信長の立場は、多端なので、徳川殿からしきりに御催促はあるが、急に、派兵もでき難い。 貞昌は、苦笑した。 やがてその内容を、一同へ読み聞かせてから、 「甲州の智者にも抜け目があるの。 これは偽手紙とはっきりと云い 断 ( き )れる。 なぜならば、信長はつねに京都へ出入りし、 公卿 ( くげ )たちと文事のやりとりもあろうに、筆墨に心を用いぬ筈はない。 この 墨 ( すみ )のにおいを 嗅 ( か )いでみるに、 京墨 ( きょうずみ )のあの芳香はどこにもせぬ。 貞昌はさっきからじっと自分の前に平伏している 強右衛門 ( すねえもん )に向って、初めて力づよく、こういった。 「強右衛門。 その一心ならば、きっと寄手の重囲を脱けて、使いの役を、果し得よう。 ……行くか。 参ってくれるか」 「おゆるし下されば、ありがたいしあわせでござりまする」 強右衛門は飽くまで大言を吐かないのである。 見ている者でも不安なほど、平身低頭したままであった。 「たのむぞ」 貞昌は、その一言を、 満腔 ( まんこう )からいった。 城兵五百の生命と、徳川家の浮沈のためだ。 主君とはいえ、彼のほうからこそ、手をついて頼みたいところだった。 「行け。 よいか」 「はい」 「そちが、身支度をととのえるあいだに、岡崎の兄 貞能 ( さだよし )へ宛ててつぶさに書面を 認 ( したた )めておく。 なお城中の切迫している実情は、直接御主君家康様へ、口上をもって申しあげるように」 「かしこまりました。 三九郎貞昌より、岡崎の殿へ申しあげ、われらすべてここに討死いたすとも、きっとそちの子はお取り立てを願うておくぞ。 その儀は、くれぐれ心にかけぬがよい」 すると強右衛門は、頭を横に振って、いかにも 屈託 ( くったく )なく答えた。 「 憚 ( はばか )りながら、殿こそ、そんな御心配は、御無用にぞんじまする。 強右衛門はいま、妻子のために働くのではございません。 城中五百余の方々のお身代りに立つ覚悟……。 それゆえにこそ強く大きく振舞えますものを、 御斟酌 ( ごしんしゃく )では、却って、強右衛門 奴 ( め )が、臆病に相成って困りまする」 その晩、強右衛門は部屋へさがって、ただひとり、針を持って、 縫物 ( ぬいもの )をしていた。 針と糸も、戦陣では、さむらいの 嗜 ( たしな )みのひとつだった。 彼は、かねて敵方の死骸から 剥 ( は )いでおいた人夫の短い衣服を膝にひろげている。 その 襟 ( えり )を解いて、中へ、城主貞昌の密書を縫いこんでいるのであった。 同役の者とみえ、時々、 板扉 ( いたど )を細目にあけて、 「強右衛門。 ……まだいるか。 まだ出かけないか」 彼の大任を案じて、 他人事 ( ひとごと )ならず、心配してくれているらしい。

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