妻木 煕子。 明智光秀の妻熙子(ひろこ)とは 内助の功と煕子の足跡を追う! 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」

明智光秀の妻「煕子」の生涯※あばたがあっても美人妻?内助の功といえばこの人

妻木 煕子

2020年NHK大河ドラマ 「麒麟がくる」。 大河ドラマ「麒麟がくる」は、 明智光秀の若かりし頃を描いた作品です。 明智光秀ですら謎の人物ですから、今回のテーマである、 妻の妻木煕子(つまきひろこ)に関してもわからないことがたくさんあります。 では、妻木煕子はどんな人物だったのでしょうか? 今回は、その 人物像や逸話、明智光秀との関係性についても触れながら、妻木煕子について、わかりやすく解説していきます。 1530年ごろ 生まれる• 1545年ごろ 明智光秀と結婚• 1556年 長良川の戦いに明智光秀が参加し負けて浪人になる• 1556年 美濃を追われて越前朝倉氏の世話になる• 1568年 足利義昭を奉じて上洛• 1571年 近江坂本城に移る• 1576年 天王寺の戦いで過労のため倒れた光秀を看病する• 1576年 看病疲れのため妻木煕子死去 (もしくは1582年 山崎の戦い後、光秀が百姓に殺されたことを聞き自害する) 妻木煕子は、明智光秀の妻ですから、その人生は明智光秀と共にあるといっても過言ではありません。 そして、 妻である煕子は光秀を陰で支えていたはずです。 それでは、妻木煕子の人生にはどんなことがあったのか詳しく紐解いていきましょう。 妻木煕子の人物像と壮絶な人生 妻木煕子は、1530年頃に生まれたといわれています。 父は妻 木範煕もしくは妻木広忠とされています。 煕子は大変「美人」だったと言われています。 光秀との間に生まれた三女の 細川ガラシャも大変美しいといわれていたので、煕子譲りだったのでしょう。 1545年頃に 明智光秀の正室として迎え入れられました。 光秀は愛妻家で生涯側室を持たずに煕子一人を愛したといわれています。 そして、光秀は煕子を煕子は光秀を愛していた逸話がいくつか残っています。 天然痘自体は、当時珍しくもない病気でしたが、そのさいに、美しかった顔には痘痕が残ってしまったそうです。 縁談を潰したくなかった妻木家は、瓜二つの容姿を持つ妹の 芳子を光秀に嫁がせようとしますが、光秀が 「痘痕は気にしない」「煕子がよい」と断ったといわれています。 外見にこだわらず「内面」を見る愛情の深さや優しさに、 光秀の聡明さが伺えます。 敗走中に、光秀は妊娠していた 煕子を背負って越前へ逃亡したという逸話が残っています。 とても妻と子ども想いですね。 有名なのは、三女の 細川ガラシャです。 細川忠興に嫁ぎ、3男2女に恵まれ、こちらも夫婦仲がよかったとされています。 細川ガラシャの本名は 明智玉と言います。 しかし、夫に隠れてキリスト教に洗礼を受け「ガラシャ」という洗礼名を与えられました。 洗礼後は、夫婦仲が悪くなったともいわれていますが、キリスト教では離婚が認められていないと諭されていました。 そして、細川ガラシャは、1600年の 関ヶ原の戦いで、細川屋敷を襲撃された際に自害しました。 とても意志が強い女性だったようですね。 1556年の長良川の戦いで光秀は破れ、本拠を失ってしまいます。 そして、光秀は浪人になってしまい 貧乏になります。 その後、朝倉氏に仕えることになるものの、その生活は変わらず質素を余儀なくされました。 そんな中、「連歌会」を開くことになった光秀。 主催者にも関わらず、ご馳走や酒を用意する金策がありません。 そこで、煕子は光秀に恥をかかせないために、 大切な自慢の美しい黒髪を切り、それを売ることでその連歌会の費用として工面したといわれています。 まさに大切な夫のために煕子は己の身を削ったというわけですね。 そのかいもあってか、光秀は快気。 しかし、逆に看病疲れにより 今度は煕子が病に臥せり亡くなってしまったといわれています。 自分が倒れてしまうほどに夫のことを想い看病した煕子はまさに「内助の功」といえる女性でしょう。 それほど、 光秀のことを愛していたとも言えます。 また、死亡説にはこの説の他に、1582年 山崎の戦い後、敗走中に光秀が百姓に殺されたことを煕子が知り、坂本城にて自害したという説も残っています。 大河ドラマ「麒麟がくる」では妻木煕子を 「木村文乃さん」が演じている! 大河ドラマ「麒麟がくる」で妻木煕子を演じるのは、女優の 木村文乃さんです。 大河ドラマ「麒麟がくる」明智光秀の正室役は木村文乃!語りは海老蔵(シネマトゥデイ) — wellfed-wellbred WellbredWellfed 美人といわれていた妻木煕子を演じるにふさわしいキレイな女優ですよね。 1987年10月19日生まれの東京都出身で、特技には乗馬やスキー、剣道などが公式のプロフィールにも載っており、女優業では大人しい役柄が多いものの見かけによらず、スポーツ万能のようです。 2006年に女優デビューし、NHK大河ドラマには「功名が辻」にも出演しています。 その後、2008年にはNHK連続テレビ小説「だんだん」に出演。 しかし、芸能活動を一時休止したことも。 そして、復帰してからはさまざまなドラマや映画に出演されています。 最近では2019年「ザ・ファブル」やNHKドラマ「サギデカ」に出演。 お嬢様役やおだやかな性格の役柄が多い木村文乃さんですが、 煕子は「自分の髪を切って売る」など豪胆さもあるので、木村文乃さんの新たな一面も見られるかもしれません。 また、大河ドラマ「功名が辻」にも妻木煕子が登場しており、その際には 烏丸せつこさんが演じていました。 その時の木村文乃さんの役柄は長曾我部家の奥宮弥兵衛の娘役でしたが、烏丸せつこさんの演技を観ていたはずですから、木村文乃さんは、麒麟がくるでは妻木煕子をどう演じてくれるのでしょうか?とても楽しみですね。 是非、光秀を支える妻役として、麒麟がくるを持ち上げて行って欲しいですね。 まとめ.

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明智煕子(妻木煕子) 明智光秀の正室

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レキシン 明智光秀の妻・妻木煕子とは?愛妻家の光秀との逸話などを解説! 産まれたときから死ぬまで、謎多き人生を送ったと言い伝えられている戦国武将・明智光秀。 生年月日や生まれた場所も不明なら、織田信長に仕えるまでの経歴さえ幾通りも伝えられています。 信長に仕えてからは光秀に関する数多くの史料が残るため、その功績をうかがい知ることができますが、本能寺の変によって謀叛人のレッテルが張られたため、その最期や妻子の行く末については正確に伝える史料が残ることはありませんでした。 その中で不遇であったと言われる光秀の前半生を支え、光秀が織田家の重臣になるまで励まし、ともに歩んだ光秀の正室・煕子(ひろこ)に関しては伝聞も含めて史料が残っており、人間・明智光秀を知るための貴重な資料にもなっています。 今回は 明智日向守光秀の正室であった煕子の生涯を紹介したいと思います。 明智光秀の正室・煕子 光秀の正室・煕子の正確な生年を伝える資料はなく、伝聞で享禄3年(1530年)生まれと言われています。 父は織田信長の家臣・妻木広忠 (つまきひろただ)または弟の妻木範熙のどちらかだと伝えられていますが、この二人には同一人物説もあり、妻木氏出身であるのは間違いないようです。 (妻木氏はのちに明智氏の与力となりその後、家臣となります。 ) 天文4年(1545年)に光秀に煕子が嫁ぐことが決まりましたが、 この頃煕子が疱瘡にかかり、美しいと言われた顔に痘痕(あばた)が残ってしまいます。 この輿入れを破談にしたくない妻木氏は煕子の痘痕が光秀に嫌われることを気にして、 煕子に似ていた妹・芳子(よしこ)を身代わりに立てますが、これを簡単に見破った光秀は煕子を正室として迎えました。 二人が結婚してすぐに 斎藤道三が息子の龍興に攻め滅ぼされ、道三に味方した光秀は美濃を捨てて流浪します。 流浪中でお金のない光秀は歌会を催す資金がなく困っていると、 煕子は自慢の黒髪を売ってお金を用立てて光秀を助けたと言われています。 この頃の織田家は東西南北すべてで敵と事を構えており、その上内部にも本願寺という最大の敵を抱えて織田家の武将は多忙を極めました。 丹波攻略を行いながら本願寺との戦闘にも参加していた明智光秀はこの年過労で倒れ危篤状態にまでなるものの、煕子の献身的な看護で持ち直し、二ヶ月後には前線復帰を果たします。 しかし、不眠不休で看護を続けた煕子はこの時の心労と疲労で倒れ、そのまま息を引き取ったと言われています。 享年46歳(36、42歳という説もあり)、お墓は滋賀県大津市にある明智氏、妻木氏の菩提寺である西教寺にあります。 明智光秀は煕子が存命中は側室を置くことなく、三男四女仲睦まじく夫婦生活を送ったと言われています。 後世にまで伝えられた煕子の内助の功 光秀と煕子に関する逸話は江戸時代に創作された話とも言われており、信憑性の高い史料にこの記述が残っているわけでもないため、真偽については不明です。 ですが、後世に作られた話であったとしても、謀叛人と言われた明智光秀と妻・煕子の逸話がなんとも微笑ましく、心暖まる夫婦付随の話であることが、謎の多い武将・明智光秀の人間的な一面を表しているようで非常に興味を引かれます。 武将としても、為政者としても優秀であった明智光秀は夫婦生活の面においても一流人であったのかもしれません。 なお、 黒髪を切って光秀を支えた話は紀行文「奥の細道」を書いた俳聖・松尾芭蕉(まつおばしょう)が「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん」と句にも詠んでいます。 煕子には天正10年(1582)年、坂本城落城時に自害したとの説もありますが、煕子が本能寺の変の前に亡くなっている方が、煕子にとって幸せだったのではと思うのは私だけではないと思います。

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妻木煕子(明智 煕子)とは?【明智光秀の妻について。】

妻木 煕子

美人と誉れ高かったが疱瘡に 明智光秀は18歳のとき、 山岸光信の娘・千草を正室に迎えました。 でも、千草は早くに病死したため、26歳のとき、後妻を迎えることになったのです。 それが今回ご紹介する 妻木煕子 ひろこ)でした。 煕子は1530年(享禄3年)頃、織田信長の家臣・妻木範熙の娘として生まれました。 1545年、煕子はとても美しい娘で、明智光秀のもとに嫁ぐことが決まりました。 でもその後、煕子は 疱瘡(天然痘)にかかってしまったのです。 命に別状はなかったのですが、美しかった顔には、痘痕(あばた)が残ってしまいました。 父・妻木範熙はこの結婚を破談にしたくなかったのですが、あばた面になった煕子では光秀に申し訳ないと思い、煕子によく似ていた妹の芳子(よしこ)を身代わりに立てたのでした。 ところが、煕子の顔にあったほくろがなかったことから、光秀は別人だと見破ります。 そしてどのわけを聞いた後、自分が約束したのは煕子なのだから煕子を娶ると即答したのでした。 妻木範熙も煕子もこの光秀の心に感動し、煕子は終生、光秀のよき妻となるべく努力したのでした。 光秀と煕子は3男4女にめぐまれました。 その娘の1人・珠子が細川忠興に嫁いだ 細川ガラシャ、織田信長が美しいとほめた戦国時代を代表する美女の1人です。 夫のために自慢の黒髪をバッサリ! 光秀とが結婚してすぐ、斎藤道三が息子の斎藤龍興に攻め滅ぼされ、叔父が守っていた明智城も攻められ落城しました。 城を失った光秀は、美濃を捨てて浪人となり、各地を転々とする生活になりました。 流浪中にお金がなく、歌会を催す資金がなくて困っている光秀を見て、煕子は美しい自慢の緑の黒髪を売ってお金を用立て光秀を助けたそうです。 「月さびよ 明智が妻の 咄(はな)しせん」 これは、江戸時代の有名な俳諧師・ 松尾芭蕉の句です。 1689年(元禄2年)、伊勢の島崎又玄(ゆうげん)宅に滞在した際、芭蕉は又玄の妻の心の込もったおもてなしに感じ入りました。 そして、旅のお礼にと詠んだ句がこれなのです。 明智光秀の妻は貧しい浪人生活の中、急な来客をもてなすため自分の黒髪を切ってお金に換え、夫の面目を保ったという逸話が残っています。 芭蕉は又玄の妻に明智光秀の妻の内助の功を重ねたのでした。 スポンサーリンク 夫に尽くして過労死? 1575年(天正3年)、明智光秀は織田信長から 「日向守(ひゅうがのもり)」の官位を賜り、名実ともに織田の重臣の一員になりました。 でも、天下布武を掲げ、天下統一を狙う織田家は周りじゅうが敵だらけでした。 近隣の戦国大名から包囲網を作られ、比叡山延暦寺、石山本願寺という武装した寺社とも争っていた大変な状態だったのです。 信長の命で、織田家の重臣たちは各地の攻略に走り回っていました。 丹波を攻略していた光秀は、石山本願寺との戦闘にも加わるよう命じられ、忙しさのあまりとうとう過労でぶっ倒れてしまったのです。 人生50年時代のアラフィフです。 長時間労働に心労が重なり一時は危篤状態になってしまったのです。 そのとき、煕子は毎日昼夜つきっきりで献身的に看護しました。 その看護の甲斐あって、光秀はなんとか持ち直し、数か月後には前線に復帰できるほどに回復したのです。 ところが、不眠不休で看護を続けた煕子の看護疲れはひどく、心労と疲労で倒れてしまい、そのまま息を引き取ってしまったのでした。 享年46歳。 (坂本城落城時に自害したという異説あり) 「本能寺の変」の前に亡くなったのが事実なら、煕子は幸せな人生を送れたのかもしれません。 夫・光秀は彼女の存命中は側室を置かず、3男4女の子宝に恵まれた人生でした。

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