きめ つの や い ば 甘露 寺 み つり 画像。 COCOとちくわの「なんちゃって歳時記」

COCOとちくわの「なんちゃって歳時記」

きめ つの や い ば 甘露 寺 み つり 画像

生田 ( いくた )の馬場の 競 ( くら )べ 馬 ( うま )も終ったと見えて、群集の 藺笠 ( いがさ )や 市女笠 ( いちめがさ )などが、流れにまかす花かのように、暮れかかる 夕霞 ( ゆうがすみ )の道を、城下の方へなだれて帰った。 この丹波の国の年中行事となっている生田の競馬は、福知山の主催になるものであったが、隣藩である宮津の 京極丹後守 ( きょうごくたんごのかみ )、 出石 ( いずし )の 仙石左京之亮 ( せんごくさきょうのすけ )などの家中からも、馬術の名人をすぐって参加させるのが慣例であった。 その結果は、いつも小藩な福知山の城主、松平忠房の家臣から多くの優勝者を出し、もっとも大藩な宮津の京極家は、今年もまたまた一番 無慙 ( むざん )な敗辱を重ねてしまった。 常に大藩の誇りを鼻にかけて、尊大で 倨傲 ( きょごう )な振舞のおおい京極方の惨敗は反動的に無暗に群集の 溜飲 ( りゅういん )を下げて鳴りもやまぬ歓呼となった。 福知山の町人も百姓も許された皮肉と嘲笑を公然と京極方へ浴びせたのだ。 こうして彼に多恨な春の一日は暮れたのである。 帰途 ( かえり )を案じていた作左衛門夫婦は、声に 愕 ( おどろ )いて出てみると、五平は肩先から鮮血を流して、 乱鬢 ( らんびん )のままへたばっていた。 「何? 娘が何と致したのじゃ、早く申せ」 「生田からの 戻 ( もど )り 途 ( みち )で、 自暴酒 ( やけざけ )に酔った京極家の若侍どもが、お嬢様と私を押ッ取り巻き、私はこの通り浅傷を受けた上に、千浪様を 引 ( ひ )ッ 掠 ( さら )って 如意輪寺 ( にょいりんじ )の裏へ連れ込んで行きました」 「うーむ、奇怪千万な 狼藉 ( ろうぜき )、如何に大藩の家中は横暴じゃと申せ、故なく拙者の娘を傷つけも致すまい。 これ五平、その若侍どものうちに誰か意趣でも含んだ奴はいなかったか」 「そう仰っしゃれば、いつかお屋敷へ見えたことのある京極家の指南番 大月玄蕃 ( おおつきげんば )が物蔭からしきりと 差図 ( さしず )致していたようでござりました」 「おおその大月玄蕃こそ、先頃から千浪を嫁にと 強談 ( ごうだん )致してまいった奴じゃ。 それを手きびしく 刎 ( は )ねつけられたので、さてこそ左様な狼藉を加えたのであろう。 己 ( おの )れ 憎 ( にっ )くき 佞者 ( しれもの )め、隣藩の指南番とて用捨なろうか」 と 忿怒 ( ふんぬ )のまなじりを裂いた作左衛門は、手早く 下緒 ( さげお )の端を口にくわえて 襷 ( たすき )に綾どりながら、妻のお村を顧みて、 「奥ッ、かならずともに心配致すな。 不意に 消魂 ( けたたま )しい女の叫びが、如意輪寺裏の 幽寂 ( ゆうじゃく )の梅林につんざいた。 続いて凄じい 跫音 ( あしおと )と同時に、嵐のような勢いで一団の武士が一人の女を引ッかついで来た。 そこには生田馬場の敗辱に気を腐らせた京極家の若侍 輩 ( ばら )が、 鬱憤 ( うっぷん )ばらしに飲み散らした酒の 宴莚 ( むしろ )が狼藉になってあった。 若侍達は重大な手柄でも仕果たしたかのように、 各 ( めいめい )の盃の前に坐って やんやという騒ぎ方である。 「成程、いかさま稀な美人、これでは先生のご執心も無理ではござらぬ」 と云うものもあれば、 「かような美女を小藩者の 冷飯 ( ひやめし )武士の自由にさせるは惜しい、大月先生のご所望を突ッぱねたとは 冥加 ( みょうが )を知らぬ奴じゃわい」 などと人もなげに 追従 ( ついしょう )をつくす門人もあった。 そなたの父が 頑固 ( かたくな )のためかような手荒も心なく致したのじゃ。 のう、機嫌直して門人たちの 酌 ( しゃく )でもしてやれ、今に駕でも参ったら今宵のうちに宮津の城下を見せてやる。 「千浪殿、お顔を上げなされい。 先生ほどの男に想われたは 女冥加 ( おんなみょうが )、さ、拙者たちもこれまで骨を折った 褒美 ( ほうび )に酌でも致してもらわねば 埋 ( う )まらぬ」 とかなりに酔った一人の門弟が、堅く俯伏して身を護っている千浪の後ろから、無理に抱き起そうとすると、 「無礼しやるなッ」 と紅唇を破った声に突き 刎 ( は )ねられた。 そして白い 面 ( おもて )を振りあげた、千浪の乱れ髪の隙から射るような眸がきっと 耀 ( かがや )いた。 「女と 侮 ( あなど )って 無体 ( むたい )しやると用捨は致しませぬぞ、痩せても枯れても正木作左衛門の娘じゃ、けがらわしい、誰がお 汝等 ( ことら )の酌などしようぞ」 と 遠山 ( えんざん )の 眉 ( まゆ )を逆立てたさまが、怒れる 羅浮仙 ( らふせん )のように凄艶に見えた。 玄蕃は 憎気 ( にくげ )な歯を見せてせせら笑った。 そして、むんずと伸ばした手は 無慚 ( むざん )に千浪の体を引き寄せて、飽くまで離さぬほどな力をこめた。 「千浪、そなたは運命の力を知らぬな。 籠の小鳥が小さな 足掻 ( あが )きをしたとてそれが何になる。 この玄蕃も一度想い込んだからには、一念遂げずにゃおかぬ執着の深い男じゃ。 よいほどに 諦 ( あきら )めて素直にするがそちの 得 ( とく )だぞ」 「ええ左様な 戯言 ( たわごと )、聞く耳は持ちませぬッ、離してッ、離して下されまし」 と ( も )ぎられそうな片腕をふり切った千浪は、 逸早 ( いちはや )く、 踉 ( よろ )めき立って飛鳥の如く走りかけた。 「それッ、取り押えろ」 と玄蕃は立ち上がりもせずに顎で指した。 ばらばらと駈けだした四、五名の門人は、もう苦もなく千浪の行く手を 遮 ( さえぎ )って動きも取らせずに取囲んでしまった。 「こりゃ、 じたばた致さずに戻れッ」 「何をするのじゃ」 ときらりと三日月に似た懐剣が千浪の手から流れて間近な一人をさっと 掠 ( かす )った。 あっと驚いて一同は飛び離れたが、 「小癪な女め、 蟷螂 ( とうろう )の 斧 ( おの )だ」 と一人が懐剣の下を 潜 ( くぐ )ってその手を捻じ上げた。 するとその時、横合からずんと繰りだした笹穂の 槍尖 ( やりさき )が、その男の脾臓を 咄嗟 ( とっさ )に突きえぐってしまった。 「うわッ!」 と倒れる肩先へ千浪も逆手の懐剣をふり下ろしたが、繰り出た槍の手元へふと眼をやって、思わず、 「おお!」 とその人へ抱きついて行った。 見事、一人が田楽刺しにたおされた 愕 ( おどろ )きに、どッと開いた若侍達は、女一人と 多寡 ( たか )をくくった油断を緊張させて一斉に真剣を抜き放った。 「卑怯者めッ、よくも不意を喰らわせた、何者だッ」 と真ッ向から圧倒的にひしひしと詰め寄った。 「黙れッ、他領の平和を 紊 ( みだ )すとは天人共にゆるしがたき 奸賊輩 ( かんぞくばら )、かく申す 某 ( それがし )は千浪の父正木作左衛門、汝等神妙に帰国致せばよし、さなくば無辺流の槍術の奥儀を示すから覚悟致せよ」 と娘の千浪を背後にかばって、りゅうりゅうと短槍を 扱 ( しご )きならして穂短かに掴んだ。 「おおさては汝が作左衛門か、貧乏大名の 粥喰 ( かゆく )いが何ほどの腕立て、邪魔立て致す分に於いては 嬲 ( なぶ )り 殺 ( ごろ )しだぞ」 と真ッ先に叫び返した一人が大刀を真ッ向に振りかぶって手元に躍りこんで来るのを、一足飛びのいた作左衛門が 喉笛 ( のどぶえ )狙って突き上げた手練のはやさ誤またず ぐさッと刺したので、血は水玉と 四辺 ( あたり )に飛んだ。 二人は突かれ一人は一刀両断になったが、この間の時間は一瞬であった。 此方 ( こなた )にあった大月玄蕃はそれと気づいたが悠然として、大刀の目釘に 潤 ( しめ )しをくれながらそれへ出て来た。 そして作左衛門と三歩ばかりの間隔に立って 傲然 ( ごうぜん )と 柄頭 ( つかがしら )を握りしめた。 「血迷ったか作左衛門、何故あって拙者の門弟を手にかけた。 仕儀に依っては用捨ならぬ」 「云うなッ、どこ 嘯 ( うそぶ )いて左様な白々しい 音 ( ね )が出るのじゃ。 汝こそ縁談を退けられたを意趣に含み、大切な娘を 誘拐 ( かどわ )かさんと致した不敵な 痴者 ( しれもの )、その手先に働く木ッ葉どもを斬って捨てたが、何と致した」 「おおよく云った! かくなれば飽くまで千浪は腕ずくで 奪 ( と )ってやる、その先に いけ邪魔な汝の命は貰ったから観念しろよ」 「やわか汝如き悪人の毒刃を受けようか」 「 己 ( おの )れッこれでもか!」 と大喝一声、玄蕃の腰から銀の飛龍とひらめき飛んだ三尺一寸の 大業物 ( おおわざもの )。 彼の体躯は老骨の作左衛門を眼下に見るほどの大男である上、 臂力 ( ひりき )は山陰に並びなき、十二人力と称せられ、しかも宝蔵院の槍術、一刀流の剣道は達人と称せられた大月 玄蕃 ( げんば )である。 時既に早く、 「エエーイッ」 とばかり五体から気合いを絞った玄蕃の太刀が、真っ向へ疾風の勢いで来た。 作左衛門は咄嗟に横へ 翳 ( かざ )した太刀で受け止めたが、 柄手 ( つかで )から腰も 挫 ( くじ )けるほどな圧力を受けて たじたじと乱れ足になったところ、得たりと 背後 ( うしろ )の男が袴腰を避けて突き出した一刀が作左衛門の脾腹を突きとおすよと見えた。 七日ばかりの 仄 ( ほの )かな夕月は、その少し前頃から 淡墨 ( うすずみ )の如意輪寺の 甍 ( いらか )を越して、立ち迷う夕霞の世界へ青銀色の光の雨を投げ交ぜて、春の 朧夜 ( おぼろよ )を整えはじめた。 羅漢堂の蔭から浮き出たような二人の影。 白梅月夜にふさわしい銀作りの大小夜目ながらきらびやかに、一人は年頃三十前後の屈強な武士、一人は 光綾 ( ぬめ )の振袖に金糸の 繍 ( ぬい )も好ましい前髪立の若衆であった。 しかし年若の武士はちょっと 躊躇 ( ためら )った気色であったが、その勢いに捲き込まれて、同じように梅林の奥へと身を躍らした。 見れば気息も 奄々 ( えんえん )と疲れ果てた老武士が、血気の数名に斬り捲くられている。 更にその中の一人は卑怯にも 背後 ( うしろ )へ廻って、今や一刀を狙い突きに構えた様子であったので、先に駈けつけた 年 ( とし )かさの武士は、善悪いずれにせよ武士の情け、一刀ぎらりと抜くより早く唯一声、 「ご老人ッ、助太刀申すぞ!」 と叫んで背後の 曲者 ( くせもの )を梨割りにズーンと斬り伏せたまま、作左衛門が受けかねていた、大月玄蕃の 切尖 ( きっさき )に立ちむかって目覚しいほど縦横無尽に斬り立てて行った。 「 何人 ( なにびと )か存ぜぬが 忝 ( かたじ )けのうござるッ」 ほッと足許を踏み直した瞬間に、作左衛門は 甦 ( よみがえ )った声を高く上げた。 大月玄蕃と必死に斬り結んでいた助太刀の武士はそれに応じて、 「此奴は拙者が引受けた、ご老人はあたりの 奴輩 ( やつばら )を追い払われよ」 と叫び返した。 玄蕃は不意の強敵に、思わず五、六歩斬り捲くられたが、元より強胆無比の曲者、鍛え抜いた腕の力はまだ三尺の太刀に寸分の疲れも見せず、すぐ立場を盛り返して、りゅうりゅうと攻勢に変じて、邪魔な助太刀から先に唯一刀と脳天目がけて斬り下げた。 「おうッ!」 と武士は 金剛不壊 ( こんごうふえ )と受け止めたので剣の交叉から瞳をやきそうな火花が散った。 続いて二合三合、かれ劣らずこれ譲らず 龍攘虎搏 ( りゅうじょうこはく )の秘術と玄妙の精を闘わせば、白梅月夜も 暗 ( やみ )かと思えて、紛々たる花の飛雪が剣の渦に旋回する景色も物凄まじい。 一方の作左衛門は思わぬ味方に力を得て、当るに任せて必死と 薙 ( な )ぎ 払 ( はら )い薙ぎ払いわき目もふらずに斬り廻った。 騒ぎ立った五、六人の門人は乱刀を 滅多矢鱈 ( めったやたら )にふるばかりであったが多勢に無勢、殊に老骨の悲しさには息疲れに迫った作左衛門、次第に押ッ取り囲まれて数ヵ所の 薄傷 ( うすで )から朱を浴びたほどの鮮血が流れた。 拙者は 納戸頭 ( なんどがしら )正木作左衛門でござる」 と火のような息に交ぜて云った。 「おおさては松平殿ご家臣でござったか、拙者はご城下 柳端 ( やなぎばた )に町道場を構えております 春日重蔵 ( かすがじゅうぞう )と申す浪人者でござりまするが、まず大事なくて大慶でござった」 と助太刀した重蔵も、 慇懃 ( いんぎん )に礼をかえして太刀を 鞘 ( さや )に納めた。 その時ちょうど、ここへ押して来た十人ばかりの面々が、提灯の光を一つの影に投げかけた。 そして先頭の者が、 「ややご老台、よくご無事でござりましたな。 「 対手 ( あいて )は如何致しました、憎くき京極方の振舞、目にもの見せてくれましょう」 と口々に 犇 ( ひし )めく 者 ( もの )もある。 この人々は、作左衛門の屋敷の近隣の者達で、後に残ったお村と五平から変を聞いてここへ寄せて来たのであった。 提灯の光は更にあたりを振りてらしたが、一人は愕然として、 「おお千浪殿が気を失っている!」 と叫んだ。 続いて一方の 樹蔭 ( こかげ )からも、 「ややっ怪しい奴が隠れおった」 と闇にうずくまっていた一人の男をずるずると引き摺りだした。 「これッ汝も京極方の武士であろう」 「 胡散 ( うさん )な奴ッ、ぶッ斬ってしまえ」 と前後から刀の 鍔 ( つば )を鳴らして、すんでに血祭にもしそうな有様のところを、押し分けて両手をひろげたのは春日重蔵であった。 「あいやこれは 某 ( それがし )の舎弟新九郎と申す者、京極家の者ではござらぬ」 「おお貴殿は正木殿へお助太刀下された方じゃ」 「左様でござる。 ご不審を受けたも 尤 ( もっと )もでござるが、この新九郎と申す者は拙者の弟でござりますが、性来の小胆者、その上お恥しいが武芸嫌いで太刀持つ 術 ( すべ )も知りませぬゆえ、かような場合に出会っても兄と共に抜合せもせず、ご覧のとおり蒼ざめて物蔭に隠れていたのでござる。 かく武士の恥を 曝 ( さら )してお話申した上は、何卒ご疑念をお晴らし下されたい」 「ほほ……そりゃお気の毒な」 と一同は重蔵の言葉に 衝 ( う )たれたように、しばらくは大地に顔を伏せて顫えたままの新九郎に 瞠目 ( どうもく )したが、蝶の 化身 ( けしん )と云ってもいい美しい姿を見て、ある者はひそかに重蔵の愛童ではないかとさえ疑った様子であった。 福知山の領主松平 忠房 ( ただふさ )は、三万二千石という、大名の中では微々たる小藩であったが、その家格と、武士的な気魄に富んだ点から、遥かに宮津七万石の城主大名たる京極の内容のない 膨大 ( ぼうだい )を 蔑視 ( べっし )していた。 折から、生田馬場の馬術競べでは、見事な優越を示したので、いよいよ赫々たる武名は事実に於いて彼を圧倒した。 忠房はそれに大満足を感じた。 そしていよいよ家臣の武芸を激励しているところへ、今度にわかに当惑すべき大問題が湧き上がった。 それには忠房の顔にも 尠 ( すく )なからぬ不安の影が 漂 ( ただよ )いはじめた。 それと云うのは、度重なる生田の屈辱に、悲憤やる方ない京極家から、改めて両藩の剣道試合を申し込んで来たのである。 武芸十八番の中でも武家の表芸とする剣道であれば松平家でも 否 ( いな )みは出来ず、すぐ承諾の使者を 遣 ( や )ったが、小藩の松平家では充分な禄高で有名な剣士を 招聘 ( しょうへい )することが出来ないので、事実家中の武芸熱心であるにかかわらず、世間へ出して押しも押されもせぬ指南番はいなかった。 ただ一人馬廻り役を兼ねた竹中佐次兵衛が真蔭流の指導者となっていたが、実はこれとて京極方の大月玄蕃、その代師範の桐崎武太夫などから比較すれば問題になる腕でないのは余りに明瞭であった。 そこの内情を探った京極家で、この致命的な報復に出て来たのだと知った松平忠房は、食事もすすまぬほど苦慮していた。 「これ、誰かおらぬか!」 白襖 ( しろぶすま )の書院から、忠房のいらいらした声が響いた。 ジロリと 流眄 ( ながしめ )をくれた忠房は、 「生田馬場の当日から、今日で幾日に相成るの?」 と不意に尋ねた。 まったくどれほど他念なくこの十数日を暮らしたかもそれで知れる。 明け放された 塗骨 ( ぬりぼね )の障子からいながら見える春の善美を花籠に盛ったような奥庭の築山、泉水、そして重いほど咲き満ちた糸桜が廻廊の杉戸へ 胡粉 ( ごふん )のように吹き散ってゆく 絢爛 ( けんらん )な眺めも今の心には何の慰めにもならない。 殊にこの頃は晴の当日を気構えた若侍たちが、一心不乱に稽古しているので、その 撓刀 ( しない )撃ちの音が、この寂光の奥殿まで聞こえてくるほどであったが、忠房の 憂惧 ( ゆうぐ )は少しも軽くならなかった。 鞍馬の 謡曲 ( うた )を口ずさみながら、そのじりじりとする 懊悶 ( おうもん )を 紛 ( まぎ )らわすように黒塗の欄へもたせた忠房の後ろに待ちかねた近侍の 衣音 ( きぬおと )がしたので、はッと振り顧った。 「作左衛門、病中大儀であったの」 と 褥 ( しとね )に着座した忠房の声がかかって、正木作左衛門は平伏していた頭を僅かに上げた。 如意輪寺裏で受けた数ヵ所の傷 養生 ( ようじょう )が、案外なが引いたので今日まで御殿に出仕しなかったのである。 今訪れて来たばかりの、廻国修業武芸者 矢倉伝内 ( やぐらでんない )と名乗った男は、またたくうちに三、四人の門下を撃ち込んで、木剣片手に道場の中央に突ッ立ったまま、更に次の相手を促していた。 そこは福知山柳端の、 直真蔭流 ( じきしんかげりゅう ) 春日 ( かすが )重蔵の町道場であった。 折悪 ( おりあし )く高弟二、三の達者が居合さなかったので、次には重蔵が自身、矢倉伝内の 対手 ( あいて )に立たねばならない順になった。 「お見事でござった。 「望むところ、お手柔らかに」 と伝内も緊張した。 「いざッ」 と二人は木剣の切尖を呼吸と共にジリジリと上げて、ぴたりと腰の定まったところで、エイッ、オーッの掛け声鋭くパッと左右へ飛び別れた。 重蔵は大胆な大上段に構えて、彼が撃ち込むに自由なほどの隙を与えておいた。 伝内もオオッと 眉間 ( みけん )かざしにがッきり受け払って、こっちからも激しくふり込んだが届かぬ先にガラリと重蔵に引ッぱずされて、あッと小手を 痺 ( しび )らせた刹那、ビシリと肩先を撃ち込まれて、横のめりに腰を 挫 ( くじ )いてしまった。 伝内は、びっしょり汗をかいて、 「参った。 恐れ入ってござります」 と平伏した。 「いや、なかなかご鍛錬のお腕前、重蔵も感服致しました」 と席を改めて挨拶すると、伝内は膝を正して、心から重蔵の腕前に敬服したらしい 口吻 ( くちぶり )でしばらくこの道場に滞留して入門修業をしたいという希望を洩らした。 「大事はござらぬ、ご随意に召さるがいい」 と重蔵は気軽く承諾して、奥へ立ちかけた時、 「ご来客でござります」 と一人の門弟が取次いで来た。 「どなたじゃ?」 「ご家中の正木作左衛門様がお越しでござります」 「お……」 と重蔵はすぐ如意輪寺裏の一夜を想い起して、自身出迎えに玄関へ立って行った。 茶室めいた切窓は、藤棚に日を 遮 ( さえぎ )られて座敷の中は朝のような青い静かな光線が僅かに流れていた。 作左衛門は密談を遂げるには打ってつけな部屋だとすぐ思った。 そして過日の礼を懇切に述べ終ってからこう口を切りだした。 「実は、 傷所 ( きずしょ )も充分癒りきらぬ 某 ( それがし )が、今日にわかにお伺い致したのは、重ね重ねではござるが折入って尊公に一大事のお頼みに参ったのでござる。 何と 抂 ( ま )げてお聞入れては下さるまいか」 「さて、何事でござりましょうか……」 「尊公をあっぱれ武士と見込んでのお願いは余の儀でもござらぬが……」 と云いかけて作左衛門は ふいと口を 噤 ( つぐ )み、 「これ千浪、 暫時 ( ざんじ )遠慮致せ」 と後ろを顧みて云った。 「はい……」 と千浪は素直に立ちかけたが、勝手をしらぬ家のこととて、そこから庭下駄をはいて屋敷の庭でも 彼方此方 ( あっちこっち )と 彷徨 ( さまよ )っているより外なかったのである。 それを見送ってから、作左衛門は重蔵にむかって再び語を継ぎはじめた。 「娘の千浪を連れて参ったのも世間体を 繕 ( つくろ )うため、誠は作左衛門、君公よりのお旨を受けての使者でござる」 「えッ、そうとは知らずかく見苦しい所へ」 と重蔵は意外に思いながらも、また恐縮した。 そして宮津の京極から剣道試合の申込みを受けた 顛末 ( てんまつ )、それに当る達人のいない当惑を物語った上、この動機はあるいは 佞奸邪智 ( ねいかんじゃち )の大月玄蕃が如意輪寺の不覚を報讐する底意で、宮津一藩を 使嗾 ( しそう )したのではあるまいかと個人的な考察もつけ加えた。 しかし、重蔵は容易に 諾 ( だく )の一語を与えなかった。 彼の侠勇を象徴した濃い眉の下には、それを反省する聡明の 眼 ( まなこ )がいつまでも閉じられていた。 「貴殿の一諾を得られぬからは君公への申し訳に老い腹切ってお詫び致す。 重蔵殿この 一間 ( ひとま )を拝借致す」 と一徹な作左衛門は、不承知の色を見て、早くも脇差の柄へ手をかけた。 「お待ち召され!」 重蔵は驚いてその手を押えた。 「さらば作左衛門が一命を 賭 ( と )してのお願い、お聞き入れ下さるか」 とのッ引きさせず問い詰めた。 「かくまでとあれば止むを得ぬこと。 「えッご承知下さるとか!」 「勝負は時の運ながら、春日重蔵が及ぶ限りの 対手 ( あいて )には立ちむかい申すでござろう」 「忝けない、忝けのうござる……」 と 飛 ( と )び 退 ( さが )って両手をつかえた老骨は、それより他の言葉が出ぬほどな感激に 昂 ( たかぶ )らされてぼろぼろと涙を 滾 ( こぼ )した。 撓刀 ( しない )の音を聞くだけでも、身ぶるいが出るというほど、生れつきから武芸嫌いな重蔵の弟春日新九郎は、十九という男前になりながら、いまだ半元服の若衆振袖で、屋敷の奥の一間にこもって、好きな絵筆をもてあそんでいる。 武門の家に男と生れて甲斐のない新九郎の性質は、無論兄の重蔵が強く 顰蹙 ( ひんしゅく )するところであったから、今日までには幾百回の 強意見 ( こわいけん )が繰り返されたか知れない。 しかし新九郎の天性は矯正されないどころか、絵や笛や庭いじりなどと、いよいよあらぬ方の趣味へばかりずんずん深くなって行くのであった。 こうして、春はいつも新九郎の部屋に 長閑 ( のどか )であった。 今日も窓の側の朱机に寄って、うっとりと画想に我を忘れていた時、新九郎はふと ことりと静かな庭下駄の音を耳に入れた。 「して今日は?」 と新九郎は 動悸 ( とき )めく胸を隠すような声で、やっと訊き返した。 「父上の 傷手 ( いたで )もややよくなりましたゆえ、ご当家のお兄上さまに、お礼を申し上げに来ております」 と云いながら、いつか足は僅かずつ寄って新九郎の窓の外まで来てしまっていた。 「そうでござりましたか……」 と 臙脂 ( えんじ )と 匂 ( にお )い 袋 ( ぶくろ )の強い 薫 ( かお )りが、新九郎の若い血を嵐のように騒がせた。 赫 ( か )っとした熱い顔を伏し眼にして、彼は 現 ( うつつ )な目を絵具皿に吸わせていた。 「おや、お見事な絵を遊ばしますこと……」 麝香 ( じゃこう )を噛んだような女の息を、耳元に感じた新九郎は、今にも頬へ触れてきそうな黒髪の冷たさを想像して 答 ( いら )えをするのを忘れている。 「 狩野 ( かのう )ではござりませぬような……その絵具のお使い方は土佐をお学びでござりますか」 「ほんの 戯絵 ( ざれえ )でござりまするわ」 「どう致して、お見事でござりますこと……」 千浪は何気なくむっちりした白い手を机の端に伸ばすと、新九郎はあわててその手を上から押えた。 二人はもうどうしていいか分らぬほどな情炎に包まれて 伽羅油 ( きゃらゆ )のとろ火で煮られたかのような酔心地になりかけていた。 「千浪、千浪」 と呼ぶ父の作左衛門の声がした。 「は、はい……」 と慌ててそこから庭下駄の音を転ばせた千浪が、前の 離室 ( はなれ )の側まで帰って来ると、 愕 ( おどろ )いたように床下からぱっと飛び出した男が、千浪の胸に どんとぶつかった。 「あ……」 とよろめく隙に、男は脱兎の勢いで裏手へ駈けだした。 と見た作左衛門が、 「怪しい奴ッ」 飛び降りて追いかけるその顔へヒュッと風を切って飛んで来た狙い捨ての 手裏剣 ( しゅりけん )。 はッと作左衛門が身を沈ませた瞬間に、 曲者 ( くせもの )は裏塀に手をかけて身を躍らせた。 「おのれッ」 とその刹那、駈け寄った春日重蔵が手練の抜撃ちに、曲者はワッと叫んで血煙りと一つになって大地へ落ちた。 「おお 此奴 ( こいつ )は先ほど、廻国の武芸者に 扮装 ( やつ )して入りこんだ矢倉伝内めじゃ!」 と重蔵はすぐ死骸の懐中を探って二、三通の書類を引き出した。 「これご覧なされい、拙者初対面から 怪 ( おか )しい奴と睨んでおりましたが、 案 ( あん )の 定 ( じょう )大月玄蕃の 間諜 ( まわしもの )でござった」 「さてはさすが 佞智 ( ねいち )の玄蕃めも、貴殿の腕前を知っているゆえ、早くも当日の試合に出ることをおそれて、探索を入れたのでござろう」 と作左衛門も今更敵方の周密な用意に舌を巻いたが、それと同時に、いよいよ両藩の確執が 熾烈 ( しれつ )になって来た暗示を受けた気がした。 果然、その翌日町の辻々に高札が立った。 福知山の士民は、生田馬場以上の興奮をもってこの大試合の噂に熱狂した。 宮津の城下から来た一町人は、京極方ではこれ以上の騒ぎだと云った。 大藩の権勢で近国に人を派し名だたる剣客者を狩り集め、当日の場合に依っては血の雨を降らす決戦の備えさえ出来たなどと 流言蜚語 ( りゅうげんひご )もさかんに放たれた。 その朝、宮津の指南番 大月玄蕃 ( おおつきげんば )は、暁天から屋敷の 鋲門 ( びょうもん )を八文字に 押 ( お )っ 開 ( ぴら )かせた。 門内には槍 薙刀 ( なぎなた )木剣などの武道具が、物々しく立並べられてあった。 追々と集まってくる剣客はおのおの 鎖帷子 ( くさりかたびら )の着込みに、筋金入りの白鉢巻をなし、門下を併せて二、三百人余り、意気天を衝いて 犇々 ( ひしひし )と詰めかけた。 今日こそ、福知山藩の誇りを一蹴し去らんずと、京極方で待ちに待った 桔梗 ( ききょう )河原の大試合を決行する日だ。 玄蕃はさすがに大藩の指南番、一刀流の達人と人にも許されたほどの落着きはあった。 静かに仕度を済ませて式台に現われた姿を見るに、 鎖 ( くさり )着込みは下に隠し、 浮織万字 ( うきおりまんじ )の黒羽二重に 緞子 ( どんす )の 野袴 ( のばかま )、 白鮫柄 ( しろさめづか )の脇差 金象嵌角鍔 ( きんぞうがんかくつば )の大小をぶッちがえに差し、曳き寄せた駒にひらりと 跨 ( またが )って、時刻を待つほどに目付奉行の伝令が来たので、一同はそれッとばかり長蛇の陣をなして、威風凜々、由良川の上流指して出発した。 その途中でも、玄蕃に一つの心がかりは、 春日 ( かすが )重蔵の道場へ隠密に入りこませた矢倉伝内が、今に何の消息もないことであった。 彼は今日の試合にも、福知山の藩士には怖るべき者はないと思ったが、如意輪寺裏で手練を知った春日重蔵が現われれば 侮 ( あなど )りがたい強敵だと思った。 玄蕃は鞍の上から伸び上がってみると、既に由良川の奔流に添って二里ばかり来たところである。 何事かと手綱を 煽 ( あお )って、前隊へ駈け抜けて来て、 「如何致したのじゃ! 早う進まねば時刻が遅れ申すぞ」 と 大喝 ( だいかつ )した。 「先生ッ」と一人の門人が寄って来た。 「あれなる浪人が、吾等の邪魔になる岩根へ腰掛けて動かぬばかりか、この 態 ( ざま )は何事じゃと、 嘲笑 ( あざわろ )うた無礼な一言、聞き捨てなりませぬゆえ引ッ捕えたところでござります」 と 喋々 ( ちょうちょう )と述べた。 「とやこうは面倒ッ、 曠 ( はれ )の試合場に向う血祭りにしてしまえッ」 と玄蕃は 鞍壺 ( くらつぼ )を叩いて怒喝した。 「それッ 打 ( ぶ )ッた斬れ!」 と 弓弦 ( ゆづる )を離れた門弟どもや、腕の 疼 ( うず )きぬいている剣客の誰彼は、我こそと大刀をぬくが早いか、前後から 喚 ( おめ )きかかって浪人を取り巻いた。 「 白痴脅 ( こけおど )しを抜いて来たの、 嗤 ( わら )われたくらいでは気が済まずに、この上痛い目を見せてもらいたいとか? あははははは」 と浪人は左手に関羽髯を掴み、右手の鉄扇は一文字にピタリとつけたまま、編笠をゆすって笑った。 「この 狂人 ( きちがい )めッ、動くまい!」 と烈火の如くになった一人が矢庭にブンと斬りこんで来た大刀を浪人はピシリと払って腰も立てなかった。 「おのれッ」 と続いて 揮 ( ふ )り込んで来た前後左右の乱刀をも、しばらくバラバラと 蜘蛛手 ( くもで )に受け払っていたが、すッくと岩から立ち上がるが早いか、手当り次第に帯、襟頸を引ッ掴んで由良川の激流の中へ片ッ端から投げ込んだ。 奔流の泡に叫びを上げる者、岩角に血を吐く者、たちまち幾人と知れない 負傷 ( ておい )を出した。 その凄まじい浪人の働きに、さしもの大衆もワッと後ろへ 雪崩 ( なだれ )返った。 「ええッ 腑甲斐 ( ふがい )のない者どもめ」 と玄蕃はその様子を見て歯ぎしりかんでいたが、 疳 ( かん )を 昂 ( たかぶ )らせて浪人の前へ馬を乗りつけて来た。 浪人は 炯々 ( けいけい )たる眼光を放って、 「汝が玄蕃か、その傲慢では今日の試合も 覚束 ( おぼつか )ない」 と声鋭く面罵した。 玄蕃はそれに耳をも触れず、大刀の柄に手をかけて、 「推参だッ」 と叫ぶより早く、身を屈ませて馬上から 拝 ( おが )み撃ちに、 鬼丸包光 ( おにまるかねみつ )の大刀が風を切って浪人を見舞ったが、慌てもせず 摺 ( す )り抜けた浪人は、玄蕃が二の太刀を振りかぶったにもかまわず、大胆に踏み込んで、ガッキリと馬の 轡 ( くつわ )の根元を掴んで、エエーイッ、と一声鋭く轡を突き上げたので、馬は泡を噛んで 嘶 ( いなな )きながら、棒立ちになった。 「それッあの隙に撃ち込め」 と 浪頭 ( なみがしら )のように巻き返した大勢は、その時どッと横合から槍、大刀を 閃 ( ひら )めかして来たのを、浪人は玄蕃の一刀を後ろへ 摺 ( す )り 抜 ( ぬ )け、持ったる鉄扇に力をこめて、ピシリッと馬の尻を 擲 ( う )ったので、火牛の如く猛りだした馬は、その大衆の真ッ只中へ 跳躍 ( おどりこ )んだ。 一同はワッと崩れ立った。 「おのれッ」 と玄蕃は力の限り手綱を引絞り、奔馬の足を喰い止めたが、憤怒の形相は物凄かった。 そして、 「 痩浪人 ( やせろうにん )はいずこにある! 遁 ( のが )すなッ」 と叫んだ。 上流の福知山からも五里半、下流の宮津からも五里半の中央に選ばれたその日の 曠場 ( はれば )たる 桔梗 ( ききょう )河原には、五町余りの長方形に、青竹の矢来を 結 ( ゆ )いめぐらし、三つ扇の定紋打った 幔幕 ( まんまく )の 桟敷 ( さじき )には福知山の領主松平忠房が老臣近侍を左右にして居並び、別に黒の 鯨幕 ( くじらまく )の蔭には試合に出る剣士の花形が鳴りを鎮めて控えていた。 それと東西に 対峙 ( たいじ )して、あたかもそれを眼下に見下すが如く見えたのは、豪壮華麗な宮津方の桟敷であった。 太守京極丹後守の座所には、 錦繍 ( きんしゅう )の 帳 ( とばり )を垂れ、近侍小姓は 綺羅星 ( きらぼし )と居並び、紅白のだんだら幕をめぐらしたお 末 ( しも )には、白襟桃色の衣裳を重ねた女中や 局 ( つぼね )たちが歌舞伎でも見るような華やかさを浮き立たせて時刻を待っていたのであった。 「松平方では早や一同も揃って見ゆるのに、玄蕃やその他の者は如何したのじゃ」 と京極丹後守は最前から侍臣を顧みて気を揉むことしきりであった。 その時目付役の者から、 「早や見えましてござります」 と返事があった。 女中達は 姦 ( かしま )しく桟敷の幕を絞って 彼方 ( あなた )を見渡していた。 成程、川に添って一散に、此処へ来る一隊の先頭には、大月玄蕃の馬上姿が小さく見えて来たのであった。 大月玄蕃は、途中で思わぬ不快を求めたばかりか多くの 負傷 ( ておい )さえ出してしまったので、 曠 ( はれ )の場所に臨む前から、一同の気勢を 殺 ( そ )いではと、無理に元気づけて、時遅れじと急いで来たのだ。 そして、四つ目結いの定紋打った幕の中に入ってしばらく休息していると、 「大月殿、お召なされます」 と近侍の取次が来たので、おそるおそる丹後守の前に出た。 「おお玄蕃か、また生田の馬場の敗北を繰り返しては一大事、当家の名折れも取返しがつかぬこととなるが、今日の試合は大丈夫であろうの」 「ははッ、さまでにお心を 煩 ( わずら )わせまするは玄蕃の不徳、しかし馬術と事違って剣法では、不肖といえども指南番の名を汚す玄蕃めが、身命を賭しても 敗 ( ひけ )はとらぬ所存でござりまする」 「よく申した。 「他でもないが、近頃仙石殿の客分となって滞在している者は、稀代の名人であるそうじゃ、万一福知山方にも、如何なる達人が潜んでいぬとは限らぬゆえ、其方の 後 ( うし )ろ 楯 ( だて )に助勢致させようかと、折入って仙石殿からのご好意、 聘 ( よ )び寄せたものであろうかどうじゃ」 と云った。 玄蕃はそれを聞くと、持前の自負心がこみあげて、己れの腕を侮られたかにむっとしたので、 「怖れながら、諸国を歩く浪人 輩 ( やから )にろくな腕の者はござりませぬ。 殊に 多寡 ( たか )が小藩の家中を怖れたかにもなって出石藩の聞こえも如何と存じますゆえ、まず今日の試合は拙者めに万事お任せ下されば 忝 ( かたじ )けのう存じまする」 と云いきった。 「左様か、では任すぞよ」 と賢明な丹後守は、特にこう云って、玄蕃の覚悟を固めさせたのだ。 「ははッ!」 と彼は平伏しながら、いよいよ是が非でも勝たねばならぬ責任の 磐石 ( ばんじゃく )を背負ってしまった。 その代り勝てば加増と名誉は知れきっている上に、自分を 見縊 ( みくび )った正木作左衛門をも見返すことが出来る。 諸士の試合の 番数 ( ばんかず )は進んだ。 矢来の外には数万の群集が、 咳 ( せき )一つ立てぬほど緊張していた。 松平侯、京極侯の 桟敷 ( さじき )でも無論眼も放たず一勝負ごとに一喜一憂を現わしているが、厳粛そのものの如く両々対峙して水を打ッたようになっていた。 四月の空は 瑠璃 ( るり )より 碧 ( あお )かった。 京極方の大月玄蕃であった。 亥の下刻頃までは、福知山藩の剣士君塚龍太郎が、宮津藩の家士、玄蕃の門人など六人まで撃ち込んで 旭日 ( きょくじつ )の勢いを見せたが、七人目に大月の高弟桐崎武太夫が出てこれを倒し、続いて松平の家来三、四人を撃ち負かした。 それと見て松平家の馬廻り役を兼ねた剣道師範竹中左次兵衛が武太夫と奮戦して見事な勝ちを取ってからは、しばらく敵する者もない優勢を示したのを、大月玄蕃が現われて一気に左次兵衛を撃ち込んでしまった。 その後、三、四人の 対手 ( あいて )は出たが、ほとんど玄蕃と五、六合の木剣を合した者もなく今はいよいよ最後の栄冠は、当然彼の物とならねばならない。 京極方では万雷の落つるような 喝采 ( かっさい )をした。 勝利を誇った。 ああ敗辱か! ついに武名隆々であった松平忠房の誇りも、玄蕃が三尺の木剣のために 逼塞 ( ひっそく )せしめられたのであろうか? その時、 傲慢不遜 ( ごうまんふそん )の大月玄蕃は、片手に木剣を引ッさげたまま、鳴りを鎮めた福知山方の桟敷に向って真ッ赤な大口を開け、矢来の果てまで届く大音声で、 「やあ、松平忠房のご家中に物申す、馬扱いの儀はいざ知らず、武士の表芸たる剣道にかけては宮津京極丹後守が藩中の勝ちに極まったり。 唯今までの拙者の勝負は弓矢八幡もご照覧、矢来の外の万民が 生証拠 ( いきしょうこ )じゃ。 「待て! 大月玄蕃ッ」 後ろの方から轟く大音が、彼の 腸 ( はらわた )に 沁 ( し )み 通 ( とお )った。 「さらば見事に玄蕃の 対手 ( あいて )に立つと申すのじゃな」 「云うまでもないこと」 「よし、 殿 ( しんがり )とあれば最後の秘術を見せてくれん、用意はよいか」 「多言は無用じゃ」 と一尺八寸の小太刀をとって重蔵が立つと同時に、大月玄蕃も 赤樫 ( あかがし )の木剣の柄へ両手がかかった。 「いざーッ」 と重蔵の烈声。 「おおうッ」 と玄蕃の 雄叫 ( おたけ )び。 その時、大月玄蕃が 咄嗟 ( とっさ )の構えは、赤樫三尺の木剣を天辺に 翳 ( かざ )し、 右手 ( めて )は 鍔根 ( つばね )を堅く、 左手 ( ゆんで )は柄頭を軽く持って、円を描いた 両肱 ( りょうひじ )の中から、巨眼をみひらいて敵の隙を 窺 ( うかが )いながら、じりじり左右の足の 拇指 ( おやゆび )で土を噛みつつ一寸にじりの攻勢に取って来たのである。 彼を 巌松 ( がんしょう )の 鷲 ( わし )と見れば、これは 飛湍 ( ひたん )の 隼 ( はやぶさ )にも似た春日重蔵は、敵より遥かに短い小太刀を片手青眼に一直にして、体は変化自由の斜めにひらき、星より澄んだ双眸の 睫毛 ( まつげ )も 瞬 ( またた )かせず、剣禅無我の 切尖 ( きっさき )を、玄蕃の 鳩尾 ( みぞおち )の辺りへ擬して行った。 つと上段の小手が気構えを見せた先に、重蔵の小太刀が 颯 ( さっ )と輪を描いて、鋭く玄蕃の 眉間 ( みけん )へ飛び撃ちに行った。 ( どう )と倒れたかと見れば、重蔵は袴の裾をひるがえしてパッと跳び上がるなり振りかぶった無想妙剣の一念力、 巌 ( いわお )も砕けろと玄蕃の脳天目がけて来たのを、おおウ! と窮地の豹狼の如く猛然と反跳した大月玄蕃は、必死の剣でガッキと受け止め、十字に組んだ木剣に 淋漓 ( りんり )の脂汗を振りこぼしながら、火焔の息を吐いてギリギリと鍔で押して行けば、重蔵は無理とは反抗せず尺八寸の小太刀を柳の柔軟さにして扱ううちさすが不敵の玄蕃の面色もようやく蒼白んできたうえ、乱髪の隙からかがやく 眼膜 ( がんまく )も赤く疲れて、気息の乱れは争われず組んだ木剣を伝わって、重蔵の心眼にありありとよめてきた。 その結果は心得ある者の眼には想像に難くなかった。 福知山方の面々は俄かに喜色を 漲 ( みなぎ )らせ思わず浮腰になって伸び上がる者もあり、殊に正面の松平忠房は、初めて 愁眉 ( しゅうび )を開いた顔を傍らの正木作左衛門に向けて意味深長に 北叟 ( ほくそ )笑んだのであった。 「 典膳 ( てんぜん )、典膳ッ」 と 疳走 ( かんばし )った声で近侍を顧みたのは宮津の太守丹後守であった。 「ははッ、典膳めは 御前 ( おんまえ )にござります」 「勝負は何と見る? あれ見よ、玄蕃の面色は変ってある、お! 春日重蔵とやらの乱れぬ太刀筋を見い」 「は、何とも無念に見受けまする」 「どうじゃ勝負は?」 丹後守は歯ぎしり噛む。 「は……」 典膳はその気色に 憚 ( はばか )って答え兼ねた。 「 呆痴者 ( うつけもの )めが! この勝負が予断できぬか、白石十太夫を呼べッ、 疾 ( と )く呼べ!」 と 焦 ( じ )れ声はあたりに高く響いたので、すぐ辷り出た老臣が、 「お召の筋は?」 と早速に云った。 「大月玄蕃を 退 ( ひ )かせい! 打ち込まれぬうちに早く、早くじゃぞッ」 「はッ」 と答えるとすぐ桟敷から、試合奉行へ勝負引分の伝令が飛んだ。 丹後守はいまだ落着かず、更に声を励まして叫んだ。 火急の場合口上でよい」 「ははッ」 「時遅れては末世末代当家の恥辱じゃ。 ちょうどその時は、気息 奄々 ( えんえん )の乱れを見せた大月玄蕃が、残れる精力をあつめて、エエーッと最後の気合を全身の毛穴から振り絞って、春日重蔵の小太刀を 鍔押 ( つばお )しに試みた時であった。 「オーッ」 と息を返した重蔵は、ガッキリこたえて弓形に腰が 反 ( そ )るまで丹田に 渾力 ( こんりき )を集めた。 「待て! 試合は引かれい、上意じゃ」 と目付奉行の大声がかかった。 重蔵はハッと 万斛 ( ばんこく )の水を浴びて小手を緩めたが、小太刀の勢いはそのまま玄蕃の肩先に届いた。 しかし、玄蕃はほッと 甦 ( よみがえ )った顔で、 「参った」 とは云わず、かえっていかにも不平な表情で、 「 何故 ( なにゆえ )あってのご制止でござる」 と呶鳴った。 「 上 ( かみ )のお声がかりでござる。 玄蕃はそれをいい 機 ( しお )に、しかし色には見せず、いかにも残念らしく引き揚げて行った。 家士溜りの剣士の控え場は総立ちになって、何事か罵り出した。 矢来の外の群集も 喧々囂々 ( けんけんごうごう )として、にわかに罵声不平が遠い 海嘯 ( つなみ )のように巻き返した。 何者とも知れずバラバラと京極方へ 砂礫 ( すなつぶて )を飛ばす者があり、矢来を 揺 ( ゆす )って罵り返す宮津城下の町人の叫びも凄まじく雑音の中に響いた。 「奇怪千万な京極家の致し方、余りと申せば卑劣な策じゃ」 と福知山方の正面の座に、じっと事の顛末を睨みつけていた藩主松平忠房は、それへ来た正木作左衛門にそう云った。 「いかにも御意にござります。 某 ( それがし )も余りの理不尽と存じ、唯今目付役人立ち会いの上、京極方へ 懸合 ( かけあ )いに参りましたるところ、玄蕃 儀 ( ぎ )持病さし起り試合大儀の様子ゆえ、引き止めさせたなれど、その代りに別の剣士を選び、改めて春日重蔵殿と立ち合いの上、最後の勝敗を決せんと虫のよき大言を吐きおりまするが、如何致したものでござりましょうか」 「うウむ、飽くまで 穢 ( きたな )き彼の振舞、 蹂躙 ( ふみにじ )ってくれたけれど、重蔵も定めし疲れたであろう、と云って不承知を申せば、飽くまで今日の勝利は我にありと彼等が言い張るに相違ない」 「誠に是非もない儀、この上は改めて君より春日殿へ再び試合直しを仰せつけあるが宜しかろうと存じまする……」 と作左衛門が善後の処置を建策しているところへ、一人の家士が血相変えてその前へ 膝支 ( ひざまず )いた。 「ご家老様、一大事でござります。 早く早くおいで下されませい」 と息さえ 弾 ( はず )ませている。 「ご前じゃ静かにせい。 作左衛門はすわこそと君公の顔をみた。 忠房もさすがに面色をさッとかえて彼に ( めくば )せした。 横暴極まる京極の専断に、 勃然 ( ぼつねん )と怒り心頭に燃えた松平の家臣竹中左次兵衛、君塚龍太郎その他 覇気満溢 ( はきまんいつ )の若侍輩は幕の蔭に潜んでひそかに鉢巻襷の用意をした上、大刀の目釘に熱い 潤 ( しめ )りをくれて、すんでに決死の幕を払って熱風一陣、宮津の家中へ斬り込まんとする 出会頭 ( であいがしら )へ、白足袋の 跣足 ( はだし )のまま駈け込んで来た正木作左衛門が大手を拡げて、 「こは逆上召されたか各 、この 行態 ( ぎょうてい )は何事でござる、お家の大事を思い給わぬか!」 と声を 嗄 ( か )らして 喝退 ( かったい )した。 「あいやご家老のお言葉ながら、言語道断なる京極の無礼、このまま黙っては万民の笑い草でござる。 君公のご恥辱を 雪 ( すす )ぐは臣下の本分、卑怯未練な 蛆虫 ( うじむし )めらを、一泡吹かせて斬り死に致す覚悟でござる。 お通し下されいッ。 お止めだて下さるな」 と一同は鯉口切って 犇々 ( ひしひし )と、ここ 一寸 ( いっすん )も 退 ( ひ )かぬ気色だ。 「おお左様か、忠義の段お見上げ申した。 やれッ、いざ斬り込むもよかろう」とは云いながら、作左衛門は大磐石に立ちはだかって更に云った。 「その代りには両藩必死の 鎬 ( しのぎ )を削り、この桔梗河原に血の雨を降らすとなれば、大公儀のお咎めは何とある? 間違えば福知山三万石のお家は断絶じゃぞ! それでも臣下の本分が相立つならこの 白髪頭 ( しらがあたま )の作左衛門から血祭りにして斬り込まれい」 「こりゃご難題、是が非でも武士の面目勘弁まかり成りませぬ。 お退き下されいッ」 「ならぬッ、君家の危機がお解りないか」 と双方譲らず押問答をしている騒ぎを、休息所でふと耳にした春日重蔵は、それこそ天下の一大事と愕いて作左衛門と共に、猛り立つ諸士を 宥 ( なだ )めて、ひとまず一同を鎮圧したのであった。 とやかくと 一刻 ( いっとき )ばかりは、敵も味方も 囂々 ( ごうごう )と 鼎 ( かなえ )の沸く如く騒然としていたが、やがて再び合図の太鼓がとうとうと鳴り渡ると、緊張し切った大衆は炎に 驟雨 ( しゅうう )が来たかのような 静謐 ( せいひつ )に返ってしまった。 目付奉行の伝令が、双方を駈けめぐって、第二の大試合の用意を促した。 「大儀であった。 仙石殿ご 昵懇 ( じっこん )のその剣客者はいずれにある、これへ呼べ」 と丹後守の喜悦は斜めならずであった。 髪は油の光もない 茶筌 ( ちゃせん )に結び、色浅黒く 爛々 ( らんらん )たる眼は七万石の主公随臣を 睥睨 ( へいげい )して垢じみた黒紋服に太骨の鉄扇を 右手 ( めて )に握り、左の手は胸までそよぐ 顎髯 ( あごひげ )を 扱 ( しご )いて悠々然と座に着いた。 その姿を一目見て、あッと驚き呆れたのは大月玄蕃であった。 彼は 先刻 ( さっき )の試合から引き揚げて来ていたが、丹後守は何故か 一言 ( ひとこと )の言葉も彼に与えなかった。 近侍の者からご不興のご様子ゆえ末座にお控えがよろしかろうと注意されて、にわかに片隅へ寄って悄然としていたのだ。 「余が京極丹後である。 遠路火急を促して大儀であった。 乾坤一擲 ( けんこんいってき )、二ツの木剣は広場の真っ唯中に組み置かれた。 一方から静々と現われたのは 扮装 ( いでたち )変らぬ春日重蔵、反対側から徐々と進み出たのは 未 ( いま )だ名乗りを聞かぬ 黒髯 ( くろひげ )の武士だ。 二人は行きあった所で、きっと眼光を交わせた。 「あいや、某は京極殿の家中ではござらぬが、義によって試合申す、播州船坂山の住人 鐘巻自斎 ( かねまきじさい )と申す者、不鍛練なる富田流にてお相手致す、お見知りおき下されい」 と長髯の武士鐘巻自斎は、 礼譲 ( れいじょう )玄蕃の如き者の比でなかった。 重蔵も会釈正しく、 「申し遅れました。 拙者は 直真蔭 ( じきしんかげ )の末輩、春日重蔵と申す者、お手柔らかに……」 と礼を返して型の通り、木剣の柄に手をかけると同時に 天 ( てんぴょう )一陣二人の体は、つんざく気合いと共にぱッと飛び別れ、重蔵は小太刀を鉄壁の片手伸ばし平青眼に、鐘巻自斎は同じく中段の 立 ( たて )青眼に取って、戦々たる長髯を 靡 ( なび )かせ、 爛 ( らん )とした双眸を眉間へ寄せて唇固く息をのんだ。 春日重蔵は木剣の 背 ( みね )からずッと自斎の構えを見て数十度の試合にもかつて体験のない驚異に 衝 ( う )たれた。 彼の立青眼はそそり立つ峰か、堅固の金城の如く、全身 羽毫 ( うごう )の隙もなかった。 鬢 ( びん )にそよぐ一筋の髪の毛、土を噛んだ爪先にも周密な錬磨の心が行きわたっていた。 重蔵は今日まで接した名人上手の構えにも、これほど堂に入った剣聖ともいうべき神技に接したことがなかった……それはあたかも 真如 ( しんにょ )の 月 ( つき )を仰ぐようだ。 一点の 欠 ( けつ )、一寸の曇りもなければ不安の揺ぎもない。 しかし、そこには彼の恐怖めいた 怯 ( ひる )みは 微塵 ( みじん )も 掠 ( かす )めなかった。 重蔵はたとえ天魔鬼神がここに立つとも、弓矢八幡に身命を捧げて必ず勝たねばならぬ信念であった。 いま自分の双肩には武名山陽に鳴った福知山三万石の重大な名誉の興亡と、決死組の人々が涙をのんでの信頼とを 担 ( にな )っている。 一度沈思から決然と勇侠の本性へ奮い起つと、死も敢えて辞さぬところに彼重蔵の真骨頂があったのである。 一方の鐘巻自斎はまたより以上の驚嘆をもって重蔵を 端倪 ( たんげい )した。 今の青年剣客に珍らしい 慥 ( たし )かさ、まさに上泉伊勢の面影を見るような太刀筋であると思った。 ただその木剣と血走った眼膜から異常な殺気がほとばしっているのを見て取った自斎は、勝負の結果にある不吉を予感しずにはいられなかった。 この殺気に満ちた鋭さで来れば、勢い自分の太刀もどんな 弾 ( はず )みを生まないとも限らない。 「おお新九郎様ではござりませぬか……どう遊ばしたのでござります」 と笹色絹の裾模様に、日傘の赤い光線を浴びた美しい人が、矢来外の人の少ないところにかがんでいた若い武士へ、こう言葉をかけた。 それは正木作左衛門の娘の千浪であった。 福知山藩では今日の試合に公然と女の 陪観 ( ばいかん )を許さなかったので、よそながら矢来の外で胸躍らせていたのであった。 「どう遊ばしたのでござります。 半元服の若い武士は春日新九郎である。 彼はやっと顔を上げて、 「お、千浪殿でござったか……」 と微笑を見せたが、その顔はいかにも苦しげで、そして 白琅 ( はくろうかん )のように蒼白かった。 印籠のお薬をお出し遊ばせ、常、常や」 と千浪は日傘を供の女に渡して新九郎の腰に見えた印籠を取りかけた。 「いえ、大丈夫でござります、大丈夫でござります……」 「およろしいのでござりますか」 「最前から、あまり激しい試合を見たり、大勢の声にガンとして、気分が悪くなったばかりでござります。 拙者はもう参りまする。 ここさえ去れば落着くに相違ござりませぬ」 と新九郎は額を押さえながらそッと立ち上がって歩きだした。 その時は、ちょうど二度目の合図の太鼓が激しく鳴った時であった。 二人の恋は如意輪寺裏の梅月夜から、春が桜を散らすまでになったよりはやく、いつか 灼熱 ( しゃくねつ )して行ったのであった。 二人は 熱鬧 ( ねっとう )の中を 遁 ( のが )れて、ゆく春の静かな山路を福知山へ向って歩いた。 少し離れた後から従いて行く女中のお常は、伊達若衆の新九郎の腰にきらめく太刀の 鐺 ( こじり )と、金糸銀糸の千浪の帯とが並んで行く後ろ姿を 妬 ( ねた )ましく見た。 「新九郎様、もうお顔はいつもに変らぬお色になりましたが、ご気分ははれましたか」 「いつか忘れたようでござる。 お常は日傘を受け取ってつぼめた。 老鶯 ( ろうおう )はその時だけちょっと啼きやんで歌口を 憩 ( やす )めた。 「千浪殿、いつかはこうしてゆるりとお話致したいと思っていたが、あの……この間お常殿の手から渡した、拙者の文は見て下されたか……」 そう云った新九郎は、 俯 ( ふ )し 目 ( め )になって袂を膝に抱えている千浪の 蠱惑 ( こわく )よりほか、すべての世界を忘れていた……お常は用にかこつけて 外 ( はず )したかここに姿が見えなかった。 「はい……」 と千浪は乱菊模様の金糸を一本抜いて、爪紅をした綺麗な 指尖 ( ゆびさき )へ巻いたりほぐしたりしながら、襟足まで 紅淡 ( あかうす )くした。 「ではお読みなされて下さったのじゃな。 そしてそなたの返事は何とでござります。 返事のないのはご不承知でござるか」 「いいえ……」 とかすかに答えた千浪は血の 顫 ( おのの )きに 上逆 ( うわず )って、男の手がふんわりと肩にからんだのも 現 ( うつつ )であった。 お常は容易に帰って来なかった。 いつか藍暗い夕闇の中に二人は取残されていたのであった。 桔梗河原の試合が終ったのであろう、引きも止まぬ群集が、まだ興奮を続けて、罵り騒ぎながら通り過ぎた。 その後から、凄まじい騎馬が砂煙を立って城下へ七、八騎飛んだかと思うと、一隊の武士が悄然と 頸垂 ( うなだ )れ勝ちに跫音も湿って帰って来た。 武士達の中には 滂沱 ( ぼうだ )の涙を拳で払っている者、 面伏 ( おもぶ )せに暗涙をのんでいる者もあった。 しかも何事であろう? 七、八人の足軽が白布で 被 ( おお )った板の上へ一人の武士を仰向けに寝せて、静々と運んで通るのであった。 この二人が勝ちと負けの刹那を現出した時は、どんな悲惨と歓喜の 晦明 ( かいめい )がはっきりと両者を区別して見せたであろう。 しかし後で落着いてみても、その瞬間の手口をあきらかに瞳に 映 ( うつ )した者はほとんどなかった。 唯見る、二本の木剣がつんざく稲妻をほとばしらせて七、八合の 搏音 ( うちおと )がしたなと思った時は、もう自斎の 屹然 ( きつぜん )と立っているのに反して重蔵は仰向けに倒れていた……それ程に 迅 ( はや )かった。 それに較べて、余りに 傷 ( いた )ましかったのは、福知山方の極度の失望で、藩主松平忠房はじめ、並居る諸士、城下の群集もひっそりとして、 冷々 ( れいれい )氷の山か、死人の群集としか見えない、悲壮な雰囲気につつまれてしまった。 中で一人、正木作左衛門は狂気に近い声で、茫然とした人々を叱咤した。 「誰か駈けつけぬか! 重蔵殿が怪我なされたではないかッ」 それに 醒 ( さ )めて、四、五人の侍臣が桟敷から飛び降りると、剣士 溜 ( だま )りの幕からも、五、六人の若侍がバラバラと試合場の中央に駈けた。 やがて、典医の介抱を受けた春日重蔵は、藩主の声に招かれて家士に抱えられたまま桟敷の下へ運ばれて来た。 忠房は 褥 ( しとね )を出て、悲痛な目を落しながら 宥 ( いたわ )った。 「大丈夫でござるか、宜しゅうござるか」 と家士たちは、紫色にわななく重蔵の唇を見て、悲涙を 泛 ( う )かめながら訊き返した。 忠房は見るに堪えぬ 面持 ( おももち )で、 「定めし苦痛であろう。 一刻も早く福知山へ送り遣わせて、充分な手当を致せ」 「はッ」 と近侍はすぐ足軽に 担架 ( たんか )の仕度を命じた。 忠房はその間に、典医から怪我の容態を聞き取った。 その答えによると、強敵自斎の木剣のために、右足の関節骨をしたたかに打ち砕かれているとのことであった。 五丈原頭 孔明 ( こうめい )の 喪 ( も )を秘して 潰走 ( かいそう )した蜀兵の哀寂と同じものが、一同の胸へこみ上げてくるのだった。 恋の陶酔に他念のなかった新九郎と千浪が、辻堂の縁から 転 ( まろ )び下りて、この 酸鼻 ( さんび )な生ける葬式に 邂逅 ( かいこう )したのは。 この二、三日、丹後宮津の町は祭りのような騒ぎであった。 藩では 橋立 ( はしだて )の文珠閣で勝ち試合の恩賞と祝いさえした。 ところが、ここに 惨 ( みじ )めな者は、かの大月玄蕃で、当日の不首尾から閉門を申しつけられ、その上、数日後になって「武芸未熟の 廉 ( かど )を以って指南番を免役」という 苛命 ( かめい )を受けた。 玄蕃を見放した丹後守は、一方に 鐘巻 ( かねまき )自斎の神技を 渇仰 ( かつごう )して何とか自藩の指南番に召し抱えたいと思った。 「どうであった。 承知致したか」 と今日も、出石に滞在している自斎の許へ使者にやった重役 溝口伊予 ( みぞぐちいよ )の帰城を待ち兼ねていた丹後守は、こう云って彼の返事を待った。 「残念ながら、この儀は 最早 ( もはや )望みはござりませぬ」 と伊予は役目の不結果をまず暗示した。 「ふーむ。 では千五百石の高禄を与えると申しても、まだ不足じゃと申しているのか」 「いえ、それならばまだしも、実は度々当家からのご催促に、仙石家でもお 執做 ( とりなし )下されたのでござるが、不意に今朝姿を隠してしまった由でござります」 「何? では 播州 ( ばんしゅう )へ戻ったと申すか」 「武芸遍歴の旅に 上 ( のぼ )るゆえ、両三年はお目にかかるまいと仙石家へ一書を残して旅立ちました」 「ほほう。 数日過ぎると、溝口伊予は再び仙石家を訪れて来て、どうしても自斎を断念しきれない主人丹後守の 懇請 ( こんせい )を告げた。 「この度は是非もござりませぬが、自斎どの遍歴を終えてご当家へ立寄りの節は、是非にお執做の儀を今から願い置き申す。 それまでは何年にても宮津七万石の指南番の席は 空 ( あ )けてお待ち致す考えでござる」 と破格な条件を残して行った。 仙石左京之亮も、一藩の君主がそれまでに執心なら、むざと彼を旅立たすのでなかったにと後悔したが、後日に 周旋 ( しゅうせん )を約して、ひとまず溝口伊予を帰したのである。 「旦那旦那、馬に乗っておくんなせえ」 「馬か、まず 要 ( い )らぬの」 「そんなことを云わねえでよ。 福知山へですか? 元伊勢へお 出 ( いで )ですかい、お安く行きやすぜ」 「要らぬと申すに。 うるさい奴じゃ」 「帰り馬だから頼むんだ、ねえ乗ってくんなせえ」 「くどいッ」 と先の浪人は編笠を振り顧って、鋭く一喝した。 その底力のある声に、道中ずれのした馬子も 恟 ( ぎょ )ッと首を 悸 ( すく )めてしまった。 「亭主、茶なともらおうか……」 と浪人は微笑を洩らして、向うに見えた茶屋の 床几 ( しょうぎ )へずいと腰掛けた。 「亭主、これから福知山の城下は何程あるな」 「左様でござりますな。 まア三里でござりましょう」 と茶盆を持って来た亭主は、編笠をとった浪人の顔を見て、しばらく茶も渡さず 瞶 ( みつ )めて、 「旦那様はこの間、桔梗河原の試合で春日様を撃ち込んだ、京極方の先生でござりますな」 と云うのであった。 それは 紛 ( まぎ )れもない 黒漆 ( こくしつ )の長髯があるので、その日の試合を見た者なら一目で知れる鐘巻自斎に違いなかった。 「はははは、そりゃ他人の空似であろう」 と自斎は 寛達 ( かんたつ )な笑いに紛らせて茶をすすったが、亭主はぷいと奥へ避けて、それからは自斎が言葉をかけても返事もしなかった。 「おかしな奴もある者じゃ……」 と自斎は山家者の偏屈と別に気にも止めず、四方の風光に気をとられていた。 彼は播州船坂山の住人とばかり名乗って、桔梗河原の一試合で山陰道にその名を轟ろかせ、京極丹州の切なる 招聘 ( しょうへい )をも退けて、飄然とここへ相変らず粗服の旅装を現わしたのであるが、そもこの鐘巻自斎の剣法とは、如何なる奥底のものであろうか、ただ神変不可思議な霊剣の所持者とばかり見て置くのはやや飽き足らない。 当時、承応の時代に最も行われている剣法の諸流は 上泉 ( かみいずみ )の 真蔭 ( しんかげ )、 諸岡 ( もろおか )の神道無念、 高弟 ( こうてい ) 兎角 ( とかく )の 微塵 ( みじん )流、将軍家流とも云うべき柳生、宮本没後に伝わるところの二刀、新免正伝派、伊藤弥五郎を祖とする一刀流、別れての小野派、忠也派、憲法の吉岡流、その他、天道流、 中条流 ( ちゅうじょうりゅう )、田宮流、無外流、鞍馬八流、 心形 ( しんぎょう )一刀流、甲源一刀流、柳剛流、東軍流、 卜伝 ( ぼくでん )の遺風など剣の流派は百を数えて余りある時世であったが、鐘巻自斎の剣法は、それらの俗間者流とはまったく趣を異にした天下の秘剣と云ってよいものであった。 事実、自斎と同じ剣妙を 会得 ( えとく )した者は天下に三人よりなかったのである。 その三人を富田三家と云って、自斎がその一人であるのは云うまでもない。 しかし、この剣法の 淵源 ( えんげん )は、必ずしも自斎の独創ではなかった。 美濃 ( みの )の奇傑斎藤 義龍 ( よしたつ )の 外妾 ( がいしょう )の子五郎左衛門、世を忍ぶ名を 富田勢源 ( とだせいげん )と云った 世 ( よ )すね 人 ( びと )が、宇宙の大理から感応自得して工夫を積んだ秘術で、生涯に自斎のほか二人の弟子より以外に剣の話も交じえたことのない人物であった。 その開祖の富田勢源は、その後 忽然 ( こつぜん )と住み馴れた美濃の住居を捨てて姿を消してしまった。 ある者は死んだと云い、ある者は深山に入って剣法以上の仙術を会得する為に 行 ( ぎょう )をしているとも噂した。 とにかく、今では富田勢源の死生は深い謎になっている。 けれども、鐘巻自斎は師の勢源が、この世を去ったものとは決して信じなかった。 そして彼は四十の年を越えた頃に、ある剣法の疑問に行当り、その解決を得なければ、真に欠点のない名人とは云われない一箇所の弱点が自分にあることを発見した。 彼はそのために非常な 煩悶 ( はんもん )を続けたが、どうしても会得の曙光を仰ぐことが出来ないので、彼は断乎と播州船坂山の 住居 ( すまい )を閉じ、 未 ( いま )だいずこにか生きておわすと信じて疑わない、師の富田勢源を尋ねあてて教えを乞うべく、大願の武者修行にさすらいはじめたのである。 その大願のある自斎には、桔梗河原の功名などは、ほんの旅情の慰さめに過ぎないのであった。 ただ彼は前に云った一つの剣法の疑問をどうかして会得したい為に、旅の道々にも努めて他流試合を試み、諸流派の秘訣を 窺 ( うかが )って見ることに心懸けているので、春日重蔵との試合も単にそれだけの心で引き受けたのである。 ところが、重蔵に必死の 気愾 ( きがい )と、侮りがたい腕があったため、思わぬ烈剣を放した結果、彼の片足を打ち折ってしまった。 自斎は後になって、あたら有為の青年剣客者を、不具者にした無謀を非常に後悔した。 その途中の茶屋で、自斎はしばらく足を 憩 ( やす )めている。 「おおちょうど在宅だが、どうした? また下らねえ 揉 ( も )めごとでも背負いこんで来たのじゃねえか」 と渋い 博多 ( はかた )の帯に 大島紬 ( おおしまつむぎ )の着流しで、それへ出て来た由良の伝吉は、苦み走った三十前後の年頃で、さすが船稼業だけあって、江戸前の遊び人と云ってもいい男前に見えた。 「親分、いつもそんな下らねえことばかりじゃねえ。 一大事があるから知らせに来たんでがす」 「どうも体の 懶 ( ものう )いところへ、一大事たあ耳寄りだ。 一体何が持ち上がったのだ」 「他でもねえがこの間の大試合でがす。 こうして福知山の殿様のお荷物で飯を喰ってりゃ、瘠せても枯れても足軽の下くらいなご家来も同様、その上春日重蔵様の先代には、命まで助けられたことのある由良の伝吉だ、そんな講釈を聞かねえでも、口惜しくって男泣きをしているんだ。 ええ、もう気色が悪いから、そんな話を聞かしてくれるないッ、思い出してもむしゃくしゃすらあ」 「だから親分、こうして飛んで来たんでがす。 そ、その 仇 ( かたき )の野郎が、このご領分の中へ図々しく のさ張って来やがったんです。 これから福知山へ行くって云ってやがったから何をする気か知れませんぜ」 「ふむそうか。 ではたしかに試合で重蔵様の足骨を砕いた、あの鐘巻自斎に違えねえな」 「見違えっこはありません。 あんな長い髯のある侍なんて、滅多にありゃしませんから」 「よしッ。 よく知らせに来てくれた。 さすがてめえもご領分の町人だ、やいやい二階にいる奴らあみんなここへ降りて来い!」 と伝吉が奥へ向いて声を張ると、何事かと、二階で開帳中の乾分たちが、どかどかとそれへ出て来て、 「何です! 親分」 と渦を巻いた。 「くどいことを云ってる間はねえ。 どいつも 脇差 ( どす )を一本ずつ 打 ( ぶ )ッ込んで俺の後に 尾 ( つ )いて来い」 「合点でがす」 と気の早い 弁慶縞 ( べんけいじま )や豆絞りの連中が、思い思いに向う鉢巻、足ごしらえをしながら、 「おい、行先はどこだい、縄張り荒しか」 「そうじゃねえ、今俺あ 階下 ( した )にいて聞いていたら、桔梗河原でこっちの春日重蔵様の足を 打 ( ぶ )ッ 挫 ( くじ )いた、かの三国志の絵にあるような侍が、図々しくここらへうろうろ来やがったんだとよ」 「畜生ッ 太 ( ふて )え 外道 ( げどう )だ。 そんな野郎にご領内の地 べたを 一寸 ( いっすん )でも踏ませてなるもんけえ」 「そうだ叩ッ殺してしまえッ。 そいつを通しちゃご城下口に頑張っている由良の身内の名折れだ」 と伝わると、唯さえ鬱憤の満ちていた折とて、縄張り喧嘩以上の殺気が 漲 ( みなぎ )り渡った。 「野郎ども、仕度はいいか」 と由良の伝吉は 真田 ( さなだ )の 襷 ( たすき )に 銀角鍔 ( ぎんかくつば )の脇差を落して、荒格子の外に出ると、いつか馬子の権十が他へも触れ歩いたと見えて、あっちこっちから血気の若者が、思い思いの得物をとってワイワイと集まって来た。 「権十ッ、案内しろ!」 と伝吉が真ッ先に駈け出すと、 「それッ、親分に続け」 と乾分を加えたその人数が、 疾風 ( はやて )に押される 潮 ( うしお )のように、砂煙を残して行った。 茶屋の軒から、 二足 ( ふたあし ) 三足 ( みあし )立ちかけた鐘巻自斎が、ワッと近づく人声に、何事かと 解 ( げ )せぬ顔で見ていたのは、殺気立って来る由良の伝吉の禍いを待っているのと同じことになった。 「やい 武士 ( さんぴん )ッ、うぬあ京極方に味方して、春日様の足を打ッ挫いた 痩浪人 ( やせろうにん )だろう。 この先へ行くことあならねえからそう思えッ」 と仁王立ちに大手を拡げた伝吉は、 後 ( しり )えに五、六十人の人数を曳いて、自斎の前を 塞 ( ふさ )いでしまった。 彼も憤然とした。 「何ッ! 天下の大道、誰が歩くに致せ 差閊 ( さしつか )えがあろうか」 「いけねえいけねえ。 たとえ天下の往来であろうと、てめえだけは通すことはならねえ、その 地境 ( じざかい )から 一寸 ( いっすん )でも踏み込んで見やがれ、胴と首の生別れだぞッ」 と伝吉はガッキと柄に力を入れた。 「さても呆れた暴れ者め、旅人の妨げ致すからには、汝等こそ用捨はいたさぬッ」 「何をッ」 と血気な伝吉は、抜くが早いか命知らずに自斎の真っ向へ飛びかかった。 「うぬッ」 と横にのめッた伝吉は、青筋を立ててもう一度必死に斬り込んだ。 するりと抜けた鐘巻自斎は、一方から脇差を振りかぶって来た乾分七、八人の中へ突入して、たちまちバタバタと鉄扇で叩き伏せた。 投げられる者、 将棋倒 ( しょうぎだお )しになる者、凄まじい砂煙が白刃ばかりをきらきらみせた。 「ワーッ、 打 ( ぶ )ッ殺せッ、逃がすな」 と多数の激昂が、倒れる者の後から後から車返しに自斎の前後を十重二十重に囲んだ。 二度斬り込んで、二度とも苦もなく 刎 ( は )ね飛ばされた由良の伝吉は、無念の 眦 ( まなじり )で隙を狙っているが、味方の多数に遮られて近寄ることが出来ない。 自斎の鉄扇は時を経るほど、縦横無尽の快速を加えた。 そのうち 緩 ( まど )ろいと思ったか、鉄扇を捨てて無手を 翳 ( かざ )した自斎は、飛燕の如く身を屈めると、もう渦を巻いてる多勢の思わぬ所へ姿を現わし、寄る奴当る奴の 襟首 ( えりくび )とって、人を人へ投げつけはじめた。 「駄目だッ駄目だッ」 とそれに 怯 ( ひる )んだ者の弱音に、浮足立った 烏合 ( うごう )の群はしばらくジリジリに押し戻していたが、どッと崩れ立つと一人も残らず雲霞と逃げ散ってしまった。 追う気もなく、騎虎の勢いで自斎が四、五丁駈け散らして来たが、益もないことと思い返して、そこから見えた川床へ、渇いた喉を 潤 ( うるお )しに降りて行った。 自斎もそれには気づかなかった。 河床の岩に両手をついて、底の水草が 透 ( すき )とおって見えるほどな清冽な流れを見た。 そして片手を濡らして汗ばんだ鬢の毛を撫でつけ、流れへ臨んで少し身を 逆 ( さか )にしながら口そそごうとした途端。 「こん畜生ッ」 と腕に覚えの由良の伝吉が、無念をこめて 真背後 ( まうしろ )から、鍔もと深くふり下ろした二尺八寸の大脇差。 「大胆な奴じゃ……」 と自斎は河へ眼をやった。 投げ込まれた由良の伝吉は、浅瀬の岩に引ッかかって、仰向けに浮きつ沈みつして見えたが、どこかを岩で打ったらしく、まったく気絶している様子である。 「こやつ一人は最前から、町人に似気なく骨っ節の強い男じゃが、このまま抛って置けばいつか気がつくであろう……」 と自斎は独り頷いて、そこを立ち去った。 しかしこのために、彼は福知山へ行くことは思い止まった。 この様子では城下の者は、より以上興奮をしているに違いない。 そこへ春日重蔵の容態を見舞うのは、かえって彼に皮肉と苦痛を与えに行くようなものだと、深く反省したからであった。 そこで、路を代えた鐘巻自斎は、 鬼 ( おに )ヶ 城 ( じょう )峠を越えて 梅迫 ( うめさこ )から綾部を廻り、京都路へさして行ったらしいが、後の消息はこの地方に絶えてしまった。 柳端の春日重蔵の道場は、この頃、 竹刀 ( しない )の音もしなくなって、ひっそりとしていた。 奥の一間には重蔵が足を療治して寝ていた。 「残念だ……残念だ、この足さえ満足に立てば」 と、彼の男泣きに呟やく声が、時々 囈言 ( うわごと )のようにそこから洩れた。 ある時は狂者のようになって。 「も一度この足を満足にして、鐘巻自斎を打ち込まねば、切腹して死ぬにも死なれぬ」 と叫び狂うことさえあった。 藩主からは時々典医を見舞によこした。 正木作左衛門も 余暇 ( ひま )さえあれば来て慰めたが、弟の新九郎は、さすがに気が咎めるのか、相変らず奥に籠って人に面を合せたことがない。 その新九郎には、また新九郎の懊悩があった。 或いは兄の重蔵以上の苦しみかも知れない。 この頃、千浪は目立って新九郎に元のような態度を見せなくなった。 彼女は明かに恋を裏切って来ているのだ。 「何じゃ」 と横臥した重蔵は、苦痛に瘠せた蒼白い顔をわずかにこっちへ向けた。 「何かご用でござりますか」 「そのほうは兄がこうなっても、口惜しいとは思わぬか」 「は……」 新九郎は 俯向 ( うつむ )いてしまった。 新九郎ッ、なぜそちは女に生れてくれなかった」 と重蔵は唇をわななかせた。 「…………」 新九郎は手を膝に組んで、人形のように素直にうなだれたままである。 兄に対しては口ごたえもせぬほど彼は素直であった。 それが重蔵には、頼りにならぬ弟と、いつも諦めさせる姿であるのだ。 しかし、今日は重蔵もひどく興奮していた。 「その年になりおって、 撓刀 ( しない )の持ち方も知らぬ弟、不具の兄、二人揃って笑われ者になりおるより、新九郎ッ兄の頼みじゃ、腹を切れッ」 「げーッ」 と彼は 身慄 ( みぶる )いして飛び退こうとしたが、 袴 ( はかま )の裾は床から伸ばした兄の手にかたく掴まれてしまっていた。 「騒ぐことはない。 武士の家に生まれたは汝にとっては不倖せ、生恥かいて何の面目があろう、死ね! 頼みじゃ」 「あッ、兄上ーッ」 「ええッ情けない奴め!」 と枕元の脇差へ重蔵が手を伸ばした隙に、新九郎は色を失ってばたばたと玄関から表へ逃げだしてしまった。 夜更 ( よふ )けの拍子木が廻った。 正木作左衛門の角屋敷の黒塀へ、 貼 ( は )りついたような人影が、身動きもせずに 佇 ( たたず )んでいた。 それは春日新九郎であった。 彼の頭には今、千浪に会うという一念より他なかった。 今日、出がけに云われた兄の言葉も、世間も、武士道も、そんな意識は一切、恋の 熔鉱炉 ( ようこうろ )へ流れ込めば燃える単一な情炎の色よりほか何物でもない。 ポトリポトリと若葉が降らす 雫 ( しずく )の音に、夜の静けさは増して行った。 新九郎は、ハッと動悸を高めて、物蔭へ身をひそませたが、向うへゆく後ろ姿が、どう見ても千浪の 細 ( ほっ )そりした 型 ( かたち )に間違いないので、時やその他の不合理を疑う余裕もなく、すぐ身をひるがえして後を追って行った。 さきの影は、女とも思えぬ迅さであった。 新九郎は、途中でふと千浪ではないかしらと 遅疑 ( おく )したが、 音無瀬川 ( おとなせがわ )の 縁 ( へり )へ出た時、川面の水明りでいよいよ彼女に間違いないことを知った。 淫婦めッと心に罵りながら、他の男と密会するところを突き止めた上の覚悟まで考えながら走りつづけた。 ただかすかに拝殿の 古御簾 ( ふるみす )を洩れる灯影が、階下に 跪 ( ひざまず )いた一人の女の祈念へ、ほのかな神々しさを流していた。 「おお! 新九郎様」 と千浪は、それが 曲者 ( くせもの )であるより以上に 愕 ( おどろ )きの眼をみはった。 「どうして貴方はこれへお 出 ( いで )でござりました」 「いや、それよりそなたこそ、どうして拙者につれなく召さる。 いつかのお言葉、ありゃ 反古 ( ほご )か」 と痛いほど、握った手を強く振りながら云った。 「にわかに打って変ったこの頃の素振りはどうしたもの? さ、それ聞きに参ったのじゃ」 「…………」 「言葉もないのは変心致されたな!」 と声のあとから熱い息が 弾 ( はず )んだ。 明るい所であったら、その眼も怖ろしく血走っていたろう。 お兄上様のこの度のことから、世間は何と考えましょうぞ。 重蔵様程のご舎弟ゆえ、今にきっと兄上に代って天晴れなお腕前になるであろう。 それを 微塵 ( みじん )もお心にないは、余りと申せば腑甲斐ない、武士に珍らしい腰抜けじゃと、父さえ蔭で申しまする……それを聞く私の切なさ……く、く、口惜しさ……」 と 嗚咽 ( おえつ )に交じった千浪の言葉は、女らしいうちにも 抉 ( えぐ )るような鋭さがあった。 新九郎様、これでお疑いは晴れる筈でござります」 「ああ拙者は恥かしい男のう……」 「そこへお気がつきましたら、どうぞ重蔵様にも勝る剣士、鐘巻自斎にも優れた名人におなり遊ばして下されまし」 「……が、我ながら、どう気を取直しても、生れつきの臆病と見えて、 剣 ( つるぎ )の音を聞くだに身が縮む。 何でそのような大望が果されよう……」 「その弱いお心が悪魔でござります。 殿御の一心で出来ぬことがござりましょうか」 「たとえ何ほど申されても、剣術嫌いは天性じゃもの……それより新九郎が切なる頼みじゃ、千浪殿、どうぞ拙者と死んで下され」 「エエッ」 と千浪が、愕きに身を 反 ( そ )らしたのを、逃げると思ったか新九郎は固く袂を掴んで、 「そなたと死ぬなら怖ろしくもこわくもない。 拙者の望みもそなたよりない今じゃ! 生きて武士の約束に縛られるより、二人でなら美しい夢見るように死んで行ける。 その日の夕暮、同じこの男山八幡の境内を、参詣するでもなく、うろついていた一人の浪人があった。 無論、そんな 気配 ( けはい )は、夢にも知らぬ二人であった。 右手 ( めて )にかまえた 切尖 ( きっさき )は千浪の胸の前で、ただわくわくと 顫 ( ふる )えていた。 「そうじゃ! いっそ……」 と千浪はその刃から、一寸も 退 ( の )いてはいなかった。 どこまでも失わない理性を澄ませて、新九郎のふるえる脇差の手頸を握った。 そして自分の右手は懐剣をギラリと抜き持って、もう死顔になっている男の喉へピタリと向けた。 「あッ」 ともぎ離されて仰向けになった二人は、雲突く男の影と 三悸 ( みすく )みになって、しばらくじっと無言の闘争を張りつめていたが、千浪は懐剣の柄を固くして、 「なに意趣あって 足蹴 ( あしげ )にしやッた! 御身は一体何者じゃッ」 と 木魂 ( こだま )するほど、鈴の声を強く投げた。 名を呼ばれて千浪は恟ッと、 「な、なんじゃと?」 と、眸をみはった。 「そちが忘れている筈はない。 如意輪寺裏の梅月夜に、敢えなく見遁した大月玄蕃じゃ」 「えッ」 「これッ、今宵は、 金輪際 ( こんりんざい )逃がさぬぞ、元と違って、今の玄蕃は、三界流浪の浪人、腕ずくでもそちを連れて他国へ走り、想いを遂げる覚悟で先頃からつけていたのじゃ!」 「ええ聞くもけがれ! この千浪には、春日新九郎という誓ったお方がありますわいの」 「おおよい良人を選ばれた。 その血潮は、ふだんの柔弱を滅却して、敢然と、彼の 気愾 ( きがい )を立派に叩き直した。 玄蕃は飽くまで 憎面 ( にくてい )に 睥睨 ( へいげい )している。 「そんな男に心中立てするより、死にたいという新九郎は、一人で勝手に死なしてやるがいい。 千浪、そちには身共が用がある、くだらぬ命をむざむざ捨てさす訳には行かぬぞ」 「慮外な言葉、誰がお身如きにこの身の指図を受けようぞ! 死んでも悪魔の妻にはならぬ」 「それは女の月並文句、強い男の腕で抱きしめられたら、もう 羽翼 ( はがい )の力も抜けて、今の言葉は忘れるだろう。 「 猪口才 ( ちょこざい )な」 と、玄蕃は 体 ( たい )を開いて、閃光を目当てに、グッと 腕頸 ( うでくび )を掴んだ。 千浪は必死に、 「新九郎様ッ、悪人の 刃 ( て )におかかり遊ばすな!」 「ええこの邪魔者ッ、うぬから先だ」 と玄蕃は、鬼丸 包光 ( かねみつ )の大刀を抜き打ちに、新九郎めがけて、 颯 ( さっ )と斬りつけた。 それも夢心地で、飛鳥の如く、二人は、闇を衝いて駈けだしたのだった。 そこは、音無瀬川の断崖であった。 静かに、無数の渦を描いて、 音無瀬 ( おとなせ )の水が 憩 ( やす )らかによる鷺ヶ淵は、まだ 峯間 ( みねあい )から朝の陽も覗かないので、ほのかな暁闇の漂う中に、水藻の花の息づかいが、白い水蒸気となってすべてを夢の世界にしていた。 「やいやい、そう 艫 ( とも )を突くない艫を! 見ろッ、 舸 ( ふね )が廻っちまったじゃねえか」 「突きゃあしねえよ、何か 舸脚 ( ふなあし )に 引 ( ひ )ッ 搦 ( から )んだようだぜ、 兄哥 ( あにき )、俺が岩に 舫 ( もや )っているからちょっと見てくんねえ」 「何? 藻 ( も )だろう。 「女だ……女らしいぜ兼、も少し 舸 ( ふね )を後へ突いてくれ、下になっちゃった」 とグルリと一つ舸を廻すと水藻の網を被った死骸がゆらゆらと浮いて出た。 「それッ」 と二人は手を揃えて、やっと舸の中へ 拯 ( すく )い上げて見ると、女と思いきや前髪立ちの美少年で、水に 浸 ( ひた )されて蝋より白くなった顔に、わずかな血の痕が 黝 ( くろず )んでいた。 「兼、いい男だなあ」 「だけれど今の扱帯は女物じゃねえか。 じゃ少しも早くだ!」 と鮮やかな 水馴棹 ( みなれざお )は、たちまち舸を本流へ出して、向う岸へと突ッ切って行った。 長押 ( なげし )には槍、床には紫の 杜若 ( かきつばた )、 白衣 ( びゃくえ )観世音の軸へ、切り窓から朝か夕かわからぬが、とにかくこの世の光が射していた。 正しくそれはこの世の光だ、白衣観世音も槍も杜若もたしかにこの世の物に違いない……して見ると自分もまだそのなかの実在かしら? 死んではいないのか。 しかし、たしかに自分は死んだのだ。 この絹布も一体誰の情けの物だろう。 と、みしりみしり、廊下を踏む音がして来た。 「おう、お気がつきなすったようでごぜえますね」 と静かに 襖 ( ふすま )を開けて入って来たのは、 主 ( あるじ )の由良の伝吉であったのだ。 これには深いご様子もごぜえましょうが、何より体を 癒 ( なお )すのが第一、その上で及ばずながらとっくりとご相談 対手 ( あいて )になりやしょう」 「……忝けのうござる……」 新九郎は、千浪のことがちょっとでも知りたかったが、胸につかえて、云い出せなかった。 体は日に増して恢復して行ったが、心の苦悶は肉体と反対に日夜、 慚愧 ( ざんき )の 牛頭 ( ごず ) 馬頭 ( めず )に 苛責 ( せめ )られた。 殊に千浪の死骸さえ分らないと聞いた時、彼は、舌を噛もうとさえ思ったが、その時、率然と、新九郎の耳底から、生ける恋人の顔がよみがえって来た。 (女の一心さえ恋を遂げます。 男の一念で成就せぬことがありましょうか、何故あなたは 不具 ( かたわ )になった兄上に代って一度でも鐘巻自斎を打ち込み、松平の名誉を上げ、福知山の人々の悲憤を晴らしておやりにならぬのです! それが腰抜け武士、臆病侍と、世間の嘲笑の 的 ( まと )になってるあなたをも、一番生かす道ではありませんか) 「そうだ! 拙者の行く 途 ( みち )はそれだ!」 新九郎は心で叫んだ。 翻然 ( ほんぜん )と大悟した彼は、 無明 ( むみょう )の 闇 ( やみ )から光明の中へ、浮かみ出したような気持がした。 思い立っては矢も楯も堪らなかった。 情死 ( しんじゅう )の片残りという不甲斐ない身を、一日も 晏如 ( あんじょ )としている恥かしさに耐えなくなった。 その夜新九郎は、ひそかに三通の書面を認めた。 一通は伝吉へ、一通は千浪の父作左衛門へ、最後のは不遇な兄重蔵へ宛てたものであった。 そして、旅仕度も着のみ着のまま、彼の姿は、 暁方 ( あけがた )近くに、伝吉の家の裏木戸を出て、行方知れずになった。 「親分へ、飛んでもないことが出来ましたよ」 と夜が明けてから、新九郎の部屋を覗いた女房のお藤が、顔色を変えて伝吉へ告げに来た。 「朝ッぱらから、何を慌てていやがるんだ」 「だって親分、新九郎さんが見えませんよ」 「何?」 と伝吉もさッと蒼くなった。 「裏木戸が開けッ放しで、この手紙が残してあるだけですよ」 とお藤からそれを手渡された伝吉は、腰が抜けたようにどッかと 大胡坐 ( おおあぐら )をかいて、封を切る手さえふるえていた。 てっきり、千浪の死を慕って行った。 ところが一字一字、読んでゆくうちに、見事その直覚は裏切られて、はらはらと感激の涙さえこぼしてしまった。 「偉い!」と彼は 呻 ( うめ )くような感嘆の声を上げて、 「お藤、それから、野郎どもも、まあここへ来てこの手紙を読んで見ろ!」 と伝吉は一人の讃嘆では物足らずに、一同を呼び集めた。 「どうだ、男はこう来なくっちゃ本物じゃねえ。 新九郎さんは武者修行に出たんだ。 たとえ五年が十年でも、鐘巻自斎を一本打ち込まねば、 胆 ( きも )を 舐 ( な )めても修行を続けると書いてある。 見上げた者だ、恐れ入った」 と、彼はひそかに、前から乾分たちに新九郎は見込みがあると云った先見の誇りを感じた。 真ッ先に柳端の春日重蔵の道場へ来てみると、意外にも空家になっている。 隣家で訊ねると、重蔵は武芸者として再起の望みのない体を悲嘆の余りと、弟新九郎の噂に対する申訳に、 剃髪 ( ていはつ )して如意輪寺の 沙門 ( しゃもん )となってしまったということであった。 伝吉は止むなく、その足で正木作左衛門の屋敷へ行き、庭先へ廻された。 「おお伝吉か、先頃は千浪の不始末、其方にもいろいろ 手数 ( てかず )を煩わしたの」 と縁先へ出て会った作左衛門は、おそろしく 窶 ( やつ )れていた。 「どう致しやして、せめて千浪様のお 死骸 ( なきがら )でもと、随分手分けを致しましたが、その甲斐もなく定めしお心残りでごぜえましょう」 「いやいや、不義の娘に未練はない。 「まあとにかく、読んでだけはお上げなすって下せえまし」 と伝吉の言葉に、作左衛門は不承不承 袂 ( たもと )から眼鏡を出して読みはじめたが、手紙を置くと、はッたと膝を打って、 「うーむ、やりおったやりおった」と表情しきれぬほどの喜びを溢れさせて、 「これでこそ武士! 春日重蔵殿のご舎弟じゃ、天晴れ鐘巻自斎に勝る腕前にもならば、 君公 ( きみ )をはじめ、福知山藩全体の大きな誉れ、娘の千浪も名分が立つと申すもの……」 と作左衛門の欣びは尽きなかった。 そして慌ただしく奥へ入った作左衛門は、一封の小判と印籠、それに 来国俊 ( らいくにとし )の大刀を添えて伝吉に差し出した。 「折入っての頼みじゃが、定めし世馴れぬ新九郎が、永い武芸修行は困難であろうと存ずる……今朝立った道はおおかた京都路であろうゆえ、其方の足で追い着いて、大儀ながらこの三品を渡して遣わしてくれぬか」 と、わが子にも等しい思いやりで云うのであった。 「承知致しました。 したが、重蔵様へのもう一通は? ……」 「おう、それは拙者が如意輪寺へ参ってお手渡し致そうぞ。 重蔵殿もこの由、お聞きになったら定めしご本望のあまり、嬉し涙に暮れるであろうわい」 やがての後、作左衛門は如意輪寺へ駕を向けた。 その時、もう由良の伝吉は身軽な旅仕度となって、新九郎の後を追って京都路へと急いでいた。 承応元年六月 初旬 ( はじめ )の 暁 ( あけ )がた。 由良の伝吉の裏木戸から、再生の一歩を踏み出した春日新九郎は、但馬街道を東にとって、生野から 兎原 ( うはら )越えして檜山宿辺りへ来るまでは、ほとんどわき目もふらずに歩いた。 もし、怪しむ者あって、「汝は 何処 ( いずこ )へ?」と聞いたら、彼は言下に、「鐘巻自斎に一剣を見舞う為」と明答したであろう。 埴生村 ( はにゅうむら )の村はずれで、茶店に腰かけて 空腹 ( すきばら )を 癒 ( い )やした時、新九郎は初めて旅にふさわしからぬ己れの仕度に気づいて、草鞋を買い 袴 ( はかま )の股立ちをからげたりしていた。 奥を覗くと、ちょうど茶店の亭主が髯を 剃 ( あた )っている様子、新九郎は頷いて小腰を 屈 ( かが )めた。 「ご亭主、折入って頼みたい儀がござるが……」 「はあ、何でごぜえますな」 「誠に恐れ入るが、その後で拙者の前髪をおとしてはくれまいか」 「へえ! 月代 ( さかやき )をお取り遊ばすので?」 と亭主は 怪訝 ( けげん )な顔をした。 「そうじゃ、世話であろうがやってくれい、前髪姿では道中とかく馬鹿にされるでの」 「宜しゅうござります。 じゃこちらへお掛けなせえまし、その代り 素人 ( しろうと )でがすから痛いのはこらえて下さっしゃい」 と亭主は 剃刀 ( かみそり )を 研 ( と )ぎ 直 ( なお )した。 十九という 歳 ( とし )まで半元服で、前髪振り袖で暮らした軟弱な記念を、この日に剃り落すということは、新九郎に大きな意義があった。 どんな武家の元服の場合より、偉大な覚悟を持っての元服であった。 「どうでがす。 痛かあごぜえませんかな?」 「いや、よう剃れる剃刀じゃ……」 と新九郎は、惜し気もなくバラバラと膝に落ちてくる黒髪に、感慨無量の眼を落していた。 髷 ( まげ )は根元を紫紐でキリッと結んで、ふっさり後ろへ切り下げにした。 そこへ、どかどかと五、六人の百姓が、 喚 ( わめ )きながら駈け込んで来たが、新九郎の姿を見て、 「おおお武家様がいた。 お武家様がござらっしゃる」 と口々に云った。 中の一人は新九郎の足許へ平つくばって、 「お見かけ申してお 願 ( ねげ )えがごぜえます。 この村の者でがすが、今向うへ行く三人連れの侍がありますだ。 そいつらは、この先の 斑鳩嶽 ( いかるがだけ )に巣を喰っている山賊も同じような悪郷士で、私どもの娘を二人召使に寄こせと、 抜刀 ( ぬきみ )で脅して山へ引ッ張って行こうとするのでがす。 お武家さま、どうぞお助けなさって下さいまし、お助け下さいまし」 とその親らしい百姓は、眼さえ濡らして騒いでいる。 しかし、一人前の武芸者と見られて、哀願された新九郎は内心はッとしないではいられなかった。 対手 ( あいて )は三人の悪郷士、自分はまだ剣道の けの字も覚えのない身だ。 「そりゃ気の毒なことじゃ。 よし、娘は拙者がとり戻して進ぜよう」 彼は勇敢にそう云いきってしまった。 すべては自分の腕を鍛える修行だ。 今日からは、浮世のあらん限りの困苦を甘んじて受難する身だ。 必死となれば大月玄蕃の鋭い 白刃 ( しらは )さえかわしたではないか。 「ではお助け下さいますか。 有難うがす、みんなよ、お武家様が行ってやると仰っしゃるだ」 「有難うごぜえます。 どうぞ二度と村へ足踏みしねえように 懲 ( こら )してやっておくんなさいまし」 「案内致せ」 新九郎は大刀を握りしめて立ち上がった。 しかし、さすがに三人を 対手 ( あいて )に斬合うとなれば、いわゆる、初陣の時の武者ぶるいというような肉のしまる気持を覚えないではなかった。 表面は生野銀山の加奉役と触れているが、実は千坂ごえの旅人を脅かしたり、銀山から京師を荒らしまわる強賊であるという噂が専らであった。 今も、泣き叫ぶ二人の娘を、腕ずくで山荘へ連れ帰ろうと、村端れまで引ッ張って来た三人の凄い浪人体の者は、後ろからワッと 鯨波 ( とき )の声が起ったので、振り返ると一人の若い侍を真ッ先に十数名の百姓が 得物 ( えもの )を持って追いかけてくる様子に、早くも松の木に娘を縛りつけた三人は、来たらば 微塵 ( みじん )と身構えていた。 見る間に駈け寄ってきたのは春日新九郎、 青額 ( あおびたい )に紫紐の切下げ髪は余り美貌過ぎて、不敵な郷士の 度胆 ( どぎも )を奪うには足りないが、勇気は 凜々 ( りんりん )として、昔の新九郎とは別人のように、 「やあそれなる 浪人輩 ( ろうにんばら )、白昼良民の娘を 誘拐 ( かどわか )すとは不敵至極、渡さぬとあれば用捨はならぬぞ」 と大刀を 閂 ( かんぬき )に構えて、云い放った。 「黙れ青二才ッ、誘拐すとは何事だ、召使に致すため連れて行くのが何で悪い」 「要らざるところへ出しゃばると、その細首を叩き落すぞ」 と三人は歯を 剥 ( む )いて罵った。 「ではどうしても渡さぬと申すか」 「馬鹿めッ、くどいわ」 「欲しくば腕ずくで来い!」 「おお腕ずくで取る!」 と、新九郎は一足 退 ( の )いて、大刀を抜き放ったが、錬磨のない腕前の悲しさ、鯉口を切るか切らない先に、敵の一人が抜き撃ちに、 「真ッ二つだぞッ」 と叫んで躍りかかって来た。 はッと新九郎の足は、我れ知らずもう一足飛び退いたところを、横合から大勢の百姓が、 「それッお武家様に加勢しろ」 とバタバタとふり込んだ竹槍が、盲ら当りに、一人の郷士の腰を払いつけた。 「 己 ( おの )れ 不埒 ( ふらち )な奴めッ」 と打たれた郷士は新九郎を捨てて、どっと百姓の群へ突き進んで、まえの一人を 袈裟 ( けさ )がけに斬り捨てた。 「わッ太助が 殺 ( や )られたッ」 と血に脅えた一同は、意気地もなく 蜘蛛 ( くも )の子と逃げ散ったが、新九郎一人は抜き放った一刀を両手で握って、前へ突き出したまま、退く気色を見せなかった。 「やあこの青侍め、剣術を知らねえな」 と郷士の一人は構えを見て充分に見くびりながら、 「なぶり斬りには打ってつけな奴だ」 と真ッ向から斬り下げて来た鋭さ、新九郎はここぞと持った刀でピュッと横に 打 ( ぶ )ッ払った一心の力、グワンと音がしたかと思うと、 対手 ( あいて )の刀は七、八間も横へすッ飛んで行った。 後の二人は烈火の如く憤った。 三尺近い大刀を新九郎の左右から振りかぶって、 「小僧ッ、観念しろ」 とばかり斬りつけた。 新九郎にそれを防ぐ秘術はない。 そして、 「いざ来い!」 と、叫んだ。 「こやつ、卑怯な」 と二人は続いて斬りかかった、新九郎も矢車のように、刀を振りまわした。 剣道の法則から見れば全然滅茶苦茶ではあるが、彼は必死だ、先に踏み込んで来た一人の刀をハタキ落す。 アッと拾いかかるところを、新九郎はここぞ狙いどころと、その背へズーンと斬りつけたが、敵のからだに刀が当ると、 背 ( みね )が返って肉は切れなかった。 しかし一念の力に郷士はワッとへたばった。 新九郎ものめり込んだ。 「この野郎」 とその隙を後の二人が 柄手 ( つかで )に 唾 ( つば )をくれて、八方から斬りつけようとするところへ、傍らの雑木林の樹蔭で、最前から様子を見ていた一人の六部が、杖に仕込んだ 無反 ( むぞり )の太刀をキラリと引き抜いて駈け寄りざま、電光石火に郷士の一人を梨割りに斬って捨て、あッと 愕 ( おどろ )く次の奴を、返す一刀で、腰車を横に一文字、見事に 薙 ( な )ぎ払った。 この瞬間の早技には、新九郎が一太刀の助けさえ入れる隙がなかった。 彼は六部の鮮やかな腕前に感嘆して、足許から逃げ出した残る一人の郷士を追い撃ちに切りつけたが、二度とも 切尖 ( きっさき )が届かず、その間に遠く逸してしまった。 「あいやお武家、一人や半分の 鼠賊 ( そぞく )は追うことはござらぬ」 と、六部は、新九郎の後ろから呼んだ。 「これは思いがけないご助勢下され、 忝 ( かたじ )けのう存じまする」 新九郎は立ち戻って、丁寧に会釈をした。 「幸いに、お 怪我 ( けが )もない様子、何よりでござった」 「有難う存じまする。 お恥かしい次第でござるが、まったく剣道の心得なき 某 ( それがし )、貴殿のお助太刀なくば、すでにも危ういところでござった」 「いやいや、最前とくとお見受け申すに、法はずれながら 其許 ( そこもと )の切尖には、云うに云われぬ天質の閃きがあるやに存ずる。 必ずとも一念にご出精あれば、 天晴 ( あっぱ )れなお手筋になられましょう」 「これは恥じ入るお言葉でござる。 しかし、失礼ながら六部殿の唯今のお腕前、これも並ならぬお方とご推察致しまするが」 「いかにも、かかる姿でこれへ参ったも深い仔細のある儀でござるが、とにかくあれなる娘二人を助け返した上、ゆるりとお打ち明け致そう」 と、六部と新九郎は樹に 縛 ( くく )られていた二人の娘をほどき、 猿轡 ( さるぐつわ )を解いて家へ帰させた。 「まずそれへお坐りくだされい。 ここなれば人目もござらぬ……」 とその後で、六部は雑木林の中へ新九郎を導いた。 そこには彼の 笈 ( おい )が置き残されてあった。 六部はその傍に坐って、 「実は何をお隠し申そう、拙者は亀岡の 有馬兵部少輔 ( ありまひょうぶしょうゆう )の家臣、 戸川志摩 ( とがわしま )と申す者でござる」 と名乗った。 新九郎はさもある人と頷いた。 志摩は言葉をつづけて、 「そこもともお聞き及びであろうが、当地の 斑鳩 ( いかるが )嶽に山荘を構えている雨龍太郎と申す奴、多くの浮浪人を狩り集めて、悪業至らざるなき風聞でござるが、とても代官などには取締りもつかず、主人兵部少輔と苦心の上、実は一策をめぐらして、かく拙者が姿を変え、きゃつらの様子を探りに参った次第でござる」 と物語った。 新九郎は戸川志摩の大胆さに 愕 ( おどろ )かされたが、危地を救ってくれた恩人の目的に、何とか自分も力を添えたいと思った。 「それは容易ならぬご使命でござります。 ところで如何でござりましょう。 拙者は丹波浪人の春日新九郎と申す者、武芸未熟を恥じて修行の旅に出たばかりの者でござるが、その山荘の探索にご同行下さりませぬか、及ばぬながらも唯今のご恩報じ、二つには、大きな修行ともなろうと存じまする」 「そりゃ願うてもなきこと、同藩の者には臆病者ばかりにて、誰一人同行致そうと申す者もなかったが、今そこもとがご一緒にお出で下さるとあれば百人力の強みでござる」 と戸川志摩も大いに欣んで、万事をそこで 諜 ( しめ )し合せ、やがて二人は道中の道づれでもある如く装って斑鳩嶽の 麓 ( ふもと )へ 辿 ( たど )った。 「まだ影も見えねえ!」 とその返事は、数丈上の梢の 天頂 ( てっぺん )から下へ投げられた。 「不思議だなあ。 やい 五介 ( ごすけ )、てめえは確かにその六部と侍が麓へかかったのを見たのか」 と下に 簇 ( むらが )っている男の中でも、図抜けて背の高い柿色の道服に革鞘の山刀を横たえた髯むじゃらな浪人が、一人の 乾分 ( こぶん )を 我鳴 ( がな )りつけた。 「ええ嘘じゃごぜえません、たしかにこの斑鳩嶽の上りへ来たのを探って来たんでがす」 「ふーむ。 じゃもう来なくッちゃならねえ筈だがなあ……」 と少し静まり返っている。 早く手配りをしなくっちゃあ……」 と口ぜわしく云った。 「そうか。 じゃみんなうまく姿を隠していろい」 と洞門の小頭と呼ばれた浪人は、一同を指揮してから、自分も熊笹の中へ姿を没して、 戦 ( そよ )ぎもさせずに 森 ( しん )としていた。 それからしばらく、斑鳩嶽のこの山路は鳥の羽音もしなかったが、やがて何か話しながら通りかかって来た二人は、云うまでもなく六部姿の戸川志摩と春日新九郎とであった。 「新九郎殿、この分ではどうやら今宵は、山の中で日が暮れそうでござるぞ」 「たまには山に伏すのも一興でござりましょう」 「しかし、どこか夜露を防ぐところだけは目つけたいものでござるな」 と二人の声が間近になるまで、充分ためていた洞門の権右衛門はそれへ 跳 ( おど )り出して、 「やい、用があるからしばらく待て」 と立塞がった。 「何じゃ、何者じゃ、そのほうは?」 「何者でもねえ、この斑鳩嶽に、その人ありと知られた雨龍の一族、洞門の権右衛門だ。 よくも最前は 埴生 ( はにゅう )の里で一門の者を手にかけたな」 「おお、良家の娘を 誘拐 ( かどわか )そうとする 理不尽 ( りふじん )な奴、それを、斬り捨てたが何と致した」 と戸川志摩は 怯 ( ひる )む色もなく云い返した。 権右衛門は青筋立てて、 「おのれ云わしておけば好きな 囈言 ( たわごと )、さあ、俺等の一族に指でも指した奴は、 嬲 ( なぶ )り殺しにするのが雨龍一族の 掟 ( おきて )だ。 引ッからめて 頭領 ( かしら )のところへ吊して行くから観念しろよ」 「だまれッ、罪を裁くは、領主の司権じゃ。 汝等如き 鼠賊 ( そぞく )が掟呼ばわりは片腹いたい」 「斑鳩嶽一帯は雨龍の領土も同然、この山中に踏み込んで要なき 繰 ( く )り 言 ( ごと )だ。 それッ」 と、洞門が片手を挙げて合図をすると、潜んでいた数十名の手下が、ばらばらと二人の前後を取り囲んだ。 「新九郎殿ッ、ぬかり給うな」 志摩は叫んで、仕込みの一刀、真一文字に振りかざしてどッとその中へ斬り込んだ。 「お案じあるな!」 と新九郎も腰なる秋水をギラリと抜いて、例の滅多打ちにふり廻した。 一人二人の 技 ( わざ )の争いと違って多勢を対手に廻すと、この滅多打ちは意外な奇功を奏した。 彼はたちまち近寄った二、三人を迅速に叩き伏せた。 「あッ、しまった!」 と一方で縦横無尽の怪腕をほしいままにしていた戸川志摩は、新九郎が 縄羂 ( なわわな )の計に墜ちたと見ると、すぐ自分も太刀を納めて、 「さッ、縛れッ。 この上は拙者も共に雨龍太郎の面前へ案内致せ」 と両手を自身後ろへ廻して、 威猛高 ( いたけだか )に云い放った。 「歩けッ亡者め、もっと早く歩かねえか」 と二人の縄尻を持った雨龍の手下どもは、地獄へ凱歌を上げる獄卒のように、新九郎と戸川志摩を引ッ立って間道から間道を 辿 ( たど )り、やがて 蘭谷 ( あららぎだに )の豪族雨龍太郎の山荘の石門を 潜 ( くぐ )った。 鬱蒼たる樹木の路が、石門からやや小半丁も続いた所に、自然石の石垣 築 ( づき )で小大名などは及びもつかぬ古い鉄門がある。 その奥に 緑青 ( ろくしょう )を吹いた 銅瓦 ( あかがねがわら )の館が、後ろに聳え立つ 神斧山 ( しんぷざん )の岩石に切組んで建ち、あたかも堅固な城廓の 態 ( てい )をなして、見る者の眼を愕かせている。 「開けてくれ、洞門の権右衛門が二人を生捕って来た」 とその鉄門の扉を叩くと、中からギーと開けて、棒を持った番人がいちいち人数人相をあらためた上一同を入れて再びギーと閉めてしまった。 戸川志摩は心のうちで、「ああこの要害ではとても代官や領主の力ぐらいで 殲滅 ( せんめつ )することは思いもよらぬ怖るべき一族だ……」と 密 ( ひそ )かに舌を巻いている。 「ご苦労だった。 汝等 ( わいら )ああっちで休んでいいから、仙太と五介は縄尻を持て」 と権右衛門はそこで多勢の者を 退 ( しりぞ )け、自分が先に立って奥庭と 覚 ( おぼ )しき所へ廻って来ると、とある橋廊下の上から、 「おや……」 と思いがけない優しい声がしたので、その下へ来た新九郎と志摩は、何気なく振り仰ぐと、洗い髪に大絞りの 浴衣 ( ゆかた )を着て、 西施 ( せいし )を 粋 ( いき )にしたような年増の 阿娜女 ( あだもの )が、姿とはやや不調和な、 塗 ( ぬ )りの 勾欄 ( こうらん )に身をもたせて、不思議そうに美しい眼をみはっていた。 「権右、何だい、その人たちは? ……」 「あ、こりゃ 姐御 ( あねご )でしたかえ」と洞門の権右衛門はちょっと足を止めて、 「こいつらあ今日埴生で、一族の者を二人まで手にかけやがったので、 頭領 ( かしら )がおそろしくご立腹なすって生捕って来いと云うんで、 ふん縛ってきたところでごぜえます」 と手柄顔に云った。 「まあ見りゃあ優しそうな侍に、一人は六部のようじゃないか……」 「こういう奴が油断がならねえんです。 いずれ今日明日のうちにゃあ、例の所で 嬲 ( なぶ )り殺し、岩屋の 苔 ( こけ )の 肥 ( こや )しになるんでさあ」 「可哀そうに……」 「憐れをかけると癖になりやす。 やいッ歩け」 と権右衛門は 突慳貪 ( つっけんどん )に、新九郎の背中を小突いてまた向うへ引ッ立てて行った。 橋廊下の 阿娜 ( あだ )な女は、 片肱 ( かたひじ )のせた欄干に頬づえついて、新九郎の後ろ姿をいつまでもじっと瞳の中へ 溶 ( とろ )けこむほど見送っていた。 「ああじれッたい! あんな 男 ( の )を見ると、また山の中が嫌になるもんだねえ……」 呟きながら、横へさした 黄楊 ( つげ )の 櫛 ( くし )で、洗い髪の毛の根を無性に掻きながら、 黒曜石 ( こくようせき )の歯をならべた 鉄漿 ( おはぐろ )の 唇 ( くち )から、かすかな舌打ちをもらしていた。 黒木の太柱に神代杉ずくめの原始的な 館 ( やかた )ではあるが、 襖 ( ふすま )、 衝立 ( ついたて )の調度物は 絢爛 ( けんらん )なほど 贅 ( ぜい )をつくした山荘の一室に、雨龍太郎は厚い 褥 ( しとね )に 大胡坐 ( おおあぐら )をかいて、傍らにいる一人の浪人を顧みて、こう云った。 「客人、唯今これへ二人の 亡者 ( もうじゃ )を召し出して白洲を開くから慰みにご覧なさるがよい」 「ほう、亡者と申すと何者のことでござろうな」 と浪人はちょっと 解 ( げ )しかねた顔を見せた。 「おわかりないのは道理じゃ。 ひとたび雨龍の面前に引き据えた者は、生きて帰さぬ掟からそう呼ぶのでござる」 「成程、ではこの場で首を 刎 ( は )ねられるのか」 「いや、いつもは洞窟へぶち込んで手下の好きにさせるのだが、幸い客人は一刀流の使い手、世が世の時には指南番までしたという腕前を見たい。 一人一人に得物を持たせて、尋常の太刀打ちの上、見事真っ二つにしてご覧に入れよう」 「さすがは一流の剣客者たるお心がけ、そりゃいっそ 見物 ( みもの )でござろう。 あっぱれお手のうちを見届けた上は客人の望み通り、一族の師範としてこの山荘に生涯おいでなさろうともお心次第と致すことに約束致そう」 「これは千万かたじけない……お、あの木戸口へ見えた者どもでござるかな」 と浪人が指さす庭先へ、ぎょろりと瞳を向けた雨龍太郎は、 「そうだ」 と大きく頷いて待ち構えた。 「お頭、やっと引ッからめて参りました」 とそこへ春日新九郎と戸川志摩の縄尻を持たせてついて来た洞門の権右衛門が、 「坐れッ」 と二人を雨龍の正面に引き据えて、自分も傍へうずくまった。 「うむ。 ご苦労だった。 やいッ 面 ( つら )を上げろ」 と雨龍太郎の声は 山寨 ( さんさい )を 揺 ( ゆる )がすように落ちて来た。 「その生ッちろい若蔵は知らぬが、六部の方はどこかで見たことのある奴だ。 はてな、やいッ、汝はただの六部ではあるまい。 いや余人は知らずこの雨龍の目は 掠 ( かす )められぬ。 それ 権右 ( ごんえ )、奴の肩をはぐって見ろ」 「へい」 と洞門が立ち上がって、戸川志摩の襟を掴んで肩先を脱いで見せた。 「それ見ろ、あまねく諸国をめぐる六部なら、肩に 笈摺 ( おいずる )の痕が見えぬ筈はない。 ははあ読めた。 うぬは亀岡藩の 諜者 ( ちょうじゃ )だな。 仮面 ( めん )を脱げッ、この馬鹿野郎めが!」 と大喝して、はッたと志摩を睨み据えた。 戸川志摩は雨龍の眼力にはッとしたが、見現わされた上はかねての覚悟、早くも 臍 ( ほぞ )を決めて、 眦 ( まなじり )を釣り上げ、きっと睨み返して云った。 「おおよくぞ見た! いかにも拙者は有馬兵部少輔の家臣戸川志摩じゃ。 領主のご威光を怖れぬ汝等一族の悪業は天人ともにゆるさぬところなれば、以後改心致して 上 ( かみ )の命に従えばよし、さもなきに於いてはかく申す 某 ( それがし )が 天誅 ( てんちゅう )を加えるから覚悟を致せよ」 「黙れ黙れッ。 自由もきかぬ引かれ者の小唄、今その舌の根を引き抜いてやる……客人、用意はよいか」 と雨龍は ( めくば )せした。 「拙者の仕度は宜しゅうござる。 彼奴 ( きゃつ )に何なり得物をお与え下さい」 と浪人は後ろを向いて、手早く 下緒 ( さげお )を 襷 ( たすき )にとり袴の股立ちとって立ち上がった。 「権右、そいつの得物を渡してやれ」 「へい」 と洞門は手下の者にいいつけて、戸川志摩から取り上げておいた仕込みの一刀を志摩に渡すと、雨龍は冷やかに見下ろして、 「やい、六部に化けた有馬の家来、当り前なら 膾斬 ( なますぎ )りに致した上、塩漬の首を亀岡に突ッ返して家中に以後の見せしめとするところだが、今日は格別のお慈悲で打物を持たせてやるから、腕に覚えのある限りこの客人と立ち合って、侍らしく 斃 ( くたば )るがよい。 権右、その六部の縄を解いてやれ」 「お頭、大丈夫でごぜえましょうか」 「よし、拙者が引き受けた」 とぱッと縁先から飛び下りた浪人は、その時まで戸川志摩の蔭にじっと俯いていた新九郎が、ふと顔を上げたので、互いに面を見合せたが、 「やッ 己 ( おの )れは? ……」 と浪人は、立ちすくんで 愕然 ( がくぜん )とした。 「おう玄蕃だ。 汝はすでに音無瀬川に飛び込んで死んだとばかり思っていたが、さては悪運強く今日まで生きのびておったのか」 「うーむ、今はあの時の新九郎ではないぞ! この両手さえ自由になるなら、一太刀なりと千浪の怨みを酬いてくりょうものを……」 「えいッ、うぬあ邪魔だッ」 と洞門の権右衛門は、その時新九郎の縄尻をグイと引いたので、彼はあっと後ろへよろめいてしまった。 その 態 ( てい )を、心地よげに見流した玄蕃は、 「はははは福知山名代の腰抜けが、人並みな広言は片腹痛い。 じたばたせずとも大月玄蕃が一刀流の 切尖 ( きっさき )で、この六部から片づけるから、神妙に汝の番を待っていろ。 今日こそ 冥途 ( めいど )へ届けてやる」 と冷罵した。 そして、 「六部ッ、立ち上がれ」 ときっぱりと向き直った。 「世迷い言は無用だ。 お 延 ( えん )は 立膝 ( たてひざ )の前へ、鏡台を引き寄せた。 風に吹かれた洗い髪の、さわさわとしたのを両手でたくしあげて、無造作な兵庫くずしに束ねた根元を 南京 ( ナンキン )渡りの 翡翠 ( ひすい )で止めた。 そして、 臙脂皿 ( べにざら )を 唇 ( くち )へ 摺 ( す )ると、お 鉄漿 ( はぐろ )光りの歯の前に、年増ざかりの肉感の灯が赤く 点 ( とも )されたように見えた。 「こうして見れば私だって、まだ満更捨てた年じゃないもの……考えると馬鹿馬鹿しい、何だか急にこんな山の中で年をとるのが嫌になって来たよ……」 お延はこう 呟 ( つぶや )いて鏡台を向うへ押しやった。 ふいと嫌気がさして来たら、慾も得もなく身ぶるいがするほど、いまの境界が嫌になった。 しかし、それがどこまで根深いものかは疑わしい。 お延のこんな心持も、つい今し方、この山荘へ捕われて来た、新九郎の姿を見てから起った浮気性の気迷いであるから。 「洞門の言葉では、岩屋で殺すのだと云っていたけれど、どうしたかしらあの若い侍は?」 浮気にしても、余り熱っぽいお延の眼は、どうしても自分の部屋に落着けなかった。 ふらふらと最前の橋廊下まで来て見たが、何の様子も知れないので、お延は我れ知らず廊下から廊下を伝って、 館 ( やかた )のどん詰りまで来た時、 発矢 ( はっし )と、激しい剣の音がしたのを聞いた。 「おおウーッ」 と続いて六部姿の戸川志摩は、 無反 ( むぞり )の戒刀を 平青眼 ( ひらせいがん )に取って、玄蕃の大上段の手元へジリジリと詰めて行った。 有馬兵部 少輔 ( しょうゆう )の内命をうけて、単身この山荘を探りに来たほどの戸川志摩だ。 充分腕に覚えはある。 大月玄蕃も心密かに、油断ならじと思ったか、 迂濶 ( うかつ )にこの太刀は振り下さず、心気を 凝 ( こ )らして志摩の隙を狙っているが、 鵜 ( う )の 毛 ( け )でついた隙もない。 その正面の一室から、二人の勝負を見詰めていた雨龍太郎も、 侮 ( あなど )りがたい志摩の腕前に万一玄蕃が 殪 ( たお )されでもしたら、野に虎を放したも同様、その場を去らせず斬り捨てねばならぬと、大刀を側へ引き寄せて、縁先まで座を進め、洞門の権右衛門へもチラと目くばせしておいた。 間髪さっと手元へ引いた玄蕃の太刀は、それを鮮やかにチャリンと払いのけたが、虚をすかさず続いてもう一歩、踏み込んだ志摩の高嶺構えに振りかぶった戒刀が、玄蕃の真っ向へ行くよと見えたので、玄蕃も素早くポンと二足ばかり飛び退いて、八方構えの青眼堅固に取り直すと、戸川志摩は何思ったか、それへは斬り下さずクルリと身を振り変えて、 咄嗟 ( とっさ )、 軽燕 ( けいえん )に身を躍らせて、雨龍太郎の脳天目がけて、飛び斬りにズンとふり下した。 「 天誅 ( てんちゅう )覚えおったか!」 と戸川志摩が二の太刀振りかぶって、真ッ二つと目がけた刹那、右から大月玄蕃、左から洞門の権右衛門、同時に二人の太刀が志摩の肩先と左腕へズズーンと斬って下げられた。 「うう! む!」 と後ろへ 反 ( そ )って ( どう )と 殪 ( たお )れた戸川志摩は、無念ッと最後の叫びを上げたまま息絶えた。 「お 頭領 ( かしら )、どうしやしたッ」 と権右衛門はすぐ雨龍を抱き起した。 彼は黒血にまみれた頬を押えながら、 「な、なに傷は浅え、それより早くその 若蔵 ( わかぞう )を片づけっちまえ」 と新九郎を ( あご )で指した。 「合点でがす。 「むッ」 と新九郎は無念の形相を玄蕃に向けて、しばらく睨み返していたが、縄に噛まれていた手頸の 痺 ( しび )れが容易にとれなかった。 「どうしたッ、腰が抜けたか!」 「な、何を!」 と新九郎は唇を噛んだ。 「血を見て腰が抜けたのだろう。 ここな意気地なしめがッ」 と土足を上げて新九郎の横鬢のあたりをバッと蹴飛ばして来たので、 勃然 ( ぼつぜん )と奮いたった新九郎は、咄嗟に身をかわしてその足をグッと掴んで 捻 ( ひね )りあげた。 「うぬッ」 と玄蕃は足を取られながら、右手の一刀を斜めにかぶった。 技倆の差は争われない。 「口惜しかったら生れかわって来るがいい」 玄蕃は充分な余裕を持って、倒れた新九郎を据物試しに斬り伏せようとした時、 「お待ちよ!」 と鈴音を張った女の声が後ろでした。 大月玄蕃はその声に、はッとして小手を 緩 ( ゆる )ませた。 玉の声は続いて叱るように、 「お待ちったらさ、そのお方を斬ったら私が 諾 ( き )かないからそう思いな」 とそこへ来たのは、お延であった。 洞門の権右は意外な顔をして、 「姐御、こいつあ今日……」 と云いかける口を押えつけて、 「お黙りよ! お前たちは引ッこんでおいで」 とお延の寄りもつかれぬような血相に、玄蕃も苦虫を噛んで身を退いてしまった。 「お延、わりゃあ何で男のすることを止め立てする」 と雨龍太郎はきっとして彼女を咎めた。 「いけませんか。 私の恩人だから止めたのが悪うござんすかえ?」 「何? われの恩人だと。 お延はその 猜疑 ( さいぎ )の目を 紛 ( まぎ )らわすように彼の傍へ摺り寄って、白い顔を遮らせた。 「ねえお 頭領 ( かしら )え、私にとってはそうした恩のある方なんです。 事の間違いで手下の一人や二人傷つけたかあ知りませんが、何も居候の侍なんかに 嬲 ( なぶ )り殺しにさせなくったって、いいじゃあありませんか」 と玄蕃の方へは、余計なことをと云わぬばかりの 流眄 ( ながしめ )を見せた。 そして、雨龍へは顔の下からさし覗くようにして、甘い息に男を耐えなくまでした。 「そうじゃありませんかい。 私が気がつかなければ知らぬこと、現在恩のあるお方が殺されるのは見ちゃあいられませんからね……それよりまあお頭領は、早く顔の傷でもどうかしなくっちゃ…… 権右 ( ごんえ )、お前たちゃ頭領の怪我を何で平気でいるのさ。 早く奥へお連れして、手当をしなくっちゃしようがないじゃないか、こんなどころの騒ぎじゃありゃあしないよ!」 とお延は女が勝手を切って廻すように、てきぱきと云って、この場の雰囲気を推移させるのに努めた。 雨龍太郎は邪魔者が入ったのでにわかに顔の傷が痛み出したのと、お延の魅力に力負けがして、 「たとえどんな恩人であろうが、このまま追ッ返すことあならねえが、そのうちに身共がもう一度調べるまで、どこかへ厳重に 抛 ( ほう )り込んでおけい」 と云い捨てて奥へ 遁 ( のが )れてしまった。 春日新九郎は、今日で七日あまりも陽の目も見ぬ頑丈な座敷牢の隅で、つくねんと膝を抱えて暮らして来た。 あまつさえろくに刀の抜きようも知らないで、たとえ一瞬間でも、大月玄蕃に刃向えたと思えた。 我は 解脱 ( げだつ )した春日新九郎であると、彼が強い自信を持ったのは、この時であった。 「一体今日まで七日もここへ抛り込んだままで、雨龍太郎は自分を殺す気なのだろうか。 どうする 心算 ( つもり )なのだろう。 自分はあんな女を舞鶴で助けた覚えもないし、恩をかけた覚えもない。 何だってあんな出鱈目を云って自分の命を救ったのだろう……」 こうした空想の糸は限りもなく 手繰 ( たぐ )り出された。 新九郎はやがてその空想に疲れて顔を上げると座敷の隅の 短檠 ( たんけい )が、 冥途 ( よみ )の 灯 ( あかり )のように 仄白 ( ほのじろ )くなって行った。 「ああ暁方近くなったのだな……」 と彼は思った。 どこかで水のせせらぎが、夏の夜も寒いほど清く聞きとれる。 伽藍 ( がらん )の中にいるような寂寞である。 すると、コトリと座敷牢の外で、錠の触れる音がした。 そして、一寸二寸ずつ静かに 徐々 ( じょじょ )と開けた者がある。 「誰じゃ……」 新九郎は油断なく身構えた。 と思う間に、一尺ばかり開けた重い戸の間から、身体を 竦 ( すく )めて入って来たのは、お延であった。 「お……」 と新九郎は、そこへすっきり水際立った、寝巻姿の 阿娜 ( あだ )なのに目をみはった。 「お侍様、お 寝 ( よ )れないと見えますのねえ」 お延は後をぴったり閉めて、馴々しく新九郎の近くへ寄って、ふわりと坐った。 「これはどなたかと思ったら、先日お助け下されたお女中でござったの」 「まあ頼もしい。 私を覚えていてくれましたかえ」 お延はジッと男をみつめた。 「何で忘れるものでござろう。 しかしどう考えてもそなたの云うようなことは覚えがないが……」 「ほほほほほ」とお延は黒豆のような 鉄漿歯 ( おはぐろば )を紅の 唇 ( くち )から笑み割ってみせて、 「あんなことは出鱈目ですよ。 ただどうかしてあなたを助けたい一心で、思いついたばかりの嘘でさあね……」 とまだ顔のどこかで笑っていた。 「え、それまでにして何故あって拙者をかぼうて下さるのじゃ。 それが拙者には 解 ( げ )せませぬ」 「まあそんな野暮は止しましょうよ。 女が男を命がけで助けたら、どんな心を持っているかぐらいはおよそ察しがつくじゃないの」 とお延は新九郎の青額に、気も魂も吸い込まれて、ゾクゾクと 疼 ( うず )くふるえを 緋縮緬 ( ひぢりめん )につつんでいつかぴったりと寄り添って来た。 「憎らしい、何にも解らないような顔をしてさ……ねえ、解ったでしょう」 「こりゃ、戯れを……」 「真剣ですよ。 誰がこんな 夜夜中 ( よるよなか )、よっぽどでなくて来るもんかね。 「シッ……大きな声は禁物よ。 もう手段は 択 ( えら )んでいる場合ではなかった。 「これ、人に気取られては一大事じゃ」 「誰がこんな夜更けに来るもんかねえ……」 「でも……」 新九郎は拒む言葉に窮した。 より自分の堅固が怪しくさえ思われたので、彼は無言にお延の粘りこい手を振りもいだ。 「そんなに 羞 ( はず )かしいかえ……」 お延はしどけない妖姿を、グイと仰向けに 反 ( そ )らして顔を 短檠 ( たんけい )に届かせた……フッ……短檠の灯は吹き消された。 「あ……」 新九郎は身を 竦 ( すく )ませた。 お延は囁やいた後で新九郎の頬へ 烙印 ( やきいん )のような熱い唇をつけて素早く外へ姿を消した。 蘭谷 ( あららぎだに )を取り囲んだ、 神斧山 ( しんぷざん )の肩から、青白い妖星が、谷間を覗き込んでまたたいている。 宵のうちは、ぽちりと赤く、 蟒 ( うわばみ )の眼かと見えていた山荘の灯も、いつか滅して物凄く夜更けて行くうち、何者か? 館 ( やかた )の 築地 ( ついじ )の破れから、ひらりと外へ跳り越えた二つの人影。 と見た番人が、 鋲門 ( びょうもん )の袖からばらばらと駈け出して、むんずと一人に組みつきながら、 「だ、だ、誰か来いッ」 と絶叫した。 「えい邪魔なッ」 と男の影は身を 捻 ( ねじ )って、どたんと前へ投げつけたが、番人は屈せず 刎 ( は )ね起きて、 「野郎ッ」 と再び飛びかかって行こうとすると、横からすッと寄った女の影が、逆手に持った短刀を、音もさせずに 一閃 ( ひとひら )めき、 「やかましいよ!」 「わアッ」 と番人は虚空をつかんで ( どう )とたおれた。 彼は、面部の傷がいよいよ悩むので、外科医の療治を受けに、昨日山を降りたのである。 それと大月玄蕃は、この山中も面白くないと見切りをつけたか、雨龍に 暇 ( いとま )を告げて前日ここを立ち去っていた。 留守を預かった洞門の権右衛門は前から、雨龍の妾お延に横恋慕していたので、 今宵 ( こよい )をまたとない機会と 北叟笑 ( ほくそえ )んで、夜更けてからお延のいる部屋の橋廊下を越えて忍び込んだ。 すると、お延の部屋の薄暗がりから、両刀をぶッ違えに差した黒い影が、のそりと出て来て権右衛門とはたと行き会った。 そして、 「何者だ」 と向うから激しく咎めてきた。 「てめえこそ何だッ。 何しにうろついていやがるんだ」 権右衛門はそれに 乗 ( の )しかかって咎め返した。 「やッ、貴様は洞門じゃないか」 権右衛門はハッと思って透かして見ると、雨龍の 甥 ( おい )で非常な腕ききなところから、投げ槍小六と異名されている郷士の一人であった。 「小六じゃねえか、留守を預かっている洞門の権右衛門が見廻って歩くに不思議があるか」 「ふふん、そう云えば聞こえがよいが、貴様は伯父の留守を幸いに、お延を口説きに忍んで来たのであろう」 「何だと、そりゃてめえのことだろう」 洞門は小六がお延に云い寄ったことのある事実を知っていた。 小六は洞門の横恋慕を察知していた。 二人は怖ろしい嫉妬の燃え上がった眼を睨み合せた。 「お延はこの部屋にはいないぞ、洞門、貴様どこかへ隠したな」 「何? いないことがあるものか。 詰らねえ嘘を云うと、てめえの腹の底が知れるぞ」 「 白 ( しら )を切るな。 どこへ隠した」 「何ッ」 と権右衛門は、小六の血相が真剣なので、部屋の中へ入ってみると、お延の姿はどこにも見えない。 そればかりか、取り散らかした小道具の中の目ぼしい物はみんな失くなっている。 「やい小六、てめえお延を逃がしたな」 「何を云うのだ。 こうなりゃ拙者の本心も聞かしてやるが、伯父の留守を幸いに、お延を連れてこの山を逃げ出すつもりに違いなかったが、いくら探しても影も形も見えないのだ。 貴様が隠したに相違ない、お延を拙者に渡してしまえ」 「飛んでもねえことを 吐 ( ぬ )かすな、留守を預かる権右衛門だ。 「洞門ッ、命は貰った!」 ビュッと銀蛇の光りが、小六の腰からほとばしった。 「ふざけるなッ」 と権右衛門も脇差を抜き合せたが、腕は段違い、たちまちしどろに斬り込まれて、ばたばたばたと逃げだした。 「意気地なしめッ」 追いかかった小六が後ろから飛び斬りにさっと背中へ割りつけた一刀。 「もうこうなれば愚図愚図してはおれぬわい」 小六は血刀を納めて、伯父の雨龍太郎の部屋へ忍び込んで、有金を胴巻に捻じこみ、この山荘から逐電する 心算 ( つもり )で 跫音 ( あしおと )を忍ばせてそこへ出て来ると、にわかに 四辺 ( あたり )に物騒がしい声が沸き立った。 「さてはもう感付いたか、破れかぶれだ。 斬りまくって逃げ延びよう」 と彼は胆太く構えていると、どたどたと飛んで来た手下の一人が、 「おお小六さん、大変でがす」 と云ったのが小六には 他人 ( ひと )事のように聞こえた。 彼は空とぼけて、 「何だ。 どうしたのだ」 と白々しく云った。 「逃げやした。 逃げっちゃいました」 「誰がだ、はっきりと云え」 「座敷牢へ抛り込んでおいた若い侍と、姐御らしゅうがす。 築地の破れを跳び越えて、間道伝いを一散に落ちて行ったんでがす」 小六は意外な恋仇に出し抜かれて、聞くより嫉妬に 煽 ( あお )られた 残虐 ( ざんぎゃく )な相を現わし、 「よしッ、拙者が追いかけて仕止めてやる」 とぶるぶる身をふるわせながら、更に、 「貴様達は人数のある限り、 松明 ( たいまつ )を振って、谷から裏山を隈なく探せッ」 といいつけた。 そして自分は異名をとった手馴れの投げ槍、気合をかけて手から放せばつばさを生じた飛龍の如く敵の胸元を射貫くという、四尺九寸の 樫柄 ( かしえ )を小脇に引っ抱えて、二人の後を血眼で追いかけたのであった。 「まああれをご覧なさいよ、何て馬鹿馬鹿しい騒ぎをしてるんだろうね……」 とお延は新九郎を顧みて笑った。 二人は今、 九十九折 ( つづらおり )の岩角に腰かけていた。 ここは山荘の間道から 外 ( そ )れた、但馬街道の 切所 ( せっしょ )へかかる峠の中腹であった。 その高い所から見渡すと、遥か 蘭谷 ( あららぎだに )から神斧山の峰谷々の闇を、点々と走る 松明 ( たいまつ )の光りが、狐火のように見え隠れするのであった。 そして側に黙然としている、新九郎の膝へ手を乗せて、 「お前さん、くたびれたのかえ」 とこの 暗澹 ( くらやみ )な山中で見てもなお飽くまで艶な顔を覗かせた。 「いや……」 と新九郎は 冠 ( かぶ )りを振ったきり、お延の 媚 ( こび )に顔を 反向 ( そむ )けた。 彼はただ山荘を遁れる手段に、お延に手をとられてここまで来たが、これから先、この妖婦の手から逃げることは、鉄壁の山荘を越えるより難かしい気がした。 「そうじゃ、怪我をしたのだから触ってくれるな」 と彼は女の言葉を幸いに嘘を云った。 ねえ、それまで辛抱できるでしょう……」 とお延は新九郎が痛いと云った足のところを 擦 ( さす )り始めた。 そうだ、早く夜が明ければいい! 新九郎も心のうちでそう願った。 二人はしばらく無言になった。 果てしもない 渺茫 ( びょうぼう )の闇へ瞳をやって、朝の光りを待ちこがれていた。 すると、いつか遠く低く、丹波連峰の黒い影が、明るみかけて来た空へ、波状にうねった山脈線だけを描き出してきた。 「おッ……あの赤い火! 日の出かと思ったらそうじゃないよ……」 とお延はその時不意に、身を乗り出して叫んだ。 新九郎もはッとして女の指先へ眼をやってみると、成程、はるか暁闇の空を掠めて 重畳 ( ちょうじょう )の山間から、一抹の赤い光りがぽッと立ち昇っているのだ。 それは太陽の君臨する 前触 ( さきぶ )れかとも見えたが、たちまち団々たる黒煙の柱が空へ巻き上がってきたので、あきらかにそうでないのが知れた。 「火事ではないか」 「いい気味! 山荘が焼けているのだよ……」 お延はニタリと凄い微笑を 泛 ( う )かめた。 新九郎もさては後の混乱に 紛 ( まぎ )れて、手下の者が火を 失 ( しっ )したのであろうと思い合せ、あの火焔の底に白骨とされる戸川志摩の死が無意味でなくなったのを欣んだ。 そしてひそかに彼の冥福を 念誦 ( ねんず )していた。 「もう行きましょうかね。 足許も見えて来たようだから……」 とお延は新九郎の手をとった。 「では出かけるかの」 「足が 痛 ( や )めるでしょうけれど、里へ行けば駕があるから急がずに歩きましょうよ」 お延は努めて新九郎の機嫌をとっていたが、新九郎にはかえってそれが耐えられない苦痛だった。 左は谷、右は絶壁の下り道を、お延は新九郎の手を寸時も離さなかったが、とある曲り角へ来た時、彼は 恟 ( ぎょ )ッと 立 ( た )ち 竦 ( すく )んで、 「あッいけない!」 と二足三足後ろへ押し戻した。 「どこか、隠れる所がないかしら? 隠れ場所はないかしら……」 お延の愕きは唯事ではなかった。 新九郎は何事が起ったのか、しばらくわからなかったが、やがて五、六 間 ( けん )ばかり前へ、麓から急ぎ足に上って来た黒頭巾の男を見た。 九十九折 ( つづらおり )の一筋道、逃げる横道も隠れる場所もないので、お延が 狼狽 ( うろた )えている間に、黒頭巾の男は息せわしく 摺 ( す )れ違うまで側へ来たが、二人の姿を見ると、先も突ッ立ってしまった。 「やッ、わりゃあお延じゃないか!」 くわっと頭巾のうちから、 炬 ( かがり )の如き眼をみひらいた男は、雨龍太郎なのであった。 彼は 昨夜 ( ゆうべ )麓の 刈石 ( かるいし )で泊っていたが山荘の火の手を見て、すわ一大事と駈け上がって来たのである。 「うーむ、さてはその青二才とぐるになって、山へ火をつけて逃げのびて来たのだ。 己れ恩知らずめッ、ここで会ったが天命だ。 お延は牡丹色の返り血を浴びたので、自分が斬られたと 錯覚 ( さっかく )したのか、ふらふらと岩角の上へ横倒れになってしまった。 「もうこうなればお互いに身の思案をきめなくっちゃあならぬ。 かねて二人で話したこともある通り、江戸表へでも高飛びして 暢気 ( のんき )に暮らすとしようじゃないか、どうだお延」 「小六さん、私ゃあ少し考えが違うんだよ」 「そんな寝言を聞く小六じゃない。 貴様は若い侍と 乙 ( おつ )な 気味 ( きあじ )になったそうだが、この小六がなければ知らぬこと、無分別な浮気沙汰をいつまでもしていると、しまいには身の破滅だぞよ」 「いいよ! 構わないでおくれよ! どうせ 茨 ( ばら )がきお延と云われるほど、持ちくずした私の身だもの、好き放題なことをして、野たれ死にするのは本望なんだよ」 「馬鹿をぬかせ、まだお互いに先のある身だ。 悪いことは云わぬから、拙者と江戸へ行こうじゃないか、どんな贅沢、綺羅な暮しも都へゆけば仕たい三昧というものだ」 「嫌だよ。 行くなら一人で行っておくれよ」 「何だと、じゃあこれほど云っても?」 「お前が邪魔になったんだよ!」 とお延は 妲己 ( だっき )の本性を現わして、 扱帯 ( しごき )の下から引き抜いた 匕首 ( あいくち )を逆手に、さっと小六に斬りつけてきた。 「 洒落 ( しゃれ )た真似をさらすなッ」 と突きかかった閃めきを、小六は軽く片身外しにかわしておいてぽんとお延の匕首を叩き落して、自分の手に持ちかえてしまった。 「ええ口惜しいねえ! 離しておくれってばッ」 「駄目な事だ。 いくらもがいてもこの小六が逃がすものか。 「そう来なくてはならぬ筈だ。 じゃお延、ここらでまごまごしちゃあいられない。 せめて 若狭路 ( わかさじ )へでも入ってからゆっくりしよう」 と小六は強い力で、お延の手を曳いたまま歩きかけたが、さすがにお延は新九郎に後ろ髪をひかれるかして、小六の 腕 ( かいな )から 身 ( み )を 反 ( そ )らして振り顧った。 まだあの若侍に未練を残しているな、いッそその迷いの種を、目の前で 打 ( ぶ )ッ斬ってやるから見ているがいい」 と忘れかけていた残忍な嫉妬の眼は、再び 夜叉 ( やしゃ )のように燃えて、そこの岩蔭から、潜んでいた新九郎の姿を見出してずるずると金剛力で引き摺り出した。 新九郎は南無三と、 渾力 ( こんりき )をこめて振りほどこうとしたが、小六の力は 盤石 ( ばんじゃく )の如く彼に動きも取らせなかった。 「お延、貴様の好いたいい男もこうなっては、 態 ( ざま )があるまい。 脳天から鼻筋かけて、真ッ二つにして見せるから小六の腕を見物しろ!」 と力まかせに新九郎の 衿頸 ( えりくび )を突ッ放しておいて、ぽんと一歩 退 ( さが )った小六が、腰を 捻 ( ひね )った途端に抜きかざした大刀、あわやと見る間に新九郎目がけて真ッ向うに斬り下げて来た。 「ええッ己れごときに」 と新九郎も必死、必死。 一人の人間の真の偉力は、死と生の間一髪、地獄の 千仭 ( せんじん )へ半身墜ちかけた時、猛然と奮い起ってくるものだ。 彼は真っ向から来た小六の白刃のもとへ身を衝いて行きながら、腰の一刀を抜きざま横一文字に 薙 ( な )ぎ払って行った。 相討ち! それは武士の本望だという気だ。 「あッ畜生」 と小六はその大胆な横薙ぎに、思わずまた一歩 退 ( ひ )いてしまった。 新九郎は無二無三に、彼の撃ち込む 隙間 ( すき )もなく斬って斬って斬り捲くった。 しかしそれは何の技巧のない、術も息も欠けた血気の精力に過ぎないから、見る見る心臓が破裂するばかり息づまって来たのは是非もない。 鞍馬八流の剣法も、投げ槍に劣らぬ手練の小六は、早くも新九郎の未熟を見てとり、ほどよく受けつかわしつしておいて、ここぞと思う時になって、天魔鬼神も遁がさぬ八流の極意、滝おとしの必殺剣を疾風の迅さでエエッとばかり斬り下げて来た。 「む、ざまを見ろ」 と小六は駈け寄って、小気味よげに谷底を覗いた。 松、 柏 ( かしわ )、雑木の枝が、縦横に交じえている下には、真ッ青な渓流の水が透いて見える。 しかしその水までは何百尺あるかほとんど計り知れない千仭の谷底であった。 「野郎ッ、止めを刺してくれる!」 残忍飽くを知らない小六は、雨龍太郎の死骸に突き立っていた槍を引き抜いて来て、 崕 ( がけ )に臨んだ岩角に片足をかけた。 「むッ」 と小六は口一文字に結んで、生血の 滴 ( したた )る四尺九寸の投げ槍の柄を、 りゅうと右の 眦 ( まなじり )の上まで石突き高に引きしごいて、穂先下りに目の下の新九郎の影へ狙いを定めた。 小六の 肱 ( ひじ )に取り 縋 ( すが )って哀願の声をふりしぼった。 「後生だから……罪もない人じゃあないか」 「ええ 退 ( ど )け、邪魔だ!」 と、お延が悲しむほど、彼の嫉妬は 募 ( つの )るばかりだ。 々 ( とうとう )と流れる渓流に 脛 ( すね )を洗われながら、一人の若者が 鉤鈎 ( かぎばり )をつけた三尺ばかりの棒を巧みに 操 ( あやつ )ってぴらりぴらりと 閃 ( ひら )めく 山女 ( やまめ )を引ッかけては、見る見る間に 魚籠 ( びく )を 満 ( みた )していた。 彼は余念がない。 それは血塗られた短か 柄 ( え )の槍ではないか。 「何だーッ?」 と若者は仰天して流れから飛び上がった。 その途端に、またも側の 河原蓬 ( かわらよもぎ )の中へどさりと上から落ちて来たものがあった。 「ややッこりゃお侍様どうなさりました」 若者はすぐ抱き起こして流れの水をすくって呑ませた。 新九郎は落着いてふとわが身を省りみると、天の加護と云おうか、さしたる怪我もしていなかった。 してみると、断崖から小六が槍を投げ飛ばした刹那新九郎も運を天に任せて 藤蔓 ( ふじづる )から身を放したのが、この奇蹟となったのであろう。 「ここはどこでござろう?」 「よく何ともござりませんでしたな。 この渓流の出るところが 保津川 ( ほづがわ )の上流でござります。 わしはこれから一里半ばかり下の深谷村の 儀助 ( ぎすけ )というものでござりますが、まあわしの 家 ( ところ )で少しお 憩 ( やす )みなさるがようがすだ」 と儀助は新九郎の無事であるのを、むしろ怪しんでいるくらいであった。 「ではお言葉に甘えて、ご厄介になりたいが」 「ええご遠慮はございません。 わしも飛んだ命拾いをしたようなものでがす」 と儀助は 魚籠 ( びく )を肩にかけて案内して行った。 新九郎もさて立ち上がってみると、さすがに骨と肉とが離れるような 疼痛 ( とうつう )をどこともなく覚えるのだった。 「儀助殿、たいそう 竹刀 ( しない )の音が聞こえるが、この近所に道場でもござるのか」 新九郎は今日で三晩親切なこの家の世話になっていた。 もう体もしっかりしたので、今朝は早く出立する 心算 ( つもり )で起きぬけたところであった。 「へへへへ何ね、道場というほどでもございませんが、剣術好きの村の若い衆が寄って、叩き合いをやってるのでがす」 「それはなかなか 熾 ( さか )んなことじゃの、して誰か師範をする武芸者があるのか」 「へい、村のご浪人で高島十太夫という関口流の先生が手を取って教えています。 如何でございます、お武家さまも一つご見物なすっちゃあ」 「面白かろう、ぜひ案内を頼む」 と新九郎は儀助に 従 ( つ )いて来てみると、かなりの空地に砂場を作って、えい、や、とうの掛け声さかんに竹刀木剣思い思いに闘わせていた。 するとその中でしきりに、打て、踏み込め、 外 ( はず )せと大声で指揮していた高島十太夫という浪人が新九郎の姿を見てつかつか歩み寄って、 「 卒爾 ( そつじ )でござるが、ご修行者とお見受けしてお願い申す、かく自流ばかりでは一同上達も致しませぬ。 ご無心ながら皆の者へ一手ずつのご指南を仰ぎたいものでござる」 という言葉。 「これは、なかなか 他人 ( ひと )様へ、指南などおつけするほどの腕前ではござらぬ。 平にご用捨を」 と新九郎は率直に断ったが、十太夫は謙遜とばかりとって容易にきき入れない。 すると、側にいた儀助が、 「じゃ、お侍様の代りに、わしが一つ出ますべえ」 と云った。 十太夫は苦笑いして、 「そちは絶えて稽古に来たこともない男だが、多少は覚えがあるか」 と のっけから 蔑 ( みくだ )していた。 「剣術はだめでがすが、槍なら行けます」 「馬鹿を申せ、刀槍は元これ一道より出たるものじゃ、神道流剣法より分派して樫原流の槍術となり本間派の管槍もそれから出ている。 なかんずく宝蔵院の僧胤栄は上泉信綱の刀法の妙と、大膳大夫盛忠の長槍の心をあわせて宝蔵院流を 編出 ( あみだ )したほどである。 何で槍術の心得なき奴が槍など使い得るものではない」 「さあそんな小難かしい講釈は分らねえが、とにかく槍ならやれますだ。 造作はねえ」 「はて 文盲 ( もんもう )の野人は度しがたい者だ。 よしそれほど剛情を張るなら試してやる。 あ、これ、裏坂の仁作、この儀助を一つ 懲 ( こら )しめてやれ」 「ようがす。 さ儀助来い」 と骨たくましい若者が、 「 竹刀 ( しない )では手ぬるい、木剣で行くぞ」 と構える。 「よいとも、 汝 ( われ )が持つなら何でも同じだ」 と儀助は渡された 稽古 ( たんぽ )槍を突きつけたが、これはいかに修行の浅い新九郎の眼にも滑稽なほど、槍の構えにはなっていなかった。 ところが、やッと儀助が一声かけると、槍のたんぽは電光の迅さで、どんと仁作の胸元を突いてしまった。 「参った」 と大上段に構えたところはよかったが、一太刀も振らないうちに引き退る。 次の者も次に出る者も、儀助の槍は不思議に一突きで敵を倒した。 それはまったく槍術の心得も剣術の けの字も知らぬ構えであったが、とにかく、庄屋の息子から小作の若者まで総なめにしてしまった鋭鋒は当るべからずである。 「ああ錬磨の力は怖ろしいものだ。 儀助の如き者ですら自然の熟練を経ればあの妙を得るものか……」 と黙然と感嘆していたのは新九郎であった。 新九郎は儀助の一本突きが、職業の 岩魚 ( いわな )や 鮠 ( はや )を突くあの息でやっているのを観破したからである。 彼は大いに得るところがあった。 「儀助ッ、いざこの上は拙者が対手だ。 少し烈しく参るから左様心得ろ」 と業を煮やした高島十太夫が手馴れの木剣を りゅうりゅうと振り試して云い放った。 「やあ今度は先生でがすか、先生まで負かしちゃあ済まねえでがす」 「己れ馬鹿を申せ、汝等如き田夫に 敗 ( おく )れをとって武士と云われるか、さあ来い」 「じゃあ行きますぜ」 と儀助は鳥刺しが 竿 ( さお )を持つような型で、大上段にふりかぶった高島十太夫の眉間を狙って 稽古 ( たんぽ )槍をつけた。 「エーイッ」 と十太夫は 威嚇 ( いかく )の気合いを放った。 「くそッ、この 鮠 ( はや )めッ」 十太夫は愕いた。 人を鮠だと思っている。 しかし、儀助にとっては、人間を鮠だと見るのが槍の極意だ。 いまや烈火の如く 憤 ( いきどお )った十太夫が、木剣も 挫 ( くじ )けろと打ち込んできた途端、 「畜生ッ鮠め」 と突き出した儀助の穂先が、狙い 違 ( たが )わず十太夫の額へ、ポンと当ったので、あッと叫んで十太夫は仰向けにどんと倒れた。 「どうでがす、先生」 「ま、参った」 と彼は苦々しい顔で袴の土を払っている。 それを見た新九郎は、まったく感に 耐 ( た )えてしまった。 かかる 技 ( わざ )に立ちむかっておくのも、いい修行となるであろうと思った。 「あいや儀助殿、しばらく待ってくれい」 「やあお侍様、お恥かしいことでがした」 「いやいや、驚き入った腕前じゃ。 一つ拙者に指南してくれぬか、立合って見てくれい」 「では一つやって見ますべえ」 「断っておくが、拙者はまだ竹刀も木剣も持ったことがないゆえ作法は知らぬぞ」 「へへへそんな嘘を云っても油断はしねえ」 「いや、まったくじゃ」 と新九郎は木剣を持って進んだ。 事実、新九郎自身が告白した通り、彼は生れて初めて木剣に手を触れたのである。 故郷を出奔してから、思わぬ遭難で真剣の滅茶振りはやったが、尋常に木剣をとって、剣道らしい法式を試みるのは今日が実に処女試合であるのだ。 鮠突きの槍術と、初めて木剣を持った新九郎との処女試合は、これこそ奇観でなければならぬ。 「エーイッ」 と新九郎はまず 臍下丹田 ( せいかたんでん )から気合をしぼって、木剣を片手青眼に持った。 と云っても、具眼の者から見たら、すこぶる怪しいというより乱暴な構えであったに過ぎない。 新九郎も、最初に試みた気合が、自身でも何となく空虚な、響きのない気がしてならなかったので、更にえいッ、えいッと二、三つづけて汗ばむまでふりしぼった上、片手の木剣を伸びるだけ伸ばしてじっとその 尖 ( さき )へ眼をつけた。 儀助は 稽古 ( たんぽ )槍の石突を右の後ろへ深くしごいて、左は軽く、本物の槍にすれば千段の先辺りまで穂短かに持ち、一足 退 ( さが )って新九郎の 鳩尾 ( みずおち )を狙ったが、青眼の木剣が伸びてくるので、だんだんに穂を上げて真眉間へぴたりとつけた。 同時に新九郎も、木剣の 尖 ( さき )をジリジリ上へ上げて行った。 彼は儀助の早突きの微妙をすっかり呑みこんでいるので、最初の一本突きさえ外せば、かならず勝てるという自信を持っていた。 「やッ」 と儀助の小手が動いた。 新九郎はハッと 柄手 ( つかて )を引き締めたが、儀助は大事を取って突いて来なかった。 しかしその緊張で新九郎の 体 ( たい )は、おのずから片身向いの斜めに変った。 この 体 ( たい )の構えは、片手青眼の木剣とぴッたり合致して、真の刀法にかなっていた。 新九郎自得の妙通である。 試合の 息競 ( いきぜ )りが少しく長いので、周囲の者も手に汗を握り出した。 すると、狙い澄ました儀助の稽古槍は、二度目に声も音もなく、目にも止まらぬ 迅 ( はや )さでさっと新九郎の顔へ飛んで来たなと見えた時、ひらりと身を沈ませた新九郎が、一心こめて、ポンと木剣を上へ 刎 ( は )ねた。 「しまった」 と儀助は弾みを喰った槍穂を下げて、しごき返して二本突きを構えかけた時、とんと 踵 ( かかと )を蹴って手元へ飛び込んだ新九郎が片手伸ばしにふり下した木剣が、見事に儀助の肩口へピシリと極った。 「参った。 ああ苦しかった!」 と儀助は火のような息を吐いて、汗みどろな胸へ風を入れながら、 「旦那様は鮠じゃあない。 偉いもんでがす」 と真から驚嘆していた。 新九郎は予測しなかった勝ちがむしろ自身で不思議に思えた。 と、そこへ怖る怖る出て来た高島十太夫は、最前と打って変った 慇懃 ( いんぎん )さで挨拶に来た。 「これは驚き入った唯今のご手練、如何なるご高名の方でござるか、願わくばお明しが願いたい。 拙者は高島十太夫と申す者でござる」 「申し遅れました。 元より拙者とても皆目の盲剣術、唯今のは怪我勝ちでもござろうなれど、ご挨拶でござれば名乗り申す。 拙者は丹波福知山の浪人、春日新九郎と申しまする」 「さては福知山の? ……」 と聞くより十太夫は飛び 退 ( の )いてはっと平伏した。 新九郎はくすぐられるようなおかしさを噛み殺していた。 「ではかねてご高名なる春日重蔵殿のご舎弟ではござらぬか。 拙者も数年前にしばらく柳端のご道場にて重蔵先生のご指導受けた者でござる」 「ほほほう、それは不思議、兄重蔵をご存じの方でござったか」 「いかにも。 して若先生は、これよりご城下へのお戻りの途次でもござりまするか」 「いやいや、拙者はお恥かしけれど、生来兄重蔵とは打って変って柔弱者でござったが、ちと心魂に徹することござって、 翻然 ( ほんぜん )と心を改め、過ぐる頃より武術修行を思い立ち、これより日本国中のあらゆる名人達人を訪ずれて、教えを乞わんため家を出たばかりでござる」 「おおさてはお兄上重蔵殿の、汚名をそそぐご心底と、十太夫ご推察申した」 「ではそこもとも、あの 経緯 ( いきさつ )はご承知であったか」 「武芸者として、桔梗河原の大試合を知らぬ者がござろうか。 拙者もその日の試合は拝見致した」 「それではお包みするまでもない。 ご推察通り如何にもして、かの 鐘巻 ( かねまき )自斎を一度なりと打ち込まんものと、かくは 流浪 ( るろう )の身の上でござる」 「あっぱれご苦心のお志、十太夫お見上げ申した。 実はその鐘巻自斎は、ちょうど試合過ぎて十日ばかり後たしかに当地を通り過ぎました」 「えッ、して 何処 ( いずこ )へ向って発足致したでござろう」 「この但馬街道を東にとり、京都へ向ったようでござるが、かの鐘巻自斎と申すは、海内でも屈指の名剣客者、余程の腕前ならでは、立ちむかいがたき強敵ゆえ、失礼ながら若先生にも、焦らずに充分のご修行が専一かと心得まする」 「ご芳志忝けのう存ずる。 とにかく拙者も一度は京地へ参り、洛内の名人を尋ねて修行の心底でござるが、これより京都へ参る途中において、尋ぬべき達人の門戸はござりますまいか」 「左様……京坂江戸の三都には、音に聞えた一流の名手も星の如くでござるが、京都までの途中としては……」 と十太夫はしばらく小首を傾げていたが、思い出したように、 「おおただ一名、怖るべき達人がござる」 と はたと小膝を叩いたのであった。 高島十太夫が新九郎に語り出した稀代の人物というのは、この山村の渓流を下ること九里ばかりの 園部 ( そのべ )の町に、すばらしい道場を張っている 大円房覚明 ( だいえんぼうかくめい )という者のことであった。 彼は京都聖護院の 御内 ( みうち )の修験者であるから、元より武人ではないが、また世間にありふれた 凡庸 ( ぼんよう )な山伏とは異なって、羽黒山に籠っては七年の行を遂げ、妙見山に入っては十年の間、 切磋琢磨 ( せっさたくま )の工夫を積んで、金剛杖と戒刀をもって天下無敵の玄妙を自得したのである。 それを名づけて 大円鏡智流 ( だいえんきょうちりゅう )と呼び、妙見を下山の後、近畿中国の 隈 ( くま )まで巡歴して、到る所の剣道家の道場を踏み破り、みずから 役 ( えん )の 小角 ( しょうかく )の再来だと称している。 それ程であるから、京地の武芸者を初め諸国を渡る武芸修行も、大円房の道場は鬼門にして、たれ訪れる者もないという話であった。 新九郎は聞き終って、寸時も早くその大円房とやらの腕前が見たいと思った。 「これはよいお話を承わった。 どうせ京へ上る足ついで、是非その道場を訪れて見ましょうわい」 「しかし、随分ともご用意あって参らぬと、尋常の武芸者と違って、怖ろしい 荒業 ( あらわざ )を致すという噂でござりますぞ」 と十太夫は特に注意した。 「いや、左様な変った武術者に会うも、修行の一つ、必ずご懸念下さるまい……では拙者はこれにて発足致す。 儀助殿、十太夫殿、またご縁もあらばお目にかかり申す」 「随分ご出精をお祈り致しまする」 「じゃ旦那様、これでお別れでがすか……」 と儀助は物淋しそうであった。 一同は春日重蔵の舎弟の若先生と聞いて、俄かに敬意を表して、高島十太夫と儀助を先頭にして、 村端 ( むらはず )れまで新九郎の壮図を見送って行った。 青い 藺笠 ( いがさ )に夏の陽を除けて、春日新九郎が園部の町に入ったのは、その日も日暮れ近かったが、彼は疲れも 厭 ( いと )わずすぐその足で、修験者覚明の道場を尋ねて来た。 来て見ると、彼はまずその広大な構えに驚かされた。 正面袖門つきの入口には 欅 ( けやき )尺二の板に墨黒々と「天下無敵大円鏡智流刀杖指南、 役 ( えん )の 優婆塞 ( うばそく ) 聖護院印可 ( しょうごいんのいんか ) 覚明 ( かくめい )」とあり、その傍には、(命惜しき者は試合望むべからず)と書き流されてある。 一方道場と覚しき一棟は、腰瓦に白壁の 塗籠造 ( ぬりごめづく )りに武者窓が切ってあった。 新九郎はその前へ来て、ちょっと 立 ( た )ち 竦 ( すく )んでしまった。 と云って、その構えに 怯 ( ひる )んだ訳では更々ない。 彼は武芸者が他流試合を求める場合の作法や挨拶を考え浮かべていたのである。 「どなたでござる?」 と玄関へ出た取次は、修験の弟子かと見るに尋常の小侍であった。 「ああご修行の武芸者でござるか」 と小侍は新九郎の 風体 ( ふうてい )を見て、扱い馴れた口をきく。 「いかにも斯道の先生を尋ねて廻国致す者でござるが、当家のご高名を承って、一手のご指南に預かりたく推参致してござる。 宜しくお 執次 ( とりつぎ )のほど願わしゅう存じまする」 場馴れない新九郎は、廻りくどいほど丁寧に申し入れた。 小侍は奥から取って返して、 「お通り下さい。 ただし唯今師のご房には、奥にて 勤行 ( ごんぎょう )の折でござるゆえ、暫時これにてお控え下さい」 と待たされた所は道場を隔てた控え所、そこでやや小半刻も待っていると、 「他流試合を望まれた武芸者はそこもとか」 と声高に云いながらそれへ出て来た者があった。 「いかにも拙者でござりまする」 と新九郎は ふと見上げると、額に 兜巾 ( ときん )をつけ柿色の 篠懸 ( すずかけ )を身にまとった、これこそ本物の修験者であった。 「は、ご道場の掟と申しますると?」 「それ知らぬとは駈け出しのご修行じゃな、後に 臍 ( ほぞ )を噛むが気の毒ゆえ、さらば一応申し聞かせよう。 そもそも、武家に武芸十八番の約束ある如く、当道場の 戒刀金剛杖 ( かいとうこんごうづえ )にも流法約式がきまっている。 まず試合を受ける者が心得置くべきことは、当家四天王の者を打ち破らざるうちは、大先生のお手は下さぬこと、得物は金剛杖か 栴檀刀 ( せんだんとう )をもってお相手する。 ただし武芸者方は各 の得意とする、槍なり木剣なり 薙刀 ( なぎなた )なり何でもご自由でござる。 その上とくとお断り申しておくのは当流はお武家方の板の間泳ぎのなまくら剣術と事違い、すこぶる荒業でござるゆえ、たとえ如何なる怪我を致すも、試合の上なら用捨はござらぬ。 まずざッと右の通りでござるゆえ、片輪になるがお覚悟なら、これより道場へ案内申すが如何でござる」 と人もなげな 申条 ( もうしじょう )に、新九郎は内心むッとしたが、いまだ初心のこととどこまでも下手に、 「委細承知致しました。 何分ご指導のほどを……」 と丁寧に云うと、 「ではこう 尾 ( つ )いておいでなさい」 とやっと道場へ案内される。 そこにもやはり一人の門弟も試合っていない。 ただ見る 檜 ( ひのき )八間四面の磨き抜いた道場に、槍、木剣、薙刀が 厳 ( いかめ )しく掛け並べてある外に、他の道場ではちょっと見馴れない金剛杖と 無反 ( むぞり )の戒刀木太刀が、二段ばかりずらりと掛けてあるのが物々しい。 とこうする間に、正面の席の左右へ銀燭が据え置かれると、叱ッ叱ッという 警蹕 ( けいひつ )の声と共に、開け放たれた襖の奥からゾロゾロと六、七名の柿色の修験者が現われた。 各 両手をついて 寂 ( しん )としていると、悠々然と上座の 褥 ( しとね )へついて威風 四辺 ( あたり )を払った人物は、 赭顔 ( あからがお )の円頂に 兜巾 ( ときん )を頂き、 紫金襴 ( しきんらん )の 篠懸 ( すずかけ )に 白絖 ( しろぬめ )の大口を 穿 ( うが )って、銀造りの戒刀を横たえたまま、どっかと 胡坐 ( こざ )して、 炬 ( かがり )の如き眼光鋭く、じろりと新九郎を 睥睨 ( へいげい )した様子、これなん大円房覚明と見えた。 「ああお訪ね下された修行の方は貴殿でござるか、身が聖護院の印可をうけた、当道場の 主 ( あるじ )覚明でござる」 と大円房は尊大に言葉を下した。 「これは初めて御意を得申す。 拙者は丹波浪人の春日新九郎と申す若年者、願わくば一手ご指南に預かりとう存ずる」 と新九郎は、初めての他流試合に臨んでこの強敵に会いながら、 自若 ( じじゃく )とした態度を保った。 「おお当道場の掟は、最前門人よりお聞かせ申したに依って充分お含みでござろうほどに、お望みに依って大円鏡智流の金剛杖をもってお 対手 ( あいて )をさせん。 やあやあ 阿念 ( あねん )、御身一本春日殿と手合せ致して見い」 と 梵鐘 ( ぼんしょう )の如き声で末座の一人に ( あご )を向けると、はッと答えて 潔 ( いさぎよ )くそれへ出た一人の修験の門輩、柿色の袖を 捲 ( まく )して一礼をなし、 「春日殿とやら、大先生のお言葉によってお対手仕る。 いざご用意召されい」 と云って自分は手頃な金剛杖をとった。 新九郎も手早く用意の襷鉢巻の身仕度終えて、二尺七寸の 蛤刃 ( はまぐりば )の木剣を 択 ( えら )び、型の如く道場の中央へ進んで 一揖 ( いちゆう )なし、パッと双方に離れるが早いか、阿念と呼ばれた山伏は、金剛杖を三分に握り占めて横身に構え、春日新九郎は一歩 退 ( ひ )いて、片手流しに持った水月の斜め青眼、これぞ 鮠突 ( はやつ )き儀助の奇手を破った、新九郎自然自得の妙構えである。 「エエエッ」 と阿念は 双 ( もろ )に開いた足を、ジリジリと詰めて身を伸ばして来た。 新九郎はこの山伏が棒振り芸、何事かあらんと 心気 ( しんき )を澄ませて片手の木剣に一念こめて、飛鳥の如く手元へ跳り込んだ途端、ピュッと刎ね返って来た金剛杖の陰の横すくい、ぽんと払えば続いて陽に真ッ向う下ろし、はッと身を沈めてガラリと横へ打ち捨てると、弾みを喰った阿念の身がよろりとなった。 得たり、 「ヤッ」 と一声鋭く、小手を撃った新九郎の木剣に、ひどい勢いで杖は板敷へ叩き落された。 「参った」 と阿念はすごすごと退いた。 大円房の面には苦々しい色が隠されなかった。 「はッ」 と即座に現われた次の相手は、七年八年の行法は修したかと思われる眼光鋭い大男、道場の板面に向って、ややしばらく りゅうりゅうと金剛杖を振り馴らして、どっしどっしと新九郎の前へ進んで来た。 並んで立つと新九郎の方が首だけ 丈 ( たけ )が短い。 新九郎も充分に大事を取って、ヤッと 裂帛 ( れっぱく )の息を打ち合せて左右に跳び別れた。 新九郎は相変らず片手青眼の一本、吉祥房は金剛杖の端を左手に押さえ、右手は後ろへ長く伸ばして、片膝折りに新九郎の全身へ眼を配って来た。 「おおッ」 と吠えるような気合いと共に、吉祥房の右手がすッと端へ 辷 ( すべ )ると同時に、四尺五寸の杖は九尺の大輪を描いて、ブーンと風を切って飛んで来た。 その毛ほどの先に、新九郎は逸早く吉祥房の胸元へ、 「エーッ」 と一文字に突いて行ったので、杖は空を打って板敷きへピシリと刎ね返った。 「残念!」 と吉祥房は、新九郎の突きをさっと体斜めにかわして、その隙に手繰り戻した金剛杖を、 兜巾 ( ときん )の頂きへ振りかぶって、 「微塵になれッ」 とばかり打ち落したやつ、ガキリ横にかざした木太刀で受けた新九郎、右側へ薙ぎ捨てて、とんと一足踏みこんだが早いか、例の縦横無尽の筆法で息も吐かせずに打ち捲くした。 この勢いにさすがの吉祥房もジリジリ下がりに追い詰められ、あわや道場の羽目板を背負った刹那、最後の渾力こめて打ち込んだ一刀、あッと叫んだかと思うと金剛杖の先をぽんと突いて、ひらりと新九郎の肩を跳び越えてしまった。 型の剣術には不馴れでも、真剣に覚えのある新九郎、こんな場合にはすぐ必死の無念無想になる。 最後だ! と思ったから捨身になって、両手に握った柄を 臍 ( へそ )に当ててズンと押して行った間髪の差、吉祥房の杖が新九郎の 頭 ( こうべ )を砕くより早く、彼の 脾腹 ( ひばら )を木剣の 尖 ( さき )でドンと衝き当てたので、さすがの吉祥房も杖をふりかぶったまま、ずでんと仰向けに倒れて、ウームと気絶してしまった。 この大胆不敵な勝負を見た大円房覚明、みるみる怒気心頭に発して、声荒ららかに、 「すぐ続けッ。 声に応じて進み出た者は、これなん大円房が四天王の随一人、 河内房了海 ( かわちぼうりょうかい )という六尺豊かの大山伏であった。 「あいや春日殿、 某 ( それがし )は当道場の四天王の一人、河内房と申す者、金剛杖の馳走ばかりにては定めし貴殿も飽きつらん。 拙者は鏡智流の独壇とする戒刀型の木太刀をもってお対手申さん」 と 倨傲 ( きょごう )に云い放った。 変った物は何でも望むところと新九郎は勇気凜然。 「それこそ望むところ、願わくば戒刀の秘訣を拝見致したい」 「おおよく申されたり。 臍 ( ほぞ )を噛んで後に吠え 面 ( づら ) 掻 ( か )かるるなよ」 と河内房が引ッ提げて来た革袋から抜き出したのは、鉄の如く磨き澄ました、 栴檀 ( せんだん )造りの無反三尺の木太刀、これぞ 優婆塞 ( うばそく )が常住坐臥に身を離さぬ戒刀になぞらえて、作りなしたる凄い 業物 ( わざもの )。 悪鬼怨霊 ( あっきおんりょう )、天魔鬼神も 挫 ( ひし )ぐという大円鏡智流の手並やいかに。 「いかに春日殿、お仕度はよきや」 「ご念におよび申さぬ」 と二人の面上、早くも一脈の殺気満々。 「ええッ」 と新九郎は木剣を引いて下段に構えた。 同時にオオッと、栴檀刀を大上段にかぶった河内房は、 柄頭 ( つかがしら )を 兜巾 ( ときん )の辺りに止め、 々 ( けいけい )たる双眼を新九郎の手元へあつめて、両腕の円のうちから隙もあらばただ 一挫 ( ひとひし )ぎにとにじり寄った。 それに圧せられず、新九郎もここぞ天の試練と木太刀にあらん限りの精をこめたが、元より新九郎の技倆は、円熟な百練の技ではない。 真に起死回生の 解脱 ( げだつ )から、大願の一心と不敵な胆で総身を埋めてしまった、いわば一念と度胸で行くだけであるから、河内房の老練な眼から見れば全身ほとんど隙だらけである。 しかし、その隙だらけの新九郎へ、戒刀をとっては 宇内 ( うだい )の山伏の中でも音に聞えた河内房が、なかなか 易 ( たやす )くは打ち込んで行かれなかった。 その理由は、新九郎のいわゆる一心大胆が 遮 ( さえぎ )るのでもあろうが、河内房の老練な眼から見た新九郎の構えというものは、実に彼の内心を寒からしめるものがあったからである。 それは何であったか? 河内房は新九郎の如何なるところを見て 慄然 ( りつぜん )としたのであろうか? 河内房了海は、さすが大円房の四天王随一と云われた人物だけあって、あらゆる行法に 長 ( た )け、殊に人物を 観 ( み )るにかけては 透徹 ( とうてつ )の眼識をそなえていた。 今彼が新九郎の 機微 ( きび )から見出したものは、実に薄衣に包んだ名刀が、 晃々 ( こうこう )たる光りをうちに隠して現われないような彼の天才である。 面 ( おもて )は女の如く美で、中肉中背の骨格は何らの研磨を物語っていないが、新九郎が自然に備えた 黒耀 ( こくよう )の瞳、柳の 臂力 ( ひりょく )、体の屈折など、髪の先から足の爪までほとんど神が一人の剣聖を、この世へ試みに送り出した者かと思えるほど整っている。 しかもそれはいまだ何ら俗剣術の型にはまっていないからすべてが自然であって、すべてが怖るべき天才的の閃めきに見えた。 しかし、かかる奴はいずれ後には当流の大敵、いまだ技の未熟であるこそ幸い、うんと 懲 ( こら )して、あわよくば腕の一本ぐらいは 挫 ( くじ )き折ってくれんと、 窺 ( うかが )いすまして新九郎の右小手の隙へ、 「ヤッ」 と一声 栴檀刀 ( せんだんとう )を打ち込んだ。 ひらりと素速く身を 竦 ( すく )めた新九郎は、その時、下段の太刀を疾風と捲いて、ブンと勢い鋭く河内房の 毛脛 ( けずね )を 薙 ( な )ぎつける。 猪口才 ( ちょこざい )なと跳ね上がった河内房は、再び大上段から新九郎の肩口へビシリと拝み打ちに来たのを、ヤッと払って返す太刀と敵の三の太刀がガッキと火の匂いを発して十字にぶつかる。 陰陽一上一下、続け打ちに五、六打合ううち、思いがけない河内房の足がツと新九郎の内股へ入って 外輪 ( そとわ )にぱッと蹴離したので、木剣にばかり気をとられていた彼は、 「アッー」 と叫んで斜めによろめいたところを 天 ( てんぴょう )の如き河内房の強力で、新九郎の小手を 強 ( したた )かに打ち込んだ。 「参った」 と新九郎の無念の声。 河内房は耳に触れぬ振りをして、続けざまにピシャリッピシャリッと五、六本続けて打ち込んだので、新九郎は ( どう )と仰向けにたおれてしまった。 「こりゃ理不尽な……」 と刎ね起きた新九郎の額には、無慚な血潮が 滲 ( にじ )んでいた。 「何が理不尽、それゆえ前もって当流の 掟 ( おきて )は申し聞かせてある。 未熟な腕前で他流試合を望みなど致すから、かような目にも会うのだ! 馬鹿めッ」 と河内房が続けて 栴檀刀 ( せんだんとう )をもって 擲 ( なぐ )りかけて来たので、新九郎はむッと引っ掴んで、 「己れッ無礼な!」 と蒼ざめた顔色に髪を乱して睨みつけた。 「やあ河内房、痩せ侍の吠え面見るも笑止、引ッ掴んで表へ 抓 ( つま )み出してしまえ」 と大円房は 憎態 ( にくてい )な嘲笑を泛かべながら下知した。 と、ばらばらと立ち上がった柿山伏の門輩どもは、一人の新九郎の手を取り足をすくって玄関口より引き摺りだして、 「ざまを見ろッ、いい笑われ者だ」 と思う存分の 罵詈 ( ばり )悪口をかぶせて、どんと門外へ突き出してしまった。 春日新九郎はしばらく無念のあまり、倒れたまま、はッたと大円房の門を睨みすえた。 「おのれ悪山伏めら、この新九郎が上達の暁には覚えておれよ……」 とすごすご塵を払って立ち上がった。 既に夜に入っていたので、通る人目にこの醜態を見られなかったのは、せめてもの 僥倖 ( ぎょうこう )であった。 無念無念でかたまっていた新九郎は、どこをどう歩いて来たかしばらくは気づかなかったが、 鼕々 ( とうとう )という水音にふと面を上げて見ると、ここは保津川の 川縁 ( かわべり )、 彼方 ( あなた )の 青巒 ( せいらん )から一面の名鏡ともみえる夏の月がさし上って、大河に銀波を 縒 ( よ )っていた。 その涼しさに、新九郎も冷静になった。 彼の 嚢中 ( のうちゅう )は宿銭にも乏しかったので、今宵はここの河原 蓬 ( よもぎ )を 衾 ( ふすま )にして夜を明かそうと心を決めた。 そしてごろりと身を横たえながら、澄み渡る真如の月の冴えを見つめて、ただ想うのは 剣 ( つるぎ )の工夫、ああ如何にしたら名人になれるであろう。 いつになったら鐘巻自斎を打ち込むことが出来るだろう。 それを思えば大円房の如きは心にかけるほどのことでもない。 むしろ武神が我れを鞭打つ激励ではないか。 新九郎はそう心をとり直して、月そのものの、清らかさに返った。 夜は 更 ( ふ )けた。 露ふりこぼす河原の 青芒 ( あおすすき )に、そよそよと吹く風も冷たい。 するとそこへ、ざッと水を切って来た一艘の屋形船がある。 涼風に灯を吹き消されたか、はためく草の中は真ッ暗であるが、中に 蠢 ( うごめ )く三、四人の黒い影が、船を岸に着けると、すぐ総かがりで一人の女を抱き上げて来る様子。

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鬼滅の刃でねずこが口に竹を付けてる訳は?強さや能力は?

きめ つの や い ば 甘露 寺 み つり 画像

生田 ( いくた )の馬場の 競 ( くら )べ 馬 ( うま )も終ったと見えて、群集の 藺笠 ( いがさ )や 市女笠 ( いちめがさ )などが、流れにまかす花かのように、暮れかかる 夕霞 ( ゆうがすみ )の道を、城下の方へなだれて帰った。 この丹波の国の年中行事となっている生田の競馬は、福知山の主催になるものであったが、隣藩である宮津の 京極丹後守 ( きょうごくたんごのかみ )、 出石 ( いずし )の 仙石左京之亮 ( せんごくさきょうのすけ )などの家中からも、馬術の名人をすぐって参加させるのが慣例であった。 その結果は、いつも小藩な福知山の城主、松平忠房の家臣から多くの優勝者を出し、もっとも大藩な宮津の京極家は、今年もまたまた一番 無慙 ( むざん )な敗辱を重ねてしまった。 常に大藩の誇りを鼻にかけて、尊大で 倨傲 ( きょごう )な振舞のおおい京極方の惨敗は反動的に無暗に群集の 溜飲 ( りゅういん )を下げて鳴りもやまぬ歓呼となった。 福知山の町人も百姓も許された皮肉と嘲笑を公然と京極方へ浴びせたのだ。 こうして彼に多恨な春の一日は暮れたのである。 帰途 ( かえり )を案じていた作左衛門夫婦は、声に 愕 ( おどろ )いて出てみると、五平は肩先から鮮血を流して、 乱鬢 ( らんびん )のままへたばっていた。 「何? 娘が何と致したのじゃ、早く申せ」 「生田からの 戻 ( もど )り 途 ( みち )で、 自暴酒 ( やけざけ )に酔った京極家の若侍どもが、お嬢様と私を押ッ取り巻き、私はこの通り浅傷を受けた上に、千浪様を 引 ( ひ )ッ 掠 ( さら )って 如意輪寺 ( にょいりんじ )の裏へ連れ込んで行きました」 「うーむ、奇怪千万な 狼藉 ( ろうぜき )、如何に大藩の家中は横暴じゃと申せ、故なく拙者の娘を傷つけも致すまい。 これ五平、その若侍どものうちに誰か意趣でも含んだ奴はいなかったか」 「そう仰っしゃれば、いつかお屋敷へ見えたことのある京極家の指南番 大月玄蕃 ( おおつきげんば )が物蔭からしきりと 差図 ( さしず )致していたようでござりました」 「おおその大月玄蕃こそ、先頃から千浪を嫁にと 強談 ( ごうだん )致してまいった奴じゃ。 それを手きびしく 刎 ( は )ねつけられたので、さてこそ左様な狼藉を加えたのであろう。 己 ( おの )れ 憎 ( にっ )くき 佞者 ( しれもの )め、隣藩の指南番とて用捨なろうか」 と 忿怒 ( ふんぬ )のまなじりを裂いた作左衛門は、手早く 下緒 ( さげお )の端を口にくわえて 襷 ( たすき )に綾どりながら、妻のお村を顧みて、 「奥ッ、かならずともに心配致すな。 不意に 消魂 ( けたたま )しい女の叫びが、如意輪寺裏の 幽寂 ( ゆうじゃく )の梅林につんざいた。 続いて凄じい 跫音 ( あしおと )と同時に、嵐のような勢いで一団の武士が一人の女を引ッかついで来た。 そこには生田馬場の敗辱に気を腐らせた京極家の若侍 輩 ( ばら )が、 鬱憤 ( うっぷん )ばらしに飲み散らした酒の 宴莚 ( むしろ )が狼藉になってあった。 若侍達は重大な手柄でも仕果たしたかのように、 各 ( めいめい )の盃の前に坐って やんやという騒ぎ方である。 「成程、いかさま稀な美人、これでは先生のご執心も無理ではござらぬ」 と云うものもあれば、 「かような美女を小藩者の 冷飯 ( ひやめし )武士の自由にさせるは惜しい、大月先生のご所望を突ッぱねたとは 冥加 ( みょうが )を知らぬ奴じゃわい」 などと人もなげに 追従 ( ついしょう )をつくす門人もあった。 そなたの父が 頑固 ( かたくな )のためかような手荒も心なく致したのじゃ。 のう、機嫌直して門人たちの 酌 ( しゃく )でもしてやれ、今に駕でも参ったら今宵のうちに宮津の城下を見せてやる。 「千浪殿、お顔を上げなされい。 先生ほどの男に想われたは 女冥加 ( おんなみょうが )、さ、拙者たちもこれまで骨を折った 褒美 ( ほうび )に酌でも致してもらわねば 埋 ( う )まらぬ」 とかなりに酔った一人の門弟が、堅く俯伏して身を護っている千浪の後ろから、無理に抱き起そうとすると、 「無礼しやるなッ」 と紅唇を破った声に突き 刎 ( は )ねられた。 そして白い 面 ( おもて )を振りあげた、千浪の乱れ髪の隙から射るような眸がきっと 耀 ( かがや )いた。 「女と 侮 ( あなど )って 無体 ( むたい )しやると用捨は致しませぬぞ、痩せても枯れても正木作左衛門の娘じゃ、けがらわしい、誰がお 汝等 ( ことら )の酌などしようぞ」 と 遠山 ( えんざん )の 眉 ( まゆ )を逆立てたさまが、怒れる 羅浮仙 ( らふせん )のように凄艶に見えた。 玄蕃は 憎気 ( にくげ )な歯を見せてせせら笑った。 そして、むんずと伸ばした手は 無慚 ( むざん )に千浪の体を引き寄せて、飽くまで離さぬほどな力をこめた。 「千浪、そなたは運命の力を知らぬな。 籠の小鳥が小さな 足掻 ( あが )きをしたとてそれが何になる。 この玄蕃も一度想い込んだからには、一念遂げずにゃおかぬ執着の深い男じゃ。 よいほどに 諦 ( あきら )めて素直にするがそちの 得 ( とく )だぞ」 「ええ左様な 戯言 ( たわごと )、聞く耳は持ちませぬッ、離してッ、離して下されまし」 と ( も )ぎられそうな片腕をふり切った千浪は、 逸早 ( いちはや )く、 踉 ( よろ )めき立って飛鳥の如く走りかけた。 「それッ、取り押えろ」 と玄蕃は立ち上がりもせずに顎で指した。 ばらばらと駈けだした四、五名の門人は、もう苦もなく千浪の行く手を 遮 ( さえぎ )って動きも取らせずに取囲んでしまった。 「こりゃ、 じたばた致さずに戻れッ」 「何をするのじゃ」 ときらりと三日月に似た懐剣が千浪の手から流れて間近な一人をさっと 掠 ( かす )った。 あっと驚いて一同は飛び離れたが、 「小癪な女め、 蟷螂 ( とうろう )の 斧 ( おの )だ」 と一人が懐剣の下を 潜 ( くぐ )ってその手を捻じ上げた。 するとその時、横合からずんと繰りだした笹穂の 槍尖 ( やりさき )が、その男の脾臓を 咄嗟 ( とっさ )に突きえぐってしまった。 「うわッ!」 と倒れる肩先へ千浪も逆手の懐剣をふり下ろしたが、繰り出た槍の手元へふと眼をやって、思わず、 「おお!」 とその人へ抱きついて行った。 見事、一人が田楽刺しにたおされた 愕 ( おどろ )きに、どッと開いた若侍達は、女一人と 多寡 ( たか )をくくった油断を緊張させて一斉に真剣を抜き放った。 「卑怯者めッ、よくも不意を喰らわせた、何者だッ」 と真ッ向から圧倒的にひしひしと詰め寄った。 「黙れッ、他領の平和を 紊 ( みだ )すとは天人共にゆるしがたき 奸賊輩 ( かんぞくばら )、かく申す 某 ( それがし )は千浪の父正木作左衛門、汝等神妙に帰国致せばよし、さなくば無辺流の槍術の奥儀を示すから覚悟致せよ」 と娘の千浪を背後にかばって、りゅうりゅうと短槍を 扱 ( しご )きならして穂短かに掴んだ。 「おおさては汝が作左衛門か、貧乏大名の 粥喰 ( かゆく )いが何ほどの腕立て、邪魔立て致す分に於いては 嬲 ( なぶ )り 殺 ( ごろ )しだぞ」 と真ッ先に叫び返した一人が大刀を真ッ向に振りかぶって手元に躍りこんで来るのを、一足飛びのいた作左衛門が 喉笛 ( のどぶえ )狙って突き上げた手練のはやさ誤またず ぐさッと刺したので、血は水玉と 四辺 ( あたり )に飛んだ。 二人は突かれ一人は一刀両断になったが、この間の時間は一瞬であった。 此方 ( こなた )にあった大月玄蕃はそれと気づいたが悠然として、大刀の目釘に 潤 ( しめ )しをくれながらそれへ出て来た。 そして作左衛門と三歩ばかりの間隔に立って 傲然 ( ごうぜん )と 柄頭 ( つかがしら )を握りしめた。 「血迷ったか作左衛門、何故あって拙者の門弟を手にかけた。 仕儀に依っては用捨ならぬ」 「云うなッ、どこ 嘯 ( うそぶ )いて左様な白々しい 音 ( ね )が出るのじゃ。 汝こそ縁談を退けられたを意趣に含み、大切な娘を 誘拐 ( かどわ )かさんと致した不敵な 痴者 ( しれもの )、その手先に働く木ッ葉どもを斬って捨てたが、何と致した」 「おおよく云った! かくなれば飽くまで千浪は腕ずくで 奪 ( と )ってやる、その先に いけ邪魔な汝の命は貰ったから観念しろよ」 「やわか汝如き悪人の毒刃を受けようか」 「 己 ( おの )れッこれでもか!」 と大喝一声、玄蕃の腰から銀の飛龍とひらめき飛んだ三尺一寸の 大業物 ( おおわざもの )。 彼の体躯は老骨の作左衛門を眼下に見るほどの大男である上、 臂力 ( ひりき )は山陰に並びなき、十二人力と称せられ、しかも宝蔵院の槍術、一刀流の剣道は達人と称せられた大月 玄蕃 ( げんば )である。 時既に早く、 「エエーイッ」 とばかり五体から気合いを絞った玄蕃の太刀が、真っ向へ疾風の勢いで来た。 作左衛門は咄嗟に横へ 翳 ( かざ )した太刀で受け止めたが、 柄手 ( つかで )から腰も 挫 ( くじ )けるほどな圧力を受けて たじたじと乱れ足になったところ、得たりと 背後 ( うしろ )の男が袴腰を避けて突き出した一刀が作左衛門の脾腹を突きとおすよと見えた。 七日ばかりの 仄 ( ほの )かな夕月は、その少し前頃から 淡墨 ( うすずみ )の如意輪寺の 甍 ( いらか )を越して、立ち迷う夕霞の世界へ青銀色の光の雨を投げ交ぜて、春の 朧夜 ( おぼろよ )を整えはじめた。 羅漢堂の蔭から浮き出たような二人の影。 白梅月夜にふさわしい銀作りの大小夜目ながらきらびやかに、一人は年頃三十前後の屈強な武士、一人は 光綾 ( ぬめ )の振袖に金糸の 繍 ( ぬい )も好ましい前髪立の若衆であった。 しかし年若の武士はちょっと 躊躇 ( ためら )った気色であったが、その勢いに捲き込まれて、同じように梅林の奥へと身を躍らした。 見れば気息も 奄々 ( えんえん )と疲れ果てた老武士が、血気の数名に斬り捲くられている。 更にその中の一人は卑怯にも 背後 ( うしろ )へ廻って、今や一刀を狙い突きに構えた様子であったので、先に駈けつけた 年 ( とし )かさの武士は、善悪いずれにせよ武士の情け、一刀ぎらりと抜くより早く唯一声、 「ご老人ッ、助太刀申すぞ!」 と叫んで背後の 曲者 ( くせもの )を梨割りにズーンと斬り伏せたまま、作左衛門が受けかねていた、大月玄蕃の 切尖 ( きっさき )に立ちむかって目覚しいほど縦横無尽に斬り立てて行った。 「 何人 ( なにびと )か存ぜぬが 忝 ( かたじ )けのうござるッ」 ほッと足許を踏み直した瞬間に、作左衛門は 甦 ( よみがえ )った声を高く上げた。 大月玄蕃と必死に斬り結んでいた助太刀の武士はそれに応じて、 「此奴は拙者が引受けた、ご老人はあたりの 奴輩 ( やつばら )を追い払われよ」 と叫び返した。 玄蕃は不意の強敵に、思わず五、六歩斬り捲くられたが、元より強胆無比の曲者、鍛え抜いた腕の力はまだ三尺の太刀に寸分の疲れも見せず、すぐ立場を盛り返して、りゅうりゅうと攻勢に変じて、邪魔な助太刀から先に唯一刀と脳天目がけて斬り下げた。 「おうッ!」 と武士は 金剛不壊 ( こんごうふえ )と受け止めたので剣の交叉から瞳をやきそうな火花が散った。 続いて二合三合、かれ劣らずこれ譲らず 龍攘虎搏 ( りゅうじょうこはく )の秘術と玄妙の精を闘わせば、白梅月夜も 暗 ( やみ )かと思えて、紛々たる花の飛雪が剣の渦に旋回する景色も物凄まじい。 一方の作左衛門は思わぬ味方に力を得て、当るに任せて必死と 薙 ( な )ぎ 払 ( はら )い薙ぎ払いわき目もふらずに斬り廻った。 騒ぎ立った五、六人の門人は乱刀を 滅多矢鱈 ( めったやたら )にふるばかりであったが多勢に無勢、殊に老骨の悲しさには息疲れに迫った作左衛門、次第に押ッ取り囲まれて数ヵ所の 薄傷 ( うすで )から朱を浴びたほどの鮮血が流れた。 拙者は 納戸頭 ( なんどがしら )正木作左衛門でござる」 と火のような息に交ぜて云った。 「おおさては松平殿ご家臣でござったか、拙者はご城下 柳端 ( やなぎばた )に町道場を構えております 春日重蔵 ( かすがじゅうぞう )と申す浪人者でござりまするが、まず大事なくて大慶でござった」 と助太刀した重蔵も、 慇懃 ( いんぎん )に礼をかえして太刀を 鞘 ( さや )に納めた。 その時ちょうど、ここへ押して来た十人ばかりの面々が、提灯の光を一つの影に投げかけた。 そして先頭の者が、 「ややご老台、よくご無事でござりましたな。 「 対手 ( あいて )は如何致しました、憎くき京極方の振舞、目にもの見せてくれましょう」 と口々に 犇 ( ひし )めく 者 ( もの )もある。 この人々は、作左衛門の屋敷の近隣の者達で、後に残ったお村と五平から変を聞いてここへ寄せて来たのであった。 提灯の光は更にあたりを振りてらしたが、一人は愕然として、 「おお千浪殿が気を失っている!」 と叫んだ。 続いて一方の 樹蔭 ( こかげ )からも、 「ややっ怪しい奴が隠れおった」 と闇にうずくまっていた一人の男をずるずると引き摺りだした。 「これッ汝も京極方の武士であろう」 「 胡散 ( うさん )な奴ッ、ぶッ斬ってしまえ」 と前後から刀の 鍔 ( つば )を鳴らして、すんでに血祭にもしそうな有様のところを、押し分けて両手をひろげたのは春日重蔵であった。 「あいやこれは 某 ( それがし )の舎弟新九郎と申す者、京極家の者ではござらぬ」 「おお貴殿は正木殿へお助太刀下された方じゃ」 「左様でござる。 ご不審を受けたも 尤 ( もっと )もでござるが、この新九郎と申す者は拙者の弟でござりますが、性来の小胆者、その上お恥しいが武芸嫌いで太刀持つ 術 ( すべ )も知りませぬゆえ、かような場合に出会っても兄と共に抜合せもせず、ご覧のとおり蒼ざめて物蔭に隠れていたのでござる。 かく武士の恥を 曝 ( さら )してお話申した上は、何卒ご疑念をお晴らし下されたい」 「ほほ……そりゃお気の毒な」 と一同は重蔵の言葉に 衝 ( う )たれたように、しばらくは大地に顔を伏せて顫えたままの新九郎に 瞠目 ( どうもく )したが、蝶の 化身 ( けしん )と云ってもいい美しい姿を見て、ある者はひそかに重蔵の愛童ではないかとさえ疑った様子であった。 福知山の領主松平 忠房 ( ただふさ )は、三万二千石という、大名の中では微々たる小藩であったが、その家格と、武士的な気魄に富んだ点から、遥かに宮津七万石の城主大名たる京極の内容のない 膨大 ( ぼうだい )を 蔑視 ( べっし )していた。 折から、生田馬場の馬術競べでは、見事な優越を示したので、いよいよ赫々たる武名は事実に於いて彼を圧倒した。 忠房はそれに大満足を感じた。 そしていよいよ家臣の武芸を激励しているところへ、今度にわかに当惑すべき大問題が湧き上がった。 それには忠房の顔にも 尠 ( すく )なからぬ不安の影が 漂 ( ただよ )いはじめた。 それと云うのは、度重なる生田の屈辱に、悲憤やる方ない京極家から、改めて両藩の剣道試合を申し込んで来たのである。 武芸十八番の中でも武家の表芸とする剣道であれば松平家でも 否 ( いな )みは出来ず、すぐ承諾の使者を 遣 ( や )ったが、小藩の松平家では充分な禄高で有名な剣士を 招聘 ( しょうへい )することが出来ないので、事実家中の武芸熱心であるにかかわらず、世間へ出して押しも押されもせぬ指南番はいなかった。 ただ一人馬廻り役を兼ねた竹中佐次兵衛が真蔭流の指導者となっていたが、実はこれとて京極方の大月玄蕃、その代師範の桐崎武太夫などから比較すれば問題になる腕でないのは余りに明瞭であった。 そこの内情を探った京極家で、この致命的な報復に出て来たのだと知った松平忠房は、食事もすすまぬほど苦慮していた。 「これ、誰かおらぬか!」 白襖 ( しろぶすま )の書院から、忠房のいらいらした声が響いた。 ジロリと 流眄 ( ながしめ )をくれた忠房は、 「生田馬場の当日から、今日で幾日に相成るの?」 と不意に尋ねた。 まったくどれほど他念なくこの十数日を暮らしたかもそれで知れる。 明け放された 塗骨 ( ぬりぼね )の障子からいながら見える春の善美を花籠に盛ったような奥庭の築山、泉水、そして重いほど咲き満ちた糸桜が廻廊の杉戸へ 胡粉 ( ごふん )のように吹き散ってゆく 絢爛 ( けんらん )な眺めも今の心には何の慰めにもならない。 殊にこの頃は晴の当日を気構えた若侍たちが、一心不乱に稽古しているので、その 撓刀 ( しない )撃ちの音が、この寂光の奥殿まで聞こえてくるほどであったが、忠房の 憂惧 ( ゆうぐ )は少しも軽くならなかった。 鞍馬の 謡曲 ( うた )を口ずさみながら、そのじりじりとする 懊悶 ( おうもん )を 紛 ( まぎ )らわすように黒塗の欄へもたせた忠房の後ろに待ちかねた近侍の 衣音 ( きぬおと )がしたので、はッと振り顧った。 「作左衛門、病中大儀であったの」 と 褥 ( しとね )に着座した忠房の声がかかって、正木作左衛門は平伏していた頭を僅かに上げた。 如意輪寺裏で受けた数ヵ所の傷 養生 ( ようじょう )が、案外なが引いたので今日まで御殿に出仕しなかったのである。 今訪れて来たばかりの、廻国修業武芸者 矢倉伝内 ( やぐらでんない )と名乗った男は、またたくうちに三、四人の門下を撃ち込んで、木剣片手に道場の中央に突ッ立ったまま、更に次の相手を促していた。 そこは福知山柳端の、 直真蔭流 ( じきしんかげりゅう ) 春日 ( かすが )重蔵の町道場であった。 折悪 ( おりあし )く高弟二、三の達者が居合さなかったので、次には重蔵が自身、矢倉伝内の 対手 ( あいて )に立たねばならない順になった。 「お見事でござった。 「望むところ、お手柔らかに」 と伝内も緊張した。 「いざッ」 と二人は木剣の切尖を呼吸と共にジリジリと上げて、ぴたりと腰の定まったところで、エイッ、オーッの掛け声鋭くパッと左右へ飛び別れた。 重蔵は大胆な大上段に構えて、彼が撃ち込むに自由なほどの隙を与えておいた。 伝内もオオッと 眉間 ( みけん )かざしにがッきり受け払って、こっちからも激しくふり込んだが届かぬ先にガラリと重蔵に引ッぱずされて、あッと小手を 痺 ( しび )らせた刹那、ビシリと肩先を撃ち込まれて、横のめりに腰を 挫 ( くじ )いてしまった。 伝内は、びっしょり汗をかいて、 「参った。 恐れ入ってござります」 と平伏した。 「いや、なかなかご鍛錬のお腕前、重蔵も感服致しました」 と席を改めて挨拶すると、伝内は膝を正して、心から重蔵の腕前に敬服したらしい 口吻 ( くちぶり )でしばらくこの道場に滞留して入門修業をしたいという希望を洩らした。 「大事はござらぬ、ご随意に召さるがいい」 と重蔵は気軽く承諾して、奥へ立ちかけた時、 「ご来客でござります」 と一人の門弟が取次いで来た。 「どなたじゃ?」 「ご家中の正木作左衛門様がお越しでござります」 「お……」 と重蔵はすぐ如意輪寺裏の一夜を想い起して、自身出迎えに玄関へ立って行った。 茶室めいた切窓は、藤棚に日を 遮 ( さえぎ )られて座敷の中は朝のような青い静かな光線が僅かに流れていた。 作左衛門は密談を遂げるには打ってつけな部屋だとすぐ思った。 そして過日の礼を懇切に述べ終ってからこう口を切りだした。 「実は、 傷所 ( きずしょ )も充分癒りきらぬ 某 ( それがし )が、今日にわかにお伺い致したのは、重ね重ねではござるが折入って尊公に一大事のお頼みに参ったのでござる。 何と 抂 ( ま )げてお聞入れては下さるまいか」 「さて、何事でござりましょうか……」 「尊公をあっぱれ武士と見込んでのお願いは余の儀でもござらぬが……」 と云いかけて作左衛門は ふいと口を 噤 ( つぐ )み、 「これ千浪、 暫時 ( ざんじ )遠慮致せ」 と後ろを顧みて云った。 「はい……」 と千浪は素直に立ちかけたが、勝手をしらぬ家のこととて、そこから庭下駄をはいて屋敷の庭でも 彼方此方 ( あっちこっち )と 彷徨 ( さまよ )っているより外なかったのである。 それを見送ってから、作左衛門は重蔵にむかって再び語を継ぎはじめた。 「娘の千浪を連れて参ったのも世間体を 繕 ( つくろ )うため、誠は作左衛門、君公よりのお旨を受けての使者でござる」 「えッ、そうとは知らずかく見苦しい所へ」 と重蔵は意外に思いながらも、また恐縮した。 そして宮津の京極から剣道試合の申込みを受けた 顛末 ( てんまつ )、それに当る達人のいない当惑を物語った上、この動機はあるいは 佞奸邪智 ( ねいかんじゃち )の大月玄蕃が如意輪寺の不覚を報讐する底意で、宮津一藩を 使嗾 ( しそう )したのではあるまいかと個人的な考察もつけ加えた。 しかし、重蔵は容易に 諾 ( だく )の一語を与えなかった。 彼の侠勇を象徴した濃い眉の下には、それを反省する聡明の 眼 ( まなこ )がいつまでも閉じられていた。 「貴殿の一諾を得られぬからは君公への申し訳に老い腹切ってお詫び致す。 重蔵殿この 一間 ( ひとま )を拝借致す」 と一徹な作左衛門は、不承知の色を見て、早くも脇差の柄へ手をかけた。 「お待ち召され!」 重蔵は驚いてその手を押えた。 「さらば作左衛門が一命を 賭 ( と )してのお願い、お聞き入れ下さるか」 とのッ引きさせず問い詰めた。 「かくまでとあれば止むを得ぬこと。 「えッご承知下さるとか!」 「勝負は時の運ながら、春日重蔵が及ぶ限りの 対手 ( あいて )には立ちむかい申すでござろう」 「忝けない、忝けのうござる……」 と 飛 ( と )び 退 ( さが )って両手をつかえた老骨は、それより他の言葉が出ぬほどな感激に 昂 ( たかぶ )らされてぼろぼろと涙を 滾 ( こぼ )した。 撓刀 ( しない )の音を聞くだけでも、身ぶるいが出るというほど、生れつきから武芸嫌いな重蔵の弟春日新九郎は、十九という男前になりながら、いまだ半元服の若衆振袖で、屋敷の奥の一間にこもって、好きな絵筆をもてあそんでいる。 武門の家に男と生れて甲斐のない新九郎の性質は、無論兄の重蔵が強く 顰蹙 ( ひんしゅく )するところであったから、今日までには幾百回の 強意見 ( こわいけん )が繰り返されたか知れない。 しかし新九郎の天性は矯正されないどころか、絵や笛や庭いじりなどと、いよいよあらぬ方の趣味へばかりずんずん深くなって行くのであった。 こうして、春はいつも新九郎の部屋に 長閑 ( のどか )であった。 今日も窓の側の朱机に寄って、うっとりと画想に我を忘れていた時、新九郎はふと ことりと静かな庭下駄の音を耳に入れた。 「して今日は?」 と新九郎は 動悸 ( とき )めく胸を隠すような声で、やっと訊き返した。 「父上の 傷手 ( いたで )もややよくなりましたゆえ、ご当家のお兄上さまに、お礼を申し上げに来ております」 と云いながら、いつか足は僅かずつ寄って新九郎の窓の外まで来てしまっていた。 「そうでござりましたか……」 と 臙脂 ( えんじ )と 匂 ( にお )い 袋 ( ぶくろ )の強い 薫 ( かお )りが、新九郎の若い血を嵐のように騒がせた。 赫 ( か )っとした熱い顔を伏し眼にして、彼は 現 ( うつつ )な目を絵具皿に吸わせていた。 「おや、お見事な絵を遊ばしますこと……」 麝香 ( じゃこう )を噛んだような女の息を、耳元に感じた新九郎は、今にも頬へ触れてきそうな黒髪の冷たさを想像して 答 ( いら )えをするのを忘れている。 「 狩野 ( かのう )ではござりませぬような……その絵具のお使い方は土佐をお学びでござりますか」 「ほんの 戯絵 ( ざれえ )でござりまするわ」 「どう致して、お見事でござりますこと……」 千浪は何気なくむっちりした白い手を机の端に伸ばすと、新九郎はあわててその手を上から押えた。 二人はもうどうしていいか分らぬほどな情炎に包まれて 伽羅油 ( きゃらゆ )のとろ火で煮られたかのような酔心地になりかけていた。 「千浪、千浪」 と呼ぶ父の作左衛門の声がした。 「は、はい……」 と慌ててそこから庭下駄の音を転ばせた千浪が、前の 離室 ( はなれ )の側まで帰って来ると、 愕 ( おどろ )いたように床下からぱっと飛び出した男が、千浪の胸に どんとぶつかった。 「あ……」 とよろめく隙に、男は脱兎の勢いで裏手へ駈けだした。 と見た作左衛門が、 「怪しい奴ッ」 飛び降りて追いかけるその顔へヒュッと風を切って飛んで来た狙い捨ての 手裏剣 ( しゅりけん )。 はッと作左衛門が身を沈ませた瞬間に、 曲者 ( くせもの )は裏塀に手をかけて身を躍らせた。 「おのれッ」 とその刹那、駈け寄った春日重蔵が手練の抜撃ちに、曲者はワッと叫んで血煙りと一つになって大地へ落ちた。 「おお 此奴 ( こいつ )は先ほど、廻国の武芸者に 扮装 ( やつ )して入りこんだ矢倉伝内めじゃ!」 と重蔵はすぐ死骸の懐中を探って二、三通の書類を引き出した。 「これご覧なされい、拙者初対面から 怪 ( おか )しい奴と睨んでおりましたが、 案 ( あん )の 定 ( じょう )大月玄蕃の 間諜 ( まわしもの )でござった」 「さてはさすが 佞智 ( ねいち )の玄蕃めも、貴殿の腕前を知っているゆえ、早くも当日の試合に出ることをおそれて、探索を入れたのでござろう」 と作左衛門も今更敵方の周密な用意に舌を巻いたが、それと同時に、いよいよ両藩の確執が 熾烈 ( しれつ )になって来た暗示を受けた気がした。 果然、その翌日町の辻々に高札が立った。 福知山の士民は、生田馬場以上の興奮をもってこの大試合の噂に熱狂した。 宮津の城下から来た一町人は、京極方ではこれ以上の騒ぎだと云った。 大藩の権勢で近国に人を派し名だたる剣客者を狩り集め、当日の場合に依っては血の雨を降らす決戦の備えさえ出来たなどと 流言蜚語 ( りゅうげんひご )もさかんに放たれた。 その朝、宮津の指南番 大月玄蕃 ( おおつきげんば )は、暁天から屋敷の 鋲門 ( びょうもん )を八文字に 押 ( お )っ 開 ( ぴら )かせた。 門内には槍 薙刀 ( なぎなた )木剣などの武道具が、物々しく立並べられてあった。 追々と集まってくる剣客はおのおの 鎖帷子 ( くさりかたびら )の着込みに、筋金入りの白鉢巻をなし、門下を併せて二、三百人余り、意気天を衝いて 犇々 ( ひしひし )と詰めかけた。 今日こそ、福知山藩の誇りを一蹴し去らんずと、京極方で待ちに待った 桔梗 ( ききょう )河原の大試合を決行する日だ。 玄蕃はさすがに大藩の指南番、一刀流の達人と人にも許されたほどの落着きはあった。 静かに仕度を済ませて式台に現われた姿を見るに、 鎖 ( くさり )着込みは下に隠し、 浮織万字 ( うきおりまんじ )の黒羽二重に 緞子 ( どんす )の 野袴 ( のばかま )、 白鮫柄 ( しろさめづか )の脇差 金象嵌角鍔 ( きんぞうがんかくつば )の大小をぶッちがえに差し、曳き寄せた駒にひらりと 跨 ( またが )って、時刻を待つほどに目付奉行の伝令が来たので、一同はそれッとばかり長蛇の陣をなして、威風凜々、由良川の上流指して出発した。 その途中でも、玄蕃に一つの心がかりは、 春日 ( かすが )重蔵の道場へ隠密に入りこませた矢倉伝内が、今に何の消息もないことであった。 彼は今日の試合にも、福知山の藩士には怖るべき者はないと思ったが、如意輪寺裏で手練を知った春日重蔵が現われれば 侮 ( あなど )りがたい強敵だと思った。 玄蕃は鞍の上から伸び上がってみると、既に由良川の奔流に添って二里ばかり来たところである。 何事かと手綱を 煽 ( あお )って、前隊へ駈け抜けて来て、 「如何致したのじゃ! 早う進まねば時刻が遅れ申すぞ」 と 大喝 ( だいかつ )した。 「先生ッ」と一人の門人が寄って来た。 「あれなる浪人が、吾等の邪魔になる岩根へ腰掛けて動かぬばかりか、この 態 ( ざま )は何事じゃと、 嘲笑 ( あざわろ )うた無礼な一言、聞き捨てなりませぬゆえ引ッ捕えたところでござります」 と 喋々 ( ちょうちょう )と述べた。 「とやこうは面倒ッ、 曠 ( はれ )の試合場に向う血祭りにしてしまえッ」 と玄蕃は 鞍壺 ( くらつぼ )を叩いて怒喝した。 「それッ 打 ( ぶ )ッた斬れ!」 と 弓弦 ( ゆづる )を離れた門弟どもや、腕の 疼 ( うず )きぬいている剣客の誰彼は、我こそと大刀をぬくが早いか、前後から 喚 ( おめ )きかかって浪人を取り巻いた。 「 白痴脅 ( こけおど )しを抜いて来たの、 嗤 ( わら )われたくらいでは気が済まずに、この上痛い目を見せてもらいたいとか? あははははは」 と浪人は左手に関羽髯を掴み、右手の鉄扇は一文字にピタリとつけたまま、編笠をゆすって笑った。 「この 狂人 ( きちがい )めッ、動くまい!」 と烈火の如くになった一人が矢庭にブンと斬りこんで来た大刀を浪人はピシリと払って腰も立てなかった。 「おのれッ」 と続いて 揮 ( ふ )り込んで来た前後左右の乱刀をも、しばらくバラバラと 蜘蛛手 ( くもで )に受け払っていたが、すッくと岩から立ち上がるが早いか、手当り次第に帯、襟頸を引ッ掴んで由良川の激流の中へ片ッ端から投げ込んだ。 奔流の泡に叫びを上げる者、岩角に血を吐く者、たちまち幾人と知れない 負傷 ( ておい )を出した。 その凄まじい浪人の働きに、さしもの大衆もワッと後ろへ 雪崩 ( なだれ )返った。 「ええッ 腑甲斐 ( ふがい )のない者どもめ」 と玄蕃はその様子を見て歯ぎしりかんでいたが、 疳 ( かん )を 昂 ( たかぶ )らせて浪人の前へ馬を乗りつけて来た。 浪人は 炯々 ( けいけい )たる眼光を放って、 「汝が玄蕃か、その傲慢では今日の試合も 覚束 ( おぼつか )ない」 と声鋭く面罵した。 玄蕃はそれに耳をも触れず、大刀の柄に手をかけて、 「推参だッ」 と叫ぶより早く、身を屈ませて馬上から 拝 ( おが )み撃ちに、 鬼丸包光 ( おにまるかねみつ )の大刀が風を切って浪人を見舞ったが、慌てもせず 摺 ( す )り抜けた浪人は、玄蕃が二の太刀を振りかぶったにもかまわず、大胆に踏み込んで、ガッキリと馬の 轡 ( くつわ )の根元を掴んで、エエーイッ、と一声鋭く轡を突き上げたので、馬は泡を噛んで 嘶 ( いなな )きながら、棒立ちになった。 「それッあの隙に撃ち込め」 と 浪頭 ( なみがしら )のように巻き返した大勢は、その時どッと横合から槍、大刀を 閃 ( ひら )めかして来たのを、浪人は玄蕃の一刀を後ろへ 摺 ( す )り 抜 ( ぬ )け、持ったる鉄扇に力をこめて、ピシリッと馬の尻を 擲 ( う )ったので、火牛の如く猛りだした馬は、その大衆の真ッ只中へ 跳躍 ( おどりこ )んだ。 一同はワッと崩れ立った。 「おのれッ」 と玄蕃は力の限り手綱を引絞り、奔馬の足を喰い止めたが、憤怒の形相は物凄かった。 そして、 「 痩浪人 ( やせろうにん )はいずこにある! 遁 ( のが )すなッ」 と叫んだ。 上流の福知山からも五里半、下流の宮津からも五里半の中央に選ばれたその日の 曠場 ( はれば )たる 桔梗 ( ききょう )河原には、五町余りの長方形に、青竹の矢来を 結 ( ゆ )いめぐらし、三つ扇の定紋打った 幔幕 ( まんまく )の 桟敷 ( さじき )には福知山の領主松平忠房が老臣近侍を左右にして居並び、別に黒の 鯨幕 ( くじらまく )の蔭には試合に出る剣士の花形が鳴りを鎮めて控えていた。 それと東西に 対峙 ( たいじ )して、あたかもそれを眼下に見下すが如く見えたのは、豪壮華麗な宮津方の桟敷であった。 太守京極丹後守の座所には、 錦繍 ( きんしゅう )の 帳 ( とばり )を垂れ、近侍小姓は 綺羅星 ( きらぼし )と居並び、紅白のだんだら幕をめぐらしたお 末 ( しも )には、白襟桃色の衣裳を重ねた女中や 局 ( つぼね )たちが歌舞伎でも見るような華やかさを浮き立たせて時刻を待っていたのであった。 「松平方では早や一同も揃って見ゆるのに、玄蕃やその他の者は如何したのじゃ」 と京極丹後守は最前から侍臣を顧みて気を揉むことしきりであった。 その時目付役の者から、 「早や見えましてござります」 と返事があった。 女中達は 姦 ( かしま )しく桟敷の幕を絞って 彼方 ( あなた )を見渡していた。 成程、川に添って一散に、此処へ来る一隊の先頭には、大月玄蕃の馬上姿が小さく見えて来たのであった。 大月玄蕃は、途中で思わぬ不快を求めたばかりか多くの 負傷 ( ておい )さえ出してしまったので、 曠 ( はれ )の場所に臨む前から、一同の気勢を 殺 ( そ )いではと、無理に元気づけて、時遅れじと急いで来たのだ。 そして、四つ目結いの定紋打った幕の中に入ってしばらく休息していると、 「大月殿、お召なされます」 と近侍の取次が来たので、おそるおそる丹後守の前に出た。 「おお玄蕃か、また生田の馬場の敗北を繰り返しては一大事、当家の名折れも取返しがつかぬこととなるが、今日の試合は大丈夫であろうの」 「ははッ、さまでにお心を 煩 ( わずら )わせまするは玄蕃の不徳、しかし馬術と事違って剣法では、不肖といえども指南番の名を汚す玄蕃めが、身命を賭しても 敗 ( ひけ )はとらぬ所存でござりまする」 「よく申した。 「他でもないが、近頃仙石殿の客分となって滞在している者は、稀代の名人であるそうじゃ、万一福知山方にも、如何なる達人が潜んでいぬとは限らぬゆえ、其方の 後 ( うし )ろ 楯 ( だて )に助勢致させようかと、折入って仙石殿からのご好意、 聘 ( よ )び寄せたものであろうかどうじゃ」 と云った。 玄蕃はそれを聞くと、持前の自負心がこみあげて、己れの腕を侮られたかにむっとしたので、 「怖れながら、諸国を歩く浪人 輩 ( やから )にろくな腕の者はござりませぬ。 殊に 多寡 ( たか )が小藩の家中を怖れたかにもなって出石藩の聞こえも如何と存じますゆえ、まず今日の試合は拙者めに万事お任せ下されば 忝 ( かたじ )けのう存じまする」 と云いきった。 「左様か、では任すぞよ」 と賢明な丹後守は、特にこう云って、玄蕃の覚悟を固めさせたのだ。 「ははッ!」 と彼は平伏しながら、いよいよ是が非でも勝たねばならぬ責任の 磐石 ( ばんじゃく )を背負ってしまった。 その代り勝てば加増と名誉は知れきっている上に、自分を 見縊 ( みくび )った正木作左衛門をも見返すことが出来る。 諸士の試合の 番数 ( ばんかず )は進んだ。 矢来の外には数万の群集が、 咳 ( せき )一つ立てぬほど緊張していた。 松平侯、京極侯の 桟敷 ( さじき )でも無論眼も放たず一勝負ごとに一喜一憂を現わしているが、厳粛そのものの如く両々対峙して水を打ッたようになっていた。 四月の空は 瑠璃 ( るり )より 碧 ( あお )かった。 京極方の大月玄蕃であった。 亥の下刻頃までは、福知山藩の剣士君塚龍太郎が、宮津藩の家士、玄蕃の門人など六人まで撃ち込んで 旭日 ( きょくじつ )の勢いを見せたが、七人目に大月の高弟桐崎武太夫が出てこれを倒し、続いて松平の家来三、四人を撃ち負かした。 それと見て松平家の馬廻り役を兼ねた剣道師範竹中左次兵衛が武太夫と奮戦して見事な勝ちを取ってからは、しばらく敵する者もない優勢を示したのを、大月玄蕃が現われて一気に左次兵衛を撃ち込んでしまった。 その後、三、四人の 対手 ( あいて )は出たが、ほとんど玄蕃と五、六合の木剣を合した者もなく今はいよいよ最後の栄冠は、当然彼の物とならねばならない。 京極方では万雷の落つるような 喝采 ( かっさい )をした。 勝利を誇った。 ああ敗辱か! ついに武名隆々であった松平忠房の誇りも、玄蕃が三尺の木剣のために 逼塞 ( ひっそく )せしめられたのであろうか? その時、 傲慢不遜 ( ごうまんふそん )の大月玄蕃は、片手に木剣を引ッさげたまま、鳴りを鎮めた福知山方の桟敷に向って真ッ赤な大口を開け、矢来の果てまで届く大音声で、 「やあ、松平忠房のご家中に物申す、馬扱いの儀はいざ知らず、武士の表芸たる剣道にかけては宮津京極丹後守が藩中の勝ちに極まったり。 唯今までの拙者の勝負は弓矢八幡もご照覧、矢来の外の万民が 生証拠 ( いきしょうこ )じゃ。 「待て! 大月玄蕃ッ」 後ろの方から轟く大音が、彼の 腸 ( はらわた )に 沁 ( し )み 通 ( とお )った。 「さらば見事に玄蕃の 対手 ( あいて )に立つと申すのじゃな」 「云うまでもないこと」 「よし、 殿 ( しんがり )とあれば最後の秘術を見せてくれん、用意はよいか」 「多言は無用じゃ」 と一尺八寸の小太刀をとって重蔵が立つと同時に、大月玄蕃も 赤樫 ( あかがし )の木剣の柄へ両手がかかった。 「いざーッ」 と重蔵の烈声。 「おおうッ」 と玄蕃の 雄叫 ( おたけ )び。 その時、大月玄蕃が 咄嗟 ( とっさ )の構えは、赤樫三尺の木剣を天辺に 翳 ( かざ )し、 右手 ( めて )は 鍔根 ( つばね )を堅く、 左手 ( ゆんで )は柄頭を軽く持って、円を描いた 両肱 ( りょうひじ )の中から、巨眼をみひらいて敵の隙を 窺 ( うかが )いながら、じりじり左右の足の 拇指 ( おやゆび )で土を噛みつつ一寸にじりの攻勢に取って来たのである。 彼を 巌松 ( がんしょう )の 鷲 ( わし )と見れば、これは 飛湍 ( ひたん )の 隼 ( はやぶさ )にも似た春日重蔵は、敵より遥かに短い小太刀を片手青眼に一直にして、体は変化自由の斜めにひらき、星より澄んだ双眸の 睫毛 ( まつげ )も 瞬 ( またた )かせず、剣禅無我の 切尖 ( きっさき )を、玄蕃の 鳩尾 ( みぞおち )の辺りへ擬して行った。 つと上段の小手が気構えを見せた先に、重蔵の小太刀が 颯 ( さっ )と輪を描いて、鋭く玄蕃の 眉間 ( みけん )へ飛び撃ちに行った。 ( どう )と倒れたかと見れば、重蔵は袴の裾をひるがえしてパッと跳び上がるなり振りかぶった無想妙剣の一念力、 巌 ( いわお )も砕けろと玄蕃の脳天目がけて来たのを、おおウ! と窮地の豹狼の如く猛然と反跳した大月玄蕃は、必死の剣でガッキと受け止め、十字に組んだ木剣に 淋漓 ( りんり )の脂汗を振りこぼしながら、火焔の息を吐いてギリギリと鍔で押して行けば、重蔵は無理とは反抗せず尺八寸の小太刀を柳の柔軟さにして扱ううちさすが不敵の玄蕃の面色もようやく蒼白んできたうえ、乱髪の隙からかがやく 眼膜 ( がんまく )も赤く疲れて、気息の乱れは争われず組んだ木剣を伝わって、重蔵の心眼にありありとよめてきた。 その結果は心得ある者の眼には想像に難くなかった。 福知山方の面々は俄かに喜色を 漲 ( みなぎ )らせ思わず浮腰になって伸び上がる者もあり、殊に正面の松平忠房は、初めて 愁眉 ( しゅうび )を開いた顔を傍らの正木作左衛門に向けて意味深長に 北叟 ( ほくそ )笑んだのであった。 「 典膳 ( てんぜん )、典膳ッ」 と 疳走 ( かんばし )った声で近侍を顧みたのは宮津の太守丹後守であった。 「ははッ、典膳めは 御前 ( おんまえ )にござります」 「勝負は何と見る? あれ見よ、玄蕃の面色は変ってある、お! 春日重蔵とやらの乱れぬ太刀筋を見い」 「は、何とも無念に見受けまする」 「どうじゃ勝負は?」 丹後守は歯ぎしり噛む。 「は……」 典膳はその気色に 憚 ( はばか )って答え兼ねた。 「 呆痴者 ( うつけもの )めが! この勝負が予断できぬか、白石十太夫を呼べッ、 疾 ( と )く呼べ!」 と 焦 ( じ )れ声はあたりに高く響いたので、すぐ辷り出た老臣が、 「お召の筋は?」 と早速に云った。 「大月玄蕃を 退 ( ひ )かせい! 打ち込まれぬうちに早く、早くじゃぞッ」 「はッ」 と答えるとすぐ桟敷から、試合奉行へ勝負引分の伝令が飛んだ。 丹後守はいまだ落着かず、更に声を励まして叫んだ。 火急の場合口上でよい」 「ははッ」 「時遅れては末世末代当家の恥辱じゃ。 ちょうどその時は、気息 奄々 ( えんえん )の乱れを見せた大月玄蕃が、残れる精力をあつめて、エエーッと最後の気合を全身の毛穴から振り絞って、春日重蔵の小太刀を 鍔押 ( つばお )しに試みた時であった。 「オーッ」 と息を返した重蔵は、ガッキリこたえて弓形に腰が 反 ( そ )るまで丹田に 渾力 ( こんりき )を集めた。 「待て! 試合は引かれい、上意じゃ」 と目付奉行の大声がかかった。 重蔵はハッと 万斛 ( ばんこく )の水を浴びて小手を緩めたが、小太刀の勢いはそのまま玄蕃の肩先に届いた。 しかし、玄蕃はほッと 甦 ( よみがえ )った顔で、 「参った」 とは云わず、かえっていかにも不平な表情で、 「 何故 ( なにゆえ )あってのご制止でござる」 と呶鳴った。 「 上 ( かみ )のお声がかりでござる。 玄蕃はそれをいい 機 ( しお )に、しかし色には見せず、いかにも残念らしく引き揚げて行った。 家士溜りの剣士の控え場は総立ちになって、何事か罵り出した。 矢来の外の群集も 喧々囂々 ( けんけんごうごう )として、にわかに罵声不平が遠い 海嘯 ( つなみ )のように巻き返した。 何者とも知れずバラバラと京極方へ 砂礫 ( すなつぶて )を飛ばす者があり、矢来を 揺 ( ゆす )って罵り返す宮津城下の町人の叫びも凄まじく雑音の中に響いた。 「奇怪千万な京極家の致し方、余りと申せば卑劣な策じゃ」 と福知山方の正面の座に、じっと事の顛末を睨みつけていた藩主松平忠房は、それへ来た正木作左衛門にそう云った。 「いかにも御意にござります。 某 ( それがし )も余りの理不尽と存じ、唯今目付役人立ち会いの上、京極方へ 懸合 ( かけあ )いに参りましたるところ、玄蕃 儀 ( ぎ )持病さし起り試合大儀の様子ゆえ、引き止めさせたなれど、その代りに別の剣士を選び、改めて春日重蔵殿と立ち合いの上、最後の勝敗を決せんと虫のよき大言を吐きおりまするが、如何致したものでござりましょうか」 「うウむ、飽くまで 穢 ( きたな )き彼の振舞、 蹂躙 ( ふみにじ )ってくれたけれど、重蔵も定めし疲れたであろう、と云って不承知を申せば、飽くまで今日の勝利は我にありと彼等が言い張るに相違ない」 「誠に是非もない儀、この上は改めて君より春日殿へ再び試合直しを仰せつけあるが宜しかろうと存じまする……」 と作左衛門が善後の処置を建策しているところへ、一人の家士が血相変えてその前へ 膝支 ( ひざまず )いた。 「ご家老様、一大事でござります。 早く早くおいで下されませい」 と息さえ 弾 ( はず )ませている。 「ご前じゃ静かにせい。 作左衛門はすわこそと君公の顔をみた。 忠房もさすがに面色をさッとかえて彼に ( めくば )せした。 横暴極まる京極の専断に、 勃然 ( ぼつねん )と怒り心頭に燃えた松平の家臣竹中左次兵衛、君塚龍太郎その他 覇気満溢 ( はきまんいつ )の若侍輩は幕の蔭に潜んでひそかに鉢巻襷の用意をした上、大刀の目釘に熱い 潤 ( しめ )りをくれて、すんでに決死の幕を払って熱風一陣、宮津の家中へ斬り込まんとする 出会頭 ( であいがしら )へ、白足袋の 跣足 ( はだし )のまま駈け込んで来た正木作左衛門が大手を拡げて、 「こは逆上召されたか各 、この 行態 ( ぎょうてい )は何事でござる、お家の大事を思い給わぬか!」 と声を 嗄 ( か )らして 喝退 ( かったい )した。 「あいやご家老のお言葉ながら、言語道断なる京極の無礼、このまま黙っては万民の笑い草でござる。 君公のご恥辱を 雪 ( すす )ぐは臣下の本分、卑怯未練な 蛆虫 ( うじむし )めらを、一泡吹かせて斬り死に致す覚悟でござる。 お通し下されいッ。 お止めだて下さるな」 と一同は鯉口切って 犇々 ( ひしひし )と、ここ 一寸 ( いっすん )も 退 ( ひ )かぬ気色だ。 「おお左様か、忠義の段お見上げ申した。 やれッ、いざ斬り込むもよかろう」とは云いながら、作左衛門は大磐石に立ちはだかって更に云った。 「その代りには両藩必死の 鎬 ( しのぎ )を削り、この桔梗河原に血の雨を降らすとなれば、大公儀のお咎めは何とある? 間違えば福知山三万石のお家は断絶じゃぞ! それでも臣下の本分が相立つならこの 白髪頭 ( しらがあたま )の作左衛門から血祭りにして斬り込まれい」 「こりゃご難題、是が非でも武士の面目勘弁まかり成りませぬ。 お退き下されいッ」 「ならぬッ、君家の危機がお解りないか」 と双方譲らず押問答をしている騒ぎを、休息所でふと耳にした春日重蔵は、それこそ天下の一大事と愕いて作左衛門と共に、猛り立つ諸士を 宥 ( なだ )めて、ひとまず一同を鎮圧したのであった。 とやかくと 一刻 ( いっとき )ばかりは、敵も味方も 囂々 ( ごうごう )と 鼎 ( かなえ )の沸く如く騒然としていたが、やがて再び合図の太鼓がとうとうと鳴り渡ると、緊張し切った大衆は炎に 驟雨 ( しゅうう )が来たかのような 静謐 ( せいひつ )に返ってしまった。 目付奉行の伝令が、双方を駈けめぐって、第二の大試合の用意を促した。 「大儀であった。 仙石殿ご 昵懇 ( じっこん )のその剣客者はいずれにある、これへ呼べ」 と丹後守の喜悦は斜めならずであった。 髪は油の光もない 茶筌 ( ちゃせん )に結び、色浅黒く 爛々 ( らんらん )たる眼は七万石の主公随臣を 睥睨 ( へいげい )して垢じみた黒紋服に太骨の鉄扇を 右手 ( めて )に握り、左の手は胸までそよぐ 顎髯 ( あごひげ )を 扱 ( しご )いて悠々然と座に着いた。 その姿を一目見て、あッと驚き呆れたのは大月玄蕃であった。 彼は 先刻 ( さっき )の試合から引き揚げて来ていたが、丹後守は何故か 一言 ( ひとこと )の言葉も彼に与えなかった。 近侍の者からご不興のご様子ゆえ末座にお控えがよろしかろうと注意されて、にわかに片隅へ寄って悄然としていたのだ。 「余が京極丹後である。 遠路火急を促して大儀であった。 乾坤一擲 ( けんこんいってき )、二ツの木剣は広場の真っ唯中に組み置かれた。 一方から静々と現われたのは 扮装 ( いでたち )変らぬ春日重蔵、反対側から徐々と進み出たのは 未 ( いま )だ名乗りを聞かぬ 黒髯 ( くろひげ )の武士だ。 二人は行きあった所で、きっと眼光を交わせた。 「あいや、某は京極殿の家中ではござらぬが、義によって試合申す、播州船坂山の住人 鐘巻自斎 ( かねまきじさい )と申す者、不鍛練なる富田流にてお相手致す、お見知りおき下されい」 と長髯の武士鐘巻自斎は、 礼譲 ( れいじょう )玄蕃の如き者の比でなかった。 重蔵も会釈正しく、 「申し遅れました。 拙者は 直真蔭 ( じきしんかげ )の末輩、春日重蔵と申す者、お手柔らかに……」 と礼を返して型の通り、木剣の柄に手をかけると同時に 天 ( てんぴょう )一陣二人の体は、つんざく気合いと共にぱッと飛び別れ、重蔵は小太刀を鉄壁の片手伸ばし平青眼に、鐘巻自斎は同じく中段の 立 ( たて )青眼に取って、戦々たる長髯を 靡 ( なび )かせ、 爛 ( らん )とした双眸を眉間へ寄せて唇固く息をのんだ。 春日重蔵は木剣の 背 ( みね )からずッと自斎の構えを見て数十度の試合にもかつて体験のない驚異に 衝 ( う )たれた。 彼の立青眼はそそり立つ峰か、堅固の金城の如く、全身 羽毫 ( うごう )の隙もなかった。 鬢 ( びん )にそよぐ一筋の髪の毛、土を噛んだ爪先にも周密な錬磨の心が行きわたっていた。 重蔵は今日まで接した名人上手の構えにも、これほど堂に入った剣聖ともいうべき神技に接したことがなかった……それはあたかも 真如 ( しんにょ )の 月 ( つき )を仰ぐようだ。 一点の 欠 ( けつ )、一寸の曇りもなければ不安の揺ぎもない。 しかし、そこには彼の恐怖めいた 怯 ( ひる )みは 微塵 ( みじん )も 掠 ( かす )めなかった。 重蔵はたとえ天魔鬼神がここに立つとも、弓矢八幡に身命を捧げて必ず勝たねばならぬ信念であった。 いま自分の双肩には武名山陽に鳴った福知山三万石の重大な名誉の興亡と、決死組の人々が涙をのんでの信頼とを 担 ( にな )っている。 一度沈思から決然と勇侠の本性へ奮い起つと、死も敢えて辞さぬところに彼重蔵の真骨頂があったのである。 一方の鐘巻自斎はまたより以上の驚嘆をもって重蔵を 端倪 ( たんげい )した。 今の青年剣客に珍らしい 慥 ( たし )かさ、まさに上泉伊勢の面影を見るような太刀筋であると思った。 ただその木剣と血走った眼膜から異常な殺気がほとばしっているのを見て取った自斎は、勝負の結果にある不吉を予感しずにはいられなかった。 この殺気に満ちた鋭さで来れば、勢い自分の太刀もどんな 弾 ( はず )みを生まないとも限らない。 「おお新九郎様ではござりませぬか……どう遊ばしたのでござります」 と笹色絹の裾模様に、日傘の赤い光線を浴びた美しい人が、矢来外の人の少ないところにかがんでいた若い武士へ、こう言葉をかけた。 それは正木作左衛門の娘の千浪であった。 福知山藩では今日の試合に公然と女の 陪観 ( ばいかん )を許さなかったので、よそながら矢来の外で胸躍らせていたのであった。 「どう遊ばしたのでござります。 半元服の若い武士は春日新九郎である。 彼はやっと顔を上げて、 「お、千浪殿でござったか……」 と微笑を見せたが、その顔はいかにも苦しげで、そして 白琅 ( はくろうかん )のように蒼白かった。 印籠のお薬をお出し遊ばせ、常、常や」 と千浪は日傘を供の女に渡して新九郎の腰に見えた印籠を取りかけた。 「いえ、大丈夫でござります、大丈夫でござります……」 「およろしいのでござりますか」 「最前から、あまり激しい試合を見たり、大勢の声にガンとして、気分が悪くなったばかりでござります。 拙者はもう参りまする。 ここさえ去れば落着くに相違ござりませぬ」 と新九郎は額を押さえながらそッと立ち上がって歩きだした。 その時は、ちょうど二度目の合図の太鼓が激しく鳴った時であった。 二人の恋は如意輪寺裏の梅月夜から、春が桜を散らすまでになったよりはやく、いつか 灼熱 ( しゃくねつ )して行ったのであった。 二人は 熱鬧 ( ねっとう )の中を 遁 ( のが )れて、ゆく春の静かな山路を福知山へ向って歩いた。 少し離れた後から従いて行く女中のお常は、伊達若衆の新九郎の腰にきらめく太刀の 鐺 ( こじり )と、金糸銀糸の千浪の帯とが並んで行く後ろ姿を 妬 ( ねた )ましく見た。 「新九郎様、もうお顔はいつもに変らぬお色になりましたが、ご気分ははれましたか」 「いつか忘れたようでござる。 お常は日傘を受け取ってつぼめた。 老鶯 ( ろうおう )はその時だけちょっと啼きやんで歌口を 憩 ( やす )めた。 「千浪殿、いつかはこうしてゆるりとお話致したいと思っていたが、あの……この間お常殿の手から渡した、拙者の文は見て下されたか……」 そう云った新九郎は、 俯 ( ふ )し 目 ( め )になって袂を膝に抱えている千浪の 蠱惑 ( こわく )よりほか、すべての世界を忘れていた……お常は用にかこつけて 外 ( はず )したかここに姿が見えなかった。 「はい……」 と千浪は乱菊模様の金糸を一本抜いて、爪紅をした綺麗な 指尖 ( ゆびさき )へ巻いたりほぐしたりしながら、襟足まで 紅淡 ( あかうす )くした。 「ではお読みなされて下さったのじゃな。 そしてそなたの返事は何とでござります。 返事のないのはご不承知でござるか」 「いいえ……」 とかすかに答えた千浪は血の 顫 ( おのの )きに 上逆 ( うわず )って、男の手がふんわりと肩にからんだのも 現 ( うつつ )であった。 お常は容易に帰って来なかった。 いつか藍暗い夕闇の中に二人は取残されていたのであった。 桔梗河原の試合が終ったのであろう、引きも止まぬ群集が、まだ興奮を続けて、罵り騒ぎながら通り過ぎた。 その後から、凄まじい騎馬が砂煙を立って城下へ七、八騎飛んだかと思うと、一隊の武士が悄然と 頸垂 ( うなだ )れ勝ちに跫音も湿って帰って来た。 武士達の中には 滂沱 ( ぼうだ )の涙を拳で払っている者、 面伏 ( おもぶ )せに暗涙をのんでいる者もあった。 しかも何事であろう? 七、八人の足軽が白布で 被 ( おお )った板の上へ一人の武士を仰向けに寝せて、静々と運んで通るのであった。 この二人が勝ちと負けの刹那を現出した時は、どんな悲惨と歓喜の 晦明 ( かいめい )がはっきりと両者を区別して見せたであろう。 しかし後で落着いてみても、その瞬間の手口をあきらかに瞳に 映 ( うつ )した者はほとんどなかった。 唯見る、二本の木剣がつんざく稲妻をほとばしらせて七、八合の 搏音 ( うちおと )がしたなと思った時は、もう自斎の 屹然 ( きつぜん )と立っているのに反して重蔵は仰向けに倒れていた……それ程に 迅 ( はや )かった。 それに較べて、余りに 傷 ( いた )ましかったのは、福知山方の極度の失望で、藩主松平忠房はじめ、並居る諸士、城下の群集もひっそりとして、 冷々 ( れいれい )氷の山か、死人の群集としか見えない、悲壮な雰囲気につつまれてしまった。 中で一人、正木作左衛門は狂気に近い声で、茫然とした人々を叱咤した。 「誰か駈けつけぬか! 重蔵殿が怪我なされたではないかッ」 それに 醒 ( さ )めて、四、五人の侍臣が桟敷から飛び降りると、剣士 溜 ( だま )りの幕からも、五、六人の若侍がバラバラと試合場の中央に駈けた。 やがて、典医の介抱を受けた春日重蔵は、藩主の声に招かれて家士に抱えられたまま桟敷の下へ運ばれて来た。 忠房は 褥 ( しとね )を出て、悲痛な目を落しながら 宥 ( いたわ )った。 「大丈夫でござるか、宜しゅうござるか」 と家士たちは、紫色にわななく重蔵の唇を見て、悲涙を 泛 ( う )かめながら訊き返した。 忠房は見るに堪えぬ 面持 ( おももち )で、 「定めし苦痛であろう。 一刻も早く福知山へ送り遣わせて、充分な手当を致せ」 「はッ」 と近侍はすぐ足軽に 担架 ( たんか )の仕度を命じた。 忠房はその間に、典医から怪我の容態を聞き取った。 その答えによると、強敵自斎の木剣のために、右足の関節骨をしたたかに打ち砕かれているとのことであった。 五丈原頭 孔明 ( こうめい )の 喪 ( も )を秘して 潰走 ( かいそう )した蜀兵の哀寂と同じものが、一同の胸へこみ上げてくるのだった。 恋の陶酔に他念のなかった新九郎と千浪が、辻堂の縁から 転 ( まろ )び下りて、この 酸鼻 ( さんび )な生ける葬式に 邂逅 ( かいこう )したのは。 この二、三日、丹後宮津の町は祭りのような騒ぎであった。 藩では 橋立 ( はしだて )の文珠閣で勝ち試合の恩賞と祝いさえした。 ところが、ここに 惨 ( みじ )めな者は、かの大月玄蕃で、当日の不首尾から閉門を申しつけられ、その上、数日後になって「武芸未熟の 廉 ( かど )を以って指南番を免役」という 苛命 ( かめい )を受けた。 玄蕃を見放した丹後守は、一方に 鐘巻 ( かねまき )自斎の神技を 渇仰 ( かつごう )して何とか自藩の指南番に召し抱えたいと思った。 「どうであった。 承知致したか」 と今日も、出石に滞在している自斎の許へ使者にやった重役 溝口伊予 ( みぞぐちいよ )の帰城を待ち兼ねていた丹後守は、こう云って彼の返事を待った。 「残念ながら、この儀は 最早 ( もはや )望みはござりませぬ」 と伊予は役目の不結果をまず暗示した。 「ふーむ。 では千五百石の高禄を与えると申しても、まだ不足じゃと申しているのか」 「いえ、それならばまだしも、実は度々当家からのご催促に、仙石家でもお 執做 ( とりなし )下されたのでござるが、不意に今朝姿を隠してしまった由でござります」 「何? では 播州 ( ばんしゅう )へ戻ったと申すか」 「武芸遍歴の旅に 上 ( のぼ )るゆえ、両三年はお目にかかるまいと仙石家へ一書を残して旅立ちました」 「ほほう。 数日過ぎると、溝口伊予は再び仙石家を訪れて来て、どうしても自斎を断念しきれない主人丹後守の 懇請 ( こんせい )を告げた。 「この度は是非もござりませぬが、自斎どの遍歴を終えてご当家へ立寄りの節は、是非にお執做の儀を今から願い置き申す。 それまでは何年にても宮津七万石の指南番の席は 空 ( あ )けてお待ち致す考えでござる」 と破格な条件を残して行った。 仙石左京之亮も、一藩の君主がそれまでに執心なら、むざと彼を旅立たすのでなかったにと後悔したが、後日に 周旋 ( しゅうせん )を約して、ひとまず溝口伊予を帰したのである。 「旦那旦那、馬に乗っておくんなせえ」 「馬か、まず 要 ( い )らぬの」 「そんなことを云わねえでよ。 福知山へですか? 元伊勢へお 出 ( いで )ですかい、お安く行きやすぜ」 「要らぬと申すに。 うるさい奴じゃ」 「帰り馬だから頼むんだ、ねえ乗ってくんなせえ」 「くどいッ」 と先の浪人は編笠を振り顧って、鋭く一喝した。 その底力のある声に、道中ずれのした馬子も 恟 ( ぎょ )ッと首を 悸 ( すく )めてしまった。 「亭主、茶なともらおうか……」 と浪人は微笑を洩らして、向うに見えた茶屋の 床几 ( しょうぎ )へずいと腰掛けた。 「亭主、これから福知山の城下は何程あるな」 「左様でござりますな。 まア三里でござりましょう」 と茶盆を持って来た亭主は、編笠をとった浪人の顔を見て、しばらく茶も渡さず 瞶 ( みつ )めて、 「旦那様はこの間、桔梗河原の試合で春日様を撃ち込んだ、京極方の先生でござりますな」 と云うのであった。 それは 紛 ( まぎ )れもない 黒漆 ( こくしつ )の長髯があるので、その日の試合を見た者なら一目で知れる鐘巻自斎に違いなかった。 「はははは、そりゃ他人の空似であろう」 と自斎は 寛達 ( かんたつ )な笑いに紛らせて茶をすすったが、亭主はぷいと奥へ避けて、それからは自斎が言葉をかけても返事もしなかった。 「おかしな奴もある者じゃ……」 と自斎は山家者の偏屈と別に気にも止めず、四方の風光に気をとられていた。 彼は播州船坂山の住人とばかり名乗って、桔梗河原の一試合で山陰道にその名を轟ろかせ、京極丹州の切なる 招聘 ( しょうへい )をも退けて、飄然とここへ相変らず粗服の旅装を現わしたのであるが、そもこの鐘巻自斎の剣法とは、如何なる奥底のものであろうか、ただ神変不可思議な霊剣の所持者とばかり見て置くのはやや飽き足らない。 当時、承応の時代に最も行われている剣法の諸流は 上泉 ( かみいずみ )の 真蔭 ( しんかげ )、 諸岡 ( もろおか )の神道無念、 高弟 ( こうてい ) 兎角 ( とかく )の 微塵 ( みじん )流、将軍家流とも云うべき柳生、宮本没後に伝わるところの二刀、新免正伝派、伊藤弥五郎を祖とする一刀流、別れての小野派、忠也派、憲法の吉岡流、その他、天道流、 中条流 ( ちゅうじょうりゅう )、田宮流、無外流、鞍馬八流、 心形 ( しんぎょう )一刀流、甲源一刀流、柳剛流、東軍流、 卜伝 ( ぼくでん )の遺風など剣の流派は百を数えて余りある時世であったが、鐘巻自斎の剣法は、それらの俗間者流とはまったく趣を異にした天下の秘剣と云ってよいものであった。 事実、自斎と同じ剣妙を 会得 ( えとく )した者は天下に三人よりなかったのである。 その三人を富田三家と云って、自斎がその一人であるのは云うまでもない。 しかし、この剣法の 淵源 ( えんげん )は、必ずしも自斎の独創ではなかった。 美濃 ( みの )の奇傑斎藤 義龍 ( よしたつ )の 外妾 ( がいしょう )の子五郎左衛門、世を忍ぶ名を 富田勢源 ( とだせいげん )と云った 世 ( よ )すね 人 ( びと )が、宇宙の大理から感応自得して工夫を積んだ秘術で、生涯に自斎のほか二人の弟子より以外に剣の話も交じえたことのない人物であった。 その開祖の富田勢源は、その後 忽然 ( こつぜん )と住み馴れた美濃の住居を捨てて姿を消してしまった。 ある者は死んだと云い、ある者は深山に入って剣法以上の仙術を会得する為に 行 ( ぎょう )をしているとも噂した。 とにかく、今では富田勢源の死生は深い謎になっている。 けれども、鐘巻自斎は師の勢源が、この世を去ったものとは決して信じなかった。 そして彼は四十の年を越えた頃に、ある剣法の疑問に行当り、その解決を得なければ、真に欠点のない名人とは云われない一箇所の弱点が自分にあることを発見した。 彼はそのために非常な 煩悶 ( はんもん )を続けたが、どうしても会得の曙光を仰ぐことが出来ないので、彼は断乎と播州船坂山の 住居 ( すまい )を閉じ、 未 ( いま )だいずこにか生きておわすと信じて疑わない、師の富田勢源を尋ねあてて教えを乞うべく、大願の武者修行にさすらいはじめたのである。 その大願のある自斎には、桔梗河原の功名などは、ほんの旅情の慰さめに過ぎないのであった。 ただ彼は前に云った一つの剣法の疑問をどうかして会得したい為に、旅の道々にも努めて他流試合を試み、諸流派の秘訣を 窺 ( うかが )って見ることに心懸けているので、春日重蔵との試合も単にそれだけの心で引き受けたのである。 ところが、重蔵に必死の 気愾 ( きがい )と、侮りがたい腕があったため、思わぬ烈剣を放した結果、彼の片足を打ち折ってしまった。 自斎は後になって、あたら有為の青年剣客者を、不具者にした無謀を非常に後悔した。 その途中の茶屋で、自斎はしばらく足を 憩 ( やす )めている。 「おおちょうど在宅だが、どうした? また下らねえ 揉 ( も )めごとでも背負いこんで来たのじゃねえか」 と渋い 博多 ( はかた )の帯に 大島紬 ( おおしまつむぎ )の着流しで、それへ出て来た由良の伝吉は、苦み走った三十前後の年頃で、さすが船稼業だけあって、江戸前の遊び人と云ってもいい男前に見えた。 「親分、いつもそんな下らねえことばかりじゃねえ。 一大事があるから知らせに来たんでがす」 「どうも体の 懶 ( ものう )いところへ、一大事たあ耳寄りだ。 一体何が持ち上がったのだ」 「他でもねえがこの間の大試合でがす。 こうして福知山の殿様のお荷物で飯を喰ってりゃ、瘠せても枯れても足軽の下くらいなご家来も同様、その上春日重蔵様の先代には、命まで助けられたことのある由良の伝吉だ、そんな講釈を聞かねえでも、口惜しくって男泣きをしているんだ。 ええ、もう気色が悪いから、そんな話を聞かしてくれるないッ、思い出してもむしゃくしゃすらあ」 「だから親分、こうして飛んで来たんでがす。 そ、その 仇 ( かたき )の野郎が、このご領分の中へ図々しく のさ張って来やがったんです。 これから福知山へ行くって云ってやがったから何をする気か知れませんぜ」 「ふむそうか。 ではたしかに試合で重蔵様の足骨を砕いた、あの鐘巻自斎に違えねえな」 「見違えっこはありません。 あんな長い髯のある侍なんて、滅多にありゃしませんから」 「よしッ。 よく知らせに来てくれた。 さすがてめえもご領分の町人だ、やいやい二階にいる奴らあみんなここへ降りて来い!」 と伝吉が奥へ向いて声を張ると、何事かと、二階で開帳中の乾分たちが、どかどかとそれへ出て来て、 「何です! 親分」 と渦を巻いた。 「くどいことを云ってる間はねえ。 どいつも 脇差 ( どす )を一本ずつ 打 ( ぶ )ッ込んで俺の後に 尾 ( つ )いて来い」 「合点でがす」 と気の早い 弁慶縞 ( べんけいじま )や豆絞りの連中が、思い思いに向う鉢巻、足ごしらえをしながら、 「おい、行先はどこだい、縄張り荒しか」 「そうじゃねえ、今俺あ 階下 ( した )にいて聞いていたら、桔梗河原でこっちの春日重蔵様の足を 打 ( ぶ )ッ 挫 ( くじ )いた、かの三国志の絵にあるような侍が、図々しくここらへうろうろ来やがったんだとよ」 「畜生ッ 太 ( ふて )え 外道 ( げどう )だ。 そんな野郎にご領内の地 べたを 一寸 ( いっすん )でも踏ませてなるもんけえ」 「そうだ叩ッ殺してしまえッ。 そいつを通しちゃご城下口に頑張っている由良の身内の名折れだ」 と伝わると、唯さえ鬱憤の満ちていた折とて、縄張り喧嘩以上の殺気が 漲 ( みなぎ )り渡った。 「野郎ども、仕度はいいか」 と由良の伝吉は 真田 ( さなだ )の 襷 ( たすき )に 銀角鍔 ( ぎんかくつば )の脇差を落して、荒格子の外に出ると、いつか馬子の権十が他へも触れ歩いたと見えて、あっちこっちから血気の若者が、思い思いの得物をとってワイワイと集まって来た。 「権十ッ、案内しろ!」 と伝吉が真ッ先に駈け出すと、 「それッ、親分に続け」 と乾分を加えたその人数が、 疾風 ( はやて )に押される 潮 ( うしお )のように、砂煙を残して行った。 茶屋の軒から、 二足 ( ふたあし ) 三足 ( みあし )立ちかけた鐘巻自斎が、ワッと近づく人声に、何事かと 解 ( げ )せぬ顔で見ていたのは、殺気立って来る由良の伝吉の禍いを待っているのと同じことになった。 「やい 武士 ( さんぴん )ッ、うぬあ京極方に味方して、春日様の足を打ッ挫いた 痩浪人 ( やせろうにん )だろう。 この先へ行くことあならねえからそう思えッ」 と仁王立ちに大手を拡げた伝吉は、 後 ( しり )えに五、六十人の人数を曳いて、自斎の前を 塞 ( ふさ )いでしまった。 彼も憤然とした。 「何ッ! 天下の大道、誰が歩くに致せ 差閊 ( さしつか )えがあろうか」 「いけねえいけねえ。 たとえ天下の往来であろうと、てめえだけは通すことはならねえ、その 地境 ( じざかい )から 一寸 ( いっすん )でも踏み込んで見やがれ、胴と首の生別れだぞッ」 と伝吉はガッキと柄に力を入れた。 「さても呆れた暴れ者め、旅人の妨げ致すからには、汝等こそ用捨はいたさぬッ」 「何をッ」 と血気な伝吉は、抜くが早いか命知らずに自斎の真っ向へ飛びかかった。 「うぬッ」 と横にのめッた伝吉は、青筋を立ててもう一度必死に斬り込んだ。 するりと抜けた鐘巻自斎は、一方から脇差を振りかぶって来た乾分七、八人の中へ突入して、たちまちバタバタと鉄扇で叩き伏せた。 投げられる者、 将棋倒 ( しょうぎだお )しになる者、凄まじい砂煙が白刃ばかりをきらきらみせた。 「ワーッ、 打 ( ぶ )ッ殺せッ、逃がすな」 と多数の激昂が、倒れる者の後から後から車返しに自斎の前後を十重二十重に囲んだ。 二度斬り込んで、二度とも苦もなく 刎 ( は )ね飛ばされた由良の伝吉は、無念の 眦 ( まなじり )で隙を狙っているが、味方の多数に遮られて近寄ることが出来ない。 自斎の鉄扇は時を経るほど、縦横無尽の快速を加えた。 そのうち 緩 ( まど )ろいと思ったか、鉄扇を捨てて無手を 翳 ( かざ )した自斎は、飛燕の如く身を屈めると、もう渦を巻いてる多勢の思わぬ所へ姿を現わし、寄る奴当る奴の 襟首 ( えりくび )とって、人を人へ投げつけはじめた。 「駄目だッ駄目だッ」 とそれに 怯 ( ひる )んだ者の弱音に、浮足立った 烏合 ( うごう )の群はしばらくジリジリに押し戻していたが、どッと崩れ立つと一人も残らず雲霞と逃げ散ってしまった。 追う気もなく、騎虎の勢いで自斎が四、五丁駈け散らして来たが、益もないことと思い返して、そこから見えた川床へ、渇いた喉を 潤 ( うるお )しに降りて行った。 自斎もそれには気づかなかった。 河床の岩に両手をついて、底の水草が 透 ( すき )とおって見えるほどな清冽な流れを見た。 そして片手を濡らして汗ばんだ鬢の毛を撫でつけ、流れへ臨んで少し身を 逆 ( さか )にしながら口そそごうとした途端。 「こん畜生ッ」 と腕に覚えの由良の伝吉が、無念をこめて 真背後 ( まうしろ )から、鍔もと深くふり下ろした二尺八寸の大脇差。 「大胆な奴じゃ……」 と自斎は河へ眼をやった。 投げ込まれた由良の伝吉は、浅瀬の岩に引ッかかって、仰向けに浮きつ沈みつして見えたが、どこかを岩で打ったらしく、まったく気絶している様子である。 「こやつ一人は最前から、町人に似気なく骨っ節の強い男じゃが、このまま抛って置けばいつか気がつくであろう……」 と自斎は独り頷いて、そこを立ち去った。 しかしこのために、彼は福知山へ行くことは思い止まった。 この様子では城下の者は、より以上興奮をしているに違いない。 そこへ春日重蔵の容態を見舞うのは、かえって彼に皮肉と苦痛を与えに行くようなものだと、深く反省したからであった。 そこで、路を代えた鐘巻自斎は、 鬼 ( おに )ヶ 城 ( じょう )峠を越えて 梅迫 ( うめさこ )から綾部を廻り、京都路へさして行ったらしいが、後の消息はこの地方に絶えてしまった。 柳端の春日重蔵の道場は、この頃、 竹刀 ( しない )の音もしなくなって、ひっそりとしていた。 奥の一間には重蔵が足を療治して寝ていた。 「残念だ……残念だ、この足さえ満足に立てば」 と、彼の男泣きに呟やく声が、時々 囈言 ( うわごと )のようにそこから洩れた。 ある時は狂者のようになって。 「も一度この足を満足にして、鐘巻自斎を打ち込まねば、切腹して死ぬにも死なれぬ」 と叫び狂うことさえあった。 藩主からは時々典医を見舞によこした。 正木作左衛門も 余暇 ( ひま )さえあれば来て慰めたが、弟の新九郎は、さすがに気が咎めるのか、相変らず奥に籠って人に面を合せたことがない。 その新九郎には、また新九郎の懊悩があった。 或いは兄の重蔵以上の苦しみかも知れない。 この頃、千浪は目立って新九郎に元のような態度を見せなくなった。 彼女は明かに恋を裏切って来ているのだ。 「何じゃ」 と横臥した重蔵は、苦痛に瘠せた蒼白い顔をわずかにこっちへ向けた。 「何かご用でござりますか」 「そのほうは兄がこうなっても、口惜しいとは思わぬか」 「は……」 新九郎は 俯向 ( うつむ )いてしまった。 新九郎ッ、なぜそちは女に生れてくれなかった」 と重蔵は唇をわななかせた。 「…………」 新九郎は手を膝に組んで、人形のように素直にうなだれたままである。 兄に対しては口ごたえもせぬほど彼は素直であった。 それが重蔵には、頼りにならぬ弟と、いつも諦めさせる姿であるのだ。 しかし、今日は重蔵もひどく興奮していた。 「その年になりおって、 撓刀 ( しない )の持ち方も知らぬ弟、不具の兄、二人揃って笑われ者になりおるより、新九郎ッ兄の頼みじゃ、腹を切れッ」 「げーッ」 と彼は 身慄 ( みぶる )いして飛び退こうとしたが、 袴 ( はかま )の裾は床から伸ばした兄の手にかたく掴まれてしまっていた。 「騒ぐことはない。 武士の家に生まれたは汝にとっては不倖せ、生恥かいて何の面目があろう、死ね! 頼みじゃ」 「あッ、兄上ーッ」 「ええッ情けない奴め!」 と枕元の脇差へ重蔵が手を伸ばした隙に、新九郎は色を失ってばたばたと玄関から表へ逃げだしてしまった。 夜更 ( よふ )けの拍子木が廻った。 正木作左衛門の角屋敷の黒塀へ、 貼 ( は )りついたような人影が、身動きもせずに 佇 ( たたず )んでいた。 それは春日新九郎であった。 彼の頭には今、千浪に会うという一念より他なかった。 今日、出がけに云われた兄の言葉も、世間も、武士道も、そんな意識は一切、恋の 熔鉱炉 ( ようこうろ )へ流れ込めば燃える単一な情炎の色よりほか何物でもない。 ポトリポトリと若葉が降らす 雫 ( しずく )の音に、夜の静けさは増して行った。 新九郎は、ハッと動悸を高めて、物蔭へ身をひそませたが、向うへゆく後ろ姿が、どう見ても千浪の 細 ( ほっ )そりした 型 ( かたち )に間違いないので、時やその他の不合理を疑う余裕もなく、すぐ身をひるがえして後を追って行った。 さきの影は、女とも思えぬ迅さであった。 新九郎は、途中でふと千浪ではないかしらと 遅疑 ( おく )したが、 音無瀬川 ( おとなせがわ )の 縁 ( へり )へ出た時、川面の水明りでいよいよ彼女に間違いないことを知った。 淫婦めッと心に罵りながら、他の男と密会するところを突き止めた上の覚悟まで考えながら走りつづけた。 ただかすかに拝殿の 古御簾 ( ふるみす )を洩れる灯影が、階下に 跪 ( ひざまず )いた一人の女の祈念へ、ほのかな神々しさを流していた。 「おお! 新九郎様」 と千浪は、それが 曲者 ( くせもの )であるより以上に 愕 ( おどろ )きの眼をみはった。 「どうして貴方はこれへお 出 ( いで )でござりました」 「いや、それよりそなたこそ、どうして拙者につれなく召さる。 いつかのお言葉、ありゃ 反古 ( ほご )か」 と痛いほど、握った手を強く振りながら云った。 「にわかに打って変ったこの頃の素振りはどうしたもの? さ、それ聞きに参ったのじゃ」 「…………」 「言葉もないのは変心致されたな!」 と声のあとから熱い息が 弾 ( はず )んだ。 明るい所であったら、その眼も怖ろしく血走っていたろう。 お兄上様のこの度のことから、世間は何と考えましょうぞ。 重蔵様程のご舎弟ゆえ、今にきっと兄上に代って天晴れなお腕前になるであろう。 それを 微塵 ( みじん )もお心にないは、余りと申せば腑甲斐ない、武士に珍らしい腰抜けじゃと、父さえ蔭で申しまする……それを聞く私の切なさ……く、く、口惜しさ……」 と 嗚咽 ( おえつ )に交じった千浪の言葉は、女らしいうちにも 抉 ( えぐ )るような鋭さがあった。 新九郎様、これでお疑いは晴れる筈でござります」 「ああ拙者は恥かしい男のう……」 「そこへお気がつきましたら、どうぞ重蔵様にも勝る剣士、鐘巻自斎にも優れた名人におなり遊ばして下されまし」 「……が、我ながら、どう気を取直しても、生れつきの臆病と見えて、 剣 ( つるぎ )の音を聞くだに身が縮む。 何でそのような大望が果されよう……」 「その弱いお心が悪魔でござります。 殿御の一心で出来ぬことがござりましょうか」 「たとえ何ほど申されても、剣術嫌いは天性じゃもの……それより新九郎が切なる頼みじゃ、千浪殿、どうぞ拙者と死んで下され」 「エエッ」 と千浪が、愕きに身を 反 ( そ )らしたのを、逃げると思ったか新九郎は固く袂を掴んで、 「そなたと死ぬなら怖ろしくもこわくもない。 拙者の望みもそなたよりない今じゃ! 生きて武士の約束に縛られるより、二人でなら美しい夢見るように死んで行ける。 その日の夕暮、同じこの男山八幡の境内を、参詣するでもなく、うろついていた一人の浪人があった。 無論、そんな 気配 ( けはい )は、夢にも知らぬ二人であった。 右手 ( めて )にかまえた 切尖 ( きっさき )は千浪の胸の前で、ただわくわくと 顫 ( ふる )えていた。 「そうじゃ! いっそ……」 と千浪はその刃から、一寸も 退 ( の )いてはいなかった。 どこまでも失わない理性を澄ませて、新九郎のふるえる脇差の手頸を握った。 そして自分の右手は懐剣をギラリと抜き持って、もう死顔になっている男の喉へピタリと向けた。 「あッ」 ともぎ離されて仰向けになった二人は、雲突く男の影と 三悸 ( みすく )みになって、しばらくじっと無言の闘争を張りつめていたが、千浪は懐剣の柄を固くして、 「なに意趣あって 足蹴 ( あしげ )にしやッた! 御身は一体何者じゃッ」 と 木魂 ( こだま )するほど、鈴の声を強く投げた。 名を呼ばれて千浪は恟ッと、 「な、なんじゃと?」 と、眸をみはった。 「そちが忘れている筈はない。 如意輪寺裏の梅月夜に、敢えなく見遁した大月玄蕃じゃ」 「えッ」 「これッ、今宵は、 金輪際 ( こんりんざい )逃がさぬぞ、元と違って、今の玄蕃は、三界流浪の浪人、腕ずくでもそちを連れて他国へ走り、想いを遂げる覚悟で先頃からつけていたのじゃ!」 「ええ聞くもけがれ! この千浪には、春日新九郎という誓ったお方がありますわいの」 「おおよい良人を選ばれた。 その血潮は、ふだんの柔弱を滅却して、敢然と、彼の 気愾 ( きがい )を立派に叩き直した。 玄蕃は飽くまで 憎面 ( にくてい )に 睥睨 ( へいげい )している。 「そんな男に心中立てするより、死にたいという新九郎は、一人で勝手に死なしてやるがいい。 千浪、そちには身共が用がある、くだらぬ命をむざむざ捨てさす訳には行かぬぞ」 「慮外な言葉、誰がお身如きにこの身の指図を受けようぞ! 死んでも悪魔の妻にはならぬ」 「それは女の月並文句、強い男の腕で抱きしめられたら、もう 羽翼 ( はがい )の力も抜けて、今の言葉は忘れるだろう。 「 猪口才 ( ちょこざい )な」 と、玄蕃は 体 ( たい )を開いて、閃光を目当てに、グッと 腕頸 ( うでくび )を掴んだ。 千浪は必死に、 「新九郎様ッ、悪人の 刃 ( て )におかかり遊ばすな!」 「ええこの邪魔者ッ、うぬから先だ」 と玄蕃は、鬼丸 包光 ( かねみつ )の大刀を抜き打ちに、新九郎めがけて、 颯 ( さっ )と斬りつけた。 それも夢心地で、飛鳥の如く、二人は、闇を衝いて駈けだしたのだった。 そこは、音無瀬川の断崖であった。 静かに、無数の渦を描いて、 音無瀬 ( おとなせ )の水が 憩 ( やす )らかによる鷺ヶ淵は、まだ 峯間 ( みねあい )から朝の陽も覗かないので、ほのかな暁闇の漂う中に、水藻の花の息づかいが、白い水蒸気となってすべてを夢の世界にしていた。 「やいやい、そう 艫 ( とも )を突くない艫を! 見ろッ、 舸 ( ふね )が廻っちまったじゃねえか」 「突きゃあしねえよ、何か 舸脚 ( ふなあし )に 引 ( ひ )ッ 搦 ( から )んだようだぜ、 兄哥 ( あにき )、俺が岩に 舫 ( もや )っているからちょっと見てくんねえ」 「何? 藻 ( も )だろう。 「女だ……女らしいぜ兼、も少し 舸 ( ふね )を後へ突いてくれ、下になっちゃった」 とグルリと一つ舸を廻すと水藻の網を被った死骸がゆらゆらと浮いて出た。 「それッ」 と二人は手を揃えて、やっと舸の中へ 拯 ( すく )い上げて見ると、女と思いきや前髪立ちの美少年で、水に 浸 ( ひた )されて蝋より白くなった顔に、わずかな血の痕が 黝 ( くろず )んでいた。 「兼、いい男だなあ」 「だけれど今の扱帯は女物じゃねえか。 じゃ少しも早くだ!」 と鮮やかな 水馴棹 ( みなれざお )は、たちまち舸を本流へ出して、向う岸へと突ッ切って行った。 長押 ( なげし )には槍、床には紫の 杜若 ( かきつばた )、 白衣 ( びゃくえ )観世音の軸へ、切り窓から朝か夕かわからぬが、とにかくこの世の光が射していた。 正しくそれはこの世の光だ、白衣観世音も槍も杜若もたしかにこの世の物に違いない……して見ると自分もまだそのなかの実在かしら? 死んではいないのか。 しかし、たしかに自分は死んだのだ。 この絹布も一体誰の情けの物だろう。 と、みしりみしり、廊下を踏む音がして来た。 「おう、お気がつきなすったようでごぜえますね」 と静かに 襖 ( ふすま )を開けて入って来たのは、 主 ( あるじ )の由良の伝吉であったのだ。 これには深いご様子もごぜえましょうが、何より体を 癒 ( なお )すのが第一、その上で及ばずながらとっくりとご相談 対手 ( あいて )になりやしょう」 「……忝けのうござる……」 新九郎は、千浪のことがちょっとでも知りたかったが、胸につかえて、云い出せなかった。 体は日に増して恢復して行ったが、心の苦悶は肉体と反対に日夜、 慚愧 ( ざんき )の 牛頭 ( ごず ) 馬頭 ( めず )に 苛責 ( せめ )られた。 殊に千浪の死骸さえ分らないと聞いた時、彼は、舌を噛もうとさえ思ったが、その時、率然と、新九郎の耳底から、生ける恋人の顔がよみがえって来た。 (女の一心さえ恋を遂げます。 男の一念で成就せぬことがありましょうか、何故あなたは 不具 ( かたわ )になった兄上に代って一度でも鐘巻自斎を打ち込み、松平の名誉を上げ、福知山の人々の悲憤を晴らしておやりにならぬのです! それが腰抜け武士、臆病侍と、世間の嘲笑の 的 ( まと )になってるあなたをも、一番生かす道ではありませんか) 「そうだ! 拙者の行く 途 ( みち )はそれだ!」 新九郎は心で叫んだ。 翻然 ( ほんぜん )と大悟した彼は、 無明 ( むみょう )の 闇 ( やみ )から光明の中へ、浮かみ出したような気持がした。 思い立っては矢も楯も堪らなかった。 情死 ( しんじゅう )の片残りという不甲斐ない身を、一日も 晏如 ( あんじょ )としている恥かしさに耐えなくなった。 その夜新九郎は、ひそかに三通の書面を認めた。 一通は伝吉へ、一通は千浪の父作左衛門へ、最後のは不遇な兄重蔵へ宛てたものであった。 そして、旅仕度も着のみ着のまま、彼の姿は、 暁方 ( あけがた )近くに、伝吉の家の裏木戸を出て、行方知れずになった。 「親分へ、飛んでもないことが出来ましたよ」 と夜が明けてから、新九郎の部屋を覗いた女房のお藤が、顔色を変えて伝吉へ告げに来た。 「朝ッぱらから、何を慌てていやがるんだ」 「だって親分、新九郎さんが見えませんよ」 「何?」 と伝吉もさッと蒼くなった。 「裏木戸が開けッ放しで、この手紙が残してあるだけですよ」 とお藤からそれを手渡された伝吉は、腰が抜けたようにどッかと 大胡坐 ( おおあぐら )をかいて、封を切る手さえふるえていた。 てっきり、千浪の死を慕って行った。 ところが一字一字、読んでゆくうちに、見事その直覚は裏切られて、はらはらと感激の涙さえこぼしてしまった。 「偉い!」と彼は 呻 ( うめ )くような感嘆の声を上げて、 「お藤、それから、野郎どもも、まあここへ来てこの手紙を読んで見ろ!」 と伝吉は一人の讃嘆では物足らずに、一同を呼び集めた。 「どうだ、男はこう来なくっちゃ本物じゃねえ。 新九郎さんは武者修行に出たんだ。 たとえ五年が十年でも、鐘巻自斎を一本打ち込まねば、 胆 ( きも )を 舐 ( な )めても修行を続けると書いてある。 見上げた者だ、恐れ入った」 と、彼はひそかに、前から乾分たちに新九郎は見込みがあると云った先見の誇りを感じた。 真ッ先に柳端の春日重蔵の道場へ来てみると、意外にも空家になっている。 隣家で訊ねると、重蔵は武芸者として再起の望みのない体を悲嘆の余りと、弟新九郎の噂に対する申訳に、 剃髪 ( ていはつ )して如意輪寺の 沙門 ( しゃもん )となってしまったということであった。 伝吉は止むなく、その足で正木作左衛門の屋敷へ行き、庭先へ廻された。 「おお伝吉か、先頃は千浪の不始末、其方にもいろいろ 手数 ( てかず )を煩わしたの」 と縁先へ出て会った作左衛門は、おそろしく 窶 ( やつ )れていた。 「どう致しやして、せめて千浪様のお 死骸 ( なきがら )でもと、随分手分けを致しましたが、その甲斐もなく定めしお心残りでごぜえましょう」 「いやいや、不義の娘に未練はない。 「まあとにかく、読んでだけはお上げなすって下せえまし」 と伝吉の言葉に、作左衛門は不承不承 袂 ( たもと )から眼鏡を出して読みはじめたが、手紙を置くと、はッたと膝を打って、 「うーむ、やりおったやりおった」と表情しきれぬほどの喜びを溢れさせて、 「これでこそ武士! 春日重蔵殿のご舎弟じゃ、天晴れ鐘巻自斎に勝る腕前にもならば、 君公 ( きみ )をはじめ、福知山藩全体の大きな誉れ、娘の千浪も名分が立つと申すもの……」 と作左衛門の欣びは尽きなかった。 そして慌ただしく奥へ入った作左衛門は、一封の小判と印籠、それに 来国俊 ( らいくにとし )の大刀を添えて伝吉に差し出した。 「折入っての頼みじゃが、定めし世馴れぬ新九郎が、永い武芸修行は困難であろうと存ずる……今朝立った道はおおかた京都路であろうゆえ、其方の足で追い着いて、大儀ながらこの三品を渡して遣わしてくれぬか」 と、わが子にも等しい思いやりで云うのであった。 「承知致しました。 したが、重蔵様へのもう一通は? ……」 「おう、それは拙者が如意輪寺へ参ってお手渡し致そうぞ。 重蔵殿もこの由、お聞きになったら定めしご本望のあまり、嬉し涙に暮れるであろうわい」 やがての後、作左衛門は如意輪寺へ駕を向けた。 その時、もう由良の伝吉は身軽な旅仕度となって、新九郎の後を追って京都路へと急いでいた。 承応元年六月 初旬 ( はじめ )の 暁 ( あけ )がた。 由良の伝吉の裏木戸から、再生の一歩を踏み出した春日新九郎は、但馬街道を東にとって、生野から 兎原 ( うはら )越えして檜山宿辺りへ来るまでは、ほとんどわき目もふらずに歩いた。 もし、怪しむ者あって、「汝は 何処 ( いずこ )へ?」と聞いたら、彼は言下に、「鐘巻自斎に一剣を見舞う為」と明答したであろう。 埴生村 ( はにゅうむら )の村はずれで、茶店に腰かけて 空腹 ( すきばら )を 癒 ( い )やした時、新九郎は初めて旅にふさわしからぬ己れの仕度に気づいて、草鞋を買い 袴 ( はかま )の股立ちをからげたりしていた。 奥を覗くと、ちょうど茶店の亭主が髯を 剃 ( あた )っている様子、新九郎は頷いて小腰を 屈 ( かが )めた。 「ご亭主、折入って頼みたい儀がござるが……」 「はあ、何でごぜえますな」 「誠に恐れ入るが、その後で拙者の前髪をおとしてはくれまいか」 「へえ! 月代 ( さかやき )をお取り遊ばすので?」 と亭主は 怪訝 ( けげん )な顔をした。 「そうじゃ、世話であろうがやってくれい、前髪姿では道中とかく馬鹿にされるでの」 「宜しゅうござります。 じゃこちらへお掛けなせえまし、その代り 素人 ( しろうと )でがすから痛いのはこらえて下さっしゃい」 と亭主は 剃刀 ( かみそり )を 研 ( と )ぎ 直 ( なお )した。 十九という 歳 ( とし )まで半元服で、前髪振り袖で暮らした軟弱な記念を、この日に剃り落すということは、新九郎に大きな意義があった。 どんな武家の元服の場合より、偉大な覚悟を持っての元服であった。 「どうでがす。 痛かあごぜえませんかな?」 「いや、よう剃れる剃刀じゃ……」 と新九郎は、惜し気もなくバラバラと膝に落ちてくる黒髪に、感慨無量の眼を落していた。 髷 ( まげ )は根元を紫紐でキリッと結んで、ふっさり後ろへ切り下げにした。 そこへ、どかどかと五、六人の百姓が、 喚 ( わめ )きながら駈け込んで来たが、新九郎の姿を見て、 「おおお武家様がいた。 お武家様がござらっしゃる」 と口々に云った。 中の一人は新九郎の足許へ平つくばって、 「お見かけ申してお 願 ( ねげ )えがごぜえます。 この村の者でがすが、今向うへ行く三人連れの侍がありますだ。 そいつらは、この先の 斑鳩嶽 ( いかるがだけ )に巣を喰っている山賊も同じような悪郷士で、私どもの娘を二人召使に寄こせと、 抜刀 ( ぬきみ )で脅して山へ引ッ張って行こうとするのでがす。 お武家さま、どうぞお助けなさって下さいまし、お助け下さいまし」 とその親らしい百姓は、眼さえ濡らして騒いでいる。 しかし、一人前の武芸者と見られて、哀願された新九郎は内心はッとしないではいられなかった。 対手 ( あいて )は三人の悪郷士、自分はまだ剣道の けの字も覚えのない身だ。 「そりゃ気の毒なことじゃ。 よし、娘は拙者がとり戻して進ぜよう」 彼は勇敢にそう云いきってしまった。 すべては自分の腕を鍛える修行だ。 今日からは、浮世のあらん限りの困苦を甘んじて受難する身だ。 必死となれば大月玄蕃の鋭い 白刃 ( しらは )さえかわしたではないか。 「ではお助け下さいますか。 有難うがす、みんなよ、お武家様が行ってやると仰っしゃるだ」 「有難うごぜえます。 どうぞ二度と村へ足踏みしねえように 懲 ( こら )してやっておくんなさいまし」 「案内致せ」 新九郎は大刀を握りしめて立ち上がった。 しかし、さすがに三人を 対手 ( あいて )に斬合うとなれば、いわゆる、初陣の時の武者ぶるいというような肉のしまる気持を覚えないではなかった。 表面は生野銀山の加奉役と触れているが、実は千坂ごえの旅人を脅かしたり、銀山から京師を荒らしまわる強賊であるという噂が専らであった。 今も、泣き叫ぶ二人の娘を、腕ずくで山荘へ連れ帰ろうと、村端れまで引ッ張って来た三人の凄い浪人体の者は、後ろからワッと 鯨波 ( とき )の声が起ったので、振り返ると一人の若い侍を真ッ先に十数名の百姓が 得物 ( えもの )を持って追いかけてくる様子に、早くも松の木に娘を縛りつけた三人は、来たらば 微塵 ( みじん )と身構えていた。 見る間に駈け寄ってきたのは春日新九郎、 青額 ( あおびたい )に紫紐の切下げ髪は余り美貌過ぎて、不敵な郷士の 度胆 ( どぎも )を奪うには足りないが、勇気は 凜々 ( りんりん )として、昔の新九郎とは別人のように、 「やあそれなる 浪人輩 ( ろうにんばら )、白昼良民の娘を 誘拐 ( かどわか )すとは不敵至極、渡さぬとあれば用捨はならぬぞ」 と大刀を 閂 ( かんぬき )に構えて、云い放った。 「黙れ青二才ッ、誘拐すとは何事だ、召使に致すため連れて行くのが何で悪い」 「要らざるところへ出しゃばると、その細首を叩き落すぞ」 と三人は歯を 剥 ( む )いて罵った。 「ではどうしても渡さぬと申すか」 「馬鹿めッ、くどいわ」 「欲しくば腕ずくで来い!」 「おお腕ずくで取る!」 と、新九郎は一足 退 ( の )いて、大刀を抜き放ったが、錬磨のない腕前の悲しさ、鯉口を切るか切らない先に、敵の一人が抜き撃ちに、 「真ッ二つだぞッ」 と叫んで躍りかかって来た。 はッと新九郎の足は、我れ知らずもう一足飛び退いたところを、横合から大勢の百姓が、 「それッお武家様に加勢しろ」 とバタバタとふり込んだ竹槍が、盲ら当りに、一人の郷士の腰を払いつけた。 「 己 ( おの )れ 不埒 ( ふらち )な奴めッ」 と打たれた郷士は新九郎を捨てて、どっと百姓の群へ突き進んで、まえの一人を 袈裟 ( けさ )がけに斬り捨てた。 「わッ太助が 殺 ( や )られたッ」 と血に脅えた一同は、意気地もなく 蜘蛛 ( くも )の子と逃げ散ったが、新九郎一人は抜き放った一刀を両手で握って、前へ突き出したまま、退く気色を見せなかった。 「やあこの青侍め、剣術を知らねえな」 と郷士の一人は構えを見て充分に見くびりながら、 「なぶり斬りには打ってつけな奴だ」 と真ッ向から斬り下げて来た鋭さ、新九郎はここぞと持った刀でピュッと横に 打 ( ぶ )ッ払った一心の力、グワンと音がしたかと思うと、 対手 ( あいて )の刀は七、八間も横へすッ飛んで行った。 後の二人は烈火の如く憤った。 三尺近い大刀を新九郎の左右から振りかぶって、 「小僧ッ、観念しろ」 とばかり斬りつけた。 新九郎にそれを防ぐ秘術はない。 そして、 「いざ来い!」 と、叫んだ。 「こやつ、卑怯な」 と二人は続いて斬りかかった、新九郎も矢車のように、刀を振りまわした。 剣道の法則から見れば全然滅茶苦茶ではあるが、彼は必死だ、先に踏み込んで来た一人の刀をハタキ落す。 アッと拾いかかるところを、新九郎はここぞ狙いどころと、その背へズーンと斬りつけたが、敵のからだに刀が当ると、 背 ( みね )が返って肉は切れなかった。 しかし一念の力に郷士はワッとへたばった。 新九郎ものめり込んだ。 「この野郎」 とその隙を後の二人が 柄手 ( つかで )に 唾 ( つば )をくれて、八方から斬りつけようとするところへ、傍らの雑木林の樹蔭で、最前から様子を見ていた一人の六部が、杖に仕込んだ 無反 ( むぞり )の太刀をキラリと引き抜いて駈け寄りざま、電光石火に郷士の一人を梨割りに斬って捨て、あッと 愕 ( おどろ )く次の奴を、返す一刀で、腰車を横に一文字、見事に 薙 ( な )ぎ払った。 この瞬間の早技には、新九郎が一太刀の助けさえ入れる隙がなかった。 彼は六部の鮮やかな腕前に感嘆して、足許から逃げ出した残る一人の郷士を追い撃ちに切りつけたが、二度とも 切尖 ( きっさき )が届かず、その間に遠く逸してしまった。 「あいやお武家、一人や半分の 鼠賊 ( そぞく )は追うことはござらぬ」 と、六部は、新九郎の後ろから呼んだ。 「これは思いがけないご助勢下され、 忝 ( かたじ )けのう存じまする」 新九郎は立ち戻って、丁寧に会釈をした。 「幸いに、お 怪我 ( けが )もない様子、何よりでござった」 「有難う存じまする。 お恥かしい次第でござるが、まったく剣道の心得なき 某 ( それがし )、貴殿のお助太刀なくば、すでにも危ういところでござった」 「いやいや、最前とくとお見受け申すに、法はずれながら 其許 ( そこもと )の切尖には、云うに云われぬ天質の閃きがあるやに存ずる。 必ずとも一念にご出精あれば、 天晴 ( あっぱ )れなお手筋になられましょう」 「これは恥じ入るお言葉でござる。 しかし、失礼ながら六部殿の唯今のお腕前、これも並ならぬお方とご推察致しまするが」 「いかにも、かかる姿でこれへ参ったも深い仔細のある儀でござるが、とにかくあれなる娘二人を助け返した上、ゆるりとお打ち明け致そう」 と、六部と新九郎は樹に 縛 ( くく )られていた二人の娘をほどき、 猿轡 ( さるぐつわ )を解いて家へ帰させた。 「まずそれへお坐りくだされい。 ここなれば人目もござらぬ……」 とその後で、六部は雑木林の中へ新九郎を導いた。 そこには彼の 笈 ( おい )が置き残されてあった。 六部はその傍に坐って、 「実は何をお隠し申そう、拙者は亀岡の 有馬兵部少輔 ( ありまひょうぶしょうゆう )の家臣、 戸川志摩 ( とがわしま )と申す者でござる」 と名乗った。 新九郎はさもある人と頷いた。 志摩は言葉をつづけて、 「そこもともお聞き及びであろうが、当地の 斑鳩 ( いかるが )嶽に山荘を構えている雨龍太郎と申す奴、多くの浮浪人を狩り集めて、悪業至らざるなき風聞でござるが、とても代官などには取締りもつかず、主人兵部少輔と苦心の上、実は一策をめぐらして、かく拙者が姿を変え、きゃつらの様子を探りに参った次第でござる」 と物語った。 新九郎は戸川志摩の大胆さに 愕 ( おどろ )かされたが、危地を救ってくれた恩人の目的に、何とか自分も力を添えたいと思った。 「それは容易ならぬご使命でござります。 ところで如何でござりましょう。 拙者は丹波浪人の春日新九郎と申す者、武芸未熟を恥じて修行の旅に出たばかりの者でござるが、その山荘の探索にご同行下さりませぬか、及ばぬながらも唯今のご恩報じ、二つには、大きな修行ともなろうと存じまする」 「そりゃ願うてもなきこと、同藩の者には臆病者ばかりにて、誰一人同行致そうと申す者もなかったが、今そこもとがご一緒にお出で下さるとあれば百人力の強みでござる」 と戸川志摩も大いに欣んで、万事をそこで 諜 ( しめ )し合せ、やがて二人は道中の道づれでもある如く装って斑鳩嶽の 麓 ( ふもと )へ 辿 ( たど )った。 「まだ影も見えねえ!」 とその返事は、数丈上の梢の 天頂 ( てっぺん )から下へ投げられた。 「不思議だなあ。 やい 五介 ( ごすけ )、てめえは確かにその六部と侍が麓へかかったのを見たのか」 と下に 簇 ( むらが )っている男の中でも、図抜けて背の高い柿色の道服に革鞘の山刀を横たえた髯むじゃらな浪人が、一人の 乾分 ( こぶん )を 我鳴 ( がな )りつけた。 「ええ嘘じゃごぜえません、たしかにこの斑鳩嶽の上りへ来たのを探って来たんでがす」 「ふーむ。 じゃもう来なくッちゃならねえ筈だがなあ……」 と少し静まり返っている。 早く手配りをしなくっちゃあ……」 と口ぜわしく云った。 「そうか。 じゃみんなうまく姿を隠していろい」 と洞門の小頭と呼ばれた浪人は、一同を指揮してから、自分も熊笹の中へ姿を没して、 戦 ( そよ )ぎもさせずに 森 ( しん )としていた。 それからしばらく、斑鳩嶽のこの山路は鳥の羽音もしなかったが、やがて何か話しながら通りかかって来た二人は、云うまでもなく六部姿の戸川志摩と春日新九郎とであった。 「新九郎殿、この分ではどうやら今宵は、山の中で日が暮れそうでござるぞ」 「たまには山に伏すのも一興でござりましょう」 「しかし、どこか夜露を防ぐところだけは目つけたいものでござるな」 と二人の声が間近になるまで、充分ためていた洞門の権右衛門はそれへ 跳 ( おど )り出して、 「やい、用があるからしばらく待て」 と立塞がった。 「何じゃ、何者じゃ、そのほうは?」 「何者でもねえ、この斑鳩嶽に、その人ありと知られた雨龍の一族、洞門の権右衛門だ。 よくも最前は 埴生 ( はにゅう )の里で一門の者を手にかけたな」 「おお、良家の娘を 誘拐 ( かどわか )そうとする 理不尽 ( りふじん )な奴、それを、斬り捨てたが何と致した」 と戸川志摩は 怯 ( ひる )む色もなく云い返した。 権右衛門は青筋立てて、 「おのれ云わしておけば好きな 囈言 ( たわごと )、さあ、俺等の一族に指でも指した奴は、 嬲 ( なぶ )り殺しにするのが雨龍一族の 掟 ( おきて )だ。 引ッからめて 頭領 ( かしら )のところへ吊して行くから観念しろよ」 「だまれッ、罪を裁くは、領主の司権じゃ。 汝等如き 鼠賊 ( そぞく )が掟呼ばわりは片腹いたい」 「斑鳩嶽一帯は雨龍の領土も同然、この山中に踏み込んで要なき 繰 ( く )り 言 ( ごと )だ。 それッ」 と、洞門が片手を挙げて合図をすると、潜んでいた数十名の手下が、ばらばらと二人の前後を取り囲んだ。 「新九郎殿ッ、ぬかり給うな」 志摩は叫んで、仕込みの一刀、真一文字に振りかざしてどッとその中へ斬り込んだ。 「お案じあるな!」 と新九郎も腰なる秋水をギラリと抜いて、例の滅多打ちにふり廻した。 一人二人の 技 ( わざ )の争いと違って多勢を対手に廻すと、この滅多打ちは意外な奇功を奏した。 彼はたちまち近寄った二、三人を迅速に叩き伏せた。 「あッ、しまった!」 と一方で縦横無尽の怪腕をほしいままにしていた戸川志摩は、新九郎が 縄羂 ( なわわな )の計に墜ちたと見ると、すぐ自分も太刀を納めて、 「さッ、縛れッ。 この上は拙者も共に雨龍太郎の面前へ案内致せ」 と両手を自身後ろへ廻して、 威猛高 ( いたけだか )に云い放った。 「歩けッ亡者め、もっと早く歩かねえか」 と二人の縄尻を持った雨龍の手下どもは、地獄へ凱歌を上げる獄卒のように、新九郎と戸川志摩を引ッ立って間道から間道を 辿 ( たど )り、やがて 蘭谷 ( あららぎだに )の豪族雨龍太郎の山荘の石門を 潜 ( くぐ )った。 鬱蒼たる樹木の路が、石門からやや小半丁も続いた所に、自然石の石垣 築 ( づき )で小大名などは及びもつかぬ古い鉄門がある。 その奥に 緑青 ( ろくしょう )を吹いた 銅瓦 ( あかがねがわら )の館が、後ろに聳え立つ 神斧山 ( しんぷざん )の岩石に切組んで建ち、あたかも堅固な城廓の 態 ( てい )をなして、見る者の眼を愕かせている。 「開けてくれ、洞門の権右衛門が二人を生捕って来た」 とその鉄門の扉を叩くと、中からギーと開けて、棒を持った番人がいちいち人数人相をあらためた上一同を入れて再びギーと閉めてしまった。 戸川志摩は心のうちで、「ああこの要害ではとても代官や領主の力ぐらいで 殲滅 ( せんめつ )することは思いもよらぬ怖るべき一族だ……」と 密 ( ひそ )かに舌を巻いている。 「ご苦労だった。 汝等 ( わいら )ああっちで休んでいいから、仙太と五介は縄尻を持て」 と権右衛門はそこで多勢の者を 退 ( しりぞ )け、自分が先に立って奥庭と 覚 ( おぼ )しき所へ廻って来ると、とある橋廊下の上から、 「おや……」 と思いがけない優しい声がしたので、その下へ来た新九郎と志摩は、何気なく振り仰ぐと、洗い髪に大絞りの 浴衣 ( ゆかた )を着て、 西施 ( せいし )を 粋 ( いき )にしたような年増の 阿娜女 ( あだもの )が、姿とはやや不調和な、 塗 ( ぬ )りの 勾欄 ( こうらん )に身をもたせて、不思議そうに美しい眼をみはっていた。 「権右、何だい、その人たちは? ……」 「あ、こりゃ 姐御 ( あねご )でしたかえ」と洞門の権右衛門はちょっと足を止めて、 「こいつらあ今日埴生で、一族の者を二人まで手にかけやがったので、 頭領 ( かしら )がおそろしくご立腹なすって生捕って来いと云うんで、 ふん縛ってきたところでごぜえます」 と手柄顔に云った。 「まあ見りゃあ優しそうな侍に、一人は六部のようじゃないか……」 「こういう奴が油断がならねえんです。 いずれ今日明日のうちにゃあ、例の所で 嬲 ( なぶ )り殺し、岩屋の 苔 ( こけ )の 肥 ( こや )しになるんでさあ」 「可哀そうに……」 「憐れをかけると癖になりやす。 やいッ歩け」 と権右衛門は 突慳貪 ( つっけんどん )に、新九郎の背中を小突いてまた向うへ引ッ立てて行った。 橋廊下の 阿娜 ( あだ )な女は、 片肱 ( かたひじ )のせた欄干に頬づえついて、新九郎の後ろ姿をいつまでもじっと瞳の中へ 溶 ( とろ )けこむほど見送っていた。 「ああじれッたい! あんな 男 ( の )を見ると、また山の中が嫌になるもんだねえ……」 呟きながら、横へさした 黄楊 ( つげ )の 櫛 ( くし )で、洗い髪の毛の根を無性に掻きながら、 黒曜石 ( こくようせき )の歯をならべた 鉄漿 ( おはぐろ )の 唇 ( くち )から、かすかな舌打ちをもらしていた。 黒木の太柱に神代杉ずくめの原始的な 館 ( やかた )ではあるが、 襖 ( ふすま )、 衝立 ( ついたて )の調度物は 絢爛 ( けんらん )なほど 贅 ( ぜい )をつくした山荘の一室に、雨龍太郎は厚い 褥 ( しとね )に 大胡坐 ( おおあぐら )をかいて、傍らにいる一人の浪人を顧みて、こう云った。 「客人、唯今これへ二人の 亡者 ( もうじゃ )を召し出して白洲を開くから慰みにご覧なさるがよい」 「ほう、亡者と申すと何者のことでござろうな」 と浪人はちょっと 解 ( げ )しかねた顔を見せた。 「おわかりないのは道理じゃ。 ひとたび雨龍の面前に引き据えた者は、生きて帰さぬ掟からそう呼ぶのでござる」 「成程、ではこの場で首を 刎 ( は )ねられるのか」 「いや、いつもは洞窟へぶち込んで手下の好きにさせるのだが、幸い客人は一刀流の使い手、世が世の時には指南番までしたという腕前を見たい。 一人一人に得物を持たせて、尋常の太刀打ちの上、見事真っ二つにしてご覧に入れよう」 「さすがは一流の剣客者たるお心がけ、そりゃいっそ 見物 ( みもの )でござろう。 あっぱれお手のうちを見届けた上は客人の望み通り、一族の師範としてこの山荘に生涯おいでなさろうともお心次第と致すことに約束致そう」 「これは千万かたじけない……お、あの木戸口へ見えた者どもでござるかな」 と浪人が指さす庭先へ、ぎょろりと瞳を向けた雨龍太郎は、 「そうだ」 と大きく頷いて待ち構えた。 「お頭、やっと引ッからめて参りました」 とそこへ春日新九郎と戸川志摩の縄尻を持たせてついて来た洞門の権右衛門が、 「坐れッ」 と二人を雨龍の正面に引き据えて、自分も傍へうずくまった。 「うむ。 ご苦労だった。 やいッ 面 ( つら )を上げろ」 と雨龍太郎の声は 山寨 ( さんさい )を 揺 ( ゆる )がすように落ちて来た。 「その生ッちろい若蔵は知らぬが、六部の方はどこかで見たことのある奴だ。 はてな、やいッ、汝はただの六部ではあるまい。 いや余人は知らずこの雨龍の目は 掠 ( かす )められぬ。 それ 権右 ( ごんえ )、奴の肩をはぐって見ろ」 「へい」 と洞門が立ち上がって、戸川志摩の襟を掴んで肩先を脱いで見せた。 「それ見ろ、あまねく諸国をめぐる六部なら、肩に 笈摺 ( おいずる )の痕が見えぬ筈はない。 ははあ読めた。 うぬは亀岡藩の 諜者 ( ちょうじゃ )だな。 仮面 ( めん )を脱げッ、この馬鹿野郎めが!」 と大喝して、はッたと志摩を睨み据えた。 戸川志摩は雨龍の眼力にはッとしたが、見現わされた上はかねての覚悟、早くも 臍 ( ほぞ )を決めて、 眦 ( まなじり )を釣り上げ、きっと睨み返して云った。 「おおよくぞ見た! いかにも拙者は有馬兵部少輔の家臣戸川志摩じゃ。 領主のご威光を怖れぬ汝等一族の悪業は天人ともにゆるさぬところなれば、以後改心致して 上 ( かみ )の命に従えばよし、さもなきに於いてはかく申す 某 ( それがし )が 天誅 ( てんちゅう )を加えるから覚悟を致せよ」 「黙れ黙れッ。 自由もきかぬ引かれ者の小唄、今その舌の根を引き抜いてやる……客人、用意はよいか」 と雨龍は ( めくば )せした。 「拙者の仕度は宜しゅうござる。 彼奴 ( きゃつ )に何なり得物をお与え下さい」 と浪人は後ろを向いて、手早く 下緒 ( さげお )を 襷 ( たすき )にとり袴の股立ちとって立ち上がった。 「権右、そいつの得物を渡してやれ」 「へい」 と洞門は手下の者にいいつけて、戸川志摩から取り上げておいた仕込みの一刀を志摩に渡すと、雨龍は冷やかに見下ろして、 「やい、六部に化けた有馬の家来、当り前なら 膾斬 ( なますぎ )りに致した上、塩漬の首を亀岡に突ッ返して家中に以後の見せしめとするところだが、今日は格別のお慈悲で打物を持たせてやるから、腕に覚えのある限りこの客人と立ち合って、侍らしく 斃 ( くたば )るがよい。 権右、その六部の縄を解いてやれ」 「お頭、大丈夫でごぜえましょうか」 「よし、拙者が引き受けた」 とぱッと縁先から飛び下りた浪人は、その時まで戸川志摩の蔭にじっと俯いていた新九郎が、ふと顔を上げたので、互いに面を見合せたが、 「やッ 己 ( おの )れは? ……」 と浪人は、立ちすくんで 愕然 ( がくぜん )とした。 「おう玄蕃だ。 汝はすでに音無瀬川に飛び込んで死んだとばかり思っていたが、さては悪運強く今日まで生きのびておったのか」 「うーむ、今はあの時の新九郎ではないぞ! この両手さえ自由になるなら、一太刀なりと千浪の怨みを酬いてくりょうものを……」 「えいッ、うぬあ邪魔だッ」 と洞門の権右衛門は、その時新九郎の縄尻をグイと引いたので、彼はあっと後ろへよろめいてしまった。 その 態 ( てい )を、心地よげに見流した玄蕃は、 「はははは福知山名代の腰抜けが、人並みな広言は片腹痛い。 じたばたせずとも大月玄蕃が一刀流の 切尖 ( きっさき )で、この六部から片づけるから、神妙に汝の番を待っていろ。 今日こそ 冥途 ( めいど )へ届けてやる」 と冷罵した。 そして、 「六部ッ、立ち上がれ」 ときっぱりと向き直った。 「世迷い言は無用だ。 お 延 ( えん )は 立膝 ( たてひざ )の前へ、鏡台を引き寄せた。 風に吹かれた洗い髪の、さわさわとしたのを両手でたくしあげて、無造作な兵庫くずしに束ねた根元を 南京 ( ナンキン )渡りの 翡翠 ( ひすい )で止めた。 そして、 臙脂皿 ( べにざら )を 唇 ( くち )へ 摺 ( す )ると、お 鉄漿 ( はぐろ )光りの歯の前に、年増ざかりの肉感の灯が赤く 点 ( とも )されたように見えた。 「こうして見れば私だって、まだ満更捨てた年じゃないもの……考えると馬鹿馬鹿しい、何だか急にこんな山の中で年をとるのが嫌になって来たよ……」 お延はこう 呟 ( つぶや )いて鏡台を向うへ押しやった。 ふいと嫌気がさして来たら、慾も得もなく身ぶるいがするほど、いまの境界が嫌になった。 しかし、それがどこまで根深いものかは疑わしい。 お延のこんな心持も、つい今し方、この山荘へ捕われて来た、新九郎の姿を見てから起った浮気性の気迷いであるから。 「洞門の言葉では、岩屋で殺すのだと云っていたけれど、どうしたかしらあの若い侍は?」 浮気にしても、余り熱っぽいお延の眼は、どうしても自分の部屋に落着けなかった。 ふらふらと最前の橋廊下まで来て見たが、何の様子も知れないので、お延は我れ知らず廊下から廊下を伝って、 館 ( やかた )のどん詰りまで来た時、 発矢 ( はっし )と、激しい剣の音がしたのを聞いた。 「おおウーッ」 と続いて六部姿の戸川志摩は、 無反 ( むぞり )の戒刀を 平青眼 ( ひらせいがん )に取って、玄蕃の大上段の手元へジリジリと詰めて行った。 有馬兵部 少輔 ( しょうゆう )の内命をうけて、単身この山荘を探りに来たほどの戸川志摩だ。 充分腕に覚えはある。 大月玄蕃も心密かに、油断ならじと思ったか、 迂濶 ( うかつ )にこの太刀は振り下さず、心気を 凝 ( こ )らして志摩の隙を狙っているが、 鵜 ( う )の 毛 ( け )でついた隙もない。 その正面の一室から、二人の勝負を見詰めていた雨龍太郎も、 侮 ( あなど )りがたい志摩の腕前に万一玄蕃が 殪 ( たお )されでもしたら、野に虎を放したも同様、その場を去らせず斬り捨てねばならぬと、大刀を側へ引き寄せて、縁先まで座を進め、洞門の権右衛門へもチラと目くばせしておいた。 間髪さっと手元へ引いた玄蕃の太刀は、それを鮮やかにチャリンと払いのけたが、虚をすかさず続いてもう一歩、踏み込んだ志摩の高嶺構えに振りかぶった戒刀が、玄蕃の真っ向へ行くよと見えたので、玄蕃も素早くポンと二足ばかり飛び退いて、八方構えの青眼堅固に取り直すと、戸川志摩は何思ったか、それへは斬り下さずクルリと身を振り変えて、 咄嗟 ( とっさ )、 軽燕 ( けいえん )に身を躍らせて、雨龍太郎の脳天目がけて、飛び斬りにズンとふり下した。 「 天誅 ( てんちゅう )覚えおったか!」 と戸川志摩が二の太刀振りかぶって、真ッ二つと目がけた刹那、右から大月玄蕃、左から洞門の権右衛門、同時に二人の太刀が志摩の肩先と左腕へズズーンと斬って下げられた。 「うう! む!」 と後ろへ 反 ( そ )って ( どう )と 殪 ( たお )れた戸川志摩は、無念ッと最後の叫びを上げたまま息絶えた。 「お 頭領 ( かしら )、どうしやしたッ」 と権右衛門はすぐ雨龍を抱き起した。 彼は黒血にまみれた頬を押えながら、 「な、なに傷は浅え、それより早くその 若蔵 ( わかぞう )を片づけっちまえ」 と新九郎を ( あご )で指した。 「合点でがす。 「むッ」 と新九郎は無念の形相を玄蕃に向けて、しばらく睨み返していたが、縄に噛まれていた手頸の 痺 ( しび )れが容易にとれなかった。 「どうしたッ、腰が抜けたか!」 「な、何を!」 と新九郎は唇を噛んだ。 「血を見て腰が抜けたのだろう。 ここな意気地なしめがッ」 と土足を上げて新九郎の横鬢のあたりをバッと蹴飛ばして来たので、 勃然 ( ぼつぜん )と奮いたった新九郎は、咄嗟に身をかわしてその足をグッと掴んで 捻 ( ひね )りあげた。 「うぬッ」 と玄蕃は足を取られながら、右手の一刀を斜めにかぶった。 技倆の差は争われない。 「口惜しかったら生れかわって来るがいい」 玄蕃は充分な余裕を持って、倒れた新九郎を据物試しに斬り伏せようとした時、 「お待ちよ!」 と鈴音を張った女の声が後ろでした。 大月玄蕃はその声に、はッとして小手を 緩 ( ゆる )ませた。 玉の声は続いて叱るように、 「お待ちったらさ、そのお方を斬ったら私が 諾 ( き )かないからそう思いな」 とそこへ来たのは、お延であった。 洞門の権右は意外な顔をして、 「姐御、こいつあ今日……」 と云いかける口を押えつけて、 「お黙りよ! お前たちは引ッこんでおいで」 とお延の寄りもつかれぬような血相に、玄蕃も苦虫を噛んで身を退いてしまった。 「お延、わりゃあ何で男のすることを止め立てする」 と雨龍太郎はきっとして彼女を咎めた。 「いけませんか。 私の恩人だから止めたのが悪うござんすかえ?」 「何? われの恩人だと。 お延はその 猜疑 ( さいぎ )の目を 紛 ( まぎ )らわすように彼の傍へ摺り寄って、白い顔を遮らせた。 「ねえお 頭領 ( かしら )え、私にとってはそうした恩のある方なんです。 事の間違いで手下の一人や二人傷つけたかあ知りませんが、何も居候の侍なんかに 嬲 ( なぶ )り殺しにさせなくったって、いいじゃあありませんか」 と玄蕃の方へは、余計なことをと云わぬばかりの 流眄 ( ながしめ )を見せた。 そして、雨龍へは顔の下からさし覗くようにして、甘い息に男を耐えなくまでした。 「そうじゃありませんかい。 私が気がつかなければ知らぬこと、現在恩のあるお方が殺されるのは見ちゃあいられませんからね……それよりまあお頭領は、早く顔の傷でもどうかしなくっちゃ…… 権右 ( ごんえ )、お前たちゃ頭領の怪我を何で平気でいるのさ。 早く奥へお連れして、手当をしなくっちゃしようがないじゃないか、こんなどころの騒ぎじゃありゃあしないよ!」 とお延は女が勝手を切って廻すように、てきぱきと云って、この場の雰囲気を推移させるのに努めた。 雨龍太郎は邪魔者が入ったのでにわかに顔の傷が痛み出したのと、お延の魅力に力負けがして、 「たとえどんな恩人であろうが、このまま追ッ返すことあならねえが、そのうちに身共がもう一度調べるまで、どこかへ厳重に 抛 ( ほう )り込んでおけい」 と云い捨てて奥へ 遁 ( のが )れてしまった。 春日新九郎は、今日で七日あまりも陽の目も見ぬ頑丈な座敷牢の隅で、つくねんと膝を抱えて暮らして来た。 あまつさえろくに刀の抜きようも知らないで、たとえ一瞬間でも、大月玄蕃に刃向えたと思えた。 我は 解脱 ( げだつ )した春日新九郎であると、彼が強い自信を持ったのは、この時であった。 「一体今日まで七日もここへ抛り込んだままで、雨龍太郎は自分を殺す気なのだろうか。 どうする 心算 ( つもり )なのだろう。 自分はあんな女を舞鶴で助けた覚えもないし、恩をかけた覚えもない。 何だってあんな出鱈目を云って自分の命を救ったのだろう……」 こうした空想の糸は限りもなく 手繰 ( たぐ )り出された。 新九郎はやがてその空想に疲れて顔を上げると座敷の隅の 短檠 ( たんけい )が、 冥途 ( よみ )の 灯 ( あかり )のように 仄白 ( ほのじろ )くなって行った。 「ああ暁方近くなったのだな……」 と彼は思った。 どこかで水のせせらぎが、夏の夜も寒いほど清く聞きとれる。 伽藍 ( がらん )の中にいるような寂寞である。 すると、コトリと座敷牢の外で、錠の触れる音がした。 そして、一寸二寸ずつ静かに 徐々 ( じょじょ )と開けた者がある。 「誰じゃ……」 新九郎は油断なく身構えた。 と思う間に、一尺ばかり開けた重い戸の間から、身体を 竦 ( すく )めて入って来たのは、お延であった。 「お……」 と新九郎は、そこへすっきり水際立った、寝巻姿の 阿娜 ( あだ )なのに目をみはった。 「お侍様、お 寝 ( よ )れないと見えますのねえ」 お延は後をぴったり閉めて、馴々しく新九郎の近くへ寄って、ふわりと坐った。 「これはどなたかと思ったら、先日お助け下されたお女中でござったの」 「まあ頼もしい。 私を覚えていてくれましたかえ」 お延はジッと男をみつめた。 「何で忘れるものでござろう。 しかしどう考えてもそなたの云うようなことは覚えがないが……」 「ほほほほほ」とお延は黒豆のような 鉄漿歯 ( おはぐろば )を紅の 唇 ( くち )から笑み割ってみせて、 「あんなことは出鱈目ですよ。 ただどうかしてあなたを助けたい一心で、思いついたばかりの嘘でさあね……」 とまだ顔のどこかで笑っていた。 「え、それまでにして何故あって拙者をかぼうて下さるのじゃ。 それが拙者には 解 ( げ )せませぬ」 「まあそんな野暮は止しましょうよ。 女が男を命がけで助けたら、どんな心を持っているかぐらいはおよそ察しがつくじゃないの」 とお延は新九郎の青額に、気も魂も吸い込まれて、ゾクゾクと 疼 ( うず )くふるえを 緋縮緬 ( ひぢりめん )につつんでいつかぴったりと寄り添って来た。 「憎らしい、何にも解らないような顔をしてさ……ねえ、解ったでしょう」 「こりゃ、戯れを……」 「真剣ですよ。 誰がこんな 夜夜中 ( よるよなか )、よっぽどでなくて来るもんかね。 「シッ……大きな声は禁物よ。 もう手段は 択 ( えら )んでいる場合ではなかった。 「これ、人に気取られては一大事じゃ」 「誰がこんな夜更けに来るもんかねえ……」 「でも……」 新九郎は拒む言葉に窮した。 より自分の堅固が怪しくさえ思われたので、彼は無言にお延の粘りこい手を振りもいだ。 「そんなに 羞 ( はず )かしいかえ……」 お延はしどけない妖姿を、グイと仰向けに 反 ( そ )らして顔を 短檠 ( たんけい )に届かせた……フッ……短檠の灯は吹き消された。 「あ……」 新九郎は身を 竦 ( すく )ませた。 お延は囁やいた後で新九郎の頬へ 烙印 ( やきいん )のような熱い唇をつけて素早く外へ姿を消した。 蘭谷 ( あららぎだに )を取り囲んだ、 神斧山 ( しんぷざん )の肩から、青白い妖星が、谷間を覗き込んでまたたいている。 宵のうちは、ぽちりと赤く、 蟒 ( うわばみ )の眼かと見えていた山荘の灯も、いつか滅して物凄く夜更けて行くうち、何者か? 館 ( やかた )の 築地 ( ついじ )の破れから、ひらりと外へ跳り越えた二つの人影。 と見た番人が、 鋲門 ( びょうもん )の袖からばらばらと駈け出して、むんずと一人に組みつきながら、 「だ、だ、誰か来いッ」 と絶叫した。 「えい邪魔なッ」 と男の影は身を 捻 ( ねじ )って、どたんと前へ投げつけたが、番人は屈せず 刎 ( は )ね起きて、 「野郎ッ」 と再び飛びかかって行こうとすると、横からすッと寄った女の影が、逆手に持った短刀を、音もさせずに 一閃 ( ひとひら )めき、 「やかましいよ!」 「わアッ」 と番人は虚空をつかんで ( どう )とたおれた。 彼は、面部の傷がいよいよ悩むので、外科医の療治を受けに、昨日山を降りたのである。 それと大月玄蕃は、この山中も面白くないと見切りをつけたか、雨龍に 暇 ( いとま )を告げて前日ここを立ち去っていた。 留守を預かった洞門の権右衛門は前から、雨龍の妾お延に横恋慕していたので、 今宵 ( こよい )をまたとない機会と 北叟笑 ( ほくそえ )んで、夜更けてからお延のいる部屋の橋廊下を越えて忍び込んだ。 すると、お延の部屋の薄暗がりから、両刀をぶッ違えに差した黒い影が、のそりと出て来て権右衛門とはたと行き会った。 そして、 「何者だ」 と向うから激しく咎めてきた。 「てめえこそ何だッ。 何しにうろついていやがるんだ」 権右衛門はそれに 乗 ( の )しかかって咎め返した。 「やッ、貴様は洞門じゃないか」 権右衛門はハッと思って透かして見ると、雨龍の 甥 ( おい )で非常な腕ききなところから、投げ槍小六と異名されている郷士の一人であった。 「小六じゃねえか、留守を預かっている洞門の権右衛門が見廻って歩くに不思議があるか」 「ふふん、そう云えば聞こえがよいが、貴様は伯父の留守を幸いに、お延を口説きに忍んで来たのであろう」 「何だと、そりゃてめえのことだろう」 洞門は小六がお延に云い寄ったことのある事実を知っていた。 小六は洞門の横恋慕を察知していた。 二人は怖ろしい嫉妬の燃え上がった眼を睨み合せた。 「お延はこの部屋にはいないぞ、洞門、貴様どこかへ隠したな」 「何? いないことがあるものか。 詰らねえ嘘を云うと、てめえの腹の底が知れるぞ」 「 白 ( しら )を切るな。 どこへ隠した」 「何ッ」 と権右衛門は、小六の血相が真剣なので、部屋の中へ入ってみると、お延の姿はどこにも見えない。 そればかりか、取り散らかした小道具の中の目ぼしい物はみんな失くなっている。 「やい小六、てめえお延を逃がしたな」 「何を云うのだ。 こうなりゃ拙者の本心も聞かしてやるが、伯父の留守を幸いに、お延を連れてこの山を逃げ出すつもりに違いなかったが、いくら探しても影も形も見えないのだ。 貴様が隠したに相違ない、お延を拙者に渡してしまえ」 「飛んでもねえことを 吐 ( ぬ )かすな、留守を預かる権右衛門だ。 「洞門ッ、命は貰った!」 ビュッと銀蛇の光りが、小六の腰からほとばしった。 「ふざけるなッ」 と権右衛門も脇差を抜き合せたが、腕は段違い、たちまちしどろに斬り込まれて、ばたばたばたと逃げだした。 「意気地なしめッ」 追いかかった小六が後ろから飛び斬りにさっと背中へ割りつけた一刀。 「もうこうなれば愚図愚図してはおれぬわい」 小六は血刀を納めて、伯父の雨龍太郎の部屋へ忍び込んで、有金を胴巻に捻じこみ、この山荘から逐電する 心算 ( つもり )で 跫音 ( あしおと )を忍ばせてそこへ出て来ると、にわかに 四辺 ( あたり )に物騒がしい声が沸き立った。 「さてはもう感付いたか、破れかぶれだ。 斬りまくって逃げ延びよう」 と彼は胆太く構えていると、どたどたと飛んで来た手下の一人が、 「おお小六さん、大変でがす」 と云ったのが小六には 他人 ( ひと )事のように聞こえた。 彼は空とぼけて、 「何だ。 どうしたのだ」 と白々しく云った。 「逃げやした。 逃げっちゃいました」 「誰がだ、はっきりと云え」 「座敷牢へ抛り込んでおいた若い侍と、姐御らしゅうがす。 築地の破れを跳び越えて、間道伝いを一散に落ちて行ったんでがす」 小六は意外な恋仇に出し抜かれて、聞くより嫉妬に 煽 ( あお )られた 残虐 ( ざんぎゃく )な相を現わし、 「よしッ、拙者が追いかけて仕止めてやる」 とぶるぶる身をふるわせながら、更に、 「貴様達は人数のある限り、 松明 ( たいまつ )を振って、谷から裏山を隈なく探せッ」 といいつけた。 そして自分は異名をとった手馴れの投げ槍、気合をかけて手から放せばつばさを生じた飛龍の如く敵の胸元を射貫くという、四尺九寸の 樫柄 ( かしえ )を小脇に引っ抱えて、二人の後を血眼で追いかけたのであった。 「まああれをご覧なさいよ、何て馬鹿馬鹿しい騒ぎをしてるんだろうね……」 とお延は新九郎を顧みて笑った。 二人は今、 九十九折 ( つづらおり )の岩角に腰かけていた。 ここは山荘の間道から 外 ( そ )れた、但馬街道の 切所 ( せっしょ )へかかる峠の中腹であった。 その高い所から見渡すと、遥か 蘭谷 ( あららぎだに )から神斧山の峰谷々の闇を、点々と走る 松明 ( たいまつ )の光りが、狐火のように見え隠れするのであった。 そして側に黙然としている、新九郎の膝へ手を乗せて、 「お前さん、くたびれたのかえ」 とこの 暗澹 ( くらやみ )な山中で見てもなお飽くまで艶な顔を覗かせた。 「いや……」 と新九郎は 冠 ( かぶ )りを振ったきり、お延の 媚 ( こび )に顔を 反向 ( そむ )けた。 彼はただ山荘を遁れる手段に、お延に手をとられてここまで来たが、これから先、この妖婦の手から逃げることは、鉄壁の山荘を越えるより難かしい気がした。 「そうじゃ、怪我をしたのだから触ってくれるな」 と彼は女の言葉を幸いに嘘を云った。 ねえ、それまで辛抱できるでしょう……」 とお延は新九郎が痛いと云った足のところを 擦 ( さす )り始めた。 そうだ、早く夜が明ければいい! 新九郎も心のうちでそう願った。 二人はしばらく無言になった。 果てしもない 渺茫 ( びょうぼう )の闇へ瞳をやって、朝の光りを待ちこがれていた。 すると、いつか遠く低く、丹波連峰の黒い影が、明るみかけて来た空へ、波状にうねった山脈線だけを描き出してきた。 「おッ……あの赤い火! 日の出かと思ったらそうじゃないよ……」 とお延はその時不意に、身を乗り出して叫んだ。 新九郎もはッとして女の指先へ眼をやってみると、成程、はるか暁闇の空を掠めて 重畳 ( ちょうじょう )の山間から、一抹の赤い光りがぽッと立ち昇っているのだ。 それは太陽の君臨する 前触 ( さきぶ )れかとも見えたが、たちまち団々たる黒煙の柱が空へ巻き上がってきたので、あきらかにそうでないのが知れた。 「火事ではないか」 「いい気味! 山荘が焼けているのだよ……」 お延はニタリと凄い微笑を 泛 ( う )かめた。 新九郎もさては後の混乱に 紛 ( まぎ )れて、手下の者が火を 失 ( しっ )したのであろうと思い合せ、あの火焔の底に白骨とされる戸川志摩の死が無意味でなくなったのを欣んだ。 そしてひそかに彼の冥福を 念誦 ( ねんず )していた。 「もう行きましょうかね。 足許も見えて来たようだから……」 とお延は新九郎の手をとった。 「では出かけるかの」 「足が 痛 ( や )めるでしょうけれど、里へ行けば駕があるから急がずに歩きましょうよ」 お延は努めて新九郎の機嫌をとっていたが、新九郎にはかえってそれが耐えられない苦痛だった。 左は谷、右は絶壁の下り道を、お延は新九郎の手を寸時も離さなかったが、とある曲り角へ来た時、彼は 恟 ( ぎょ )ッと 立 ( た )ち 竦 ( すく )んで、 「あッいけない!」 と二足三足後ろへ押し戻した。 「どこか、隠れる所がないかしら? 隠れ場所はないかしら……」 お延の愕きは唯事ではなかった。 新九郎は何事が起ったのか、しばらくわからなかったが、やがて五、六 間 ( けん )ばかり前へ、麓から急ぎ足に上って来た黒頭巾の男を見た。 九十九折 ( つづらおり )の一筋道、逃げる横道も隠れる場所もないので、お延が 狼狽 ( うろた )えている間に、黒頭巾の男は息せわしく 摺 ( す )れ違うまで側へ来たが、二人の姿を見ると、先も突ッ立ってしまった。 「やッ、わりゃあお延じゃないか!」 くわっと頭巾のうちから、 炬 ( かがり )の如き眼をみひらいた男は、雨龍太郎なのであった。 彼は 昨夜 ( ゆうべ )麓の 刈石 ( かるいし )で泊っていたが山荘の火の手を見て、すわ一大事と駈け上がって来たのである。 「うーむ、さてはその青二才とぐるになって、山へ火をつけて逃げのびて来たのだ。 己れ恩知らずめッ、ここで会ったが天命だ。 お延は牡丹色の返り血を浴びたので、自分が斬られたと 錯覚 ( さっかく )したのか、ふらふらと岩角の上へ横倒れになってしまった。 「もうこうなればお互いに身の思案をきめなくっちゃあならぬ。 かねて二人で話したこともある通り、江戸表へでも高飛びして 暢気 ( のんき )に暮らすとしようじゃないか、どうだお延」 「小六さん、私ゃあ少し考えが違うんだよ」 「そんな寝言を聞く小六じゃない。 貴様は若い侍と 乙 ( おつ )な 気味 ( きあじ )になったそうだが、この小六がなければ知らぬこと、無分別な浮気沙汰をいつまでもしていると、しまいには身の破滅だぞよ」 「いいよ! 構わないでおくれよ! どうせ 茨 ( ばら )がきお延と云われるほど、持ちくずした私の身だもの、好き放題なことをして、野たれ死にするのは本望なんだよ」 「馬鹿をぬかせ、まだお互いに先のある身だ。 悪いことは云わぬから、拙者と江戸へ行こうじゃないか、どんな贅沢、綺羅な暮しも都へゆけば仕たい三昧というものだ」 「嫌だよ。 行くなら一人で行っておくれよ」 「何だと、じゃあこれほど云っても?」 「お前が邪魔になったんだよ!」 とお延は 妲己 ( だっき )の本性を現わして、 扱帯 ( しごき )の下から引き抜いた 匕首 ( あいくち )を逆手に、さっと小六に斬りつけてきた。 「 洒落 ( しゃれ )た真似をさらすなッ」 と突きかかった閃めきを、小六は軽く片身外しにかわしておいてぽんとお延の匕首を叩き落して、自分の手に持ちかえてしまった。 「ええ口惜しいねえ! 離しておくれってばッ」 「駄目な事だ。 いくらもがいてもこの小六が逃がすものか。 「そう来なくてはならぬ筈だ。 じゃお延、ここらでまごまごしちゃあいられない。 せめて 若狭路 ( わかさじ )へでも入ってからゆっくりしよう」 と小六は強い力で、お延の手を曳いたまま歩きかけたが、さすがにお延は新九郎に後ろ髪をひかれるかして、小六の 腕 ( かいな )から 身 ( み )を 反 ( そ )らして振り顧った。 まだあの若侍に未練を残しているな、いッそその迷いの種を、目の前で 打 ( ぶ )ッ斬ってやるから見ているがいい」 と忘れかけていた残忍な嫉妬の眼は、再び 夜叉 ( やしゃ )のように燃えて、そこの岩蔭から、潜んでいた新九郎の姿を見出してずるずると金剛力で引き摺り出した。 新九郎は南無三と、 渾力 ( こんりき )をこめて振りほどこうとしたが、小六の力は 盤石 ( ばんじゃく )の如く彼に動きも取らせなかった。 「お延、貴様の好いたいい男もこうなっては、 態 ( ざま )があるまい。 脳天から鼻筋かけて、真ッ二つにして見せるから小六の腕を見物しろ!」 と力まかせに新九郎の 衿頸 ( えりくび )を突ッ放しておいて、ぽんと一歩 退 ( さが )った小六が、腰を 捻 ( ひね )った途端に抜きかざした大刀、あわやと見る間に新九郎目がけて真ッ向うに斬り下げて来た。 「ええッ己れごときに」 と新九郎も必死、必死。 一人の人間の真の偉力は、死と生の間一髪、地獄の 千仭 ( せんじん )へ半身墜ちかけた時、猛然と奮い起ってくるものだ。 彼は真っ向から来た小六の白刃のもとへ身を衝いて行きながら、腰の一刀を抜きざま横一文字に 薙 ( な )ぎ払って行った。 相討ち! それは武士の本望だという気だ。 「あッ畜生」 と小六はその大胆な横薙ぎに、思わずまた一歩 退 ( ひ )いてしまった。 新九郎は無二無三に、彼の撃ち込む 隙間 ( すき )もなく斬って斬って斬り捲くった。 しかしそれは何の技巧のない、術も息も欠けた血気の精力に過ぎないから、見る見る心臓が破裂するばかり息づまって来たのは是非もない。 鞍馬八流の剣法も、投げ槍に劣らぬ手練の小六は、早くも新九郎の未熟を見てとり、ほどよく受けつかわしつしておいて、ここぞと思う時になって、天魔鬼神も遁がさぬ八流の極意、滝おとしの必殺剣を疾風の迅さでエエッとばかり斬り下げて来た。 「む、ざまを見ろ」 と小六は駈け寄って、小気味よげに谷底を覗いた。 松、 柏 ( かしわ )、雑木の枝が、縦横に交じえている下には、真ッ青な渓流の水が透いて見える。 しかしその水までは何百尺あるかほとんど計り知れない千仭の谷底であった。 「野郎ッ、止めを刺してくれる!」 残忍飽くを知らない小六は、雨龍太郎の死骸に突き立っていた槍を引き抜いて来て、 崕 ( がけ )に臨んだ岩角に片足をかけた。 「むッ」 と小六は口一文字に結んで、生血の 滴 ( したた )る四尺九寸の投げ槍の柄を、 りゅうと右の 眦 ( まなじり )の上まで石突き高に引きしごいて、穂先下りに目の下の新九郎の影へ狙いを定めた。 小六の 肱 ( ひじ )に取り 縋 ( すが )って哀願の声をふりしぼった。 「後生だから……罪もない人じゃあないか」 「ええ 退 ( ど )け、邪魔だ!」 と、お延が悲しむほど、彼の嫉妬は 募 ( つの )るばかりだ。 々 ( とうとう )と流れる渓流に 脛 ( すね )を洗われながら、一人の若者が 鉤鈎 ( かぎばり )をつけた三尺ばかりの棒を巧みに 操 ( あやつ )ってぴらりぴらりと 閃 ( ひら )めく 山女 ( やまめ )を引ッかけては、見る見る間に 魚籠 ( びく )を 満 ( みた )していた。 彼は余念がない。 それは血塗られた短か 柄 ( え )の槍ではないか。 「何だーッ?」 と若者は仰天して流れから飛び上がった。 その途端に、またも側の 河原蓬 ( かわらよもぎ )の中へどさりと上から落ちて来たものがあった。 「ややッこりゃお侍様どうなさりました」 若者はすぐ抱き起こして流れの水をすくって呑ませた。 新九郎は落着いてふとわが身を省りみると、天の加護と云おうか、さしたる怪我もしていなかった。 してみると、断崖から小六が槍を投げ飛ばした刹那新九郎も運を天に任せて 藤蔓 ( ふじづる )から身を放したのが、この奇蹟となったのであろう。 「ここはどこでござろう?」 「よく何ともござりませんでしたな。 この渓流の出るところが 保津川 ( ほづがわ )の上流でござります。 わしはこれから一里半ばかり下の深谷村の 儀助 ( ぎすけ )というものでござりますが、まあわしの 家 ( ところ )で少しお 憩 ( やす )みなさるがようがすだ」 と儀助は新九郎の無事であるのを、むしろ怪しんでいるくらいであった。 「ではお言葉に甘えて、ご厄介になりたいが」 「ええご遠慮はございません。 わしも飛んだ命拾いをしたようなものでがす」 と儀助は 魚籠 ( びく )を肩にかけて案内して行った。 新九郎もさて立ち上がってみると、さすがに骨と肉とが離れるような 疼痛 ( とうつう )をどこともなく覚えるのだった。 「儀助殿、たいそう 竹刀 ( しない )の音が聞こえるが、この近所に道場でもござるのか」 新九郎は今日で三晩親切なこの家の世話になっていた。 もう体もしっかりしたので、今朝は早く出立する 心算 ( つもり )で起きぬけたところであった。 「へへへへ何ね、道場というほどでもございませんが、剣術好きの村の若い衆が寄って、叩き合いをやってるのでがす」 「それはなかなか 熾 ( さか )んなことじゃの、して誰か師範をする武芸者があるのか」 「へい、村のご浪人で高島十太夫という関口流の先生が手を取って教えています。 如何でございます、お武家さまも一つご見物なすっちゃあ」 「面白かろう、ぜひ案内を頼む」 と新九郎は儀助に 従 ( つ )いて来てみると、かなりの空地に砂場を作って、えい、や、とうの掛け声さかんに竹刀木剣思い思いに闘わせていた。 するとその中でしきりに、打て、踏み込め、 外 ( はず )せと大声で指揮していた高島十太夫という浪人が新九郎の姿を見てつかつか歩み寄って、 「 卒爾 ( そつじ )でござるが、ご修行者とお見受けしてお願い申す、かく自流ばかりでは一同上達も致しませぬ。 ご無心ながら皆の者へ一手ずつのご指南を仰ぎたいものでござる」 という言葉。 「これは、なかなか 他人 ( ひと )様へ、指南などおつけするほどの腕前ではござらぬ。 平にご用捨を」 と新九郎は率直に断ったが、十太夫は謙遜とばかりとって容易にきき入れない。 すると、側にいた儀助が、 「じゃ、お侍様の代りに、わしが一つ出ますべえ」 と云った。 十太夫は苦笑いして、 「そちは絶えて稽古に来たこともない男だが、多少は覚えがあるか」 と のっけから 蔑 ( みくだ )していた。 「剣術はだめでがすが、槍なら行けます」 「馬鹿を申せ、刀槍は元これ一道より出たるものじゃ、神道流剣法より分派して樫原流の槍術となり本間派の管槍もそれから出ている。 なかんずく宝蔵院の僧胤栄は上泉信綱の刀法の妙と、大膳大夫盛忠の長槍の心をあわせて宝蔵院流を 編出 ( あみだ )したほどである。 何で槍術の心得なき奴が槍など使い得るものではない」 「さあそんな小難かしい講釈は分らねえが、とにかく槍ならやれますだ。 造作はねえ」 「はて 文盲 ( もんもう )の野人は度しがたい者だ。 よしそれほど剛情を張るなら試してやる。 あ、これ、裏坂の仁作、この儀助を一つ 懲 ( こら )しめてやれ」 「ようがす。 さ儀助来い」 と骨たくましい若者が、 「 竹刀 ( しない )では手ぬるい、木剣で行くぞ」 と構える。 「よいとも、 汝 ( われ )が持つなら何でも同じだ」 と儀助は渡された 稽古 ( たんぽ )槍を突きつけたが、これはいかに修行の浅い新九郎の眼にも滑稽なほど、槍の構えにはなっていなかった。 ところが、やッと儀助が一声かけると、槍のたんぽは電光の迅さで、どんと仁作の胸元を突いてしまった。 「参った」 と大上段に構えたところはよかったが、一太刀も振らないうちに引き退る。 次の者も次に出る者も、儀助の槍は不思議に一突きで敵を倒した。 それはまったく槍術の心得も剣術の けの字も知らぬ構えであったが、とにかく、庄屋の息子から小作の若者まで総なめにしてしまった鋭鋒は当るべからずである。 「ああ錬磨の力は怖ろしいものだ。 儀助の如き者ですら自然の熟練を経ればあの妙を得るものか……」 と黙然と感嘆していたのは新九郎であった。 新九郎は儀助の一本突きが、職業の 岩魚 ( いわな )や 鮠 ( はや )を突くあの息でやっているのを観破したからである。 彼は大いに得るところがあった。 「儀助ッ、いざこの上は拙者が対手だ。 少し烈しく参るから左様心得ろ」 と業を煮やした高島十太夫が手馴れの木剣を りゅうりゅうと振り試して云い放った。 「やあ今度は先生でがすか、先生まで負かしちゃあ済まねえでがす」 「己れ馬鹿を申せ、汝等如き田夫に 敗 ( おく )れをとって武士と云われるか、さあ来い」 「じゃあ行きますぜ」 と儀助は鳥刺しが 竿 ( さお )を持つような型で、大上段にふりかぶった高島十太夫の眉間を狙って 稽古 ( たんぽ )槍をつけた。 「エーイッ」 と十太夫は 威嚇 ( いかく )の気合いを放った。 「くそッ、この 鮠 ( はや )めッ」 十太夫は愕いた。 人を鮠だと思っている。 しかし、儀助にとっては、人間を鮠だと見るのが槍の極意だ。 いまや烈火の如く 憤 ( いきどお )った十太夫が、木剣も 挫 ( くじ )けろと打ち込んできた途端、 「畜生ッ鮠め」 と突き出した儀助の穂先が、狙い 違 ( たが )わず十太夫の額へ、ポンと当ったので、あッと叫んで十太夫は仰向けにどんと倒れた。 「どうでがす、先生」 「ま、参った」 と彼は苦々しい顔で袴の土を払っている。 それを見た新九郎は、まったく感に 耐 ( た )えてしまった。 かかる 技 ( わざ )に立ちむかっておくのも、いい修行となるであろうと思った。 「あいや儀助殿、しばらく待ってくれい」 「やあお侍様、お恥かしいことでがした」 「いやいや、驚き入った腕前じゃ。 一つ拙者に指南してくれぬか、立合って見てくれい」 「では一つやって見ますべえ」 「断っておくが、拙者はまだ竹刀も木剣も持ったことがないゆえ作法は知らぬぞ」 「へへへそんな嘘を云っても油断はしねえ」 「いや、まったくじゃ」 と新九郎は木剣を持って進んだ。 事実、新九郎自身が告白した通り、彼は生れて初めて木剣に手を触れたのである。 故郷を出奔してから、思わぬ遭難で真剣の滅茶振りはやったが、尋常に木剣をとって、剣道らしい法式を試みるのは今日が実に処女試合であるのだ。 鮠突きの槍術と、初めて木剣を持った新九郎との処女試合は、これこそ奇観でなければならぬ。 「エーイッ」 と新九郎はまず 臍下丹田 ( せいかたんでん )から気合をしぼって、木剣を片手青眼に持った。 と云っても、具眼の者から見たら、すこぶる怪しいというより乱暴な構えであったに過ぎない。 新九郎も、最初に試みた気合が、自身でも何となく空虚な、響きのない気がしてならなかったので、更にえいッ、えいッと二、三つづけて汗ばむまでふりしぼった上、片手の木剣を伸びるだけ伸ばしてじっとその 尖 ( さき )へ眼をつけた。 儀助は 稽古 ( たんぽ )槍の石突を右の後ろへ深くしごいて、左は軽く、本物の槍にすれば千段の先辺りまで穂短かに持ち、一足 退 ( さが )って新九郎の 鳩尾 ( みずおち )を狙ったが、青眼の木剣が伸びてくるので、だんだんに穂を上げて真眉間へぴたりとつけた。 同時に新九郎も、木剣の 尖 ( さき )をジリジリ上へ上げて行った。 彼は儀助の早突きの微妙をすっかり呑みこんでいるので、最初の一本突きさえ外せば、かならず勝てるという自信を持っていた。 「やッ」 と儀助の小手が動いた。 新九郎はハッと 柄手 ( つかて )を引き締めたが、儀助は大事を取って突いて来なかった。 しかしその緊張で新九郎の 体 ( たい )は、おのずから片身向いの斜めに変った。 この 体 ( たい )の構えは、片手青眼の木剣とぴッたり合致して、真の刀法にかなっていた。 新九郎自得の妙通である。 試合の 息競 ( いきぜ )りが少しく長いので、周囲の者も手に汗を握り出した。 すると、狙い澄ました儀助の稽古槍は、二度目に声も音もなく、目にも止まらぬ 迅 ( はや )さでさっと新九郎の顔へ飛んで来たなと見えた時、ひらりと身を沈ませた新九郎が、一心こめて、ポンと木剣を上へ 刎 ( は )ねた。 「しまった」 と儀助は弾みを喰った槍穂を下げて、しごき返して二本突きを構えかけた時、とんと 踵 ( かかと )を蹴って手元へ飛び込んだ新九郎が片手伸ばしにふり下した木剣が、見事に儀助の肩口へピシリと極った。 「参った。 ああ苦しかった!」 と儀助は火のような息を吐いて、汗みどろな胸へ風を入れながら、 「旦那様は鮠じゃあない。 偉いもんでがす」 と真から驚嘆していた。 新九郎は予測しなかった勝ちがむしろ自身で不思議に思えた。 と、そこへ怖る怖る出て来た高島十太夫は、最前と打って変った 慇懃 ( いんぎん )さで挨拶に来た。 「これは驚き入った唯今のご手練、如何なるご高名の方でござるか、願わくばお明しが願いたい。 拙者は高島十太夫と申す者でござる」 「申し遅れました。 元より拙者とても皆目の盲剣術、唯今のは怪我勝ちでもござろうなれど、ご挨拶でござれば名乗り申す。 拙者は丹波福知山の浪人、春日新九郎と申しまする」 「さては福知山の? ……」 と聞くより十太夫は飛び 退 ( の )いてはっと平伏した。 新九郎はくすぐられるようなおかしさを噛み殺していた。 「ではかねてご高名なる春日重蔵殿のご舎弟ではござらぬか。 拙者も数年前にしばらく柳端のご道場にて重蔵先生のご指導受けた者でござる」 「ほほほう、それは不思議、兄重蔵をご存じの方でござったか」 「いかにも。 して若先生は、これよりご城下へのお戻りの途次でもござりまするか」 「いやいや、拙者はお恥かしけれど、生来兄重蔵とは打って変って柔弱者でござったが、ちと心魂に徹することござって、 翻然 ( ほんぜん )と心を改め、過ぐる頃より武術修行を思い立ち、これより日本国中のあらゆる名人達人を訪ずれて、教えを乞わんため家を出たばかりでござる」 「おおさてはお兄上重蔵殿の、汚名をそそぐご心底と、十太夫ご推察申した」 「ではそこもとも、あの 経緯 ( いきさつ )はご承知であったか」 「武芸者として、桔梗河原の大試合を知らぬ者がござろうか。 拙者もその日の試合は拝見致した」 「それではお包みするまでもない。 ご推察通り如何にもして、かの 鐘巻 ( かねまき )自斎を一度なりと打ち込まんものと、かくは 流浪 ( るろう )の身の上でござる」 「あっぱれご苦心のお志、十太夫お見上げ申した。 実はその鐘巻自斎は、ちょうど試合過ぎて十日ばかり後たしかに当地を通り過ぎました」 「えッ、して 何処 ( いずこ )へ向って発足致したでござろう」 「この但馬街道を東にとり、京都へ向ったようでござるが、かの鐘巻自斎と申すは、海内でも屈指の名剣客者、余程の腕前ならでは、立ちむかいがたき強敵ゆえ、失礼ながら若先生にも、焦らずに充分のご修行が専一かと心得まする」 「ご芳志忝けのう存ずる。 とにかく拙者も一度は京地へ参り、洛内の名人を尋ねて修行の心底でござるが、これより京都へ参る途中において、尋ぬべき達人の門戸はござりますまいか」 「左様……京坂江戸の三都には、音に聞えた一流の名手も星の如くでござるが、京都までの途中としては……」 と十太夫はしばらく小首を傾げていたが、思い出したように、 「おおただ一名、怖るべき達人がござる」 と はたと小膝を叩いたのであった。 高島十太夫が新九郎に語り出した稀代の人物というのは、この山村の渓流を下ること九里ばかりの 園部 ( そのべ )の町に、すばらしい道場を張っている 大円房覚明 ( だいえんぼうかくめい )という者のことであった。 彼は京都聖護院の 御内 ( みうち )の修験者であるから、元より武人ではないが、また世間にありふれた 凡庸 ( ぼんよう )な山伏とは異なって、羽黒山に籠っては七年の行を遂げ、妙見山に入っては十年の間、 切磋琢磨 ( せっさたくま )の工夫を積んで、金剛杖と戒刀をもって天下無敵の玄妙を自得したのである。 それを名づけて 大円鏡智流 ( だいえんきょうちりゅう )と呼び、妙見を下山の後、近畿中国の 隈 ( くま )まで巡歴して、到る所の剣道家の道場を踏み破り、みずから 役 ( えん )の 小角 ( しょうかく )の再来だと称している。 それ程であるから、京地の武芸者を初め諸国を渡る武芸修行も、大円房の道場は鬼門にして、たれ訪れる者もないという話であった。 新九郎は聞き終って、寸時も早くその大円房とやらの腕前が見たいと思った。 「これはよいお話を承わった。 どうせ京へ上る足ついで、是非その道場を訪れて見ましょうわい」 「しかし、随分ともご用意あって参らぬと、尋常の武芸者と違って、怖ろしい 荒業 ( あらわざ )を致すという噂でござりますぞ」 と十太夫は特に注意した。 「いや、左様な変った武術者に会うも、修行の一つ、必ずご懸念下さるまい……では拙者はこれにて発足致す。 儀助殿、十太夫殿、またご縁もあらばお目にかかり申す」 「随分ご出精をお祈り致しまする」 「じゃ旦那様、これでお別れでがすか……」 と儀助は物淋しそうであった。 一同は春日重蔵の舎弟の若先生と聞いて、俄かに敬意を表して、高島十太夫と儀助を先頭にして、 村端 ( むらはず )れまで新九郎の壮図を見送って行った。 青い 藺笠 ( いがさ )に夏の陽を除けて、春日新九郎が園部の町に入ったのは、その日も日暮れ近かったが、彼は疲れも 厭 ( いと )わずすぐその足で、修験者覚明の道場を尋ねて来た。 来て見ると、彼はまずその広大な構えに驚かされた。 正面袖門つきの入口には 欅 ( けやき )尺二の板に墨黒々と「天下無敵大円鏡智流刀杖指南、 役 ( えん )の 優婆塞 ( うばそく ) 聖護院印可 ( しょうごいんのいんか ) 覚明 ( かくめい )」とあり、その傍には、(命惜しき者は試合望むべからず)と書き流されてある。 一方道場と覚しき一棟は、腰瓦に白壁の 塗籠造 ( ぬりごめづく )りに武者窓が切ってあった。 新九郎はその前へ来て、ちょっと 立 ( た )ち 竦 ( すく )んでしまった。 と云って、その構えに 怯 ( ひる )んだ訳では更々ない。 彼は武芸者が他流試合を求める場合の作法や挨拶を考え浮かべていたのである。 「どなたでござる?」 と玄関へ出た取次は、修験の弟子かと見るに尋常の小侍であった。 「ああご修行の武芸者でござるか」 と小侍は新九郎の 風体 ( ふうてい )を見て、扱い馴れた口をきく。 「いかにも斯道の先生を尋ねて廻国致す者でござるが、当家のご高名を承って、一手のご指南に預かりたく推参致してござる。 宜しくお 執次 ( とりつぎ )のほど願わしゅう存じまする」 場馴れない新九郎は、廻りくどいほど丁寧に申し入れた。 小侍は奥から取って返して、 「お通り下さい。 ただし唯今師のご房には、奥にて 勤行 ( ごんぎょう )の折でござるゆえ、暫時これにてお控え下さい」 と待たされた所は道場を隔てた控え所、そこでやや小半刻も待っていると、 「他流試合を望まれた武芸者はそこもとか」 と声高に云いながらそれへ出て来た者があった。 「いかにも拙者でござりまする」 と新九郎は ふと見上げると、額に 兜巾 ( ときん )をつけ柿色の 篠懸 ( すずかけ )を身にまとった、これこそ本物の修験者であった。 「は、ご道場の掟と申しますると?」 「それ知らぬとは駈け出しのご修行じゃな、後に 臍 ( ほぞ )を噛むが気の毒ゆえ、さらば一応申し聞かせよう。 そもそも、武家に武芸十八番の約束ある如く、当道場の 戒刀金剛杖 ( かいとうこんごうづえ )にも流法約式がきまっている。 まず試合を受ける者が心得置くべきことは、当家四天王の者を打ち破らざるうちは、大先生のお手は下さぬこと、得物は金剛杖か 栴檀刀 ( せんだんとう )をもってお相手する。 ただし武芸者方は各 の得意とする、槍なり木剣なり 薙刀 ( なぎなた )なり何でもご自由でござる。 その上とくとお断り申しておくのは当流はお武家方の板の間泳ぎのなまくら剣術と事違い、すこぶる荒業でござるゆえ、たとえ如何なる怪我を致すも、試合の上なら用捨はござらぬ。 まずざッと右の通りでござるゆえ、片輪になるがお覚悟なら、これより道場へ案内申すが如何でござる」 と人もなげな 申条 ( もうしじょう )に、新九郎は内心むッとしたが、いまだ初心のこととどこまでも下手に、 「委細承知致しました。 何分ご指導のほどを……」 と丁寧に云うと、 「ではこう 尾 ( つ )いておいでなさい」 とやっと道場へ案内される。 そこにもやはり一人の門弟も試合っていない。 ただ見る 檜 ( ひのき )八間四面の磨き抜いた道場に、槍、木剣、薙刀が 厳 ( いかめ )しく掛け並べてある外に、他の道場ではちょっと見馴れない金剛杖と 無反 ( むぞり )の戒刀木太刀が、二段ばかりずらりと掛けてあるのが物々しい。 とこうする間に、正面の席の左右へ銀燭が据え置かれると、叱ッ叱ッという 警蹕 ( けいひつ )の声と共に、開け放たれた襖の奥からゾロゾロと六、七名の柿色の修験者が現われた。 各 両手をついて 寂 ( しん )としていると、悠々然と上座の 褥 ( しとね )へついて威風 四辺 ( あたり )を払った人物は、 赭顔 ( あからがお )の円頂に 兜巾 ( ときん )を頂き、 紫金襴 ( しきんらん )の 篠懸 ( すずかけ )に 白絖 ( しろぬめ )の大口を 穿 ( うが )って、銀造りの戒刀を横たえたまま、どっかと 胡坐 ( こざ )して、 炬 ( かがり )の如き眼光鋭く、じろりと新九郎を 睥睨 ( へいげい )した様子、これなん大円房覚明と見えた。 「ああお訪ね下された修行の方は貴殿でござるか、身が聖護院の印可をうけた、当道場の 主 ( あるじ )覚明でござる」 と大円房は尊大に言葉を下した。 「これは初めて御意を得申す。 拙者は丹波浪人の春日新九郎と申す若年者、願わくば一手ご指南に預かりとう存ずる」 と新九郎は、初めての他流試合に臨んでこの強敵に会いながら、 自若 ( じじゃく )とした態度を保った。 「おお当道場の掟は、最前門人よりお聞かせ申したに依って充分お含みでござろうほどに、お望みに依って大円鏡智流の金剛杖をもってお 対手 ( あいて )をさせん。 やあやあ 阿念 ( あねん )、御身一本春日殿と手合せ致して見い」 と 梵鐘 ( ぼんしょう )の如き声で末座の一人に ( あご )を向けると、はッと答えて 潔 ( いさぎよ )くそれへ出た一人の修験の門輩、柿色の袖を 捲 ( まく )して一礼をなし、 「春日殿とやら、大先生のお言葉によってお対手仕る。 いざご用意召されい」 と云って自分は手頃な金剛杖をとった。 新九郎も手早く用意の襷鉢巻の身仕度終えて、二尺七寸の 蛤刃 ( はまぐりば )の木剣を 択 ( えら )び、型の如く道場の中央へ進んで 一揖 ( いちゆう )なし、パッと双方に離れるが早いか、阿念と呼ばれた山伏は、金剛杖を三分に握り占めて横身に構え、春日新九郎は一歩 退 ( ひ )いて、片手流しに持った水月の斜め青眼、これぞ 鮠突 ( はやつ )き儀助の奇手を破った、新九郎自然自得の妙構えである。 「エエエッ」 と阿念は 双 ( もろ )に開いた足を、ジリジリと詰めて身を伸ばして来た。 新九郎はこの山伏が棒振り芸、何事かあらんと 心気 ( しんき )を澄ませて片手の木剣に一念こめて、飛鳥の如く手元へ跳り込んだ途端、ピュッと刎ね返って来た金剛杖の陰の横すくい、ぽんと払えば続いて陽に真ッ向う下ろし、はッと身を沈めてガラリと横へ打ち捨てると、弾みを喰った阿念の身がよろりとなった。 得たり、 「ヤッ」 と一声鋭く、小手を撃った新九郎の木剣に、ひどい勢いで杖は板敷へ叩き落された。 「参った」 と阿念はすごすごと退いた。 大円房の面には苦々しい色が隠されなかった。 「はッ」 と即座に現われた次の相手は、七年八年の行法は修したかと思われる眼光鋭い大男、道場の板面に向って、ややしばらく りゅうりゅうと金剛杖を振り馴らして、どっしどっしと新九郎の前へ進んで来た。 並んで立つと新九郎の方が首だけ 丈 ( たけ )が短い。 新九郎も充分に大事を取って、ヤッと 裂帛 ( れっぱく )の息を打ち合せて左右に跳び別れた。 新九郎は相変らず片手青眼の一本、吉祥房は金剛杖の端を左手に押さえ、右手は後ろへ長く伸ばして、片膝折りに新九郎の全身へ眼を配って来た。 「おおッ」 と吠えるような気合いと共に、吉祥房の右手がすッと端へ 辷 ( すべ )ると同時に、四尺五寸の杖は九尺の大輪を描いて、ブーンと風を切って飛んで来た。 その毛ほどの先に、新九郎は逸早く吉祥房の胸元へ、 「エーッ」 と一文字に突いて行ったので、杖は空を打って板敷きへピシリと刎ね返った。 「残念!」 と吉祥房は、新九郎の突きをさっと体斜めにかわして、その隙に手繰り戻した金剛杖を、 兜巾 ( ときん )の頂きへ振りかぶって、 「微塵になれッ」 とばかり打ち落したやつ、ガキリ横にかざした木太刀で受けた新九郎、右側へ薙ぎ捨てて、とんと一足踏みこんだが早いか、例の縦横無尽の筆法で息も吐かせずに打ち捲くした。 この勢いにさすがの吉祥房もジリジリ下がりに追い詰められ、あわや道場の羽目板を背負った刹那、最後の渾力こめて打ち込んだ一刀、あッと叫んだかと思うと金剛杖の先をぽんと突いて、ひらりと新九郎の肩を跳び越えてしまった。 型の剣術には不馴れでも、真剣に覚えのある新九郎、こんな場合にはすぐ必死の無念無想になる。 最後だ! と思ったから捨身になって、両手に握った柄を 臍 ( へそ )に当ててズンと押して行った間髪の差、吉祥房の杖が新九郎の 頭 ( こうべ )を砕くより早く、彼の 脾腹 ( ひばら )を木剣の 尖 ( さき )でドンと衝き当てたので、さすがの吉祥房も杖をふりかぶったまま、ずでんと仰向けに倒れて、ウームと気絶してしまった。 この大胆不敵な勝負を見た大円房覚明、みるみる怒気心頭に発して、声荒ららかに、 「すぐ続けッ。 声に応じて進み出た者は、これなん大円房が四天王の随一人、 河内房了海 ( かわちぼうりょうかい )という六尺豊かの大山伏であった。 「あいや春日殿、 某 ( それがし )は当道場の四天王の一人、河内房と申す者、金剛杖の馳走ばかりにては定めし貴殿も飽きつらん。 拙者は鏡智流の独壇とする戒刀型の木太刀をもってお対手申さん」 と 倨傲 ( きょごう )に云い放った。 変った物は何でも望むところと新九郎は勇気凜然。 「それこそ望むところ、願わくば戒刀の秘訣を拝見致したい」 「おおよく申されたり。 臍 ( ほぞ )を噛んで後に吠え 面 ( づら ) 掻 ( か )かるるなよ」 と河内房が引ッ提げて来た革袋から抜き出したのは、鉄の如く磨き澄ました、 栴檀 ( せんだん )造りの無反三尺の木太刀、これぞ 優婆塞 ( うばそく )が常住坐臥に身を離さぬ戒刀になぞらえて、作りなしたる凄い 業物 ( わざもの )。 悪鬼怨霊 ( あっきおんりょう )、天魔鬼神も 挫 ( ひし )ぐという大円鏡智流の手並やいかに。 「いかに春日殿、お仕度はよきや」 「ご念におよび申さぬ」 と二人の面上、早くも一脈の殺気満々。 「ええッ」 と新九郎は木剣を引いて下段に構えた。 同時にオオッと、栴檀刀を大上段にかぶった河内房は、 柄頭 ( つかがしら )を 兜巾 ( ときん )の辺りに止め、 々 ( けいけい )たる双眼を新九郎の手元へあつめて、両腕の円のうちから隙もあらばただ 一挫 ( ひとひし )ぎにとにじり寄った。 それに圧せられず、新九郎もここぞ天の試練と木太刀にあらん限りの精をこめたが、元より新九郎の技倆は、円熟な百練の技ではない。 真に起死回生の 解脱 ( げだつ )から、大願の一心と不敵な胆で総身を埋めてしまった、いわば一念と度胸で行くだけであるから、河内房の老練な眼から見れば全身ほとんど隙だらけである。 しかし、その隙だらけの新九郎へ、戒刀をとっては 宇内 ( うだい )の山伏の中でも音に聞えた河内房が、なかなか 易 ( たやす )くは打ち込んで行かれなかった。 その理由は、新九郎のいわゆる一心大胆が 遮 ( さえぎ )るのでもあろうが、河内房の老練な眼から見た新九郎の構えというものは、実に彼の内心を寒からしめるものがあったからである。 それは何であったか? 河内房は新九郎の如何なるところを見て 慄然 ( りつぜん )としたのであろうか? 河内房了海は、さすが大円房の四天王随一と云われた人物だけあって、あらゆる行法に 長 ( た )け、殊に人物を 観 ( み )るにかけては 透徹 ( とうてつ )の眼識をそなえていた。 今彼が新九郎の 機微 ( きび )から見出したものは、実に薄衣に包んだ名刀が、 晃々 ( こうこう )たる光りをうちに隠して現われないような彼の天才である。 面 ( おもて )は女の如く美で、中肉中背の骨格は何らの研磨を物語っていないが、新九郎が自然に備えた 黒耀 ( こくよう )の瞳、柳の 臂力 ( ひりょく )、体の屈折など、髪の先から足の爪までほとんど神が一人の剣聖を、この世へ試みに送り出した者かと思えるほど整っている。 しかもそれはいまだ何ら俗剣術の型にはまっていないからすべてが自然であって、すべてが怖るべき天才的の閃めきに見えた。 しかし、かかる奴はいずれ後には当流の大敵、いまだ技の未熟であるこそ幸い、うんと 懲 ( こら )して、あわよくば腕の一本ぐらいは 挫 ( くじ )き折ってくれんと、 窺 ( うかが )いすまして新九郎の右小手の隙へ、 「ヤッ」 と一声 栴檀刀 ( せんだんとう )を打ち込んだ。 ひらりと素速く身を 竦 ( すく )めた新九郎は、その時、下段の太刀を疾風と捲いて、ブンと勢い鋭く河内房の 毛脛 ( けずね )を 薙 ( な )ぎつける。 猪口才 ( ちょこざい )なと跳ね上がった河内房は、再び大上段から新九郎の肩口へビシリと拝み打ちに来たのを、ヤッと払って返す太刀と敵の三の太刀がガッキと火の匂いを発して十字にぶつかる。 陰陽一上一下、続け打ちに五、六打合ううち、思いがけない河内房の足がツと新九郎の内股へ入って 外輪 ( そとわ )にぱッと蹴離したので、木剣にばかり気をとられていた彼は、 「アッー」 と叫んで斜めによろめいたところを 天 ( てんぴょう )の如き河内房の強力で、新九郎の小手を 強 ( したた )かに打ち込んだ。 「参った」 と新九郎の無念の声。 河内房は耳に触れぬ振りをして、続けざまにピシャリッピシャリッと五、六本続けて打ち込んだので、新九郎は ( どう )と仰向けにたおれてしまった。 「こりゃ理不尽な……」 と刎ね起きた新九郎の額には、無慚な血潮が 滲 ( にじ )んでいた。 「何が理不尽、それゆえ前もって当流の 掟 ( おきて )は申し聞かせてある。 未熟な腕前で他流試合を望みなど致すから、かような目にも会うのだ! 馬鹿めッ」 と河内房が続けて 栴檀刀 ( せんだんとう )をもって 擲 ( なぐ )りかけて来たので、新九郎はむッと引っ掴んで、 「己れッ無礼な!」 と蒼ざめた顔色に髪を乱して睨みつけた。 「やあ河内房、痩せ侍の吠え面見るも笑止、引ッ掴んで表へ 抓 ( つま )み出してしまえ」 と大円房は 憎態 ( にくてい )な嘲笑を泛かべながら下知した。 と、ばらばらと立ち上がった柿山伏の門輩どもは、一人の新九郎の手を取り足をすくって玄関口より引き摺りだして、 「ざまを見ろッ、いい笑われ者だ」 と思う存分の 罵詈 ( ばり )悪口をかぶせて、どんと門外へ突き出してしまった。 春日新九郎はしばらく無念のあまり、倒れたまま、はッたと大円房の門を睨みすえた。 「おのれ悪山伏めら、この新九郎が上達の暁には覚えておれよ……」 とすごすご塵を払って立ち上がった。 既に夜に入っていたので、通る人目にこの醜態を見られなかったのは、せめてもの 僥倖 ( ぎょうこう )であった。 無念無念でかたまっていた新九郎は、どこをどう歩いて来たかしばらくは気づかなかったが、 鼕々 ( とうとう )という水音にふと面を上げて見ると、ここは保津川の 川縁 ( かわべり )、 彼方 ( あなた )の 青巒 ( せいらん )から一面の名鏡ともみえる夏の月がさし上って、大河に銀波を 縒 ( よ )っていた。 その涼しさに、新九郎も冷静になった。 彼の 嚢中 ( のうちゅう )は宿銭にも乏しかったので、今宵はここの河原 蓬 ( よもぎ )を 衾 ( ふすま )にして夜を明かそうと心を決めた。 そしてごろりと身を横たえながら、澄み渡る真如の月の冴えを見つめて、ただ想うのは 剣 ( つるぎ )の工夫、ああ如何にしたら名人になれるであろう。 いつになったら鐘巻自斎を打ち込むことが出来るだろう。 それを思えば大円房の如きは心にかけるほどのことでもない。 むしろ武神が我れを鞭打つ激励ではないか。 新九郎はそう心をとり直して、月そのものの、清らかさに返った。 夜は 更 ( ふ )けた。 露ふりこぼす河原の 青芒 ( あおすすき )に、そよそよと吹く風も冷たい。 するとそこへ、ざッと水を切って来た一艘の屋形船がある。 涼風に灯を吹き消されたか、はためく草の中は真ッ暗であるが、中に 蠢 ( うごめ )く三、四人の黒い影が、船を岸に着けると、すぐ総かがりで一人の女を抱き上げて来る様子。

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鬼滅の刃

きめ つの や い ば 甘露 寺 み つり 画像

すまなかった」 (鬼滅の刃第13話より引用 吾峠呼世晴/集英社) 鬼に恋人を殺された町民を優しくも厳しい言葉ではげます炭治郎。 恋人を失い悲しみにくれる町民は「お前に何が分かるんだ!!」と暴言を浴びせる。 炭治郎は町民の手を握り優しく微笑むと「炭治郎も大切な誰かを失った人」だと気付き謝罪する。 端役の町民が炭治郎も同じ悲しみを背負っている事を察する場面が心の琴線に触れます。 感謝の言葉ではなく暴言から謝罪という台詞を町民に言わせた事で炭治郎の抱えている気持ちを共有できますね。 私も大切な人を失った直後なら、恩人とはいえ素直にはありがとうなんて言えないし、普通の人間視点でよく心情が描けているなって思いました。 死に際、繋がっていた親子の絆を自分の手で千切ってしまった事を思い出す累。 父さんと母さんにずっと謝りたかった… 「多くの人を殺した僕は父さんたちと一緒に天国へはいけないよね?」 「一緒に行くよ地獄でも」 消えゆく累に両親はそっと寄り添い一緒に地獄に落ちてゆく。 決して許されない子の過ちを一緒に償う良心の親心に心を打たれます。 「どんなにつらい過去があっても、鬼としての悪行は許されない」作品としての一貫したスタイルですよね。 厳しいスタイルは貫きながらも「世間は許さないけど親は子を愛している」という情け深さに魅了されています。 一番弱い人が一番可能性をもっているんだよ玄弥 (鬼滅の刃第172話より引用 吾峠呼世晴/集英社) 絶対強者黒死牟に太刀打ちできない三人の柱たち。 兄実弥を救いたい、師匠行冥を救いたい、時透くんを救いたい…そんな思いとは裏腹に恐怖で足がすくんで動けない玄弥ですが炭治郎の言葉を思い出します。 「上弦の陸との戦いのとき、俺が弱かったから状況を変えられたんだと。 」 黒死牟の強さはさすが上弦の壱という感じですよね。 状況を変えるカギを握っているのが呼吸の使えない玄弥という胸が熱くなる場面です。 果たして玄弥は黒死牟に一泡吹かせられるのか楽しみですよね。 今回はここまでです。 ここから先も名言、名場面がたくさん登場するのでまたの機会にご紹介させていただきます。

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