ハプスブルク 家 奇形 児。 カルロス2世 (スペイン王)

ハプスブルク家とは?近親婚で遺伝障害って本当?現在の末裔に日本人も?

ハプスブルク 家 奇形 児

ウィーンはますます寒さが厳しさを強め、本日の最低気温はとうとうマイナス10度を下回っているのだとか!窓を開けると、身を切り裂くような寒気が流れ込んできます。 またそれとは反比例するように、クリスマスのイルミネーションは一層煌びやかに、街中やショッピング・センターに彩りを添え、とても綺麗です。 さて、本日は ハプスブルク家特有と評される独特の顔立ちについてお話したいと思います。 ------------------------------------------------------------------------------------ 先日著者がウィーン・リンク沿いにある美術史博物館を訪れたことは にて記しましたが、 その際に ハプスブルク家に代々伝わる興味深い顔の特徴を絵画や彫刻を通して、目の当たりにすることができました。 これらはほんの一例なのですが、男女を問わず下を向いた鼻と、下顎の形が非常に特徴的。 オーストリアではこれを "Habsburger Unterlippe"(ハプスブルク家の人の下唇)と呼ぶそうです。 パリに小旅行した際に「 マリー・アントワネットの鼻と口にハプスブルガーの典型的特徴がある」と著者の夫が述べたことは で既に記しました。 (王妃マリー・アントワネットはフランス国王ルイ16世に嫁いだオーストリアのハプスブルク家の人間。 左写真参照) その時著者は意味があまり良く理解できず「???」という状態だったのですが、ここにきてやっとその訳がわかりました!なるほど、控えめに描写されているものの、鼻と唇に僅かながらハプスブルガーの特徴が見て取れます。 百聞は一見に如かず、ですね(笑) この ハプスブルガーの外見的特徴が最も顕著に表れているとされるのが神聖ローマ皇帝・カール5世であると言われています。 生来、顎の筋力が丈夫でなかったため口を閉じることもままならず、肖像画では常に髭を蓄えた姿で、外見的特徴を隠して描かれたのだとか。 「汝、結婚せよ」の言葉に代表されるように、ハプスブルク家の人間は何代にも渡り近親結婚を繰り返したため、疾患・障害を持ちながら帝位に就く皇帝や、病弱で夭折してしまう皇子・皇女が後を絶たなかったと言われます。 かの女帝、マリア・テレジアも16人もの子供を産みながら、成人したのは13人。 宮廷と言う恵まれた環境にありながら、成人後も病弱、もしくは夭逝した皇子・皇女が幾人もいました。 近代以前は医学があまり発達していなかったことや、当時の恒常的な栄養不足等も勿論一因であったとは思われますが、「領土拡大・保守」という至上命令のため、数多くかさねられた血族結婚による遺伝的原因もどうやら無視できなさそうです。 こういったエピソードを事前に知っておくと、美術館めぐりや絵画鑑賞も益々面白くなりますよね。 美術史博物館をご訪問予定の方は、ぜひハプスブルガーの絵画や彫刻を探して歩いてみて下さい! 今日の記事を愉しんで頂けましたら、 クリックのご応援、宜しくお願いします!• 特派員プロフィール• ウィーン特派員 ライジンガー真樹 スペイン語と異文化研究のため高校時代に南米チリへ留学、国際基督教大学(ICU)卒業。 外資系広告代理店のメディアプランナー、欧州系エアライン2社の客室乗務員を経て現在はモード業界 に。 オーストリアの今• オーストリアを旅する• オーストリアの詳細情報• 旅の準備• おすすめ特集•

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ハプスブルク家

ハプスブルク 家 奇形 児

ハプスブルク家の旗 ハプスブルク家(: Haus Habsburg)は、現在の領内に発祥した()の。 古代の有力貴族である()の末裔を自称し、の血縁制度を利用したにより広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。 中世から初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、()、、、、、、(後に)などの・・の家系となった。 また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアが議長を独占したため、による統一から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。 随一の名門王家と言われている。 家名の「Habsburg」の発音は、 ドイツ語発音: ( ハープスブルク)とドイツ語では発音される。 ただし日本では慣用表記・読み方である ハプスブルクが多く使われる。 では アブスブルゴ家(Casa de Habsburgo)、では アブズブール家(Maison de Habsbourg)となる。 現在のスイスにおける1200年頃のハプスブルク家の支配領域は Habsburgとして示され、 および と ()に囲まれた地域にある。 ハプスブルク家は北東部(近郊)の上流域を発祥地とする。 ハプスブルク家の祖先はおそらく10世紀に存在した ()のであり、その遠祖は初期中世ににいた の祖の上アルザス伯 () に遡り、ハプスブルク家はエティション家の分家である。 グントラムの孫であるクレットガウ伯が1020年から30年頃にを築いたといわれる。 この城はその後ハプスブルク城と呼ばれるようになった。 城は現在のスイスの・にある。 最初に王家自身によって文書でハプスブルクの名前が使われたのは1108年に遡る。 ハプスブルク城は11世紀から13世紀に居城となった。 ハプスブルク家は、、、で伯爵権などの政治的特権を得ることや婚姻政策を通じて影響力を拡大した。 13世紀にハプスブルク家はとの名家をその婚姻政策の目標とした。 彼らは一族のために、教会においても高い地位を得ることができた。 領域的には、彼らはしばしば ()のようなほかの貴族の断絶などから利益を得た。 皇帝への道 [ ] 1547年時点でのハプスブルク家の領土 にハプスブルク伯爵ルドルフ4世( ()の子)が(皇帝に戴冠していないの君主)に選出されて「」として世に出た。 ルドルフ1世は、1278年にをで破り、にオタカル2世の所領であったを息子に与え、帝国南東部に勢力を広げる。 これ以降、ハプスブルク家はスイスでは徐々に領地を失ったこともあって、もっぱら軸足をオーストリア地方に移す。 にルドルフの子が甥のによって暗殺された後、その子が共同君主の地位を得たのを最後に帝国の君主位からは遠ざかり、勢力は一時衰える。 しかし一族はオーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてが「」を自称した。 にが、次いで1440年がローマ王になってからは王位をほぼ世襲化することに成功し、にがから戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。 フリードリヒ3世の時代は皇帝とは名ばかりで権威も権力も財力もなかったが、マクシミリアン1世はへの婿入りに近い形で当時のヨーロッパ最大の富裕・繁栄を誇った、()を、その子世代の婚姻関係によってスペイン王国、、などを継承し、皇帝の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。 当時のスペインはをとして支配していたため、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国であった。 さらにカール5世の弟が、ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大した。 の擁護者としてと戦ったカールは、に祖父マクシミリアン1世の所領を弟フェルディナントと分割した。 また、父や母女王を通じて相続した所領はに息子に継がせた。 こうしてハプスブルク家は スペイン系ハプスブルク家と オーストリア系ハプスブルク家に分かれた。 に取り交わされた協定で弟フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ皇帝位を世襲することになった。 スペイン系ハプスブルク家(アブスブルゴ家) [ ] 1600年のヨーロッパ オーストリア系ハプスブルク家またはオーストリア・ハプスブルク家は、カール5世の弟に始まる()。 に終結とともに結ばれたによって弱体化した。 しかしの()撃退の後、ハプスブルク家は力を取り戻し、オスマン帝国を破りを奪還する(、)。 では、ハプスブルク家に支援を申し出たのに「」の称号を認めるなど、としての権威を示す。 、が男子を欠いたまま没したため、神聖ローマ皇帝位を喪失し、オーストリアは長女が相続したものの、それを不服とするなど列強との間にが勃発した。 オーストリアはを失うなど一時苦境に陥るが、()の援助を受けて劣勢を挽回し、によって、、の相続を承認される。 また、マリア・テレジアの夫である(ロートリンゲン家)のがに帝位を奪還した。 その後、大国化するプロイセン王国に対抗するためと接近した()。 ルイ()とマリア・アントーニア()の結婚もその一環である。 しかしこの行為でドイツ諸侯の支持を失い、神聖ローマ皇帝としての権威を損なう結果となった。 それでもオーストリアは大国としての地位を確保し、プロイセン、と共にに参加した。 さらにマリア・テレジアとその息子はを推し進めるなど、積極的にに努めた。 のは、ハプスブルク家に衝撃を与えた。 ルイ16世との処刑はハプスブルク家に脅威を与え、プロイセンとともにフランスに出兵する()。 しかし革命政府軍に敗れるなど失態を演じ、さらにの台頭を許し、やがて全ヨーロッパがの災禍に呑み込まれて行く動乱の時代に突入する。 神聖ローマ帝国解体後 [ ] 当時のオーストリア・ハンガリー帝国 初頭に神聖ローマ帝国はの攻勢に屈して完全に解体し、ハプスブルク家のはに退位した。 一方でフランツは、にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、フランツ1世を称しており、以後ハプスブルク家はオーストリアの帝室として存続した。 そして、ナポレオン1世追放後のヨーロッパにおいて、護持のの一角として地位を保持し、内においても優位を保っていた。 しかし、でロシアと敵対して神聖同盟は事実上崩壊し、にはに敗北してを失い、ので大敗を喫し、ドイツ連邦から追放()、と国際的地位を低下させた。 国内でも、多民族国家であることから諸民族が自治を求めて立ち上がり、皇帝がハンガリー人に対して妥協()することで、帝国はにととに二分して同じ君主を仰ぐへ再編された。 それでも以後、民族問題は深刻を深めていく。 、を行ったことから、それまでくすぶっていたが高揚し、ロシアとの関係も悪化した。 そして、皇位継承者夫妻がの州都で青年に暗殺される事件()がきっかけとなって、オーストリアのセルビアへのからが始まる。 長引く戦争、ロシアの政府の戦線離脱などの要因が重なり、側はハプスブルク帝国を解体しないという当初の方針を踏み越え、に独立を約束してしまう。 帝国内の民族も続々と独立し、盟邦ハンガリーもオーストリアとの完全分立を宣言した。 ハプスブルク家の最後の皇帝は亡命し、に650年間君臨したはに崩壊した。 その後、ハプスブルク一族はへの入国を禁止された。 1921年にはカール1世がに復帰しようとしたが、失敗した()。 に至って、カール1世の長男元皇太子はオーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄してに忠誠の宣誓を行い、オーストリアに入国を許された。 ハプスブルク家はオットーがドイツ選出で、その息子がオーストリア選出で、それぞれを務め、もはや統一を一切視野に入れずに同民族国家としての親密な関係を保つ時代の両国関係を象徴する存在となっている。 ただしオットーはその存命中、ハンガリー王とボヘミア王を名乗り続けていた。 なお、単に「ハプスブルク家」と呼ばれることが圧倒的に多いが、マリア・テレジアの子の世代以降、現在に至るまで正式な家名は「」(Haus Habsburg-Lothringen)である。 結婚政策 [ ] の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によって所領を増やしていった。 現在も、最後の皇帝カール1世の子孫は婚姻により、の君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。 血族結婚 [ ] 一方で婚姻による所領の流失にも敏感であった。 そのため、や(二重いとこの場合もあった)というを数多く重ね、一族外に所領が継承される事態を防ごうとした。 その結果、頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして死亡するという事態が起こった。 以降、(歯を見せたときに上の歯より下の歯が前にある)の人物が一族に多くなっており、カール5世はにより食事は丸呑み状態であったことが伝えられている。 特にスペイン・ハプスブルク家ではのような虚弱体質・知的障害を併せ持った王位継承者を誕生させ、スペイン王位をに渡すこととなった。 そのブルボン家も血族結婚を古くから重ねており、ブルボン家とハプスブルク家の間で頻繁に婚姻が行われるようになると、双方で夭折したり、成人に達しても身体に障害を持った人物が続出した。 しかし、ハプスブルク家には強固な当主の概念があったため、に家を乗っ取られることも、また一族内で争いが起こることもまれであった(甥に暗殺された、・兄弟や・兄弟の争いといった例はある)。 幸福な結婚、多産の伝統 [ ] ほとんどは他の王侯と同様にであった。 しかしその割には夫婦仲が円満で子宝に恵まれたケースが多く、多産は伝統とも言える。 そのため現代でもハプスブルク家に関して、陰謀などの血生臭いイメージはあまり無い。 10人以上の子供がいる主な夫妻• と皇后(15人)• と皇后(16人)• と皇后(10人)• と皇后・女王(16人)• と皇后(16人)• と皇后(12人) 系図 [ ] 祖家 [ ]• 英語での発音は、「Habsburg」: 英語発音: (ハプスバーグ)。 例としてスペイン生まれのルイ13世王妃はフランスで(オーストリアのアンヌ)と称された。 962年 - 1806年• (1014年 — 1024年)• では「 エティコン家( エティコーネン家)」または「 エティヒョン家( エティヒョーネン家)」と述べている。 別名はエティヒョあるいはアダルリック(アダルリクス)またはアティックと呼ばれる。 "Habsburger-Gedenkjahr im Aargau", , page 17 23 May 2008. 2008年12月23日時点のよりアーカイブ。 2016年10月16日閲覧。 Heinz-Dieter Heimann: Die Habsburger. Dynastie und Kaiserreiche. 38—45. エティション家(エティショーネン家)のノルトガウ伯フーゴ3世の子と推測されている。 グントラムの出自については瀬原、『スイス独立史研究』に詳しい考察がある。 関連項目 [ ]• - の黄色はハプスブルク家の色に由来する。 - ハプスブルク家の人物によく現れていたことで有名で「ハプスブルクの下唇」()という。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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オーストリア=ハプスブルク家

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Contents• スペインハプスブルク家 最後の王、カルロス2世 スペインのカルロス2世は、スペインハプスブルク家最後の国王です。 ちなみにカルロス2世は、2019年上野で開催されているハプスブルク展のチケットに描かれた 「青いドレスの王女 マルガリータ」の弟でもあります。 参考記事: 度重なる近親婚の影響で生まれる子供は幼くしてなくなることが多く、また度重なる出産により王妃が衰弱し次々と亡くなるなか、 カルロス2世はまさに、断絶間近の王家の希望でもありました。 しかし「 奇跡の子」と呼ばれたカルロス2世は、成長するにつれ「 呪いの子」とささやかれるようになります。 カルロス2世にみられた、近親婚の影響 参考: どういう経緯で近親婚が繰り返されていたのかは、別記事に詳しく解説しておりますので興味のある方はから。 Discover誌にカルロス2世の特徴が生々しく記載されていましたので、下記に 翻訳したものを引用します。 スペインのハプスブルク王カルロス2世は、巨大な奇形の頭をもち、それも著しく退化していました。 彼の顎は非常に突出していて、2列の歯が噛み合うことはなく、彼の舌はとても大きくてほとんど話すこともできませんでした。 彼は知能にも同様に障害があり、彼の短い人生は、主に幼児期の延長から早老に至るまでの道のりでした。 カルロスの家族は「彼の寿命を伸ばすこと」を重要視し、教育についてはほとんど考えていませんでした。 5〜6歳まで乳を飲み、足が支えられずにうまく歩けず、何度も転びました。 discovermagazine. あえて訳すことはしませんが、一部あえて取り上げるのであれば、 「もし彼の出生が始まりだというのなら、 その始まり自体が彼の終わりだったというのが真実かもしれない」といったことが記されています。 日本の書籍などでは、 「生まれた時から死に瀕していた」という表現もされているようです。 I f birth is a beginning, of no man was it more true to say that in his beginning was his end. From the day of his birth they were waiting for his death. wikipedia. 宮廷は彼に教育を施さず唯一の王であった彼を「少しでも生き長らせる」ために奔走します。 自分たちを『 神に選ばれた特別な人間とし、下々の血で汚されてはならない』として、狭い中で婚姻を繰り返した結果が、カルロス2世の誕生でした。 し かし皮肉にもカルロス2世は子供をつくれる状態ではなく、180年続いたスペインハプスブルク家は、カルロス2世の代で終焉を迎えることになります。 スポンサーリンク あとがきにかえて (『フェリペ・プロスペロ王子』 1659年 ベラスケス ウィーン美術史美術館所蔵) 「青いドレスの王女」マルガリータにはもう一人弟がいました。 カルロス2世が生まれる前に亡くなってしまったのですが、 お姉ちゃんに似てとても儚くうつくしい「フェリペ・プロスペロ王子」、その儚く愛くるしい姿を当時の宮廷画家ベラスケスが描き残しています。 参考記事: カルロス2世は自らを「何かに呪われている」と信じ込み、祈祷師を頼っていたそうですが、それはある意味正しく、 数代続いた咎を一手に引き受け、呪いを止める役割を担っていたのかも しれません。 スペインハプスブルク家はここで断絶するわけですが、 オーストリアハプスブルク家はその後も世界に君臨しつづけ、マリーアントワネットの母であり絶世の美女 「女帝」など数々の英雄を生み出していくのでした。 ハプスブルク家シリーズの続編はこちら• この記事を読んだ人にオススメの記事• スポンサーリンク.

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