ハプスブルク 家 あご。 オーストリア=ハプスブルク家

ハプスブルク家で日本人の末裔や現在は?あごの特徴もわかりやすく!

ハプスブルク 家 あご

ウィーン オーストリアの首都であるウィーンは、ハプスブルク家の歴史のうえでも特別な地位を占めています。 ルドルフ一世の皇帝選出以来、ハプスブルク家の主要な居城都市として、常に皇帝一族との深いかかわりあいを持ち続け、そのためウィーンには同家ゆかりのものが無数にあります。 ホーフブルク王宮やシェーンブルン宮殿をはじめ、シュテファン大聖堂の地下やカプチィーナーグルフト、アウグスティーナー教会などに、多くのその歴史的な証が残されています。 ウィーン少年合唱団、スペイン式宮廷馬術学校、帝室コレクションに始まる美術史博物館、ウィーン王宮宝物館、新王宮の武器や楽器の収集、アルベルティーナ美術館など、すべてがハプスブルク家の見事な遺産と言ってよいでしょう。 そして、ウィーンでは宮殿ばかりではなく、数多く残る歴史的なコーヒーハウスに入っても、気高き帝国時代の雰囲気を感じ取ることができます。 ホーフブルク王宮のシシィ博物館と皇帝の住居 王宮のハプスブルク家の主要な居住区の皇帝の住居は、一般に公開され見学することができます。 宮廷の日常生活において、特に興味を引く事柄を銀器コレクションで見ることができます。 ハプスブルク家の贅を尽くした食事文化だけ見ても、5000人もの人々が暮らす宮廷の大世帯を養っていくのに、いかに巨額の出費が掛かっていたかがわかります。 シシィ博物館では、皇妃エリザベートのプライベートライフを垣間見ることができます。 更衣室兼運動ジムの他に、若い花嫁の婚礼前夜のパーティドレスのレプリカ、部屋着やパラソル、扇、手袋や、シシィのデスマスクも展示されています。 また、旅行好きだった皇妃専用の豪華なサロン車両のレプリカも見ることができます。 これらの品々すべてが、1888年、暗殺によって悲劇的に終わった皇后エリザベートの生涯を静かに物語る証しです。 アウグスティーナー教会 女帝マリア・テレジアとフランツ・シュテッファン・ロートリンゲン公が挙式を挙げた帝室教区教会である聖アウグスティーナー教会で、皇帝フランツ・ヨーゼフとエリザベート、皇太子ルドルフとシュテファニー王女が、またフランスの皇帝ナポレオンとマリー・ルイーズも結婚式を執り行いました。 さらに心臓保存所にはハプスブルク家の54人の心臓が銀の壺に納められています。 シェーンブルン宮殿 かつての皇室の邸宅はヨーロッパでも最も美しいバロック様式の宮殿の一つに数えられています。 ハプスブルク家の人々は一年のうち大部分を、宴会ホールのほか皇帝の大家族に必要な数えきれないほどの部屋を持つこの宮殿で過ごしました。 今日では宮殿は歴史的重要性を持つ、ユニークな敷地と豪華な調度品のため、ユネスコの世界遺産に登録されています。 精緻に配置された敷地や庭園は、休暇で訪れた旅行者だけなく、地元ウィーン子にとっても散歩に最適の場所です。 庭園を進むと、やがて小高い丘に「グロリエッテ」と呼ばれるエレガントな建物に行き着きます。 ここにあるカフェからは、素晴らしい街の眺望が堪能できます。 また、敷地内にある世界最古の動物園で数時間過ごすのもいいかも知れません。 庭内にある馬車博物館も歴史を語っています。 ラインツ動物公園とヘルメスヴィラ 市の郊外、ウィーンの森に位置するこの場所は皇帝の狩猟場でした。 現在でもイノシシは鹿が生息する自然公園で市民の憩いの場です。 公園の奥にあるヘルメスヴィラは皇帝フランツ・ヨーゼフから妻エリザベートへの贈物でした。 豪華な調度品がそろい、後期ロマン主義の建物です。 今日はウィーン市博物館所属のミュージアムになっています。 皇帝納骨堂 カイザーグルフト カプチーナー教会の地下にある皇帝納骨堂はハプスブルク家の人々の永眠の場所です。 ここには12人の皇帝、19人の皇妃を含む全部で146人の貴族が安置されています。 マリア・テレジアと夫、皇帝フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンI世の対になった壮大な棺は、バルタザール・フェルディナンド・モルス作で、まず目を引きます。 その一方彼らの息子ヨーゼフ二世の棺はシンプルです。 実質最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世も1916年以来ここに眠っています。 皇妃エリザベートと皇太子フドルフの石棺もあり、カプチン修道士たちにより守られています。 ベルヴェデーレ宮殿 上宮と下宮と広々として庭園からなるベルヴェデーレは18世紀に建築家ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントによって建立されたオーストリアの将軍プリンツ・オイゲン公の宮殿です。 ベルヴェデーレは世界で最も美しいバロック様式の建物の一つで、壮大な大理石の間、サラテレーナ、豪華な大階段を持つ上宮はオイゲン公の時代には宴会の宮殿として機能していました。 今日は中世からバロック時代、さらには近代までの美術品が展示されている美術館です。 下宮には華美なホール、大理石の間、金の間などがあり、オイゲン公の居住空間でした。 絵画、古美術のコレクション、図書館があります。 ニーダーエステライヒ州 シュロスホーフ ドナウ河の近くにあるシュロスホーフ(祝祭宮殿)は、壮大なテラスを持つバロック様式の美しい庭園が特徴です。 テラスの非常に明るく活き活きとした雰囲気は、当時バロック・フェスティバルが開かれていた時のように、贅沢で素晴らしかったあの時代の生きる喜びを今日に伝えています。 この豪勢な宮殿は、もともと1697年のゼンタの戦いでオスマントルコに勝利したサボワ家のオイゲン公に感謝の気持ちを示す「高価なご褒美」としてハプスブルク家が建てたものでした。 オイゲン公は狩猟の館として利用していました。 その後1755年にマリア・テレジアが相続し、夫のフランツに贈られました。 今日でもオイゲン公の栄光のテラスでバロック祭りが行われています。 バーデン 15世紀中頃、皇帝フリードリッヒ三世から都市権を与えられたローマ時代からの温泉保養地。 1811年に中央広場に面して建てられた皇帝フランツ一世の夏の館の他、ハプスブルク家一族のゆかりの建物も多く、カール大公の城館、ワインブルク城、メッテルニッヒの邸宅の名残などがあります。 ヨーゼフ二世、フランツ・ヨーゼフ一世の記念碑が建っています。 ラクセンブルク 広大なシュロスパークにはいくつかの城があり、1858年にルドルフ皇太子は旧城 アルテス・シュロス で生まれました。 フランツェンブルク城は、オーストリアのロマネスク様式の代表作です。 マイヤーリンク 元は皇帝の狩りの館でしたが、皇太子ルドルフが1889年ここで悲劇の心中をとげた後、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世が修道院に捧げました。 オーバーエステライヒ州 リンツ城 リンツにゆかりの深い皇帝フリードリッヒ三世は15世紀にこの城に居住し、その息子の皇帝マクシミリアン一世もたびたびリンツ城に滞在しました。 その後17世紀初め、皇帝ルドルフ二世がそれまでの中世の城を解体させ、ルネサンス様式で新しい城館が建設されました。 マリア・テレジアの6番目の娘、マリア・エリザベートはここで生まれています。 1800年の火災により南棟と教会塔が消失。 その後の改築をへて、現在は州立博物館になっています。 バード・イッシュル市博物館 1853年皇帝フランツ・ヨーゼフとエリザベートが婚約を祝った、当時のホテル・オーストリアは今日では市立博物館で、バード・イッシュルの、特に塩の生産地としての重要性、温泉療養地としての台頭、皇帝の夏の保養地としての市の発展が紹介されています。 カイザーヴィラ 皇帝の別荘 フランツ・カール大公とバイエルンの王妃ゾフィの夫妻が、子供のいなかったハプスブルク家の人々にバード・イッシュルのスパで「湯治」をすることを勧めたことから、高貴な人たちが夏をこの地で過ごす習慣が始まりました。 その後、王妃自身、湯治の甲斐あってか、子供を授かりました。 その子供がのちの皇帝フランツ・ヨーゼフで、後に、大公妃ゾフィーからこの別荘を贈られ、妻のエリザベートと共に、バート・イッシュルで幾夏も過ごすようになりました。 現在、カイザーヴィラはガイドツアーのみで一般に公開され、皇帝とその家族が味わった19世紀当時の雰囲気そのままを今日に伝えています。 バード・イッシュルでは毎年、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の誕生日(8月18日)の週には皇帝記念日が開催されます。 チロル州 インスブルック王宮 ハプスブルク家の人々は、チロルでも長期滞在しました。 それは休息やリクリエーションのためというよりも、政治的な目的からでした。 皇帝マキシミリアンI世は、現在西ヨーロッパと呼ばれている地域まで自身の帝国を拡大する上で、地理的に好適な地盤として「アルプスの首都」と呼ばれるインスブルックを居住地に選びました。 マクシミリアン一世は15世紀最後の騎士といわれた英明な神聖ローマ帝国の皇帝であり、広がる領土の中枢の余地としてインスブルックに王宮を造りました。 現在、インスブルックのシンボルである「黄金の小屋根」は、1490年にマクシミリアン一世がミラノのビアンカ・マリア・スフォルツァとの結婚を機に建てた宮廷用桟敷のテラスです。 王宮は、女帝マリア・テレジアが16世紀以来の宮殿をロココ調に改装したもので、華麗な大広間や天井画、タペストリーなどが見事です。 マクシミリアンの先祖と子孫を表現するといわれるいわゆる「黒い男たち」と霊廟は、当時のもっともすぐれた画家、彫刻家、ブロンズ造形家たちによって制作され、チロルの最も重要なルネッサンス芸術とされています。 また、必見なのは祭壇の上に華やかな銀のレリーフ、十字架のある円蓋、ルネッサンスの絵画で飾られた銀の礼拝堂です。 ハルの貨幣鋳造塔 ハルはハプスブルク家の貨幣製造の都としての輝かしい歴史を物語っています。 この町で初めて銀貨が鋳造されたのは1486年で、その後1567年に皇帝マクシミリアン二世は圧延鋳造機を作って初めてコインを作らせました。 女帝マリア・テレジアの時代には有名なマリア・テレジア・コインを1700万枚も鋳造し、帝国中に流通させ、通貨として使用されました。 コイン博物館を訪れると、貨幣の世界が詳しくわかり、500年にわたるヨーロッパの金融の歴史が学べます。 例えば、世界で最初のターラーや、20kgもの世界最大の銀貨も展示されています。 貨幣タワーからは中世の雰囲気をもつハルの旧市街と、遠くにはハプスブルク家の狩猟地であったカーヴェンデル山脈が見渡せます。 シュヴァーツ イン渓谷にあるシュヴァーツの銀山は、ハプスブルク家の大きな財源として「あらゆる鉱山の母」と呼ばれ、高山、教区教会、修道院聖堂、フッガー家の屋敷などがあります。 既に16世紀から鉱山では8時間労働が採られ、カール五世もそのシステムを採用しました。 シュタイヤマルク州 グラーツ宮 ブルク グラーツは今日では前衛的な都市とみなされています。 ハプスブルク家もその当時からグラーツの美しさを認めていました。 従ってグラーツはハプスブルク家の居城都市となったのです。 中央広場から古い街並みの急坂を登りつめると、15世紀に建てられたゴシック様式の大寺院とフェルディナント二世の霊廟マウソレウム、そして同じ頃に建てられたグラーツ宮 グラーツ・ブルク があります。 当時の最も重要な遺産であるグラーツ宮は、フリードリッヒ公五世、後の皇帝フリードリッヒ三世の居城として建てられ、皇帝マクシミリアン一世のときに拡張されました。 この時代に作られた有名な二重らせん階段は、ヨーロッパでも最も重要なゴシック様式の階段の一つです。 グラーツのヘルツォークスホーフ ヘレンガッセにあるヘルツォークスホーフでは、皇帝マキシミリアンI世はシュタイヤマルク州の元首としての仕事を執り行っていました。 この建物の220平方メートルにも及ぶファサード全体が、バロックの画家ヨハン・マイヤーが描いたギリシャ・ローマの神話を題材にした壁画で飾られています。 1450年にブルクが完成してからは、この建物は執政の場としては使われなくなりました。 ヨハン大公とシュタイヤマルク マリア・テレジアの孫であるヨハン大公は「アルプス王」として民衆に親しまれました。 シュタイヤマルク州の農業、鉱工業、林業の発展に力を入れ、学校や病院の開設を進めました。 グラーツの中央広場にはヨハン大公の像が立っています。 「ヨハン大公のヨーデル」の歌は日本でも知られています。 ミュルツツーシュラークでの皇帝フランツ・ヨーゼフとシシィ 1854年の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世とシシィの結婚後、この新婚カップルはセンメリング鉄道の開通祝いと、シュタイヤマルク地方で過ごす新婚旅行のためウィーンからミュルツツーシュラークまで旅行しました。 ミュルツシュテークにある皇帝の狩猟館に滞在するために皇帝はよく列車を利用しました。 狩猟用特別車両が導入され、快適な移動と狩猟を楽しむことができました。 世界遺産センメリング鉄道の南路線鉄道博物館にはパイプ、パイプツール、葉巻カッター、ペン、吸い取り紙が入ったオリジナルの皇帝の旅行セットで見られます。 ブルゲンランド州 ハルプトゥルン 皇帝カール六世が18世紀の初めに、今日ブルゲンランド州で最も重要なバロック建築である狩猟兼居住宮殿として造らせました。 設計には当時最も人気の高い建築家である、ルーカス・フォン・ヒルデブラントに当たらせました。 ヒルデブラントはウィーンのベルヴェデーレ宮殿や多くの宮殿を手掛けていました。 その後カール六世の娘、マリア・テレジアのものになりましたが、娘のマリー・クリスティーネ大公女がザクセン・テッシェンのアルベルト・カシミール公と結婚した折に、譲りました。 その後の3世紀にわたる宮殿の歴史は、宮殿と庭園と厩舎を巡るガイドツァーによって辿ることができます。 エスターハージー宮殿 中央ヨーロッパで最も美しいバロック様式の宮殿の一つで、エスターハージー候のかつての華やかな生活に触れることができます。 宮殿の重要な場所は有名なハイドンホールで、今日に至っても世界の最高の音響を誇るコンサートホールです。 他には豪華なダイニングルーム、鏡の間、中国風の小サロンが見どころです。 宮殿内にはワイン博物館があります。 ケルンテン州 クラーゲンフルトの州庁舎 ケルンテン州におけるハプスブルク時代の最も重要な遺産で、1574年にケルンテン諸侯のための宮殿として、旧宮殿が火災で焼失した後に建立されました。 現在、この優れた建築物はケルンテン州庁舎となっています。 最も重要な見どころは、ケルンテン諸侯の665個の紋章と、ヨーゼフ・フェルディナント・フロミラー作の壁画と天井画がある大紋章ホールです。 天井には皇帝カール六世の事跡が描かれています。 皇帝カール六世の孫で、マリア・テレジアの娘であるマリア・アンナは、1789年に死没するまでこの地に住み、学問を奨励しました。 彼女の墓はエリザベート修道院にあります。 ホッホオスターヴィッツ城 16世紀以来の山上にそびえる壮大堅固な城。 中庭の銘板には城主であった「皇帝フェルディナント一世、マクシミリアン二世、ルドルフ二世の主席主馬頭ゲオルク・ケーフェンヒュラー」と記されています。 一族にはマリア・テレジアの宮内大臣もいて、武器庫や博物館が見ものです。 避暑地ミルシュタット ドナウ帝国の貴族たちによって発見された美しい避暑地、ミルシュタットにハプスブルク家と宮廷貴族たちは夏の別荘を建てました。 19世紀後半に建てられた20軒の別荘は今も見ることができます。 別荘地を歩くと黄色い壁と、緑の窓枠、感じの良い出窓、大胆な塔を持つ大きな家が続きます。 世紀末に建てられたこれらの大きな家の中には現在、休暇を過ごすことができる施設になっているものもあります。 ハプスブルク皇帝のフリードリッヒ3世、マクシミリアン一世が授与していた騎士聖ゲオルク勲章が、ミルシュタット修道院が持っていることもあり、ミルシュタットはハプスブルク家と関わりを持っていました。 帝室のミルシュタットへの想いに対し、町の上流階級の人たちは伝統的に8月中旬の君主の誕生日を大きく祝っていました。 今日でも毎年、皇帝の誕生日を祝うイベントを行い、皇帝万歳をしたい人には当時の衣装が貸出されます。 ザルツブルク州 ザルツブルク 19世紀始めまで、ザルツブルクは大司教が君臨する独立国でした。 それでもハプスブルク家にゆかりにあるものが多くあります。 ヘルブルン宮殿は、その当時ルドルフ皇太子の所有で、庭を散策すると皇妃エリザベートの美しい象に出会えます。 クレスハイム城には、皇帝フランツ・ヨーゼフの末弟が住んでいました。 バードガスタイン ハプスブルク家の人々がしばしば訪れた温泉保養地。 最初にここで湯治をしたのはフリードリッヒ三世でした。 1865年にここで皇帝フランツ・ヨーゼフ一世とドイツ皇帝ヴィルヘルム一世の間で「ガスタイン条約」が結ばれました。

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オーストリアでハプスブルク家の足跡を訪ねる

ハプスブルク 家 あご

33ID:reV9xjiP9 16世紀から18世紀の始めまでヨーロッパ(主にスペイン)を統治していたハプスブルク家の王や王妃には、特徴的な顔の変形がある者が多かった。 のちに「ハプスブルクの顎(あご)」と呼ばれるようになる長くしゃくれた顎だ。 最新の研究によって、この特徴は長きに渡る近親交配の影響が大きいらしいということがわかった。 16世紀から18世紀の始めまでヨーロッパ(主にスペイン)を統治していたハプスブルク家の王や王妃には、特徴的な顔の変形がある者が多かった。 のちに「ハプスブルクの顎(あご)」と呼ばれるようになる長くしゃくれた顎だ。 最新の研究によって、この特徴は長きに渡る近親交配の影響が大きいらしいということがわかった。 「ハプスブルク王朝は、ヨーロッパでもっとも影響力のあった家系のひとつでした。 でも、この家系は近親結婚で有名で、その結果、凋落することになったのです」 1700年、ハプスブルク家最後のスペイン国王、カルロス2世の死により、その栄華は終わりをつげた。 近親交配のせいか病弱な王が多く、カルロス2世には跡継ぎがなかったのだ。 医師たちは、下顎前突症の11の特徴をあらい出した。 また、上顎を形成する骨が未発達の上顎欠損症にみられる7つの特徴も探した。 このふたつの条件は関連していて、同じ遺伝子基盤をもつことで「ハプスブルクの顎」が形成されたという仮説は立証された。 さらに、ハプスブルク家の者のそれぞれの顔の変形の程度を数値で表した。 1477年に婚姻によりハプスブルク家の一員となったブルゴーニュのメアリ、ブルゴーニュ公爵夫人は、少なくとも下顎前突症だったし、1621〜1640年までスペイン、ポルトガルを支配したフェリペ4世も同様の顎の特徴が顕著だった。 そして、肖像画に見られる顔の変形の程度と近親交配を関連づけて、近親交配と下顎前突症の間に強い関連があることを発見した。 つまり、血のつながりの近い者同士で子どもをつくると、顔の変形がもっとも顕著に表れるということだ。 さらに、近親交配は上顎欠損症の高い発生率にもつながることも判明したが、7つの特徴のうち、はっきり診断されたのは2つだけだった。 遺伝的同型接合性は、血のつながりのある者同士で交配することで、より頻繁に発生する。 遺伝子を共有する割合が多くなるからだ。 そうはいっても、研究の規模は小さく、必ずしもハプスブルクの顎が明らかに近親交配のせいだとは断定できないという。 この研究は『Annals of Human Biology』に掲載された。 71ID:oWbRm4Nx0 ハプスブルグ家が神聖ローマ皇帝位を世襲しやすくした功績がある フリードリヒ3世の母君について、17世紀の書物で既に 「ハプルブルグ家に突出した下唇の遺伝子をもたらした人」と言われていて、 顎はその孫のフィリップ美公あたりから怪しくなってきている 顎と突出した下唇はハプルブルグ家の人達を数世紀に渡って支配したという 顎遺伝子の持ち主を肖像画で遡ってみると スペイン・ハプルブルグの祖・カール5世ーフィリップ美公ーマクシミリアン1世ー (エレオノーレ・フォン・ポルトガル)ー(ドゥアルテ1世)ージョアン1世 という感じにも思えて、遺伝子は時代を超えると思ったw.

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オーストリア旅行記 (48) ハプスブルク家の鼻と顎(あご): はまのおと

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バイエルン王女アレクサンドラ(ドイツ) 「透明な巨大ピアノ」の妄想に取り憑かれた王女 アレクサンドラは、バイエルン王国第2代国王 ルートヴィヒ1世の娘。 ナポレオンの甥から結婚の打診があったものの、生まれつき虚弱体質だったため断り生涯独身だったそうです。 彼女はいくつかの精神病を患っており、そのせいで異常に潔癖性。 服は白いものしか着ることができなかったそうです。 また、 「子どもの頃に巨大で透明なグランドピアノを飲み込んで、それが体内にまだある」という妄想に死ぬまで取り憑かれていました。 フランス語の児童文学をドイツ語に翻訳したり、いくつか小説も執筆しました。 作品はWeihnachtsrosen(クリスマスの薔薇)、Feldblumen(地面の花)など。 本の世界に生き49歳で亡くなりました。 フェルディナント1世(オーストリア) 全くと言っていいほど喋らなかった王様 オーストリア皇帝フェルディナント1世は精神面が弱く、人前で喋ることがほとんどなかったそうです。 政治はほとんど有能な宰相メッテルニヒにお任せで、彼はひたすら静かに宮廷で時間を過ごしました。 ほとんど唯一と言っていい、フェルディナント1世が喋った記録が、有名な「クネーデル」の逸話。 ある日、 「アプリコットのクネーデル」が食べたいと注文したフェルディナント。 シェフは 「アプリコットはいまシーズンではないですから、別のものを作って差し上げます」と言いました。 余は皇帝であるぞ、余はクネーデルが食べたいのだ! と大声で叫んだのだそう。 ちなみにクネーデルとは、マッシュポテトと小麦粉をベースにいろいろな具材を足して蒸したり茹でたりした料理です。 1848年、ヨーロッパ各地でウィーン体制打倒を掲げる労働者の暴動が相次ぐ。 オーストリアでも3月革命が勃発し、宰相のメッテルニヒはイギリスに亡命。 フェルディナント1世も退位させられます。 次の皇帝に就任したのは、国民から「不死鳥」と敬愛され68年もオーストリア帝国を支えることになる、有能な君主フランツ・ヨーゼフ1世でした。 ルートヴィヒ2世(ドイツ) メルヘンの世界に生きた王様 バイエルン王ルートヴィヒ2世は子どものころから夢見がちな少年で、騎士物語や神話が大好きだったそうです。 バイエルン王になってからは、中世風のノイシュヴァンシュタイン城や、湖の上に浮かぶ島にヘレンキームゼー城という壮麗な城を建てたり、 自分が思い描くメルヘンの世界の実現を追い求めました。 このような城や建物の建設に加えて、普墺戦争の敗北による賠償金で財政はひっ迫。 ルートヴィヒ2世は現実世界から目を閉ざすように、ますます自分の世界に閉じこもるように。 昼夜が逆転した生活を送り、夜中に森を駆け回ったり、誰もいない所に話しかけたり、様々な奇行で人々の眉をひそませた。 1886年、ルートヴィヒ2世は廃位され、翌日にシュタルンベルグ湖で水死体で発見されました。 この死の真相は未だに謎のままです。 マリア・エレオノーラ王妃(スウェーデン) 腐乱した夫の死体を愛した女王 マリア・エレオノーラの夫は、スウェーデンの英雄グスタフ・アドルフ。 当時ヨーロッパで最も美しいと称されたマリアは、夫を異常なほど熱愛していました。 ところが1633年、夫は背後から撃たれて死亡。 マリアは絶望のあまり、棺桶に入った夫の遺体と共に1年近く部屋に閉じこもり、部屋を暗くして蝋燭だけを立てて、慟哭する日々を過ごしました。 娘のクリスティーナも母の命令でその部屋で一緒のベッドで寝ていましたが、遺体は腐乱し始めていたため、病気にかかってしまいました。 PR 5. マリア1世(ポルトガル) 子どもを失い気が狂った女王 1777年から1816年までポルトガルの王座に就いた女性。 もともと精神的に不安定な一面を持ち「狂女ドナ・マリア」とあだ名されるほどでした。 それは夫と息子を相次いで亡くした1786年〜1788年から顕著になり、 夜中であるにも関わらず、発作的に息子のことを思い出して大声で泣きわめいたり、 息子の遺品をさも本人であるかのように慈しみ他人には触れさせないなどの奇行が目立つようになったそうです。 ただし彼女の治政は、ナポレオン戦争が起きる前までは、科学や学問を推奨、商業、工業、軍備を拡張して安定したものでした。 クリスチャン7世(デンマーク) 道徳的に荒れた生活を送った王様 デンマーク王クリスチャン7世は統合失調症で、症状が現れない時は明晰な判断をすることがありましたが、国の政策が支離滅裂な指示に左右されるときもありました。 しかし基本的には政務には無関心で、そのせいで侍医のヨハン・ストールンエンセの専制を招きました。 クリスチャン7世はひどく退廃的な生活を送り、特に性生活はひどく、 「1人の妻を愛し続けるなんて、イケてない」 という理由で妻以外の女と寝ることを公式アナウンス。 堕落した性生活を送りました。 カルロス2世 1661 - 1700(スペイン) いくつも障害を持っていた王様 カルロス2世はスペイン・ハプスブルグ家最後の国王。 生まれつき病弱で疾患を患っており、咀嚼が困難だったので常によだれを垂らしており、また知的障害もあったためまともに教育を施すことすら難しかった。 そのため、特に執政らしいことは行うことはなく、宮廷で日々を過ごしました。 2回目の結婚のあたりからますます 精神状態は悪化し、 前妻の遺骸を墓から掘り起こして手元に置くなど、奇行が目立ち始めたそうです。 また、性的不能だったため彼の代でスペイン・ハプスブルグ家は断絶しました。 まとめ 支配正当性のために近親相姦を繰り返す、というのは歴史上よく見られましたが、それが慣習化すると酷いことになる例だと思います。 王には意思決定をするだけの能力がなく、単にお飾りに過ぎなくなり、職業政治家の宰相や官僚が幅を効かせるようになってしまう。 それは組織の老朽化や新陳代謝の悪化を招き、支配正当性どころか亡国への道を歩む。 宗教でも政治でも何でもそうですが、「純粋性」を追い求めるとろくでもないことになるのですね。 ・関連書籍.

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